Menu/文 芸/短 歌/万葉集/巻1 |
|
トップページ/Hot Spot/Menu/最新のアップロード/ 女流歌人: 里中 響子 |
No.1 | 〔1〕 原・万葉集とは・・・ | 2011.10.16 |
No.2 ![]() |
【巻1(1)】 雄略天皇 籠もよ み籠持ち 掘串もよ・・・ | 2011.10.16 |
No.3 ![]() |
【巻1(2)】 舒明天皇 大和には 郡山あれど とりよろふ・・・ | 2011.10.16 |
No.4 ![]() |
【巻1(3)】 中皇命 やすみしし わご大君 朝には・・・ | 2011.10.16 |
No.5 ![]() |
【巻1(4)】 中皇命 たまきはる 宇智の大野に 馬並めて・・・ | 2011.10.16 |
No.6 | |
2011.10.16 |
No.7 |
【巻1(13)】
中大兄皇子(/天智天皇) 香具山は 畝傍ををしと |
2011.10.16 |
No.8 | 【巻1(14)】 中大兄皇子(/天智天皇) 香具山と 耳梨山と・・・ | 2011.10.16 |
No.9 |
【巻1(15)】
中大兄皇子(/天智天皇) わたつみの 豊旗雲に・・・ |
2011.10.16 |
No.10 |
【巻1(16)】
額田王 冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし |
2011.10.29 |
No.11 |
【巻1(17)】
額田王 味酒 三輪の山 あをによし |
2011.10.29 |
No.12 | 【巻1(18)】 額田王 三輪山を しかも隠すか 雲だにも・・・ | 2011.10.29 |
No.13 |
【巻1(20)】
額田王 あかねさす 紫野行き |
2011.10.29 |
No.14 | 【巻1(21)】 大海人皇子(/天武天皇) 紫草の にほへる妹を・・・ | 2011.10.29 |
参考文献 Wikipedia
・・・ 万葉集 (・・・インターネット・サイト・・・) その他
|
「ええ...」響子が言った。「...『万葉集』は... 奈良時代・末期に、現在の形にまとめられたとされます。でも、それ以前の奈良時代 ・初期に...“原・万葉集”...とも呼ぶべきものが編纂されていたとする、有力な説 があります。 現在の...【巻1、巻2】...がそれで、そのままはめ込まれている、と考えられて います。『万葉集』のこの部分というのは、『古事記』よりも古く、古代日本を知る貴重な 記録となっているようです。 ここには...“天孫・降臨/天子・降臨”の...神話が描かれているそうです。そ れが、どのようなものかは、これから一緒に考察して行きたいと思います」 「うーん...」マチコが、顎に手を当てた。「“国造り神話”かしら...?」 「そうですね...」響子が、うなづいた。「それも、これから考察して行きましょう」 「ええ...」支折が、モニターに目を投げた。「『万葉集』に収められている作品は... 5世紀・初頭/〔古墳時代〕の...仁徳朝 (にんとくちょう)/“第16代/仁徳天皇”(にんとくてんのう/御在位期間は394年〜427年・・・仁徳天皇陵は、大阪府/堺市/堺区/大仙町にあり、日本最大の前 方後円墳。墓域面積としては世界最大・・・)から... 〔飛鳥時代〕を通し... 〔奈良時代〕の淳仁朝(じゅんにんちょう)/“第47代/淳仁天皇”(じゅんにんてんのう/御在位 期間は758年〜764年。天武天皇の皇子/舎人親王の7男)の、天平宝字3年(759年)/正月まで... “約350年間の・・・古代の和歌”...4500余首が...収録されています。 でも...そのほとんどは...“第34代/舒明天皇”(じょめいてんのう/御在位期間は629年〜 641年)以降の作品で...それ以前の作品は、8首だけのようです。 “舒明天皇”の御製歌/【巻1(2)】と...【巻1(52)、(53)】は呼応していて... また...巻頭の“雄略天皇”の御製歌もあるということで...1つのまとまりがあるよう です。つまり、この【巻1、巻2】が...“原・万葉集”...と判断されるようです」 「はい...」響子が、賢くうなづいた。「ええ... “原・万葉集”の成立時期ですが...推測では、【巻1、巻2】の、高市皇子(たけちの みこ/天武天皇の長男。持統天皇時代の太政大臣)の死亡まで、と思われるようです。そこで、草壁 皇子(くさかべのみこ/・・・天武天皇と持統天皇の間の皇子)と高市皇子が相次いで亡くなられ、“持 統天皇”の後継で、大きく紛糾したわけですね。 他の意見はどうなのでしょうか...私自身は研究不足なのですが、山上憶良(やまの うえのおくら)が、歌集/『類聚歌林』(るいじゅうかりん/正倉院文書)で、“原・万葉集”に対して、 注釈を付けたものが存在し...“それに該当する”...という意見があるようです。 もう少し詳しく説明すると...山上憶良は、遣唐使(第7次遣唐使船・・・702年/白村江の戦の 後、33年ぶりの遣唐使。