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プロローグ | 2011. 9. 3 | |
No.1 | 〔1〕 最古の和歌集・・・万葉集とは? | 2011. 9. 3 |
No.2 | <万葉集/4500余首の・・・最初の歌/巻1(1)は?> | 2011. 9. 3 |
No.3 | <万葉集の巻頭を飾る、雄略天皇の御製歌・・・ 【巻1(1)】> | 2011. 9. 3 |
No.4 | <全ての日本人の・・・遠い先祖たちの・・・心の歌!> | 2011. 9. 3 |
No.5 | 〔2〕 万葉集/全20巻の構成 | 2011. 9.23 |
No.6 | <全20巻・・・4つに分類> | 2011. 9.23 |
No.7 | <壬申の乱・・・@> | 2011. 9.23 |
No.8 | <万葉集/4500余首の・・・2番目の歌/巻1(2)は?> | 2011. 9.23 |
No.9 | <舒明天皇の、香具山に登りて望国したま・・・ 【巻1(2)】> | 2011. 9.23 |
No.10 | 〔3〕 万葉集/内容の構成 | 2011.10. 2 |
No.11 | <小休止・・・食事・・・> | 2011.10. 2 |
No.12 | <万葉集/4500余首の・・・3番目の歌/巻1(3)は?> | 2011.10. 2 |
No.13 | <中皇命の、やすみししわご大君 ・・・ 【巻1(3)(4)】> | 2011.10. 2 |
No.14 | <内容による構成・・・分類> | 2011.10. 2 |
No.15 | <和歌の分類> | 2011.10. 2 |
プロローグ
・・・避暑地/軽井沢基地にて ![]() ![]() (羽衣弥生) (コッコちゃん) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() (里中響子) (折原マチコ) (星野支折)
「ええ...」支折が、ニッコリとほほ笑み、頭を下げた。 「文芸・担当/星野支折です... 現在、俳句の考察を続けているわけですが...短歌の方はどうなのか...という指 摘が、企画・担当/響子さんからありました。 そこで...《俳句のページ》も軌道にのって来ましたので...《短歌のページ》も立 ち上げ...並行して進めたいと思います。ちなみに、短歌・担当は響子さんです」 響子が、微笑して口を押さえた。 「ええ...」支折が、響子に目配せして言った。「実は... 短歌や和歌に関しては...担当の響子さんも得意ではない上に...《危機管理 センター》や《企画室》の仕事もあって、多忙です。でも、自ら言いだしたことですから、 時間を割いて下さるそうです」 「はい、」響子が、うなづいた。 「そこで...」支折が言った。「多忙な響子さんを... 私/星野支折と、折原マチコがサポートする体制を作りました。また、他のスタッフ にも協力を仰ぎ、何とか進めたいと思います。そういう事情なので、躓(つまづ)きながら の進行になると思いますが、よろしくお願いします。 ええと...響子さん...一言お願いします、」 「はい....」響子が、後ろ髪のバレッタ(髪留め)に触れた。「ええ、里中響子です... 私の我儘(わがまま)になってしまいました。でも、短歌・担当としては、こちらの方にも 責任があります。ご理解下さい。 今...あらためて、支折さんが紹介して下さいましたが...私も和歌や短歌が得意 というわけではありません。ただ、当初、文芸の全てを、支折さんにまかせるわけにも いかないという事情で、とりあえず私が担当になりました。 ええと...私の歌/短歌と言えるものは、1首か2首でしょうか...軽井沢で、マチ コさんと散歩の折に詠んものです...」
御仏の 落葉松(からまつ)散りし 軽井沢
「ええ...」響子が、目を細め、窓の方に目を投げた。「現在... ちょうど...支折さんもマチコさんも...避暑地/《軽井沢・基地》に滞在していま す。そういうわけで、『万葉集』の考察は、ここで開始することにしました。 この後...《航空宇宙基地/赤い稲妻》内の.../《危機管理センター》に戻り、 『万葉集』の考察も、《 「ええ...」支折が、両手を握り、響子を見た。「...響子さん... “3.11/東日本大震災”の、復興の真っ最中ですが...《危機管理センター》の 方は、大丈夫なのでしょうか?」 「あ、それは、大丈夫ですわ... 《危機管理センター》は現在...《軽井沢・基地》の“サブ・システム”を起動してい るわけですが...厨川アンが付いています。彼女も、もうベテランになりました。 それと、“原発事故/原発関連”の方は...軍事/戦略・担当の大川慶三郎さん がリンクし...一緒に監視して下さっています。戦略的なことは、本来、大川さんの担 当ですから、心強いですわ...」 「はい、」支折が、コクリとうなづいた。 「『万葉集』は...」マチコが言った。「難しいというわよね...私たちだけで大丈夫か しら?」 「ふふ...」支折が、いたずらっぽくうなづい手見せた。「大丈夫だと思います... 俳句で、だいぶ慣れて来ましたから。それに、ただ、のぞいてみるだけですから... 文法的なことや、学問的な考察などは、しませんから...」 「そうですね...」響子が、眼を細めた。「詳しく考察したら、膨大なものになってしまい ます。とりあえず、有名な和歌を、幾つかのぞいてみることにしましょう。『万葉集』とは、 どんなものかを、のぞいてみましょう」 「うーん...」マチコが、腕組みをした。「それなら、何とかなりそうよね...」
き氷のカップを3つ載せていた。周囲を見回しながら、真っ直ぐに歩いて来る。アシスタ ントのコッコちゃんが、その後からついて来た。 「お早うございます!」弥生が、明るい声で挨拶した。 「御苦労さま...」響子が、顔をほころばせた。「美味しそうですね、」 「ええ...」弥生が、張りのある声で言った。「美味しいですわ!」 「コッコちゃんも来たの?」マチコが言った。 「うん...軽井沢は、涼しそうジャン」 「ホホ...遊んでいっていいわよ、」支折が言った。 「うん、」 弥生がかき氷のカップを、響子とマチコと支折の前に置いていった。 〔1〕
最古の和歌集・・・万葉集とは?
「ご馳走さま...」響子が、かき氷のカップを脇の方へ押した。「さあ...では、さっそ く、始めましょうか...」 「はい...」マチコも、空のカップを、スッ、と押した。「ご馳走さま、弥生さん...」 「ありがとうございます...」弥生が、マチコに頭を下げて立ち上がった。 弥生は、3つのカップを盆に載せ、向こうの机へ運んだ。彼女は、そこの椅子に掛け た。いつものように、しばらく聞いて行くつもりらしかった。コッコちゃんは、窓の方へ行 き、2階のベランダへ出た。そこから、芝生の広がるヘリポートの方を眺めた。
日本人ならば...よく耳にする古典(古い時代に書かれた書物)です...でも、そもそも、 『万葉集』とは、どういう書物なのでしょうか...まず、その辺りから、考察を始めようと 思います」 「はい...」支折が、顎をかしげた。 「...『万葉集』...とは...
“7世紀後半(飛鳥時代)〜8世紀後半(奈良時代)”...にかけて編纂(へんさん: 色々の材料 を集め、整理や加筆などをして、書物にまとめること)された、“日本に現存する・・・最古の和歌集” です。天皇、貴族から、下級役人、防人(さきもり)など、様々な身分の人が詠んだ歌を、 “4500首以上も集めた・・・壮大な和歌集”です。
防人(さきもり)というのは、学校で習ったかと思いますが、もう一度説明しておきましょ う。防人は、“崎守(さきもり)”の意味だそうです。古代において、筑紫(つくし)、壱岐(いちき)、 対馬(つしま)など、北九州の防備に当たった兵士です。 後に、これは、“東国の兵役”となったようですね。当時はまだ、江戸時代のような街 道もなく、生きて帰れるかどうか分からない、非常に過酷な兵役だったようです。でも、 この時代、すでに大和朝廷は、東国に“防人の兵役”を課すほどに、強大な支配が及ん でいたわけですね。
でも、何故、大和朝廷は...北九州に防人を置き...国境警備に当たらせる必要 があったのでしょうか... それは日本が、朝鮮半島の百済(くだら: 古代朝鮮の王国の1つ。法隆寺の百済観音は有名)を助け て...新羅(しらぎ: 古代朝鮮の王国の1つ)と唐(/中国)の連合軍と、663年(天智天皇2年)に“白 村江(はくそんこう/はくすきのえ: 錦江・・・クムガン河口)の戦い”をし...これに大敗していたから です。 この陸・海の戦争で...百済は滅び...5年後の668年には、高句麗(こうくり: 古代朝 鮮の王国の1つ)も滅ぼされ...朝鮮半島は新羅によって統一されます。そして、日本は、 大陸文化圏との足場を失い...巨大帝国/唐の軍勢が、押し寄せて来るのを恐れた わけです。 聖徳太子(第33代/推古天皇の摂政)の時代には...遣隋使(けんずいし)/小野妹子(おのの いもこ/607年)を、髄/中国に送ってたのは有名ですね。そして、十数回にわたり、遣隋 使/遣唐使船を派遣しています。“白村江の戦い”は、その後に起こっています。
それから...鑑真和上(がんじんわじょう)が来日し、唐招提寺が建てられるのが、100年 近くも後の、754年です。あ...その前に、東大寺の大仏が752年に完成しています。 そして、東大寺の宝庫/正倉院(・・・校倉造/あぜくらづくり)ができるのが、756年です。そし て...『万葉集』が、一応の完成をみるのが、759年です。 一方...遣唐使/阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が、唐で客死するのが...770年にな ります。まさに、歴史的なことが、目白押しの時代です。
“7世紀後半 〜 8世紀初め”を...〔白鳳(はくほう)時代/白鳳文化の時代〕、と呼び ますが、この8世紀後半にも、色々なことがあったわけですね。 それから...“第50代/桓武天皇(かんむてんのう)”が、長岡京(奈良/平城京から北へ40km) から・・・京都/平安京に遷都(794年)し...以後、都は京都に定まり...〔平安時代〕 となるわけです。 あ...そもそも、10年前に...奈良/平城京から・・・長岡京へ遷都(せんと: 都を移すこ と/784年)したのも、“桓武天皇”だったわけですね。何か事が起こると、天皇は都を移し て来たようですね。 “平安京への遷都”では、律令制の乱れも加わって、和気清麻呂の考えを入れ、遷 都したと言われます。“長岡京へ遷都”は、仏教勢力の強い平城京を抜け出した、とい うことのようです。もちろん、都を移すわけですから、他にも色々とあったのでしょう。
