Menu文芸俳句(松尾芭蕉・選集)古池や蛙飛びこむ水の音
  
 
 古池や蛙飛びこむ水の音 house5.114.2.jpg (1340 バイト)
   

            
    
        
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No.1  考察/古池や蛙飛びこむ水の音 1997. 7.27
     

 

 

   古池や蛙飛びこむ水の音

 

 これは、よく知られている松尾芭蕉の名句です。さて、この“水の音”とは、どのよう

な音だったのでしょうか。画像、動画、サウンド等を駆使し、この芭蕉の聞いた水の

音を表現できないでしょうか。

 

<名作を募集します。ただし、私自身が未熟なもので、受入態勢ができていません。

そのうちに準備します。どうも、こうした環境整備は苦手です。>

 

 この句ができた前後の風景を少し描写しておきます。この頃、芭蕉は江戸深川の

芭蕉庵に住んでいました。この芭蕉庵からは、上野の寛永寺や浅草が見えたと言わ

れます。いずれにしろ、草深い閑静な所だったようです。いかにも、芭蕉らしいといえ

ば、まさにそのとおりであったでしょう。

 さて、ここにある日、芭蕉の禅の師匠である仏頂和尚が訪ねました。その時、和尚

の供の者(六祖五平)が、こう言ったと言われます。

 

    「 如何なるか是れ閑庭草木中の仏法 」

 (この閑静な中での仏法は、如何なるものか)と尋ねました。禅問答であり、また挨

拶のようなものでもあります。

 

「 葉葉大底は大、小底は小 」

(大きい葉をもっているものは大きいし、小さいものは小さい。)と、芭蕉は答えまし

    

    「 近日何の所にか有る 」

仏頂和尚が、今度は直々に芭蕉に心境を尋ねました。むろん、これも禅的な心境の

ことです。

 

     「 雨過ぎて青苔を洗う 」

(雨がさっと降って、青い苔が鮮やかである)と、芭蕉は答えました。

      

    (ここからが大事な所です)

 

     「 如何なるか青苔未生前(みしょうぜん)春雨未来前の仏法 」

間髪を入れず、仏頂和尚が鋭く切り返しました。この問いかけは、禅的には極めて重

要です。

(では、その青い苔がまだ生じない以前、春雨がまだ降っていない前の仏法とは、ど

のようなものであるか。)

 

「 蛙飛び込む水の音 」

 芭蕉は、ふと蛙が水に入るのを見て、こう答えました。これはもう、ごちゃごちゃと説

明を加えるよりも、芭蕉の言ったこの言葉の方がすっきりとしています。“如何なる

か、これ仏法”と問われ、手元にあった麻(あさ)三斤ほどをつかみ、“麻三斤”と答えた

のと同じです。“水の音”も“麻三斤”も、それは部分ではなく、絶対主体性の中での

全体なのです。このあたりは、禅的な“悟り”の中の風景です。

 

「 珍重珍重 」

仏頂和尚は芭蕉の答えに満足し、こう言って芭蕉を許しました。“古池や”の前句

は、この後で付けたと言われます。

    

 いずれにしても、ここで芭蕉の俳句を研究しようと言うのではありません。それは専

門家にお任せします。私がここで述べているのは、“水の音”を創作するための資料

です。その、“永遠の水の音”とは、どの様な音だったのでしょうか。また、絶対主体

性の中で聞いた、この伝説的な“水の音”を、どのように表現したら良いのでしょう

か。

 

<少し、アホらしくなってきました。が、がんばって先に進みます>

 

池あらば飛んで芭蕉にきかせたい

 

古池や芭蕉飛びこむ水の音

    

      (上記の二句は、仙崖和尚の句です。仙崖の崖の字が、間違

     っているかもしれません。芭蕉よりも、だいぶ後の人です。)

 

新池や蛙飛び込む音もなし

    (良寛さんの句です。良寛さんは、芭蕉のこの句を評し、“古池”

     が良いのであって、“新池”ではまずいと言っておられます。)

 

                                     (1997年7月29日・追加)

 

    (この“古池”という前句ですが、そこに居合わせた芭蕉の弟子の

    其角が、“山吹や”と付けたといわれます。しかし、芭蕉はそれを

    許さず、“古池や”と決めたといわれます。)