憶良は、少録/記録係の身分で参加・・・この時、倭国が国号を “日本” と改めたことを、唐に 伝えている) から帰国した704年以降に、この『類聚歌林』を書いています。 そして、この中で、“原・万葉集”に注釈を入れているわけですね...つまり、“原・ 万葉集”は、それ以前に成立している必要があるわけけです...」 「そうですね...」支折が、うなづいた。「ええと...いいかしら...」 「はい...」響子が、耳に手を当てた。 「それでは...」支折が言った。「...マチコさん... 日本の、“天皇制”の...“初代・天皇/神武天皇”(じんむてんのう)の...来歴を調 べて下さったそうですね。そのプレゼンをお願いします」 「はい...」マチコが、スクリーン・ボードのリモコンを操作した。「ええ... 初代・天皇のルーツ(始祖)は...天照大神 (あまてらす・おおみかみ/女性)にあります... 家の神棚に祀(まつ)られている神様ですね。それは...“日本神話”に由来する神様 で...“天皇制”も、それに由来しています...」 「はい...」響子が、うなづいた。
******************************************* <初代/神武天皇の・・・来歴は・・・>
『古事記』 (奈良時代の歴史書/3巻・・・第40代/天武天皇の勅命で・・・稗田阿礼/ひえだのあれが 誦習/しょうしゅうした、帝紀や先代旧辞を・・・第43代/元明天皇の勅命で・・・太安万侶/おおのやすまろが文 章に記録・・・和銅5年/712年に献進した書)や... 『日本書紀』
(奈良時代に成立した、日本における最初の勅撰正史。六国史/
“初代/神武天皇”(じんむてんのう)は...日向(ひゅうが・・・現在の宮崎県/日向市)を発 ち...大和にいた長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし...橿原(かしはら・・・奈良県/橿原市)の 地で即位しています。当時は、天皇ではなく、大王だったわけですね。 『懐風藻』 (かいふうそう・・・751年に成立した、日本最古の漢詩集)の序文では、“持統天皇” 以後についてのみ、天皇という表記が用いられているようです。これを根拠として、 皇后の表記とともに...“飛鳥浄御原令”(あすか・きよみがはらりょう)...において規定 されたとする説が...近年では有力のようです。
あ、ええと...その前に...“日本神話”(/・・・『古事記』、『日本書紀』、地方各国の『風土 記』にみられる記述をもとにしている。高天原/たかまがはら/天上の世界・・・の神々を中心とする神話がその
大半を占める)
うーん...この辺りの神話も面白いのですが、これはまた別の機会に話す事 に譲ることにします。今回は、“初代/神武天皇”の方向へ、話を持って行くこと にします。
さあ...そこで...天照大神には子供がいました。名前は、忍穂耳尊(おしほみ みのみこと)と言ったそうです。 この忍穂耳尊の子供が...瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)で...この神様が高天原 (たかまがはら・・・天上の世界)から...“日向に降り立った”...とされています。天孫 降臨(てんそんこうりん)ですね。 『日本書紀』は...その降り立った場所を...“日向の襲の高千穂の峰”... と記しているそうです。 “襲の”とありますが、“襲(しゅう、おそう)”とは、どういう意味なのでしょうか?歌舞 伎などでは、襲名披露などと言いますよね...うーん... ともかく、この場所は、宮崎県と鹿児島県の境にある、霧島連峰/高千穂の峰 を指しているのは、間違いそうです。この山頂は、天逆鉾(あまのさかほこ)が突き刺さ っていることで、有名ですよね。
高天原から降臨(/天上世界に住むとされる神仏が、地上に来臨すること)した瓊瓊杵尊は、日 向で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)と結婚し...彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) をもうけます。 彦火火出見尊の上には、兄/火闌降命(ほのすそりのみこと)がいるのですが、この 2人は...“仲が良くなかった”...そうです。そして、この2人の争いが有名な、 『海幸彦・山幸彦の伝説』...となっているそうです。 この伝説では、結局...弟/山幸彦...つまり彦火火出見尊が勝ったわけで
すよ
「うーん...」支折が、頭をかしげた。「『海幸彦・山幸彦の伝説』というのは... どんな話だったかしら?」 「ええと...」マチコが、コクリとうなづいた。「それは、調べておきます」 「そうですね...」支折が、うなづいた。「お願いします... だいたいのことは分かるのですが、その話を聞いたのは、小学生か中学生の 頃だったかしら...?」 「そ...」マチコが、うなづいた。「ともかく... こうした物語性の背景として、“壬申の乱”があったようです。つまり、“弟が正し くて・・・兄に勝つ”...“大海人皇子が正しくて・・・天智天皇に勝つ”...というス トーリイ/伝説が...歴史書の編纂にまで反映されているようですよね...この 時代には、こういう話が多いようですよ」 「はい...」響子が、うなづいた。
