仏道特別道場・草枕無門関峠の道場無門関峠の永遠

     無 門 関 峠 の 永 遠    <第二部>

 

  wpe72.jpg (33323 バイト)                 wpe54.jpg (8411 バイト)             

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード         執筆: 高杉 光一 <1999.10. 6 /開始>

  wpe89.jpg (15483 バイト)INDEX                                             wpe18.jpg (12931 バイト)             

第1章  永遠の考察 1999.10. 6
第2章  二元的時間の超越 1999.11. 5

 

  第 二 部 ...時間的超越/無境界       < 永遠には・・・“時”・・・がありません >  
                                                                  <1999.10. 6  >

    第1章/永遠の考察・・・

                           

 

  第一部 “無門関峠への道程” で、眼前の風景の中に “永遠の相” を見て行くよ

うにと言いました。ここでは、この “永遠の相” とはどのようなものかを考察して行

きます。

              

時間とは何か.....

永遠とは、どのようなものでしょうか.....

 

  このホームページにはすでに

  My Work Station /group E / 唯心・“我”のスペクトル / 永 遠 の 考 察 において、

“永遠”についての考察を行っています。あまり長い文章ではないので、ここにその全文

を再度示しておきます.....

 

<以下...>

 

 

   永遠の考察/・・・時のない瞬間を生きる!   (1998.3.16)

 

“永遠...”とは何でしょうか?

この言葉を広辞苑でひいてみました。すると、次のように載っていました。

 

       (1) 果てしなく長い間。

     (2)  a. 時間の中に限りなく続き、終わりが無いこと。

           b. 数学の命題のように無時間的に妥当する真理の性格。

      (3) 高次な実在のもつ不生不滅で超時間的な性格。

 

    この説明では、何の事か良く分かりません。また、果てしなく長い間と、無時間

性、超時間性の説明は矛盾しています。むろん、そうした幾つもの意味に使われて

いるということで、辞書としてはいいのだと思います。しかし、では、私たちは実際に

どう捉えたら良いのでしょうか。

 

 <1> 無時間性        

 

  とりあえず、適当な所から首を突っ込んでみます。まず、以下に、ケン・ウィルバ

ー著 “無境界” の一節を抜粋してみます。  

 

  「永遠にふれること」 が、非常に大変なことに思える理由の一部は、我々が一般

に 「永遠」 ということば自体の真の意味を誤解していることにある。我々はふつう、

永遠とは非常に長い時間で、何億、何百億年と果てしなく続いていくものだと想像し

てしまう。だが神秘主義者は、永遠をそういう形では理解していない。

  永遠とは、果てることのない時間の自覚ではなく、それ自体まったく時間を持たな

い自覚だからである。永遠の瞬間とは、過去も未来も以前も以後も、昨日も明日も

誕生も死も知らない、時の無い瞬間である。統一意識の中で生きるとは、時のない

瞬間の中で、また時のない瞬間として生きることである。時という汚れほど聖なる

光をかげらせるものはないからである。      

                                                     <下線は、私が引きました。>

 

  色々と言っていますが、ここではとりあえず、“永遠”というものを、“無時間性”と

捉えておくことにしましょう。つまり、“永遠”とは、無限に続く遠い未来のことではな

く、“無時間”だということです。さて、無時間とは一体どういうことなのでしょうか。と

りあえず、広辞苑にあった(2) b.(3)の説明が該当しています。

 

(2) b. 数学の命題のように無時間的に妥当する真理の性格。

(3) 高次な実在のもつ不生不滅で超時間的な性格。

 

 さて、物理学が好きな人なら、例えばこう考えたらどうでしょうか。時間と空間とい

う物理学の最も基本的な2つの概念において、時間を無時間と置き換えたら...

  あるいは、相対性理論の時間と空間の関係式に、同じように無時間を代入した

ら...

                                  (どうなるかは知りません。御自由にお考えください.....)

 

  一方、物理学ではなく、禅的な趣味のおありの方は、“無門関”48則中の第1則

にある、「無」の概念が面白いと思います。また、無時間性という概念においても、

正鵠を射たものと考えられます。この“無”という概念は、まさに禅の公案にあるごと

く、禅的な悟りの境涯とも重なるものだからです。

 

 

  <2> 永遠の現在         

 

  さて、“永遠の瞬間”、“永遠の現在”というものを、もう少し詳しく調べてみましょ

う。そこで、再び“無境界”より、ケン・ウィルバーの文節を引用します。

 