 

 では、なぜ、“新池”や“山吹”ではまずいのでしょうか。むろん、俳句とし

ては、まずくはないと思います。しかし、ここに芭蕉の時間概念が表現さ

れます。また、仏頂和尚を前にしてのことであり、禅的な時間概念です。

つまり、“絶対現在”であり、“永遠の今”であり、その“水の音”に、“古い”

という時間の流れをかけたのです。

 これが、“山吹や”では、単なる写生になってしまい、伝説的な“永遠の

音”は生まれてこないのです。まさに、芭蕉が芭蕉であるためには、ここは

絶対に“古池”でなくてはならなかったのです。そうでなければ、芭蕉が仏

頂和尚に答えた“蛙飛び込む水の音”が、本来の意味を失ってしまうので

す。芭蕉は、“青苔未生前春雨未来前の仏法”に答えたのであって、水の

周りをスケッチしたのではないのです。

 

 この時、蛙は一匹か二匹かと言うのは、無意味だと思います。何故な

ら、芭蕉はそんな事は何も言っていないからです。しかし、これが禅問答

であり、禅的な意味から言えば、一という概念は重要です。唯心とは、唯

一絶対の主体性です。しかもこれは、自我の無限の拡大ではなく、無我と

なり、自分を無にすることによって全宇宙と同一化します。こうした意味か

ら、芭蕉の聞いた音は、三でも二でもなく、絶対的な唯一の音だったと解

釈したいと思います。

 また、芭蕉の文学全体の流れから、この“水の音”に、芭蕉の匂いを感

じ取ることは必要です。単なる禅的な悟りの風景だけでは、どうも私には

満足できないものが残ります。それなら、何も芭蕉でなくても良いのです。

マルチメディアでこの音を創作するには、単なる永遠の音ではなく、風雅

の達人である芭蕉の心が、ぜひとも必要ではないでしょうか。

 

                                       (1997年8月1日・追加)

 

 ところで、前の朱文字で、“少し、アホらしくなってきました”と書きました。

ここで、その意味を説明します。私は何も、不謹慎でそのようなことを言っ

たのではないのです。

 そもそも、芭蕉の聞いた“永遠の音”は、芭蕉以外には聞くことが不可

能な音なのです。したがって、それを再現するなどは、無意味なことです。

そこは芭蕉の世界であり、第三者に想像はできても、そこに入ることはで

きません。もっとも、私の提案も、その芭蕉の世界に侵入しようなどと言っ

ているのではありません。芭蕉の聞いたその音を、より芭蕉に接近し、再

現してみようと言っているのです。むろん、芭蕉の境涯に迫るのは、容易

なことではありません。

 もう少し、分析を続けます。そもそも、“永遠の水音”は、“悟り”の中の

音なのです。唯心、つまり絶対主体性の中での、唯一無二の波動音なの

です。唯一全体の波動音なのです。このような音を聞けるのは、“悟った”

人です。

 “水の音”は、芭蕉の禅的境涯の証です。それを、聞け、作れ、という方

が無理な話です。マルチメディアで創作してみようなどといって、ハイそう

ですかと作れる道理が無いのです。いや、何よりもこれは、作るものでは

なく、修行して悟るものなのです。これが、つまり、常識的な立場です。

 

 しかし、では、本当にこの“水の音”は、作れないのでしょうか?

 この“水の音”を作るという行為は、全く無意味なのでしょうか?

 可能性は、皆無なのでしょうか?

 実は、私はそうは思っていません。

 また、だからこそ、この芭蕉の聞いた“水の音”を、

 創作する提案をしているのです。

 

 これはちょうど、仏像を彫るのに似ているかもしれません。仏像は木で

あり、それが仏になるはずがありません。そんなことは、誰もが知ってい

ます。しかし、魂を入れ、修行を重ね、一生懸命に彫ります。そして、ふと

ある時、一心不乱のその行為が、仏になることがあります。“如何なるか、

是仏法”と問われれば、まさにその無心の創作の境地でしょう。

 

 過不足なく完璧なリアリティーの中では、無駄なことは一切無いのです。

ましてや、私たちの行為に、一片の無駄も、あろうはずが無いのです。

 

                                                         house5.114.2.jpg (1340 バイト)