「ええと...」マチコが、モニターに額を寄せた。「それから... 『海幸彦・山幸彦の伝説』によれば...彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、 兄との抗争の時に助けてくれた、海神(わだつみ)/綿津見神の娘、豊玉媛(とよたま ひめ)/豊玉姫神と結婚し...鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が生まれま す。 そして...この鵜葺草葺不合尊は...豊玉媛の妹...おばの玉依姫(たまよ りひめ)と結婚し、4人の子供が生まれます。ここの事情については、『海幸彦・山 幸彦の伝説』で、もう一度、説明することにします。
ともかく...鵜葺草葺不合尊と玉依姫の間に、4人の子供が生まれました。 長男/彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、次男/稲飯命(いなひのみこと)、三男/三毛入 野命(みけいりののみこと)...そして、四男/“神日本磐余彦尊”(かむやまといわれひこの みこと)=“初代・天皇/神武天皇”(じんむてんのう)...が生まれたわけですね。
“神武天皇”は、45歳の時に、兄弟や子供から...“東に良い所がある”、と 聞きます。“そこが中心地だろう・・・そこへ行って都を造るに限る”と進言され... 長男/彦五瀬命と、二男/稲飯命と共に...兄弟3人で日向を発ちます... でも...直接、大和に入ったのではなく、色々と寄り道をしているようですね。そ れは、次の機会に説明することにして、これが...“初代・天皇/神武天皇”の
来歴です...」
*******************************************
「はい...」響子が、笑みを作り、うなづいた。「ありがとうございます... それでは...私の方で...【巻1】のよく知られている歌について、いくつか紹介し て行こうと思います...」 「はい...」支折が、うなづいた。 「では... ええと...【巻1−(1)(2)(3)(4)】については...すでにマチコさんに解説して いただいているわけですね...それらの歌については、目次でリンクしていますので、 その方の解説をご覧になって下さい...」 支折が、小さくうなづいた。 「うーん...」響子が2人を見、深呼吸をした。「緊張しますわ...」 「あら...」支折が、つられて笑った。「響子さんでも、ですか?」 マチコも、白い歯を見せ、ミミちゃんの頭をなでた。 「《危機管理センター》とは...別の緊張感があります...」 「うん...」マチコが、うなづいた。 |
【巻1(13)】 中大兄皇子(/後の天智天皇)/三山の歌 長歌(13) 反歌/(14)(15) *************************************************************
相(あひ)あらそひき 神世(かみよ)より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき
【反歌・・・巻1(14)】
(はんか:長歌の後に読み添える短歌・・・長歌の意を反復、捕捉、要約するもの) 立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら) 【反歌・・・巻1(15)】
今夜(こよひ)の月夜(つくよ) さやけかりけり
***********************************************
【現代語訳/大意・・・巻1(13)】 香具山は 畝傍山を妻にしようとして 耳梨山と争ったそうだ... 神代からそうであったらしい... 昔からそうだったから いまでも畝傍山を妻にしようと 耳梨山と争っているのだそうだ...
香具山と耳梨山が争ったとき... それを止めようと阿菩(あぼ)の大神が、印南国原(いなみくにはら・・・ 播磨国/印南郡の平野・・・兵庫県/加古川市〜明石市)まで来たそうだ...
海の上をたなびく雲に、夕日が射して輝いている... 今宵の月は、清らかであってほしいものだ...
「ええ...」響子が、やや緊張した声で言った。「難しい言葉は... “嬬(つま)”ですが...これは、群馬県/吾妻郡/嬬恋村の嬬ですね。ようするに、妻のこ とですね。つぎに、“印南国原”(いなみくにはら)は...注釈したように、地名です。播磨国(はり まのくに)/印南郡の平野で、現在の兵庫県/加古川市〜明石市あたりだそうです。 それから、“豊旗雲”(とよはたぐも)というのは...旗がなびいているように、空にかかる美し い雲のことです。特に、朝焼けや夕焼けの時が、美しいのでしょうか...