  この現在の瞬間にはじまりはなく、はじまりのないものは不生である。いくら探し

ても、この現在の瞬間の体験のはじまりを、見出すことも知ることも感じることもでき

ないのだ。この現在は、いつはじまったのだろうか。いったい、はじまったことはある

のだろうか。あるいは、この現在は時間をはるかに超えて漂っているために、時間

の流れに入るべき、いかなるはじまりももたなかったのであろうか。

  同じ理由で、この現在の瞬間に終わりはなく、終わりの無いものは不死である。

いくら探しても、この現在の瞬間の体験の終わりを、見出すことも知ることも感じるこ

ともできないであろう。現在の終わりを体験することは、絶対にできないのだ(死の

時にさえ、終わりを感じるあなたはいない) 。

 シュレーディンガー(波動関数の創始者。ノーベル物理学賞受賞。)が、「現在こそが、終わりの

ない唯一のものである」 と言うのは、そのためである。現在の瞬間が外形的には途

方もない連続のうちに行進していくとしても、現在そのものは我々が 「時間」 と解釈

すべく教えられてきたものによって破壊されることも汚されることもない。この現在の

瞬間には、過去もなければ未来もない。時がないのだ。そして時のないものは永遠

である。

  禅師雪峰は、つぎのように語っている。

「もし、永遠が何を意味するかを知りたければ、それはこの今の瞬間をおいてほか

にない。この現在の瞬間にそれをつかまえられないとすれば、何百年にわたって何

度生まれ変わろうとも、それをつかまえることはできないであろう」

 

  さらに、ケン・ウィルバーは、“果てしなく続く時間”という永遠の解釈について、次

のように述べています。

 

 果てしなくつづく時間という概念は、一つの奇形なのだ。どんなことをしてもそれを

実際に理解し、把握し、体験することは不可能である。だが、永遠の今、この時の

ない瞬間は、あなた自身の現在の体験同様、単純かつ身近なものだ。その二つは

同じ一つのものだからである。

 

  ここで雪峰禅師は、無時間性を説いています。しかし、道元禅師は、“正法眼蔵”

有時の項で、全ては“時”であると主張しています。また、同じ“正法眼蔵”画餅の項

では、一動一静として、“画”でないものはないと言い切っています。画とはすなわ

ち、空間の優位性であり、その結晶化です。

 それでは、いったいどっちなのだ、ということになります。が、しかし、実際に間違

っているのは、この“どっちなのだ”と決めてかかろうとするところにあります。ここで

言う、“無”も“有”も“画”も、いわゆる一般的な意味をはるかに超越したステージで

展開しているのです。こうした理性を超えた分別、思慮を超えた統一性が、より深

い本質を映し出しているのです。

  

 

 <3> “悟り”の風           

 

 さて、“無時間”とは、具体的にどのようなものでしょうか。もう少し考察してみま

す...

  私たちは、海に沈む夕日の美しさに心を奪われ、時のたつのも忘れて見入ってい

たことはないでしょうか。あるいは、山にかかる夕焼け曇の魔法に心を魅了され、暗

くなるまで西の空を見てたたずんでいた経験はないでしょうか。こうした時、私たち

は、はからずも時を忘れ、“永遠の現在”に足を踏み入れているのです。

  さらにまた、何かに夢中になって没頭している時、私たちはしばしば時を忘れて

いることがあります。これも、文字どおり時のない瞬間です。こうした時のない瞬

間...時を忘れている瞬間...“永遠の現在”に浸っている瞬間...こうした時、

たいがい私たちは幸福です。いや、それすらも意識せず、私たちはそれそのもの

に没頭し、真我の中に自らを解放しています。

  では、こうした“時のない瞬間”、“永遠の現在”を、もっと確実に獲得することはで

きないのでしょうか。方法はあります。それは、宗教的な“悟り”を得る修行の道で

す。

 

  仏教、キリスト教、イスラム教など、いずれにも、こうした真理に到達する道標が

示されています。また、先覚者たちによって、多くの言葉も残されています。

 

  “無時間”、“時のない瞬間”、“永遠の現在”等は、いずれも同じ一つの真理を指

しています。

 

 さて、自分で、よく考えてみて下さい...純粋な“時間”などというものが、実際に

自覚できるでしょうか。自覚できるのは、運動や変化等、質量を介して確認できるも

のだけです。このことの意味を、自分なりに追及してみて下さい。時間は相対的な

のか、絶対的なのか、主観的なのか、あるいは均質なのか、凸凹なのか...

 

  “時のない瞬間”、“永遠の現在”に足を踏み入れている瞬間.....