うーん...大陸との外交・交易は...日本文化や仏教とも密接に関係しています。 でも、実際に...大陸の軍勢が日本に攻めて来たのは...防人の時代から600年後 の...鎌倉時代の元寇(げんこう: 1274年と1281年の2回・・・“元”のフビライの軍が、日本に攻めてきた事 変・・・2度とも台風の季節で、神風が吹き・・・“元”の大船団は壊滅した)だったわけですね...」 「うーん...」マチコが言った。「その頃から...日本は、生意気だったんだあ...」 「ホホ...」響子が、口を押さえた。「うーん...生意気ですか... ともかく...日本が外国軍に敗れたのは...この“白村江の戦い”と“太平洋戦争” の2度です。イギリスと同じように、大陸から少し離れた、中程度の大きさの島国でした から...外国軍の進駐を許したのは、“太平洋戦争”の敗北だけだと、言われます」 「でも...」マチコが言った。「徹底的に負けましたよね...“原爆”を投下されたり、」 「そうですね...」響子が、ゆっくりとうなづいた。「ともかく... 日本は、もう...“2度と・・・自ら・・・戦争をすることはない”...ということですわ。 《当ホームページ》は...〔人間の巣のパラダイム〕...を提唱していますが、これ は...“専守防衛の・・・堅い守り”...です。これを持って...“万能型・防衛”... に徹するということです。また、これを...“絶対平和主義による・・・国際平和戦略 外交”...とするということですわ、」 「はい!」支折が、コクリとうなづいた。
「ええと...」響子が肘を抱き、椅子の背に体を引いた。「『万葉集』に戻りますが... “歌/和歌”の形態も...長歌、短歌、旋頭歌(せどうか)...それから、仏足石歌(ぶっ そくせきか)などに分類されますが、これらは後で説明を加えることにしましょう。仏足石歌 も、そうした歌が登場した時に説明します。 ともかく...『万葉集』の成立は...“759年(天平宝字3年)以後”とみられます...そ してこの大歌集は、まぎれもなく...“日本文学における第1級史料”...だというこ とですね」 「はい、」マチコが言った。 <万葉集/4500余首の・・・最初の歌/巻1(1)は?> 1
ますよね... そこで...全4500余首のうちの、最初の歌/【巻1(1)の歌】はどんなものなのか と...響子さんに言われて、私が調べておきました。 『万葉集』の巻頭の歌は...“第21代/雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/在位・・・456年〜479 年/古墳時代・・・)”の御製歌(ぎょせいか)/大御歌(おおみうた: 天皇が詠んだ歌)で...こんな、の どかな歌でした。有名な歌だそうですよ。
あ、ええと...歌を紹介する前に、時代背景を説明しておきましょうか。日本におけ る〔西暦0年〕(/キリストが誕生した年)の状況は...〔弥生時代〕でした。つまり、エルサレ ムで新約聖書の時代が展開している頃...日本では、奴国(なこく: 九州/福岡市付近と推定さ れる)の王が中国/後漢に使いを送り、光武帝から“金印”(/西暦57年)を授かっています。 それから...〔弥生時代・後期/邪馬台国〕の“卑弥呼”(ひみこ)が...中国/魏(ぎ) に使いを送ったのが...〔西暦239年〕(/魏志倭人伝/ぎしわじんでん)です。この〔邪馬台 国〕が何処にあったのか、“卑弥呼”とは誰なのかは...大きな歴史ミステリーになって いますよね... ええと、参考までに...“孔子(こうし)”が生まれたのは...紀元前500年頃/中国 /春秋時代/魯(ろ)です。それから、“釈尊(しゃくそん)/お釈迦様”が生まれたのも... 紀元前500年頃/インド/釈迦族の王子...として生まれたわけですね... 2人とも、キリストよりも500年ほど前の人です...アレキサンダー大王の在位は、 紀元前336年 〜 紀元前323年だから...うーん...この間の時代になるわけよね。 あ...でも...ガンダーラ地方(パキスタンとアフガニスタンにまたがる地方で...現在のパキスタン/ ペシャワール周辺)の仏像彫刻が開花するのは、アレキサンダー大王の遠征による、ギリシ ア彫刻などの影響もうけているわけよね... ここで、インド文明と西洋文明が交差し...仏像彫刻は、インド/マトゥーラやガン ダーラで開花して...中国、日本へと伝えられるわけよね、」 「そうですわ...」支折が言った。「高杉・塾長と、上野の東京博物館へその彫刻展を 見に行きました、」 「ええと...」マチコが言った。「話を、戻します... 〔弥生時代〕から、〔古墳時代〕に入り...〔大和朝廷〕が、ほぼ〔国内を統一〕した のが...〔西暦350年頃〕です... “雄略天皇”は...その〔大和朝廷〕の〔国内を統一〕から...“100年ほど後・・・ 456年〜479年のご在位”ですよね...時代としては、〔古墳時代〕の天皇です。 “聖徳太子”が生まれるのは...〔飛鳥時代〕ですが...その“雄略天皇”から、らさ らに、“100年ほど後”になるわけですね。 ともかく...『万葉集』の巻頭の歌は...はるかな〔古墳時代〕の...“雄略天皇” の大御歌(おおみうた)です...〔大和朝廷〕が本格化して行く頃の、大御歌です...」
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籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
【現代語訳・・・大意】 籠(かご)よ 美しい籠を持ち 掘串(ふくし: ヘラのような農耕具)もよ 美しい掘串を手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ 君はどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この、そらみつ大和の国は、すべて僕が治めているんだよ
僕こそ名乗ろう 家柄も名も... 「“掘串”(ふくし)は、ヘラのような古い農耕具のようです... “掘”と“串”との合成語ですね。“串”は、おダンゴの竹串などにも使いましから、棒のよう なものでしょうか。つまり“掘串”とは、掘るための棒のような道具なのでしょうか。 日本列島では石器時代から、この“掘串”に刃をつけたり、“竹ヘラ”のような物にしたりし たようです。そして、耕作地に合わせて改良を重ね、鋤(スキ)や鍬(くわ)を作りだしたのだそう です。 それから、この歌は長歌ですよね。長歌とは...5、7、5、7、5、7...と続けていき、最 後を...7、7...で締(し)める歌です。でもこの御製歌は、純粋な長歌形式ではなく、かな り変則的だそうです...ふーん...そうですか...
ともかく、この長歌が、『万葉集』の巻頭を飾る、雄略天皇の御製歌です。天皇が野原で菜 を摘む娘を、ナンパしている歌ですよね。さかんに、籠や掘串などの持ち物をほめています。 直接...可愛いね、とか言わない所が...のどかで、奥ゆかしい風景ですね。でも最後 は、押しよく...自分自身の自慢をしています...うーん...こんな風に...天皇にナンパ されたら、どうしたらいいのでしょうか...?
でも...歌の本意は...大和国原(やまとのくにはら)が、あまねく天皇の統治する平和な 国であれ...との願いを込めた大御歌(おおみうた)のようです。大和朝廷がようやく安定し、 これから日本国がスタートして行くわけですね。だから、『万葉集』の巻頭に取り上げたのだ と思います。
『万葉集』の編纂がはじまったのは、持統天皇(御在位は・・・690年〜697年)の頃だということ ですが、ともかく、巻頭からこんなナンパめいた歌とは、『万葉集』全体の、おおらかな気風を 感じさせます。また、その歴史を超えた、力量をも感じさせますよね...」
<・・・歌碑・・・>
「この、『万葉集』/第一声の丘は...現在はどのあたりになるのでしょうか。それを、ちょっ と調べてみました。 うーん...それによると...泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや/長谷朝倉宮/初瀬朝倉宮とも 呼ぶ)/雄略天皇の宮殿は...伝承では...奈良県/桜井市/黒崎...もしくは...桜井 市/岩坂ということです。黒崎の白山神社境内には、“雄略天皇−泊瀬朝倉宮伝承地”の碑 が建立されているそうですよ。 ええと...近鉄/大和朝倉駅から、初瀬川を渡って...すぐの脇道を右へ曲がって、初 瀬川沿いに歩いていくと...白山神社があるそうです。泊瀬朝倉宮は、この白山神社から脇 本付近までの段丘地にあった、推測されています。 白山神社の境内には...“萬葉集發燿鑚仰碑”(まんようしゅうはつようさんぎょうひ)と...この “歌碑”があるそうですよ...」
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響子が、モニターを読んでいた...支折が、ベランダから入って来るコッコちゃんを 見ていた。コッコちゃんは、真っ直ぐ弥生の所へ戻った。すると、弥生が盆を持って立 ち上がり、支折の方に片手を上げた。 「あ...ごちそうさま!」マチコが、手を振った。 弥生が強く微笑し、手を振り返した。弥生とコッコちゃんは、ハイパー・リンク・ゲート へ行き、来た時と同じように、“クラブ・須弥山”の方に抜けて行った。