さて、この長歌は...中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)/後の“第38代/天智天皇”が、 大和三山(やまとさんざん)といわれる、天香久山(あまのかぐやま/香具山)、耳梨山(みみなしやま/ 耳成山)、畝傍山(うねびやま)の...伝説を詠んだものだそうです。 この三山の歌/長歌1首・反歌2首は...“第37/斉明天皇”時代において...朝鮮半 島の百済(くだら)を支援し、新羅(しらぎ)遠征に出発する折...海路で播磨の国を出る時、土 地の神への祈願に詠まれたという...“説”...があるそうです。 大和朝廷/国家を挙げての臨戦態勢の下で...天皇が動座し...九州/博多/太宰 府まで出向くわけです。朝鮮半島での戦いに際し、天皇が九州/太宰府まで動座するという ことは、これ以上ない、戦意高揚になったわけです。 “斉明天皇”は、“第25代/皇極天皇”でもあるわけで、苦労も多かったわけですが、こん なこともしていたわけですね。ええと、それに、【巻1(3)】の歌も詠まれているわけですね、」 「ええと...」支折が言った。「少し補足しますと... “斉明天皇”6年(660年)に百済が滅亡し、百済復興をかけて“天智天皇”2年(663年)に、 唐・新羅連合軍と対決したのが、“白村江の戦い”です。これは、陸と海で戦われました。 “斉明天皇”は朝倉(福岡県/朝倉市・・・大宰府の近く)に入って2カ月ほどで崩御したため... 朝倉が日本の都だった期間も、ほんのわずかでした。 後に、中大兄皇子が“斉明天皇”を弔 うために発願したのが、太宰府の観世音寺です...」 「はい...」響子が、頭を下げた。「ええ...ありがとうございます... 日本においては...長い歴史を通して、稀な外国との戦争ですが...大和朝廷は、百済 王国を支援し、どうしても大陸の先進文化を移入したかったようですね。前にも言及されてい ますが、百済王国とは、現在“国宝”となっている、“百済観音の・・・百済の国”ですね...
この、古代における対・外国戦争を開始/主導したのは...実質的には“斉明天皇”では なく...東宮/皇太子/中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/後の天智天皇)なのでしょう。そして、 実力者の中臣鎌足(/藤原鎌足)がいて...有能な大海人皇子(おおあまのみこ/後の天武天皇)も いたわけです。国家体制としては、大化の改新が推し進められ、日の出の勢いであり、万全 の布陣だったのかも知れません。 でも...この新羅・唐の連合軍を向こうに回した戦いは...前にもしばしばコメントしてい るようですが...最後に、“白村江の戦い”で大敗しています。海を渡った古代の大量の戦 船は、何日たっても、九州の海岸線に漂着することはなかったと言います。だいぶ後に、ごく 少数の漂着は散見されたようですが、日本から派遣した大軍は、全滅だったようです。 それ以後...日本は、新羅・唐の連合軍が海を渡り、九州の海岸に押し寄せるのを、非 常に恐れたわけです。その備えが、いわゆる、水城(みずき・・・博多湾から大宰府にかけて構築され た国防施設)や防人(さきもり)の態勢であり...九州一帯の沿岸や島々は、臨戦態勢を取りま す。防人は、後に東国の兵役となったようですね。その過酷な兵役は、防人歌として詠われ、 『万葉集』に収録されているわけです。
さあ...この長歌・反歌の内容ですが...万葉の時代にも、現在と同様に、古い伝説とい うものはあったわけですね。中大兄皇子は、古い伝説にちなんで、戦の出陣にさいし、この長 歌・反歌を詠んだようです。大和三山は、藤原京を囲むように三角形に位置している山々で すね。 あ...でも...この時代には、まだ藤原京は無く、これは飛鳥京/飛鳥宮(奈良県/高市郡 /明日香村一帯)で詠んだのでしょうか。それとも...大化の改新が行われていた、難波京/ 難波宮(大阪市/中央区)で詠んだのでしょうか。あるいは...最初に言ったように、天皇が動 座し、播磨の国を船出する時、土地の神への祈願として詠まれたという事なのでしょうか...
うーん...ともかく、この時代は頻繁に遷都が行われているようです。都を移すには、莫 大な費用が必要だったと思われるのですが...やはり...やむを得ない、リセットだったの でしょうか...? ええと...古代の遷都に関しては、私はあまり、詳しくはありません...別途、調べておき ます...勉強不足で、申し訳ございません...」 「あ、私の方で調べておきますわ...」支折が、キーボードでメモを打ち込んだ。 「それじゃ、お願いします...」響子が唇をなめ、支折の手元を眺めた。「...ええ... この歌は、解釈によっては...香具山と耳梨山が女性で...男性の畝傍山の妻になろう と、女性が争っている...とも取れるのだそうです...そんな解釈もあるということですね。 他にも...香具山が女性で、新しく現れた男性の畝傍山に惚れてしまったので、恋人の耳 梨山と争いになってしまった...という解釈もあるそうです...うーん... ただ...通説では...香具山と耳梨山が男性で、女性の畝傍山を妻にしようと、争ったこ とになっているそうです...ホホ...こうなっては、もうどちらでもいい気もしますが...」
“斉明天皇”時代に...朝鮮半島/新羅王国を遠征する折...播磨(はりま)の国を船出 する時に...土地の神/地神(ぢじん、ぢしん、ぢがみ)への祈願に詠まれた...という説があ るわけですね。 この説が本当だとすれば...最後の反歌らしくない歌/(15)の“豊旗雲”の歌も...将 来展望の祈願として、納得できるもののようです...うーん...そうなのでしょうか...
