<1> 公案
瑞巌師彦(ずいがんしげん)和尚は、毎日自ら「主人公」と呼びかけ、また自ら「はい」と答
えていた。そして「はっきり覚めているか」と問い、「はい、覚めていますよ」と答える
のであった。「いつ、どんな時でも、他人に瞞(だま)されるな」と言い、「はい大丈夫」と
答えた。
瑞巌禅師は、巌頭(がんとう)禅師の法嗣(ほっす/法を継ぐ者)です。時代としては唐の時代で
あり、晩年の趙州禅師と同じ時代に活躍しています。この“巌喚主人”の公案は、
“趙州無字”や“倶胝竪指”のように、非常に有名なもののひとつと言われます。しか
し、この表面的に分かりやすい自問自答とは裏腹に、その真意は透徹した揺るぎな
い禅的境涯を示したものと言われます。
(
この公案を“内観的自己反省の生活”というように、単純に倫理的教訓と受け止
めている解釈もあるといいます。しかし、これはあくまでも“無門関”にある禅の公案
であり、深い禅体験から出ている珠玉の言葉です。)
さあ...瑞巌禅師は、毎日自ら「主人公」と呼びかけ、また自ら「はい」と答えて
いたといいます。これは一体何のことなのでしょうか。さらに、「はっきりと覚めている
か」とは、何を指しているのでしょうか。
これは多少とも禅体験を積んだことのある者なら、その深浅は別にしても、瑞巌禅
師が指し示しているリアリティーは理解できると思います。つまり、その「主人公」と
は、趙州禅師の言う「無」のことであり、無門禅師の言う「内外打成の一片」のことで
あり、倶胝禅師の示した「一指」のことなのです。
これは、別な言い方をすれば、絶対主体のことです。また、唯心とか根本主体とい
うような言い方もあります。あるいは、まだこの“無門関・草枕”には登場してきていな
い人物ですが、六祖・慧能はこれを「本来の面目」と言っています。さらに、臨済宗の
開祖/臨済義玄は、これを「無位の真人」と呼んでいます。これらは、ニュアンスの違
いはありますが、全て同じ一つのものを指しているのです。
<これらの体験的修行については、“特別道場・草枕”の方でどうぞ>
さて...「主人公」と呼びかけていて、次に「はい」と自分で答えているわけです。
むろん、「無」の中では、主体と客体の区別などはありません。したがって、相手を特
定して強く呼びかけ、またそれに対して答えているというのではありません。
さらに、「はっきり覚めているか」という問い返しも、同じ“唯一不可分の全体”の中
で言っているのです。私はしばしば、“リアリティーには切れ目がありません”といって
きました。この意味も、“唯一不可分の全体”だから、切り裂くことも、分割すること
も、部分を作ることも不可能だということです。つまり、不可分ならば、主体もなく客体
もなく、リアリティーとは「無」であり、「一指」であるということです。そして、リアリティ
ーとはこのようなものだと知り、それを実践して行くのが禅の道です。
すでに何度も検証していますが、“リアリティーには切れ目がありません”という、こ
の真意を再度検証するために、庭の方を見てください。さらに、庭から外の道路へ出
て、何処までも歩いて行ってみてください。私たちはそのまま一生歩きつづけても、こ
の世界の切れ目などにぶつかることは絶対にないのです。仮に、越えられない大き
な谷間や宇宙空間があったとしても、それはテレビの画面のように前後左右でチョン
切れてしまっているわけではないのです。
また、ここにオレンジを積み上げた山があったとします。さあ、これらのオレンジ
は、1個1個が独立した部分なのでしょうか。むろん私たちは、言葉の世界の中にお
いては、これらを部分の集合体のように扱います。しかし、リアリティーとしてはどうで
しょうか。実は、いかに顕微鏡で覗いて見ても、オレンジと空間の境界線などは見え
ては来ないのです。それは倍率を上げて見れば見るほど、オレンジの表面と空間と
は入り混じっているのです。つまり、これは不可分だということなのです。したがっ
て、私たちの目撃しているリアリティーの世界は、このようにあらゆる意味で不可分な
のです。例えば、空と海は別々のように見えても、空と海はつながっているのです。
また、私とあなたは別々のように見えても、大きな不可分の全体の中で溶け込んで
いるのです。そこにあるのは、“唯一不可分の全体”だけです...