います...」 マチコが、うなづいた。 「『万葉集』の...」響子が言った。「巻頭の歌というのは... “第21代/雄略天皇”の...ナンパ(軟派: 女性と交際したり...服装に気を使ったりすることを好む 態度)の歌...ということですね。“万葉の時代(7世紀後半〜8世紀後半の頃)”の、“のどかさ”、 “おおらかさ”、を感じさせますね... ちなみに...日本の人口は、1説では...“縄文時代は・・・10万人〜26万人”、 “弥生時代には・・・60万人”...“万葉の・・・飛鳥〜奈良時代は・・・450万人”、 と推定されています」 「うーん...」マチコが言った。「450万人かあ...」 「あくまでも、推定です...」 「うん...」 「農耕/稲作の発達で... 人口は...縄文/10万人程度から...奈良/450万人程度に...そして、現代 /ピーク時/1億3000万人という...途方もない人口に膨れ上がって来ているのが 分かります... 『万葉集』は...こうした...“日本人のルーツ(始祖)・・・遠い先祖たちの・・・心 の歌”...ということになります。また、『万葉集』は、古代から未来社会へ伝えらて来 た...“貴重な・・・民族の心の歌・・・文化遺産”...ということになります...」 「はい...」支折が、唇を引き結んだ。「本当に、そう思います」 マチコも、コクリとうなづいた。 「“天皇家”は...」響子が言った。「日本の最も古い家系ですから... ともかく...その周辺などから...現在の膨大な人口に...膨れ上がって来たこと は間違いありません。 日本においては、“天皇制”は支配者/権力者というよりも、ルーツ(始祖)の家系とい うことですね。そのルーツの系譜の流れの中で、日本は営々と、伝統文化を形成してき たわけです...」 「うーん...」マチコが、うなづいた。 「古典では...」響子が言った。「天皇が頻繁に出てきます... 古代においては人口も少なく、文字や文化の普及の面からも、その周辺のことしか、 記録に残らなかったという事情もあるわけですね。 でも、『万葉集』という...日本文学史に残る最初の大編纂(だいへんさん)から...下 級役人や防人の歌まで編集されているわけですね。当時の、下々への優しい眼差し が感じられます。 私は、『万葉集』については、これまでほとんど接触したことはありませんでした。こ うした方針というのは、当初に編纂を指導したと思われる...“持統天皇(じとうてんのう)” や、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の...炯眼(けいがん: 物事をはっきりと見抜く力。鋭い眼力。/慧 眼)なのでしょうか...?」 「うーん...」支折が、口に手を当てた。「そう思います... 古代においても...“名もなき人々の・・・心への配慮”が...色濃く編纂されている わけです。それが陰に陽に、長い歴史を通じて...“天皇制”を、今日まで永(なが)らえ させて来た、のだと思います」 「ともかく...」響子が、体を引いた。「それが...『万葉集』を、おおらかなものにして いますね、」 「はい...」支折が、うなづいた。
石器時代/縄文時代から...生活の安定とともに、人口増加が進んで来たわけで す。ホモサピエンスの頭脳/知能の発達が、文明の曙を招き、DNA型生命圏の頂点 に君臨するようになりました。 でも...大型哺乳動物/70億の個体が...地球表面を闊歩(かっぽ: 大股で、堂々と歩く こと)するというのは、異常な風景です。日本列島においても、現在/1億2500万人と いう膨大な人口は、生態系を非常に歪(いびつ)で、単調で、不安定なものにしています」 マチコが、うなづいた。 「さらに、日本の実態は... 食糧自給率が40%というのでは...“不安定を超えて・・・異常”...です。つまり この現状は...“人口問題・・・食糧問題だけでも・・・非常に脆弱な状況”...にあ るということです。 でも、幸いなことに...“日本の人口は・・・急速な減少傾向”...にあります。当 面の目標は、そのラインに乗っての、“人口の半減”でしょうか...ただし、政府が、 “少子化対策”などを成功させれば...“カタストロフィー・ポイント(破局点)”は...確実 にやって来ます...多分、成功しないでしょうが...」 「うーん...」マチコが、腕組みをし、頭を傾げた。
ええと...『万葉集』という...名前の意味については...いくつか説があります」 「はい、」支折も、明るくうなづいた。 「ええ...1つは... “万の言の葉(よろずのことのは)を・・・集めた”、とする説です。“多くの言の葉・・・多くの 歌を集めたもの・・・”...と言うことですね。この説は、古くは、仙覚(せんがく: 鎌倉時代初期 /天台宗の学問僧)や、賀茂真淵(かものまぶち: 江戸時代/国学者/歌人)らに支持されて来ていま す。 他では...“末永く伝えられるべき・・・歌集”、とする説や...“葉”を、そのまま“木 の葉”と解して、“木の葉をもって・・・歌にたとえた”...とする説もあるようですね。 そして、現在の研究者の間で主流となっているのは...“葉”を“世”の意味にとり、 “万世にまで・・・末永く伝えられるべき歌集”...とする考え方のようです。でも、これ は、それほど深く考える必要もないかと思います...」
しても...詳しくは、分かってはいないようですね... “勅撰・説”(ちょくせん・せつ: 天皇・上皇の命によって・・・あるいは、天皇・上皇が自ら詩文を選び、書物を編さん した・・・とする説/これは持統天皇から・・・ということになるのでしょうか?)、“橘諸兄・説”(たちばなのもろえ・せ つ: 奈良時代の政治家/元皇族が・・・編さんしたとする説)、そして、“大伴家持・説”(おおとものやかもち・せ つ: 奈良時代の貴族・歌人であり・・・大伴旅人の子/従三位/中納言/三十六歌仙の一人が・・・編さんしたとする説) など、古来から種々の説があります。 ちなみに...現在の研究者の間では...“大伴家持・説”が、最有力のようです」 「ふーん...」支折が、うなづいた。「そうですか...」 「でも...」響子が、テーブルに肘を立てた。「そもそも... 『万葉集』は、1人の編者によって編纂(へんさん)されたものではありません。また、巻 によって、編者が異なっています。それを、大伴家持の手によって、全20巻に最終的 にまとめ上げられた...とするのが妥当とされています」
全20巻
「あ、これから説明します...」響子が、支折の方を見た。「ええと、支折さん... 私ももそうですが...支折さんの方も、和歌については専門ではありませんね。それ から、古典についても、研究者というわけではありませんね。そういうわけですから... ごく一般的な国民目線で考察して行くことになりますが、それでいいですわね...?」 「はい...」支折が、コクリとうなづいた。「ただ... これまで俳句では...旅/自然/風雅をテーマとして、考察して来ました。和歌も、 このラインで統一したいと思います、」 「はい...」響子が、かしこまって、深くうなづいた。「分かりました...」
〔2〕
万葉集/全20巻の構成
「ええ...」響子が、モニターを一瞥(いちべつ: チラッと見ること)した。「では... まず、『万葉集』
僧官の職では権律師/ごんりつし・・・中世万葉集の研究に、大きな功績を残した)が校訂(こうてい: 書物の本文を、 異本と照合したり、語学的に検討したりして、より良い形に訂正すること)した、『仙覚系・・・写本』(/写本とは、 手書きによって書き写された本)の他...その系列の写本や刊本(/印刷の技術により、多くの部数が複 製された図書の総称)が存在しているようですね。 また、それとは異なる...“藤原定家”(ふじわらのさだいえ/ていか: 鎌倉時代初期の公家/歌人。 京極殿、または、京極中納言と呼ばれた・・・代表的な新古今調の歌人)の校訂となる...『冷泉本(れいぜ いぼん)/定家系万葉集』...も存在します...」 「うーん...」マチコが、うなづいた。 「ええと...」支折が、マチコの方を見た。「この冷泉(れいぜい)/冷泉家というのは... 藤原道長(/平安時代中期の公卿・・・従一位、摂政、太政大臣・・・准三后/じゅさんごう=太皇太后、皇太后、 皇后の三后に准じた皇族・貴族の称号。臣下でありながら、皇族と同等の待遇となる公家の頂点の位の1つ)の子/ 藤原長家の子孫の系統だそうです。 冷泉という家名は、平安京/冷泉小路に由来するそうです。冷泉家の家業は、歌道 と蹴鞠(けまり)だそうです。 蹴鞠というのは、サッカーのリフティング(ボールを下に落とさないように、連続して足でける練習)の ような...複数でやる...古(いにしえ)の遊びです。鞠は鹿皮だったそうですよ...」 「そんな稼業もあったんだあ...」マチコが、頭を横に沈めた。 「そうですね... あ、それから...つい最近のニュース/平成5年(1993年)のことですが...関西大 学の、木下正俊・教授と神堀忍・教授の両人より...元・関西大学/広瀬捨三・教授の 所蔵本/“広瀬本”が...“冷泉本”であることが確認されたと言うことです...」 「はい...」響子が、神妙にうなづき、バレッタ(髪留め)に手をかけた。「うーん...関係 方面にとっては...大ニュースだったわけですね、」 「そうですね...」支折が、うなづいた。「では...『万葉集』の、全20巻の構成につい て、説明します」 「お願いします」響子が、頭を下げた。
A/【巻1の後半部分 + 巻2増補】
B/【巻3〜巻15
+ 巻16の1部増補 C/【残巻増補・・・】
「まず...」支折が言った。「最初の区分は... “原・万葉集”...とも言えるものです。“原”とは、もともとの、という意味です。この 区分では...各・天皇を、いわゆる“天皇”と表記しています。それ以前は、天皇のこ とを、“大王”と呼んでいたようです。天皇の呼称が用いられるようになったのは、“天 武天皇”の頃からだと言うことです。 ちなみに...『万葉集』の巻頭を飾った、“第21代/雄略天皇”は...“倭の五王” (わのごおう/倭は古代中国から、日本を呼んだ名)の1人と考えられ...古代の強力な大王だった ようです。歌もお上手ですね。 あ...ええと...中国の『三国志』に続く歴史書である『宋書』の中に...“倭(わ)国 伝”があります。そこに、“倭の五王”が登場します。“第15代/応神天皇(おうじんてんのう” から、“第21代/雄略天皇”の、7代のうち5代が相当するようです。 うーん...ともかく、ここは...『万葉集』の“原型”とも言うべき区分で...“第41代 /持統天皇”(じとうてんのう)や、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が関与したもの、と思われて います...」 「あ、“持統天皇”かあ...」マチコが言った。「よく聞くわよね...」 「そうですね... “持統天皇”については、他でも何度か述べていますが、ここでも、簡単に説明を加え ておきましょう... まず、女性天皇だということですね...御在位は、690年〜697年の、8年間です。 そして、彼女は、4つの公的な顔を持っていました... @つは...“第38代/天智天皇”(てんちてんのう/てんじてんのう)の、第2皇女として生ま れ、名は鸕野讚良(うののさらら/うののささら)です。Aつ目は...“第40代/天武天皇”(て んむてんのう: 大海人皇子/おおあまのみこ)の、皇后としての顔です。そして、Bつ目が...“第 41代/持統天皇”としての顔です。最後の、Cつ目は...“初代/上皇”(じょうこう: 皇位 を後継者に譲った天皇に送られる尊号)としての顔です。 ご存知のように...“第38代/天智天皇”と、“第40代/天武天皇”の治世の間に は...“壬申の乱”(じんしんのらん:日本古代における最大の内乱 )...がありました。 皇位継承をめぐり...“天智天皇”の長子である大友皇子(おおとものみこ)と、実弟/東 宮(とうぐう: 皇太子の住む宮殿。また、皇太子の呼称)/大海人皇子(おおあまのみこ)の勢力の間の、武 力衝突です。ただし...この時、大海人皇子は東宮を離れ、吉野に逃れていました。 ええと...この古代における最大の内乱...“壬申の乱”について、少し詳しく述べ ておきましょうか。これは、輻輳(ふくそう)する血縁関係/天皇家の中での...凄絶な権 力闘争だったようです...」