ええと、それから、(14)ですが...これだけでは、何のことを言っているのか分からない と思いますが...これはこういうことだそうです... 『播磨・風土記』によると...香具山と耳梨山が争った時、調停のために出雲の“阿菩(あ ぼ)の大神”が立ち上がり...ちょうど印南国原まで来たところで、争いが納まったと聞いて、 帰って行った...という伝説を詠んだものだそうです。うーん...そんな伝説があったわけ ですね。 この歌は...印南国原は、そうした由緒ある土地である...と誉めることによって、土地 の神による災いをさけ、“どうか無事に通して欲しい”、との願いを込めているのだそうです。 古代には、土地の神/地神によって守られているといった感情が強く、他の土地へ行くこ とを、非常に嫌ったのだそうです。そして戦いとは、地神と地神との戦いでもあり、“風水(ふう すい)”は新兵器でもあったとか...そこに、仏教という大陸からの新しい神/新しい文化/ 新しい風が入って来たわけです。 飛鳥時代の...物部(もののべ)氏と、蘇我氏・聖徳太子(第33代/推古天皇の摂政)との争い は、地神と新しい仏教との争いでもあったようです。そして、蘇我氏・聖徳太子が勝ったわけ ですが、現在の日本の状況を見ても分かるように、地神/神社信仰が、消えたわけではあり ません。ともかく、古(いにしえ)の、戦に備えての、天皇の動座の時の歌だったようです...」
************************************************************
<・・・歌碑・・・>
「ええと...」マチコが言った。「この歌の...歌碑は... 奈良県/橿原市/白橿町/沼山古墳にあるそうです...沼山古墳は、益田岩船遺跡の 前の道を挟んで...斜め前にある、近隣公園内にある...ということです...行ったことが ないので分かりませんが...そんな様子だそうですよ...」
|
額田王(ぬかたのおおきみ)/ 冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし・・・ 長歌/(16) *************************************************************
【現代語訳/大意・・・巻1(16)】
でも春の山は茂っていて、中に入って花を手に取ることもできません... 草も深く 手(た)折って見ることも出来ません ... それに比べ秋の山は 木の葉を見るにつけ 黄葉(もみじ)を手に取りて賞賛し... 青いまま落ちてしまった葉を また地面に置いては、歎(なげ)いてしまいます...
そんな心ときめく秋山こそ 私は好きです... *************************************************************
「うーん...」響子が、キーボードをそっと前に押した。「そうですか... ええ、この歌は...“天智天皇”の、内大臣/藤原朝臣(/中臣鎌足/藤原鎌足)に、勅(みこと のり: 天皇のお言葉)して...春山の万花の艶(にほひ)と、秋山の千葉の彩(いろどり)とを、競(き そ)わしめたまひし時に...額田王の、歌を以ちて判(ことわ)れる歌...と言うことです。 つまり...天皇の勅にたいし...歌人/額田王は、この歌をもって、自分の意見としたと いうことです。もちろん、これは、壮大な美的探究の問題提起であり、明快な1つの解答を求 めるような問いかけではありません。 天皇は、このようなおおらかな勅令を発し...国中に、文化的な論議を醸し出しているわ けですね。当代一の女性歌人/“天智天皇”の妃/額田王としては...当然この呼びかけ に、率先して応(こた)えなければなりません。こうした、国の文化を取り仕切ることも、天皇の 雅な仕事だったわけです。 うーん...クーデターから始まった大化の改新を断行し...何かの行き違いで、皇位継 承では、身内に対して血の粛清を行い...また一方で、朝鮮/百済王国を助けるために、 大軍を海外派遣した印象の強い“天智天皇”ですが...『万葉集』の中では、別の側面も見 せていますね。
さて、本題の...“春の花/春の山”と、“秋の紅葉/秋の山”は、どちらが好きかを競わ せる話は...『源氏物語』にも出てきます。でも、『万葉集』の時代から、この話はあったわ けですね。さあ、私はどうなのでしょうか...? ホホ...それは後で述べることにして...額田王は、最初は春の山を賞賛しつつ、最後 に、秋の山を選ぶところが、見事に詠まれています。 この額田王の見解は、時を超え、時代を超えて、万葉の近江王朝(/天智天皇は、琵琶湖の畔 の近江に都を置いた)から、現代に響いて来ていますね。さあ...“あなたは・・・どう思うお思い になるでしょうか?”...と問いかけています。額田王の唇から洩れる、微笑と吐息が、聞こ えるようです。 前にもコメントしていますが...この額田王は...大海人皇子(おおあまのみこ/後の天武天 皇)の妃(きさき= 第1位の皇后/鸕野讚良/うののさらら/持統天皇に対して・・・第2位になります)で... 十市皇女(とおちのひめみこ)を生んでいます。そして、その後に...“天智天皇”の妃として、近 江朝廷の後宮に入っています。 額田王は、『万葉集』を代表する歌人の1人ですが、“天智天皇”は絶大な権威で弟/皇 太子から取り上げ、自分の妃にしたようですね。あ、もちろん、皇后は、別にいたわけです。 ホホ...でも、これは、どうなのでしょうか。あまり、行儀のよい行いとは思われませんね。そ れにしても、そんなことをさせるほど、額田王は魅力的だったのでしょうか...? うーん...ともかく、“天智天皇”は、そうしたカリスマ性をもっていたわけですが...最後 に大海人皇子が吉野へ脱出を敢行した後は...“虎に翼をつけて野に放てり”...という 状況に陥り...絶望の淵で...大海人皇子を恐れつつ...臨終を迎えたようです。