さあ、こう見てくると、この瑞巌禅師の奇抜な公案の姿も、少しづつ見えてくるので
はないでしょうか。つまり、「無」に成りきっているか、「内外打成一片」と成りきってい
るか、とその覚醒を確かめているわけです。
<天然の美少年>
“無門関講話/参考文献”に、次の詩があります。“悟り”の風景が描かれ
ていますので、抜粋しておきます。
<「本来の面目」/日本の京都/妙心寺の愚堂国師の詩 >
これこそ天然の美少年、
いまだ心通う笑みを交わさぬうちは断腸の想い、
西施の紅顔も色を失し、
楊貴妃の優美も光を失う。
無門禅師の言う“無門の関”を越えた時、そこに悟りの世界が広がって
きます。それをたたえて愚堂国師は天然の美少年と表現しています。それ
は中国史上で絶世の美女とうたわれている西施や楊貴妃さえも、色を失
し、光を失ってしまうと言っています。むろんこれは、知的解釈のみでは到
達できない世界であり、体験しなければ分からないことです。それを愚堂
国師は、いまだ心通う笑みを交わさぬうちは断腸の想いとうたっているわ
けです。さあ、この“無門の関”を越え、西施や楊貴妃さえも色あせてしまう
ような、“悟り”の世界へ入って行きたいものです。
(1999.12.14)
<2> 無門の評語/...口語訳
老瑞巌は自ら売り、自ら買う。たくさんの鬼、化物の面をもてあそんでいるが、いっ
たいこれは何故か。ニイ(当用漢字に無し/意味を強める感投詞)!呼ぶもの、答えるもの、はっきりと
覚めているもの、他人にだまされないもの。これらさまざまな相をほんとうに存在する
ものと思い込むならば、それはとんでもない誤りだ。だがもしまた、瑞巌をまねるなら
ば、それは野狐の見解である。
この評語で、無門禅師は瑞巌の言っていることを“鬼”とか“化物”とか、こっぴどく
こき下ろしています。しかし、その真意はまさに絶賛しているのであり、禅者の常套
手段とも言える表現形式です。さらに無門禅師はこう言っています。
これらさまざまな相をほんとうに存在するものと思
い込むならば、それはとんでもない誤りだ。
と言っています。結局、これらすべての鬼は、“内外打成一片”の内にあり、まさに一
つのものだということです。そして無門禅師は最後に、ただむやみに瑞巌和尚のも
のまねをするのもよくないと戒めています。結局、真似るのではなく、自ら学ばなけれ
ば、それは野狐の禅になってしまうということです。野狐禅とは、とんでもない間違っ
た方向へ歩き出してしまっている禅修業という意味です。
<3>
無門の頌 (じゅ)/...口語訳
求道の人が真に目覚めぬのは、
旧来の分別意識にとらわれるためである。
これは果てしない生死輪廻(りんね)のもとである。
だが愚かな人々はこれを本来の人と思い込む。
(
この詩はもともと、長沙禅師の作ったものです。無門禅師はこれを公案を評する“頌”として使っています。)
この詩の表面的な意味は、きわめて分かりやすいと思います...私たちはなか
なか、旧来の分別意識を捨てきれません。そして、それゆえに、“真”に目覚めること
が出来ずにいるということです。さあ、内容をもう少し掘り下げてみましょう...
愚かな人々は、旧来の分別意識に座標軸を置き、そこから“真”を求めています。
そして、それゆえに、“真”に目覚めることが出来ないのです。禅で繰り返し示してい
るのは、そうではなく、旧来の分別意識の“座標軸”そのものを捨てよと言っているの
です。つまり、私たちは、知らず知らずのうちに、“識神” (
阿頼耶識/あらやしき/人間の分別意
識の源 )
こそが自己の根源だと思い、それが捨てきれないのです。しかし、言い換え
れば、その“自己”こそが、まさに邪魔物なのです。その“自己を捨てた時”、悟りは
おのずとそこに輝いています。したがって、“悟り”とは、理解するのもではなく、“真”
に目覚めるという、意識におけるパラダイムシフトなのです。“識神”(阿頼耶識 )にある
意識の土台そのものを、“無我”という別のものと入れ替えることなのです。
道元禅師も、こう言っておられます...
仏道を学ぶということは、自己を学ぶことである。自己を学ぶということ
は、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、総てのものごと
が、自然に明らかになることである。
( “正法眼蔵”/現成公案より )
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