( じ ん し ん の ら ん )
『日本書紀』 (奈良時代の歴史書・・・日本で最初の勅撰正史/ちょくせんせいし。神代から、持統天皇まで を扱う・・・神代/かみよ/じんだい・・・とは神話の時代という意味で、初代/神武天皇/じんむてんのうの在位 する以前の時代。つまり・・・紀元前660年以前から、初代/神武天皇へて・・・第41代/持統天皇までの勅撰正 史)の記述を見てみましょう... だいたい...こんな様子のことが書かれています。私の、私見も交えて説明します。ただ し、この歴史書は...“壬申の乱”で、勝利した側によって...編纂(へんさん)されているわ けですね。そのことは、承知しておいてください。
臨終の床にあった、“第38代/天智天皇”(・・・大化の改新をした中大兄皇子/なかのおおえのおう じ)は、病床に、皇太子/実弟/大海人皇子(おおあまのみこ)を呼び...皇位を譲ろうと持ちか けました。これは、皇太子だから当然のようですが...大海人皇子は、それを固辞しました。 そして、出家(俗世を捨て僧になること)を願い出て、それが許されると、早々に吉野へ逃げ去りま した。 吉野は...現在は吉野宮滝と言われます。桜で有名な吉野の東側に位置しているそうで す。吉野宮滝は、縄文時代や弥生時代の遺跡もあり、早くから人が住み着いていた場所のよ うですね。“初代/神武天皇”が、熊野から吉野を目指し、大和に入っているようですから、古 代ではよく知られた、主要な道だったのでしょうか。あ、“初代/神武天皇”については、後で 説明します。 それにしても...何故、大海人皇子は...“天智天皇”の譲位の話を辞退し、逃げ去った りしたのでしょうか。ここで、皇位を継承していれば...無益な古代史の大悲劇は...回避 できたのではないでしょうか。でも、その事情は、こうだったようです。
るのが、慣例だったようですね。ところが“天智天皇”、自分の長子/大友皇子に譲位したく なったわけです。そこで唐/中国に習うということで、長子に譲位するシステムにしようとした ようですね。 “天智天皇”は、大化の改新を断行した...絶大な権力者でした。その彼が、長子を太政 大臣に抜擢したり、様々に手を尽くします。最後に、臨終の枕頭で...もし大海人皇子が譲 位を承諾すれば、謀反(むほん)の意志ありとして、直ちに首を落とすつもりだった、と言われて います。ともかく、天智天皇もまた、そこまで思いつめていたようです。 “天智天皇”は...“中臣鎌足(なかとみのかまたり)/藤原鎌足”(ふじわらのかまたり: 臨終に際し て大織冠とともに藤原姓を賜った。大織冠は冠位/朝廷における席次を示す位階制度・・・の最上位で・・・歴史上 で、藤原鎌足だけが授かった。生きていた頃は“中臣鎌足”を用い・・・藤原氏の祖としては、“藤原鎌足”を用いる) と共に...実弟/大海人皇子をも自分の片腕として、一緒に仕事をしてきた関係にありまし た。それゆえに、実力・人望ともに、実弟は自分に劣らぬであろうことを、十分に承知していた わけです。 そこで...東宮(皇太子の住む宮殿、又は皇太子の称)を与えて約束していた皇位継承を...あ えて反古(ほご)にし...長子/大友皇子に皇位を譲位すことは...なまなかのことでは成就 しません。このことは、朝廷ばかりではなく、多くの民も承知していたわけです。 したがって、それには...“臨終の枕頭で大海人皇子の首を落とす”...ぐらいのことをし ておかなければ、安心とはいかなかったのでしょう...また、“天智天皇”は、その非情な行 為を実行できる人でした。うーん...でも、それでは...“あまりにも血塗られた治世”... になってしまいます。 あ...迷い、悩んだ、たと言っても...もし本当に...東宮/大海人皇子に譲位するつ もりなら、そのまま譲位すれば、何も問題はないわけです。そうであれば、長子/大友皇子を 太政大臣にする必要も無かったわけです。うーん...“天智天皇”としては、本当に困ったこ とになりました。
“天智天皇”が...長子/大友皇子に皇位を譲った場合...さらに、その先々まで心配し たのには、理由があります。自らが大化の改新以降も、その地位確立のために...“非情な ・・・血塗られた道”を創出し、そこを歩んで来たからです。 そして...実弟/大海人皇子の実力をもってすれば...“同じようなクーデター”は、容易 であろうと思ったからです。蘇我入鹿(そがのいるか)に対するクーデターを含め、そうした地位 強奪の全てを...天智天皇は、実弟/大海人皇子の眼前でやって見せて来ていたからです ね。
天智天皇は即位する前...中大兄皇子であった時...中臣鎌足らと謀(はか)り、“乙巳の 変”(いっしのへん/クーデター)を起こしています。いわゆる...蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏本宗 家を滅ぼした反乱ですよね...そこから、大化の改新が始まっています。 中大兄皇子はその乱の後...母/“皇極天皇”からの譲位を固辞しています。そして、軽 皇子を推薦しているわけです。その軽皇子が、“第36代/孝徳天皇”(こうとくてんのう)として即 位すると、その皇太子におさまります。 そもそも、この辺りから...齟齬(そご: 物事がうまくかみ合わないこと)/ボタンの掛け違いが、 始まっていたのではないしょうか...ともかく、歴史はこのようになっているわけですね。そし て、大兄皇子は、皇太子として天皇よりも実権を握り続け、大化の改新を進めました。もちろ ん、これには、それなりのメリット(利点)もあったのだと思います。 でも、そのあげくに...“孝徳天皇”を難波宮(なにわのみや: 現在の大阪市中央区にあった古代宮 殿。乙巳の変の後・・・645年に孝徳天皇によって難波に遷都。宮殿は652年に完成。大化の改新/革新政治は、 この難波宮で行われた・・・)に残したまま...皇族・臣下を引き連れて、倭京(わきょう)/飛鳥京 (あすかきょう)に戻ります。そして、“孝徳天皇”は、失意のままに、崩御します。 加えて...“孝徳天皇”の皇子である有間皇子(ありまのみこ)も...結局...謀反の罪で、 処刑されます。お血筋から、反乱勢力が形成されるのを恐れたわけですね。出家して、僧に なり、歌人として生きることも許されませんでした。中大兄皇子の、非情さがうかがえる処断で すね。大海人皇子は、そうした全てを、身近な所で目撃し続けて来たわけです。 中大兄皇子は、“天智天皇”として即位した後も...“旧来の・・・同母兄弟間での皇位継 承”の慣例を変え...“唐にならった嫡子相続制・・・すなわち大友皇子への継承”...の導 入をめざしたわけです。 こうした、“天智天皇”の一連の強引な手法が、同母弟である大海人皇子の不満を高めて いったようです。同時に、大海人皇子を支持する勢力も、徐々に形成されて行ったわけでしょ うか。
つまり...こうした構造が...絶大な権力を誇った“天智天皇”の崩御とともに...“壬 申の乱”...へ突入して行ったと考えられています。この戦いは、本来では、既存勢力であ る天皇の軍が圧倒的に優勢です。ただ、目先の武威ではなく、人望・知略を考えると、大海人 皇子が圧倒していたことも、周知のようでした。つまり...こういう時、まさに戦が、巻き起こ るわけですね。 “大化の改新”を共にに歩いて来た、重臣/中臣鎌足はすでにこの世にはなく、“壬申の 乱”はもはや構造的に回避が難しくなっていたようです。やがて、2つの勢力が陰で動きだし、 “肉親の情・・・肉親の説得では”、止(とど)めることが不可能になって行ったようです... また、それが可能なら...“孝徳天皇”と有間皇子の悲劇も...回避されていたはずです よね...」
「さて...話を戻しますが... 大海人皇子が...“天智天皇”の臨終の枕頭に進む直前においても...天皇側近から、 重ねて注意を受けていたと言われます。つまり、天皇の本意は大友皇子である。譲位を口に されても、“絶対にお受けにならないように”、ということです。 そこで、大海人皇子は、“天智天皇”の譲位のお言葉に対し...“とんでもないことです・・・ 自分にはそのつもりはありません”...と辞退し...“出家したい”と申し出ます。“天智天 皇”は、その言葉に満足し、出家を許します。有間皇子(ありまのみこ)の場合は、その出家さえ も許さなかったわけですが...ここでは出家を許しています。 そこで...大海人皇子は、機を失せず...直ちに剃髪(ていはつ: 仏門に入る際、髪をそり落と すこと)して、一日にして、吉野まで逃げ去ります。一方、“天智天皇”の取り巻きの人々は... “虎に翼を着けて放てり”...と言い、大海人皇子を恐れたといいます。 “天智天皇”としては...実弟が、そこまで言うのであればと、気を緩めたわけですね。実 弟もまた、可愛いかったわけです。あるいは...年を重ね、臨終の床にあり...気弱になっ ておられたのかも知れませんね。
うーん...この状況は...中国の古代王朝/漢を建国した...“劉邦(りゅうほう)”と“項 羽(こうう)”との、“鴻門の会”(こうもんのかい: 紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都/咸陽の郊 外で会見した故事。楚漢の攻防の端緒となった。この宴席で劉邦を取り逃がした項羽は、結局、劉邦に滅ぼされる ことになり・・・漢王朝が到来)を彷彿(ほうふつ)とさせますよね。 ええと...それから...吉野に脱出した大海人皇子は...伊賀、伊勢国、美濃へと逃れ て行くわけです。そして、翌年、“天智天皇”の崩御(/46歳)の後...大海人皇子は、皇位を 求めて立ち上がり、地方豪族を糾合し、反旗をひるがえします。これが、“壬申の乱”の始ま りです。 ちなみに、この時...大友皇子は血気盛んな24歳でした。一方...大海人皇子の年齢 については分かっていません。昔から、“天武天皇”の年齢矛盾は、歴史資料としても問題と なっているようです。それは、そもそも...正史/『日本書紀』に、“天武天皇”の年齢が記述 されていないことから起こっています。 『日本書紀』と『古事記』の編纂は...“天武天皇”の勅命で始まり...死後に完成した 事業です。そうした事情もあり...あえて“天武天皇”の年齢は、記述がなかったものと思わ れます。忘れたとか、書きもらしたとかは、絶対にないですよね。
うーん...それにしても...“壬申の乱”...は何とかならなかったのでしょうか?最後 の最後に...主力の激突の後に...大海人皇子の大赦(たいしゃ: 律令制の刑罰の免除の1つ。 死罪などの重罪をも許した)ということにはならなかったのでしょうか...?... 濃い血縁の中での争いであり...調停する人も多く...また、それを実行もしたのでしょ うが、けじめがつかなかったわけですね。まさに...古代史における、大悲劇でした... そして、大海人皇子/“天武天皇”の治世は...こうした一連の、血塗られた事態の収拾 から始まっているわけです。これだけの大騒乱を引き起こしたわけであり、大友皇子の自決 は...最小限のけじめとして...やむを得なかったのでしょうか。ともかく...大友皇子の 自決で...“壬申の乱”...は終息しています...」