ええと...最後になりましたが...さあ私は...“春山の万花の艶(にほひ)”と、“秋山の 千葉の彩(いろどり)”では...どちらが好きかということですね。 うーん...その背景となる...“春の空”は若く華やいでいますが...“秋の空”には深い 落ち着きがあります...私もそういう年齢になったのでしょうか。そういう意味で、私も額田王 と同じように...紅葉の秋山が好きです...」
<・・・歌碑・・・>
「さあ...」支折が、両手をテーブルの上ですべらせた。「この歌の歌碑ですが...色々な 所にあると思うのですが、ここでは... 静岡県/三島市/市立公園/楽寿園・・・万葉の森・・・を紹介しましょう。JR東海道本線 /三島駅の南出口から、すぐだそうです。 入園料が300円ということですが...その分、よく整備され...広さも 約71.800uの
自然豊かな公園とのことです。
|
【巻1(13)】
額田王/ 味酒 三輪の山 あをによし *************************************************************
奈良の山の 山際(やまま)に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや
【反歌・・・巻1(18)】
三輪山(みわやま)を しかも隠すか 雲だにも 心あらなむ 隠さふべしや
***********************************************
【現代語訳/大意・・・巻1(17)】 味酒の三輪の山を... 青土(/顔料の青土)の産する美しい奈良の山々の間に 隠れてしまうまで... 何度でも 道の曲がり角ごとに しみじみと... 振り返って見てゆこうと思っているこの山を... 心なくも 雲よ どうか隠さないでいおくれ...
【大意・・・反歌・・・巻1(18)】 三輪山を どうしてこのように お隠しになるのですか... せめて雲だけでも 心があってほしいものです... どうぞ 隠さないでおいてください...
*************************************************************
近江国(おふみのくに)に下りし時に作れる歌...井戸王(ゐのへのわふきみ)のすなはち和(こ た)へたる歌...ということですが...井戸王とは、少し調べてみたのですが、よく分かりま せんでした。申し訳ございません。いずれにしても、額田王のことのようですね。 ともかく...この歌は、“天智天皇”が都を近江に移す時に...住み慣れた奈良の都/ 大和地方を離れ...いままで自分たちを護ってくれていた、三輪山のご加護からも離れてい
くという...その寂しさと不安を、額田王が詠んだものと言われています。
すでに何度も登場していますが...大和盆地の東に、ひっそりと鎮座する三輪山がありま す。その神秘的な風貌の三輪山は、大名主(おほなのぬし)と呼ばれる白蛇が棲む山として、
『古事記』にも記されています。ご神体はなく、山全体が神仏として崇(あが)められています。 代に遡ると、異国へ行くような感覚だったのでしょうか。地神のもとを離れ、他へ移り住む時 の人々の不安が、どれほどのものであったでしょうか。現在の私たちには、ちょっと想像がで きませんね。 額田王は...その全員の不安な気持ちを代表し...2首の歌(/長歌・反歌)を詠んでいる わけです。そして、三輪山に対して...土地を離れても、これからも見守っていて欲しい... との祈りの言葉を捧げたわけですね。
反歌 (長歌の後に読み添える短歌・・・長歌の意を反復、捕捉、要約するもの) の方は...意味につい ては、長歌をなぞったものです。説明の必要はありませんね...」
<・・・歌碑・・・>
「この長歌の歌碑はよう...」ポン助が、言った。「奈良県/桜井市/大神神社の北で... 狭井神社の脇を抜けて...山辺の道が通っているそうだぞ。その狭井神社から、少し北の 山辺の道沿いに、この歌碑があるそうだよな... それから、反歌の方はよう...大神神社の大鳥居の道を挟んで...西に、三輪山運動 公園があり...その駐車場脇に、この反歌の歌碑があるそうだぞ...オレは、行ったこと がないので、分からないけどよう、その辺りにあるようだよな...」
|
額田王/ *************************************************************
![]() ![]() ![]() ![]() あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
【現代語訳/大意・・・巻1(20)】 美しい茜色に染まる 紫草(むらさきぐさ)の野を行き その御料地の野を歩いてるとき... 野守(/野の番人)は 見ていないでしょうか... あなたが そんなに袖を振るのを...
*************************************************************
天皇の、蒲生野(かまふの/かもふの/・・・がもうの)に遊猟したまひし時に...額田王(ぬかだ のおおきみ)の作れる歌...ということです。 非常に有名な歌ですね...学校で、国語の授業などでも習う1首です。でも、この歌に詠 まれた、本当の意味というのは、かなり複雑です。まず、難しい言葉から説明しましょう...
鮮やかに照り映えることの意から...“日”、“昼”、“紫”、“君”などに、かかります。ここでは “紫”にかかるとすれば、美しい茜色の空と、限定することもないのでしょうか。それとも、やは り、茜色の空にもかかっているのでしょうか... “紫野(むらさきの)”というのは...紫草(むらさきぐさ)の野ということですね。紫草は、草丈が 60センチほどの、可憐な白い花をつける多年草です。赤紫色の根が、往古(おうこ: 大昔)よ り、布を紫色に染めるのに用いられています。古代においては、紫というのは高貴な色です。 したがって、この、紫草の野ということでしょうか... 次に、“標野(しめの)”ですが...これは、皇室や貴人が占有していた禁野(きんや)です。昔 は禁野というのは、特殊な御料地だったのかも知れません。現在では、誰かの私有地という のは、珍しいことではありませんね。その“標野”には、野守もいて、一定の管理もしていたの でしょうか。それとも野守というのは、御料地の管理というよりは、警護の要員だったのでしょ うか。 皆でこうした...“御料地の野へ出かけて遊ぶ”...ということは、古代においても、よほ ど楽しい行事だったのでしょう。現代にはない、荒々しい野趣もあり、男性は狩りをし、女性は 木の実や薬草を摘んだのでしょうか。宮廷の人々もまた、このように大自然を愛で、自然とと もに暮らしていたわけですね。 そして、そうした折にも...野守が配置されていて...危険には、それなりに目を配ってい た様子です。ホホ...危機管理の担当ですので...つい、こんな方面に、気をまわしてしま います。でも、野趣があると同時に...野は狩りの場でもあり...非常に危険な場所...で もあったわけですね。
さあ、そこで...歌の中で、額田王は...君/大海人皇子が“袖を振る”のを...嬉しさ とともに...“野守”が見ているのをはばかり...軽く咎(とが)めているのでしょうか...? 2人の関係は、何度もコメントしていますが...額田王は、皇太子/大海人皇子の元・妃 であり...すでに十市皇女(とおちのひめみこ)という子もなした関係です。この皇女は、後に“天 智天皇”が譲位す、“第39代/弘文天皇(こうぶんてんのう)”/大友皇子の后(きさき)/妃(きさき) になるわけです。 こうした関係でありながら...額田王は“天智天皇”の、近江朝の後宮(こうきゅう: 王や皇帝 などの后・妃が住まう場所)に入るわけです。そして後宮では妃として、歌人として、後には十市皇 女の後見として、相応の地位にあったものと思われます。でも歌の様子からも、額田王は進 んで後宮に入ったわけではなく、絶対権力者の強い意向で入ったようですね。 前にも言いましたが...額田王は、よほどの貴婦人であり、才女だったのでしょう...天 皇の権威で横車を押してでも...自らの後宮に入れたかったのでしょう。そこで、東宮/皇 太子/大海人皇子も、未練たっぷりで、こんな風に...“袖を振っている”...わけですね。 実は、この...“袖を振る”...という行為は、古代の呪式(じゅしき: のろい、呪詛)の意味も あったようです。つまり、言霊と同じように恋しい人の魂を、自分のほうへ引き寄せるように、 “袖を振る”...というわけです。これは現代のような、軽く手を振るという意味ではなく、もう 少し深い、呪的(じゅてき)な意味、があるようだということです。
この後の、【巻1(21)】で...大海人皇子の相聞歌の返しの歌があります。こうした“壮 大な背景をもつ・・・相聞歌”は...万葉ロマンの愛好者を広める、“1つの・・・きっかけとな った歌”と言われています...」
|
大海人皇子/ 紫草の にほへる妹を・・・ *************************************************************
憎(にく)くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
【現代語訳/大意・・・巻1(21)】 紫草(むらさきぐさ)のように香れる君が もし憎いなら... いまは兄の妻となってしまった君を... どうして恋い慕うことがあろうか...