この乱で...近江朝廷/大友皇子の軍勢は敗北し...大海人皇子が即位し、“天 武天皇”の治世になります。皇后/鸕野讚良(うののさらら/うののささら)は...“天智天皇” の第2皇女ということは...彼女にとって大友皇子は、弟ということになりますよね。 心情的に非常に近しい、肉親同士の、権力闘争/武力闘争でした。形式的には、こ れは“天智天皇”の、実弟/東宮/大海人皇子の、クーデターということになりますね。 でも...東宮が皇位を求めて、クーデターを起こしたというのも、おかしな話ですよね。 うーん...そう言えば...そもそも大化の改新の始まりも、蘇我入鹿へのクーデター でしたよね。こういうことが、しばしば起こっているわけでしょうか?あ、それは、これか ら、一緒に考察を進めて行きたいと思いますが...」 「大海人皇子が...」響子が、頬に手を当てた。「何とか、できなかったのでしょうか?」 「うーん...」支折が、うつむいた。「確かに、そう思います... でも...大海人皇子は、吉野に脱出したわけです。追討がかかっていたか、その危 険が濃厚だったわけですよね。その時は、天皇の勢力は圧倒的だったのだと思います。 何とかできる状況ではなかったと思います...」 「でも...」マチコが、顎に手をかけた。「大海人皇子は...“虎に翼をつけて放てり”、 という見方もあったわけよね...」 「そうですね...」支折が、髪を絞った。「それが、実力でした...その時は、“臍(ほぞ: へそ)を噛む”(/自分のヘソをかもうとしても及ばないことから・・・後悔する)思いだったと思います...」 「それで...」マチコが、顎をこすった。「“天智天皇”も、大ピンチになってしまったわけ ね...?」 「そうです... 大海人皇子も...大友皇子も...鸕野讚良も...全員が、天智天皇とは兄弟であ り、親子だったわけです...また、大友皇子の正妃/十市皇女(とおちのひめみこ/といちのひ めみこ)は、父親が大海人皇子なのです...」 「あ...」響子が、思わず、口に手を当てた。「この...十市皇女が...あの...」 「そうです...」支折が、うなづいた。「母親が、歌人/額田王(ぬかたのおおきみ)です... よほどの貴婦人だったのでしょうか...“天智天皇”は、額田王を大海人皇子から取 り上げて、自分のものにしています...ともかく、“天智天皇”は、そんなことさえできる、 絶大な権力を持っていたわけです。 でも、実はこの...“額田王を取られた・・・恨み”が...“壬申の乱”の背後にあった という説もあるようです。ホホ...実際にどうだったかは分かりませんが...残酷なこ とですね... あ...額田王の娘/十市皇女は...この時すでに、大友皇子の子供/葛野王(かど ののおおきみ)を産んでいます。彼は、大海人皇子の孫にも当たるわけですね。ともかく、何 ともやりきれない...“壬申の乱”...です、」 「うーん...」マチコが、腕組みをして、うなづいた。
「ところで...」支折が、モニターを見た。「...話は飛びますが... この...“天智天皇”の長子/大友皇子は...1870年/明治3年に...“第122 代/明治天皇”により...諡号(しごう: 贈り名/貴人や僧侶などに、生前の行いを尊んで贈る名)を贈ら れ...正式に天皇として認められています。つまり、譲位が確認されたということです。 つまり...“第38代/天智天皇”と、“第40代/天武天皇”との間になる...“第39 代/弘文天皇(こうぶんてんのう)と...位置づけられています...」 「はい...」響子が、しっかりと、うなづいた。
「ええ...」支折が言った。「この巻1後半と、巻2増補では... “持統天皇”を、“太上天皇”(だいじょう・てんのう/だじょう・てんのう: 皇位を後継者に譲った天皇に送られ る尊号。または、その尊号を受けた人/ 略して上皇 )と表記し...“文武天皇”(もんむてんのう)を、“大行 天皇”(たいこう・てんのう: 天皇が崩御した後、追号/贈り名が、贈られるまでの呼称)と、表記しているよう です。 うーん...すると、“第42代/文武天皇”は崩御(ほうぎょ)されているわけですか... あ、崩御というのは、 天皇や皇后や皇太后、そして太皇太后を敬って、その死をいう言 葉です...ええと、この辺りの呼称のことを、少し説明しておきましょうか... 后(きさき、こう、ごう)というのは、天皇の正妻/第1位...妃(きさき、ひ)は2位になるようで す。ちなみに、妃(きさき、ひ)は、後宮(こうきゅう: 宮中奥向きの宮殿)における后妃の身分の1つ で、日本の律令制では皇后に次ぐ、第2位に位置づけられています。現代日本では、天 皇以外の男性皇族の配偶者に対して用いられているようですね... それから...皇太后(こうたいごう)というのは、先代の天皇の皇后です。略して、太后(た いこう)とも言うそうですよ...そして、太皇太后(たいこうたいごう)というのは、先々代の皇后 か、もしくは、天皇の祖母に対して用いる尊称だそうです。普通は、あまり使う言葉では ありませんが、古典を読む際は、頭に入れておいた方がいいと思います...」 「はい...」マチコが、うなづいた。 「ええ...」支折が言った。「ともかく... “文武天皇”を“大行天皇”と表記しているということは...時代がそれだけ進行して、 状況としては“文武天皇”が崩御し、追号がまだ贈られていない時期の...編集という ことになるのでしょうか。 また...“第43代/元明天皇”(げんめいてんのう: 女帝・・・天智天皇の第4皇女。鸕野讚良/持統天 皇は、父方の異母姉妹)の在位期を...“現在”としているようです。 したがって、ここは...“元明天皇”や太安万侶(おおのやすまろ: 奈良時代の文官)が...関 与していたようです...」
「さあ...」支折が、モニターに目を落とした。「話を進めましょう... “持統天皇”の...統治期間の大部分は...高市皇子(たけちのみこけ: 天武天皇の第1皇子。
胸形尼子娘/むなかたのあまこのいらつめ・・・が母。子が・・・長屋王)が 高市皇子は、母の身分(筑前国=福岡県/宗像郡の豪族の娘)が低かったのですが...“壬申 の乱”での功績が、大きかったからでしょうか...公式に、皇太子の有力候補と擬(ぎ) せられていたようです...」 マチコが、黙ってうなづいた。 「うーん...」支折が、口に手を当てた。「“天武天皇”も...やがて崩御し... 皇后/鸕野讃良(うののさらら)が“持統天皇”となるわけですが...それは“天武天皇” と“持統天皇”の間の皇子/草壁皇子(くさかべのみこ)に、譲位するためだったようですね。 太政大臣/高市皇子は、あくまでも候補者の1人であり、本命は草壁皇子だったわけ ですね...つまり、ここは予備の人事だったようです。 ところが...草壁皇子が成長して即位する前に...薨去(こうきょ: 天皇・皇后・皇太后・太皇 太后を除く、皇族が亡くなったときに用いる言葉)します。そして、太政大臣/高市皇子も、持統天皇 10年7月10日に...薨去してしまいます。予備の人事も、消えてしまったわけです。
『懐風藻』(かいふうそう: 現存する日本最古の漢詩集)によれば...この時、“持統天皇”の後の 天皇をどうするかが大問題になりました。 皇族・臣下が集まって話し合いましたが、一向に決りません。そして、ついに、葛野王 (かどののおおきみ: 大友皇子の第1皇子/天武天皇と額田王にとっては孫にあたる。さらに、この葛野王の孫に・・・淡 海三船/おうみのみふね・・・奈良時代後期の文人がいる)の発言が決め手になって...697年2月に 軽皇子(かるみこ/草壁皇子の遺児。母は後の第43代/元明天皇)が、皇太子になります。 その後で、“持統天皇”は15才の軽皇子に譲位します。これが、“第42代/文武天 皇”(もんむてんのう)です。存命中の天皇が譲位したのは、“第35代/皇極天皇”(こうぎょくて んのう)に次ぐ2番目であり...“持統天皇”は初の、“太上天皇/上皇”(じょうこう)になった わけです。 ちなみに...“第42代/文武天皇”は...10年間の御在位で、崩御(707年7月18日) されています。25歳ほどで、亡くなられたのでしょうか... そして、母/“第43代/元明天皇”が後を継ぎ...“持統・上皇”も存命ということで すね。この頃に、巻1後半と巻2増補が、編纂されたということです。 力をつくしたのは、“元明天皇”や文官の太安万侶(おおのやすまろ)であり...“持統・上 皇”もその背後にいたわけですね... うーん...“持統・上皇”は、703年1月13日に、没していますよね...“文武天皇” が崩御された時は、“持統・上皇”も亡くなられていたわけですね。 この辺りは、『万葉集』の記述が、多少交差しているのでしょうか...厳密な意味で、 記述しているわけではないですから...編集途上での崩御などのことも、色々とありま すよね...当時の、編纂の大事業が偲ばれます...」
契沖(けいちゅう: 江戸時代中期の真言宗の僧/古典学者)が、『万葉集』は巻1〜巻16で1度完成 して...その後に、巻17 〜 巻20が増補されたという、“万葉集2度撰・説”を唱えまし た。それ以来、この問題に関しては、多くの議論がなされて来たようです。 “巻15までしか目録が存在しない・・・古写本の存在”や、“先行資料の・・・引用の仕 方”、それから、“部立による・・・分類の有無”など、“巻16を境に・・・分かれている”、と いう考え方を支持する証拠は、数多くあるようです。 この3つ目の区分では...“第44代/元正天皇”(げんしょうてんのう)、市原王(いちはらのお おきみ: 奈良時代の皇族の歌人)、大伴家持(おおとものやかもち)、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえの いらつめ: 『万葉集』の代表的歌人。 大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には長歌・短歌合わ せて84首が収録され・・・額田王以後の最大の女性歌人)らが関与したと思われます。
うーん...大伴坂上郎女は、84首も自分の歌を収録するとは、よほどの自信家なの でしょうか。大伴旅人の異母妹で、大伴家持の叔母(おば)で姑(しゅうと)と言いますから、 相当の歌人ということは分かります。歌に出会うのが、楽しみですね...」
「最後の、4つ目の区分は...巻17〜巻20の増補ですね...
『万葉集』は...“延暦2年/783年頃・・・大伴家持の手により完成!” した。ただし、『万葉集』は、そのまま、公に認知されたものとはならなかったのです。 延暦4年/785年・・・大伴家持の死後/2年後に...大伴継人(おおとものつぐひと)らに よる、“藤原種継・暗殺事件”がありました。死後の大伴家持も、それに連座したため、 『万葉集』は差し止めとなったようです。 この事件のために...『万葉集』という歌集・大編纂事業は...恩赦により大伴家持 の罪が許された、23年後の、“延暦25年/806年・・・ようやく完成を見た!”... ということになります」 <万葉集/4500余首の、2番目の歌/巻1(2)は?>
「はい...」支折が、両手をそろえた。 「マチコさん...」響子が、マチコの方に顎を向けた。「それでは... 『万葉集』の、2番目の歌をお願いします...これも、有名な歌だそうですね?」 「はい...」マチコが、マウスを動かしながら、うなずいた。「ええと...これは... 【巻1(2)の歌】、ということになります。“第34代/舒明天皇”(じょめい・てんのう)の御製 歌(ぎょせいか)/大御歌(おおみうた: 天皇が詠んだ歌)で、これも超・有名な歌だそうです...」 「はい、」響子が、微笑し、唇を結んだ。
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とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
【現代語訳・・・大意】 大和には多くの山があるけれど とりわけ立派なのは天の香具山 その頂に登って 大和の国を見渡せば 土地からはご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美 しい国だ この蜻蛉島 大和の国は...
「“香具山”(かぐやま)は...奈良県/橿原市(かしはらし)にある山で、大和三山の1つに数え られ、現在は香久山とも書くようですね。天から降りてきた山とも言われ、大和では最も格式 の高い山だそうです。
“蜻蛉島”(あきづしま)とは...蜻蛉(
同じような言葉に...“葦原の瑞穂の国”(
「ええ... 万葉集/巻1の2番目に収録されている、この歌は...第34代/舒明天皇(じょめいてんの う)の国見の歌です。 舒明天皇は...聖徳太子が摂政だった第33代/推古天皇の、その後の天皇です。聖徳 太子は推古天皇よりも早く亡くなられました。しかも、推古天皇は後継者を決めていなかった ので、もめた末の舒明天皇でした。 ちなみに...推古天皇は初の女帝です。そして先代は、第32代/崇峻天皇(すしゅんてんの う)になります。この崇峻天皇は、蘇我馬子が...“天皇は自分を嫌っている”...と警戒し、 部下に暗殺命令を下し...殺害してしまいます。“臣下により天皇が殺害”されたのは、確定 しているのは、この一例のみ、と言われます。 うーん...暗い話になってしまいました。でも、重要なので、触れておきました。後に、詳し く考察して行く、伏線です...」
「さて... この歌は、香具山からの風景を見て詠んだ、風景歌のようにも見えます。でも、実はもっと 深い、呪術的な意味があるのだそうです。つまり、国見をしながら...
“大和の国はすばらしい国である”...と詠(うた)うことによって...言霊(ことだま)の力で、 大自然の神々に語り掛け、実際にそのような国になるように祈っていた、ということです。そし てまた、天皇とは...このように歌を通じて、神々と交信できる力を与えられた者、を指して いたようです。
つまり、天皇とは...“神と交信できる人”...だったようですね。そして後に、大和朝廷が 力を付けてくると、天皇とは...“現人神(あらひとがみ)である”...という考え方が出て来るよ うになったようです。そして、天皇の位を譲ると、その呪力(じゅうりょく: まじない、または呪いの力) も失ってしまうとも、考えられていたようです。 そもそも古代においては、普通の人々の歌/普通の人々の言霊にも、そうした呪力/効 果があったと信じられていたようです。でも、天皇という地位は、特にその力が強かったとされ ていたようです。 ただ、こうした呪術的なものを...“現代の科学文明の元で・・・一笑に付し・・・片づけてし まう”...というわけにも行かないですよね。ご存知のように、“この世”は常に、ミステリーに 満ち溢れています。言霊の呪力は、案外、真実の一端を突いているのかも知れません...」
「ええと... 『万葉集』/第2声の...“天の香具山”(あまのかぐやま/標高152.4メートル)/“天香久山”(あ まのかぐやま、あめのかぐやま)は...何処にあるかというと...前にも言いましたが、奈良県/ 橿原市(かしはらし)にある山です。畝傍山(うねびやま/標高198.8メートル)、耳成山(みみなりやま/ 標高139.6メートル)とともに、大和三山(やまとさんざん)と呼ばれています。 香具山は、大和三山の中では、標高は二番目の山です。他の2つの山は単独峯ですが、 香具山は多武峰から続く山地の端にあたって、山というよりは丘の印象だそうです。でも、と もかく、古代から、“天”という尊称が付くほどに、最も神聖視された山なのだそうです...」
<・・・歌碑・・・>
は、かつての...“大和の国”...が見下ろせるそうです、」
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「はい、ありがとうございました...」響子が、頭を下げた。「続いて、私の方から、『万 葉集』の内容の構成について、説明したいと思います...」 「はい...」マチコが言った。
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弥生とコッコちゃんが、ベランダのテーブルで、注文のメニューをワゴンから下してい た。昼食のテーブルが整うと、データを整理している3人に声をかけた。 「うーん...」マチコが、テーブルに着きながら、シラカバ林の方を眺めた。「野田・新総 理大臣はさあ...どうするつもりなのかしら...」 「何を...?」響子が、椅子に掛けながら、マチコを見た。 「埼玉県/朝霞市の、米軍基地・跡の緑地にさあ... 本当に公務員宿舎を建てさせるつもりかしら。5年間凍結するということは、建てるつ もりよね。それに、2重行政は無駄だと言いなが、地方の合同庁舎をどんどん改築して いるわよね...」 「うーん...」 「それにさあ... 国が推進した原発の事故で、行政として誰かがしっかりと謝罪したのかしら。その責 任は何処にあり、誰が責任を取り、何が反省されたのかしら...?」 「私の知る限り...」支折が、お絞りを使いながら言った。「一度も、謝罪はしていませ んね... そう、原子力安全・保安院も、通産・政務次官も、通産大臣も...そして菅・総理大臣 も、キッチリと謝罪したのは、記憶にありませんわ。初期対応に失敗して、“ただちに危 険ではない”とくり返していた官房長官も、何も責任を取っていませんね、」 「そうよね...」マチコが、響子を見た。「こんなことで、いいのかしら?」 「そうですね...」響子が、箸(はし)を取り上げた。「日本の官僚組織... 特に、今回の“原発・事故”は...通産官僚・文部科学官僚を中心に天下りをしてい る、いわゆる“原子力サークル/原子力・ムラ”の体質が...“人類史上/未曾有の大 失策・・・大テイタラク”として...白日のもとに晒されたわけです。 日本の対応を世界に示すためにも...世界中が納得する、“厳正な処分”が必要で しょう。それは、緊急事態の落ち着いた今後、国民参加のもとで行われると思います。 それが、被爆国/日本としての、人類文明に対する、“最低限のケジメ”になります」 「うん...」マチコがうなづいて、箸を取った。 「それから...」響子が言った。「これは... “日本という国の・・・政治的力量”ということになりますが...総理大臣をはじめと して、マチコさんが《辛口時評》でコメントしていたように、“マンガ・レベルの・・・粗雑 な危機対応”でした。その“心構え”も、“危機管理・準備”も、何もしていなかったという ことですね...私としては、非常に残念です...」 マチコが、黙ってうなづいた。 「こうした... “日本の官僚体質”と、“日本の政治体質”のコラボレーション(共同制作)が...世界 史/人類史上において...“広島”、“長崎”に続く、“第3の被爆地/福島”...を作り 出してしまったわけです。これは、言い訳の許されない事実です。 専門家は、まさに“原子力サークル”しかなく...“レベル7に拡大した原発・災害”を コントロールできたのは、これも菅内閣をおいて、他にはなかったわけです。このことは、 今後、キッチリと総括し、日本国民と国際社会に開示する必要がありますわ...」 「当事者・意識が...」支折が言った。「希薄だったのではないでしょうか?」 「そうですね...」響子が、うなづいた。「システムとして...“原発・事故”に対する意 識が、希薄だったこともあると思います」 「“原子力・ムラ”の...まさに、“その・・・官僚体質”ということですね?」 「そうですね... したがって、日本で...“このままの・・・官僚支配”が続くことも、“このままの・・・ 政治体質”が続くことも...絶対に許されないし、あり得ないことです。これは、この国 の〔主権者/国民〕が、しっかりと肝に銘じておくべきことです...」 響子が、厳しい顔で、2人にうなづいた。 「ても...」マチコが言った。「どうしたら、いいのかしら?」 「公共放送/NHKや...」支折が言った。「マスメディアも...もうひとつ、腰が定まっ ていないわよね。ここも...当事者意識が希薄な気がするし...」 「うーん...」マチコが、大きくうなづいた。 「今、やるべきことは...」響子が、箸を上にあげた。 「今、やるべきことは...?」マチコが、焼魚の串を抜く手を止めた。 「〔主権者/国民〕が...1人1人が、立ち上がることでしょう」 「はい...」支折が、深くうなづいた。「そうですね... 前に考察したことがありましたわ...“間接・民主主義”による、代議員/政治家を 通して〔主権〕を行使するのではなく...“直接・民主主義”によって、直接、〔主権〕を 行使する方向ですわ...」 「うーん...」マチコが、焼魚に箸をつけた。「具体的に、どうすればいいのかしら?」 「2つ、方法があります... 1つは...“政治家や、既存政党の主導ではない・・・純粋なデモや、集会を展 開”...することです」 「うん...」マチコが、焼魚を食べながら、うなづいた。「それは必要よね。もう1つは?」 「それは...」支折も、箸を動かした。「つまり... 政治システムとしての、“直接・民主主義”の時代が到来している、ということですわ。 そうですね、響子さん?」 「ええ...」響子がうなづき、そうめんを、ツルツルと喉に流し込んだ。「高度・情報化時 代の到来で...そうした情報処理は、容易になりました。 近々...【完璧な・・・量子暗号処理】...も実用化になると聞きます。そうなれば、 社会がガラリと変わって来ます。早急にではありませんが...“文明の第3ステージ/ 意識・情報革命”...の時代が、本格化して来るでしょう、」 「うーん...」マチコが、空を見た。「すると、政治家は必要なくなるわけかあ...」 「あ...」支折が、箸を持つ手をひょいと上げた。「そうではなく... やはり、リーダーというものは必要ですわ。ただ現在ほど、大勢の政治家は、必要で はなくなると思います。 私たちの提唱している、〔人間の巣のパラダイム〕では、こうした“直接・民主主義” の、コンパクトな社会構造になると、考えられています。そして、国家レベルの官僚は、 少数精鋭ということになるはずですわ...」 響子が、うなづいた。 「ええと...」響子が、脚を組み上げ、モニターに体を寄せた。「〔3〕/万葉集の内容 の構成...ですね。ここは、私が説明します」 「あ、その前に...」支折が、マチコを見た。「歌の方を、入れてもらいましょうか、」 「そうでした...」響子が、頭に手を当てた。「『万葉集』は、歌集ですものね...」