*************************************************************
「この歌は...」響子が言った。「前の【巻1(20)】に対する、相聞歌の返答です... 相聞歌というのは、前にも紹介していますが...“相聞”は、“消息を通じて・・・問い交わす こと”で...主として、“男女の恋を詠みあう歌”といわれています。 額田王の...“あかねさす・・・”...の歌に答えて、大海人皇子が詠んだ歌です。これら の2首はセットになっているので、一緒に紹介されています。うーん...そうですか...相聞 歌というのは、このような形で、まとめられているわけですね...
ところで...歌の意味をそのままに解するなら...いまはもう、兄の妻になってしまった、 “かつての妻/妃”(/額田王は、大海人皇子の最初の妃だったと思われます・・・?・・・)に、“君をいまで も慕っているのです”、と求愛する...“非常に・・・危険な恋歌”...です。でも、どうも、この 2首というのは、宴席での...“戯れの応答歌”...のようでも、あるようです。 うーん...大海人皇子は、確かに妃を取り上げられて...非常に面白くない気持ちもあ ると思います。しかし、そこは宮廷でのことです。また、東宮にも女官は大勢いますし、皇太子 としての正妻/鸕野讚良(うののさらら・・・天智天皇の皇女/後の持統天皇)も居るわけですね。 一方...額田王も才女であり...歌人として...十市皇女の後見として...キリリと振 る舞っていたはずです。宴席で、戯れ歌ぐらいは読んだのかも知れません。それに、その時 は、3人ともかなり高齢になっていたようです。したがって、昔のことを戯(ざ)れて、それぐらい は、平気だったのかも知れません。
でも、やがて...“壬申の乱”...へ発展していくわけです。そうした笑いの陰で、恨みは 深く残って行ったのかも知れませんね。近江朝の後宮には...その濃い血脈からいっても、 “乱に左右されない・・・独立した勢力”が存在したようです。少なくとも、血を分けた女たちは、 皆そうだったわけですね。 でも、所詮...女中心の勢力であり、乱を封印するほどの力はなかったわけです。男たち は、一体、何をやっているのか、と憂えていたのでしょうか。そして、民/下々の民衆もまた、 身内の争い事である...“壬申の乱”...には、ほとほと倦(う)んでいた(/嫌になっていた)の かも知れませんね...
“原・万葉集”の編纂は...“持統天皇”と柿本人麻呂あたりが、力を尽くしたと思われる わけですが...その“持統天皇/鸕野讚良”も...さすがに父とは言え、“天智天皇”の身 内に対する粛清(しゅくせい)や...東宮/皇太子の妃/額田王を取り上げる暴挙に対して は、大きな反発をもっていたのでしょうか... それは、“天武天皇/大海人皇子”と、共通の認識だったと思われます...この辺りのこ とは...吉野への脱出の風景や...その後の“大津皇子の変”など...これから少しづつ 触れていき...古代への考察を深めて行きたいと思います...」 「そうですね...」支折が、うなづいた。「ええと、くり返しますが... “壬申の乱”...では、敵の総大将である大友皇子/太政大臣は24歳であり...鸕野讚 良/“持統天皇”...の、まさに弟になるわけです。そして、大友皇子の妃は、“天武天皇”の 娘というわけですね。近江朝の後宮に...どちらにも寄らない勢力があったというのは、よく 分かりますわ、」 「“天智天皇”の御代では...」響子が言った。「この相聞歌は...編纂されなかったかも知 れませんね?」 「うーん...」支折が、頭をかしげた。「どうでしょうか... “天智天皇”も...“天武天皇”も...そして、“持統天皇”も...もう少し考察を深めなけ れば、何とも言えませんね...」 「そうですね...」響子が、コクリとうなづいた。
<・・・歌碑・・・>
「ええと...」マチコが、モニターをのぞいた。「この相聞歌の...歌碑は... 奈良県/香芝市/総合体育館/駐車場前にあるそうですよ...船岡山のふもとには、 約100種類の万葉植物を植えた・・・万葉植物園・・・や...当時の遊猟を偲ばせる・・・巨 大な万葉レリーフ・・・などを整備した...“万葉の森/船岡山”...があるそうです...」
|