「ええと...」マチコが、モニターをのぞいた。「『万葉集』の... 【巻1(3)の歌】は...“天皇の、宇智(うち)の野に、遊猟しましし時に、中皇命(な かすめらのみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして、献(たてまつ)らしめたまへる歌”... ということです。そして、この添(そえ)書きが、様々な議論を呼んでいるようですよね、」 「はい...」響子が、うなづいた。 「このことについて...」マチコが、両手を握った。「先に、少し説明しておきたいと思い ます。この歌の由来ということです...」 「お願いします。でも、簡単に、」 「はい、」 響子の携帯電話が鳴った。響子がそれを掴んで席を立ち、ベランダの方へ歩いた。 「まず...」マチコが、モニターをのぞいて言った。「歌の作者ですが... “中皇命”(なかすめらのみこと)と、“間人連老”(はしひとのむらじおゆ)については...そもそも、 これは1人の人物なのか、2人の異なる人物なのか...はっきりとしないのだそうです。 言い換えれば...間人連老は歌の作者と同一人物なのか...それとも、“中皇命”が 作った歌を、届けただけの人物なのか...ということですね。 それから...『万葉集』の歌人には、正体の分かっていない人が多いわけですが、こ の“中皇命”も、議論の分かれる人のようですよね。本来、この“中皇命”とは、“次の天 皇の・・・中継ぎとして立つ皇女”、という意味で...皇后か皇女(/天皇の娘、内親王)が当
たるそうです 「はい...」支折が、うなづいた。「固有名詞ではない、ということですね?」 「うーん...」マチコが肘を立て、コブシを握った。「そうですよね... この“中皇命”に関しては、江戸時代においては...荷田春満(かだのあずままろ)とその 弟子である賀茂真淵(かものまぶち)は...“第36代/孝徳天皇”(こうとくてんのう)の皇后/ 間人皇女(はしひとのひめみこ)である...としていました。 でも大正時代には、喜田貞吉(きたさだきち)が...『万葉集』の“中皇命”の名の、5首 の和歌のうち、2首/【巻1(3)(4)の歌】は...“第34代/舒明天皇”(じょめいてんのう) の皇后/宝皇女(たからのひめみこ)が、詠んだとしているそうです、」 「“第36代/孝徳天皇”(こうとくてんのう)の皇后/間人皇女か...“第34代/舒明天皇” の皇后/宝皇女か...ということですね?」 「そうです...」マチコが、うなづいた。「ええと、くり返すと... 江戸時代には...賀茂真淵らが間人皇女の歌だとする説が有力で...大正時代に は、喜田貞吉が宝皇女の歌だとする説が、有力だったようです。その詠んだ人物によっ て、詠まれている大君/天皇も、異なってくるわけです」 「そういうことに、なりますね...」支折が頭を傾げ、髪を揺らした。 「実はさあ...」マチコが、いつもの口調で言った。「この宝皇女というのはさあ... “第35代/皇極天皇(こうぎょくてんのう)・・・第37代/斉明天皇(さいめいてんのう)”...のこ となのよね。彼女は...2度...天皇に即位しているわけよ、」 「はい...」支折が、静かにうなづいた。「確かに、2度、天皇に即位している...女帝 がいましたわね...」 「“持統天皇/鸕野讚良(うののさらら/うののささら)”も... “天智天皇の皇女/天武天皇の皇后/天皇/上皇”と...歴史上、4つの表の顔を 持ったけど...宝皇女もすごいわよね、」 「うーん...」支折が、頭を振った。「2度も、天皇に即位ですか...」 「この、“舒明天皇”と再婚した宝皇女は、2男1女をもうけたそうです... それが葛城皇子(かつらぎのみこ/中大兄皇子/天智天皇)と、間人皇女(はしひとのひめみこ/第36 代/孝徳天皇の皇后)と、大海皇子(おおあまのみこ/天武天皇)です。みんな、天皇や皇后になっ ています」 「すると... “天智天皇”と“天武天皇”の母親であり、間人皇女の母でも、あったわけですね?」 「そう...」マチコが、うなづいた。「うーん... 母親としての苦労も、多かったのかしら。“壬申の乱”も、古代史の大悲劇だったけ ど...“第36代/孝徳天皇”(・・・/宝皇女の弟。第35代/皇極天皇と、第37代斉明天皇の間の天皇。大 化の改新の時代の天皇・・・)も...中大兄皇子に難波宮に放置され...その皇子である有間 皇子も、結局、罪を着せられて処刑されたわけよね。 そんなこんなで、2度も天皇に即位したのも...その苦労が偲ばれるわよね...」 「そうですね...」響子が戻って来て、椅子に座りながら言った。
「ええと...」マチコが、顎に手を当て、モニターを見た。「『皇極天皇紀』によれば... “第35代/皇極天皇”は、“第30代/敏達天皇 ”(びだつてんのう)の曾孫(ひまご)であり、 押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ/敏達天皇の第1皇子/舒明天皇と茅渟王の父)の孫 であり、茅渟王(ちぬのおおきみ)の娘で...母は吉備姫王(きびつひめのおおきみ)...と言うこ とです。 それから、再婚ということに関しては...『斉明天皇紀』に...“第31代/用明天皇 の孫の高向王(たかむこのおおきみ)と結婚して、漢皇子(あやのみこ)を産んだ。後に、舒明天皇 と結婚して、二男一女を生んだ”...と記されていることに、由来しているそうです」 「響子さん...」支折が、肘を抱いて言った。「皇后が...すでに子をなしている女性と、 再婚するなどということが、あるのでしょうか?」 「そうですね...」響子が、口に指を当てた。「そのつもりなら... 第1位/皇后/正夫人ではなく、第2位/妃とすることもできたわけですわ...でも、 『斉明天皇紀』にそうあるのなら...そうなのでしょう...」 「うーん...はい... “天智天皇”のように...大海人皇子(おおあまのみこ)から、額田王(ぬかたのおおきみ)を取 り上げる様なこともあった時代ですから...考えられないことではないですよね、」 「ホホ...そうですね、」 「ええと...」マチコが言った。「いいかしら?」 「はい、」響子が、うなづいた。 「古代ミステリーのついでに....もう1つ付け加えると... 実は...宝皇子が“舒明天皇”と再婚する前に産んだ子/漢皇子(あやのみこ)こそが、 “天智天皇”だとする仮説もあるようです...これも、『斉明天皇紀』を否定するようなこ とになるわけですが、そういう仮説もある、ということですよね... うーん...古代のことだから、何とでも言えるわけかしら...そうすると“天武天皇” は、実弟ではなく...異父弟ということになるわよね...」 響子と支折が顔を見合わせ、うなづいた。 「でも...」支折が、頭を横に沈めた。「天皇記に...嘘を書く...というようなことが あるのかしら?」 「そうですね...」響子も、肩を引いた。「でも、虚飾ということが、無いとも言えません わ...権力を握れば、むしろ、何でもできるわけです。“天智天皇”のように、東宮/大 海人皇子から、額田王(ぬかたのおおきみ)を取り上げることだってできるわけですもの、」 「うーん...」支折が、口をすぼめた。「そうですね、」
「話を戻します...」マチコが言った。「ええと... 大正時代の喜田貞吉は...『万葉集』の“中皇命”(なかすめらのみこと)の名の、5首のう ち残りの3首...【巻1(10)(11)(12)の歌】...は、“天智天皇”の皇后/倭姫王 (やまとひめのおおきみ)だとしています」 「はい、」響子が言った。 「ともかく、江戸時代には... “中皇命”は...“中皇女”...あるいは、“中皇女命”(なかちひめみこ)の誤りとみて... 間人皇女(はしひとのひめみこ/孝徳天皇の皇后)とする説が、有力視されていたわけです。それ にしても、古代のことでもあり、研究を深めても、分からないことも多いようですよね、」 「そうですね...」支折が微笑した。「もう少し、丁寧に書いておいてくれれば...と思う ことはよくありますわ、」 「そう...」マチコが、うなづいた。「ええと... 間人連老(はしひとのむらじおゆ)という言葉ですが...“連(むらじ)”とは、古代の姓(かばね)の 1つです。大和朝廷から、神別(しんべつ: 日本神話に現れた諸神の後裔と称する氏族。 天孫、天神、地祇、 に分類される)の、氏族の首長に与えられたようです。“連(むらじ)”は“臣(おみ)”と並ぶ、最高 の家柄だったようです」 「神別ですか...」響子が言った。 マチコが、モニターをのぞいた。 「それから... “老(おゆ、ろう)”とは...自分より年長の人の名に付けて、軽い敬意を表す使い方と、 老人が自分をへりくだって使う場合があるようです。 それにしても、“中皇命の間人連老”が...1人か2人かもはっきりしないのでは、困 りますよね...分かるように、編集しておいて欲しかったですよね...」 「そうですね...」響子が言った。「当時としては、それで十分わかったのでしょう... でも、さすがに、これほどの古典になるとは、想像もしていなかったのでしょうね、」 「はい...」マチコが、コクリとうなづいた。「ええと、最後に... 最近/現代になるのでしょうか...澤潟久孝(おもだかひさたか)/国文学者は、『万葉 集』の、“中皇命”の名の5首...【巻1・(3)(4)(10)(11)(12)の歌】....の全 てを、宝皇女(たからのひめみこ)/“皇極天皇/斉明天皇”である、としているようです...
うーん...ともかく、歌/長歌の方を...まず見てみましょうか...【巻1(3)、(4 /反歌)の歌】...です」
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やすみしし わご大君 朝(あした)には とり撫(な)でたまひ 夕(ゆふへ)には い縁(よ)せ立たしし 御執(みと)らしの 梓(あずさ)の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり 朝猟(あさかり)に 今立たすらし 暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし 御執(みと)らしの 梓の弓の 中弭(なかはず)の 音すなり
【反歌】 (はんか: 長歌の後に読み添える短歌。長歌の意を反復、捕捉、要約するもの。1首、または数首) たまきはる 宇智(うち)の大野に 馬並(な)めて 朝踏ますらむ その草深野
【現代語訳・・・大意】 わが天皇が、朝には手に取ってお撫でになり、夕べにはお取り寄せになって、お側に立て て置かれる...そのご愛用の梓の弓の、中弭の響く音が聴こえて来るようです... そのたびに...朝猟に、いまお立ちになられた... 夕猟に、いまお立ちになられた、と思います... その、ご愛用の、梓の弓の中弭の響きが、聴こえてきます... これから、大君は、猟にお立ちになられるのですね... 【反歌・・・大意】 今頃、大君は...宇智の広々とした野に...馬を並べ... 朝の大地を踏んでおられることでしょう...その草深い野を...
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「ええと...」マチコが、体をそらした。「難解な言葉ですが... “やすみしし”...とは、平らかにお治めになる、という意味です。“わご大君”にかかる、枕 詞(まくらことば)としても用いられるようです。枕詞というのは、和歌に用いられる、修辞法の1 つですね。後で、支折さんか、響子さんに、詳しく説明してもらいます。 “わご大君”/わが大君...とは、ここでは、【巻1(2)】の大御歌(おおみうた)を詠まれた、 “第34代/舒明天皇”(じょめいてんのう)とします。詠んでいるのは、皇后/宝皇女(たからのひめ みこ)、ということになりますよね。多分、そうではないかということです。 “梓の弓”/梓弓(あずさゆみ)とは...神事などに使用される、梓の木で作られた弓のことで す。もちろん、ここでは神事ではなく、狩りに使う弓のことです。ええと...材質に関わらず、 弓のことを梓弓と呼ぶこともあるようですよ。これは、枕詞の1つにもなっているようです。 “中弭(なかはず)の”とは...これは、何でしょうか?“弓弭(ゆはず、ゆみはず)”というのは、弓 の両端の、弦の輪をかける部分のことですよね。“中弭”の意味は、“諸説あり・・・不明”との ことですが...弓弭に張る弦のことなのでしょうか?続いて、“音す”...とありますから、こ れは、その弦を引いた音ですよね。多分、ということですが... 【反歌】の...“たまきはる”...とは、ここでは地名の“宇智(うち)”にかかる枕詞として用 いられています。“ たま”は“魂”であり...“きはる”は、“極まる”とか、“刻む”の意味のよう
です。うーん...いまいち、はっきりしないようですが、 “宇智”とは...現在の、奈良県/五条市あたりの山野だそうです。当時、一帯の草深い 広大な山野には、鹿などの動物や、鳥などが多くいた様子です。それを追い込み、弓で射と め、獲物(えもの)としていたわけですね。大きな鹿や熊なども、弓で仕留めたのでしょうか、」
「ええと...」マチコが、モニターをスクロールした。「この長歌の... 大君は...先程も言ったように...“第34代/舒明天皇”のことです。“舒明天皇”が、宇 智の広大な山野で狩りをなされていた時、中皇命(なかすめらのみこと)の間人老(はしひとおゆ)を して...献上した歌ということになっています。 ともかく...中皇命の間人老は、この狩りの場所にはいなくて...飛鳥宮などの他の場所 にいて、宇智(うち)で狩りをなされている大君のことを詠(うた)ったものですよね。狩りに出た、 大君の無事を祈っての、言霊(ことだま)としての長歌だろうということです。 うーん...古代においては、女性は狩りや戦などで家を空ける男性の身を案じ、祈りを込 めて、無事を願う歌/言霊...を詠んだようです。この歌も、不吉を打ち払うかの如く、“わが 大君の凛々(りり)しいお姿”が詠われています。言霊の力で、“詠(うた)ったような無事な狩り” であることを、祈っていたようですね。 万葉時代/古代においても...天皇は愛用の梓弓を手元に置いて、それを日夜愛(め)で ていた様子がうかがえます。現代においては、さしずめ、愛用の釣り竿かゴルフ・クラブでしょ うか...」
<・・・歌の舞台/宇智の大野・・・>
「ええ...歌の舞台/宇智の大野は... 奈良県/御所市(ごせし)/・・・JR北宇智駅の西に広がる一帯...だそうです。確かに、 飛鳥宮からは離れた場所のようですね。 そうそう...奈良県/御所市といえば、“御所柿”(ごしょがき)のルーツ(始祖)の地なのかし ら。正岡子規が...
柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺 (子規)
...と詠んだ、奈良の“御所柿”ですよね。うーん...そうなのかしら。ともかくその辺りで、 “舒明天皇”は狩りをなさり...皇后/宝皇女は狩りの無事を祈り、歌を詠んだことが... 千数百年の時を超え...現代/平成時代に、鳴り響いています...すごいものですね、」
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す... でも、それは、首尾一貫した編集ではなかったようです。先ほど、支折さんが、〔万葉 集/全20巻の構成〕で説明したように、何巻かずつ編集されてあったものを、1つの 歌集にまとめたと、考えられています。 “巻1〜巻16は・・・天平16年(744年)以前”に...“巻17〜巻20は・・・天平16年 (744年)以後”に、編集されたと考えられています。これも、支折さんが説明したように、
明確には分かっていないようですね。 すが、これも明確には分かっていないようです。 また、編纂(へんさん)された年代も、明確には分かっていないわけですが...“巻17〜 巻20”が、大伴家持の身辺詠(しんぺんえい/身の回りのものを詠んだ歌)を、日時を追って記して いるようです。これが、天平18年(746年)以後のもののようです」 「そうですね...」支折が、うなづいた。 響子が、モニターに目を落とした。ジッと、データを読み始めた。支折が、窓から入っ て来る涼しい微風を受け、響子が読み終わるのを待っていた。 マチコが席を立ち、ヘリの爆音が大きくなったベランダへ出た。ブラッキーの定期連 絡便のようだった。
「ええと...」響子が、顔を上げ、支折に言った。「すみません... 『万葉集』に、収録されている歌は4500余首からなりますが...写本の、異伝の本 に基づく数え方があり...歌の数も、種々様々の説があるようですね。 それから、各巻は...【年代順】や、【部類別】や、【国別】などで配列されているよ うです。これについては、後で述べます...」 「昔は...」支折が言った。「印刷というものが、存在しなかったわけですね、」 「そうですね...」響子が、小さくうなづいた。「歌集が編纂されると、それを丁寧に書写 したわけです。 その書写/コピーという行為に...DNAのような進化のベクトル(力と方向)がかかっ ていたとしても...“原本”...は歴史の彼方にかすんで行くわけですわ」 「書写した人が、 解説を加えたり、自分の覚書を入れたりするからですね?」 「そうです...」 「でも...“原本”は何処か...御所の片隅か、床下にでも残っていないのかしら?」 「ほほ、そうですね...」響子が、微笑をこぼした。 マチコが両手を天にげながら、ベランダから戻って来た。ヘリが着陸したらしく、騒音 がぐんと小さくなっていた。
「ともかく...」支折が言った。「昔は... 本は、非常に貴重品でした。現在のように、膨大なデジタル・データを、数秒間で正 確にコピーしてしまう時代ではなかったわけです」 「そうですね、」 「一茶などは... 貧乏暮らしで本が買えなかったので、借りた本から必要な所を書き写していました。 面倒な作業でしたが、その効用もあったわけですね。そして、有り余るほどの、退屈な 時間にも囲まれていたわけです。 それでも、昔は勉強するのは、現在のような容易な作業ではなかったわけです。本を 求めて旅をし、耳学問のために旅をし、人と交わるために旅をし...旅をしながら、人 間を学んでいたわけですね。そうした時代を、羨(うらや)ましいと思いますわ...」 「うーん...」マチコが、腕組みをした。「昔は、みんな書写していたわけよね、」 「そうですね...」響子が、首を反対側に倒した。「経典は、みなそうでした... 木の葉に書かれた経典もあります。竹簡(ちくかん: 古代中国で、紙が作られる以前に、文字を記す のに用いた細長い竹の札。こうした竹簡に麻糸を通し、ぐるぐる巻いて書物としていた。紀元前500年頃の孔子などは、 こうした竹簡の書を読み、勉強していたと思われます)や、木簡(竹簡と同じもので、木を削った札)というものも、 ありました...」 「古代日本では...」マチコが言った。「紙の普及はどうだったのかしら?」 「そうですね...」支折が、うなづいた。「そのへんも、調べておきますわ」 「お願いします...」響子が、頭を下げた。
「ええと...」響子が、モニターの方に顎を伸ばした。「それから... 各巻の歌は、何らかの部類に分けられています。【内容による分類】、【表現形式 による分類】、【地域による分類】、【歌体による分類】、などがなされています。 次に、その概略を示します...」
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“くさぐさのうた”の意味で...相聞歌、挽歌以外の歌です。具体的には、公的 な宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌...などが、この範疇 (はんちゅう)に収められています。
“相聞”は、消息を通じて問い交わすことで...主として男女の恋を詠みあう歌 ...となっています。
“棺(ひつぎ)を曳(ひ)く時の歌”...で死者を悼み、哀傷を詠んでいます。
古代おいて...東国地方で作られた民謡風の短歌。万葉集/巻14と、古今集 /巻20の1部...に収録されている。
【信濃】・【上野】・【下野】・【陸奥】 ...12国の【相聞歌】
【戯咲歌】(ぎしようか: 万葉集巻16の・・・戯れの歌の系統のもので、ひとふしの笑いを含むもの)
<短い句、は5音節...長い句、は7音節...>
最後を特に、5・7・7という形式で結ぶもの。 長歌の後に、別に一首か数首添える短歌を、“反歌”と呼 びます。ここでは、中皇命の“反歌”がありますね。
短・長の1回の組み合わせに、長1句を添えた形を、“片 歌”(かたうた)といい...“片歌の形式を2回繰り返した形”を、 旋頭歌といいます。頭3句と同じ形を、尾3句で繰り返すこと から、旋頭歌というようです。 |