  ここから、“悟り”という高次の意識風景の一端を覗き見ることが出来ます。その、

“思慮を超えた無時間的な透明感”に、その片りんの風が吹き寄せて来ています。

 

 

 4> 永遠に響く “水の音”        

                              

  私は当ホームページの俳句コーナーで、松尾芭蕉の俳句をひとつ解説してい

ます。それも、この“永遠の現在”の概念に当てはまるものと思われます。

 

      古池や、蛙とびこむ、水の音...

 

 この水の音が、まさに“永遠の現在”に響く水音と言われます。

                           <俳句コーナーへジャンプ>

 

 

                                                    <1999.11. 5  >

      第2章/二元的時間の超越・・・

           “時間”も・・・二元論が生み出した幻想です

 

  二元論については、これまで何度も説明してきました。幸と不幸、愛と憎、黒と

白、高低前後、上下左右、東西南北...およそ私達の言語的意味の世界は、こうし

た相対立する二元的な意味や概念によって構成されています。そしてこれらは、リア

リティーを分断することによって発現した両極端であり、幻想だと言いました。しか

し、実はここにおける課題、つまり“時間”についても同じことが言えるのです。では

時間と対立する概念は何かといえば、空間ということになるでしょうか。

 

  いずれにしても、悟りに至るには、私達はこの二元論の産物である“時間”をも超

えていかなければなりません。さて...

 

“眼前する風景の中に、永遠の相を見て行く...”

 

と、前章で書きました。この意味する所は、まさにこの時間をも超越していくということ

なのです。そして、この時間とは、“リアリティー”を“時間”と“空間”に分断した最初

の産物の一片だということです。物理学において、時間と空間が最も基本的概念と

されるのは、まさにこの最初の分断によって形成された二つの概念だからです。

 

 

 <1> 時間とはなにか.....            

 

  現代文明は、“時間”という概念抜きには生活できないところまで来ています。そ

れほど私たちにとって、時間は密接なものとなっています。無数に氾濫している時

計、時刻表、多種多様な時間案内、その他あらゆる意味でのスケジュール...

 

  しかし私たちは、“時”あるいは“時間”というものを、実際に見たことがあるので

しょうか。いつも目にするもの...はっきりと目撃できるものは、“物質”を介しての時

間の風景です。つまりそれは、物質の“運動”であり、物質や質量の“変化”としての

間接的な時間の風景です。そして結局、その物質の運動や変化から、純粋な時間を

分離することは不可能だったのです。この空間における物質と、時間の関係は、どう

解釈したらいいのか...

  20世紀初頭...この時間と空間の関係に新たな展開が出てきました。ニュートン

力学における絶対的な時空間に対し、アインシュタインは相対的な時空間を提唱し

たのです。そして相対性理論によって、時間と空間の関係が数学的に表現されるよ

うになりました。これは言いかえれば、時間と空間の数学的統合とも言えるわけであ

り、1歩も2歩もリアリティーに近づいたと言えます。そして、もう1つここで言えること

は、純粋な分離された時の流れというものは、成立しないということです。

 

  繰り返しますが、純粋な独立した“時間”というものは論理的にも存在せず、ある

のは時間と空間の関係式だということです。さらに別な言い方をすれば、私たちが常

に眼前に目撃している風景は、時間と空間がまだ未分化の“リアリティー”だというこ

とです。そして、物理空間や数学空間においてのみ、このリアリティーは二元論的に

時間と空間に分断され、便宜的に解釈がなされているというわけです。私達はこの

便宜的な解釈に翻弄され、膨大な時間の流れという“恐怖”を作り出してしまってい

るのです。

 

  うーむ...ここは肝腎なところなので、もう少し詳しく考察してみます...

  なぜ、人間はリアリティーの中にありながら、二元論的な幻想の迷路で煩悩を膨ら

ませて行くのでしょうか。これは発達心理学において、“自我”が形成されることに起

因するものと解釈します...自我が形成されるということは、つまり食物を“外部”か

ら“内部”に取り入れる過程で、必然的に発現してきます。

 

( 生命体とは、エネルギーや食物を内部に取り入れ、エントロピーを排泄することによってのみ存在

しつづけています。これが、熱力学の第二法則、エントロピーの増大に拮抗している力です。)

 

  つまり、食物を内部に取り入れるという、生物体にとって最も基本的な作業から、

“主体”と“客体”、自己と他者の分断が起こってきているということです。しかしその

最初の分断以降、それはすさまじい速度でリアリティーを分裂させし、世界を再構成

していきます。そして同時に、自分以外の者、つまり他者のいる所には、他者に呑み

込まれるという恐怖、つまり煩悩も発現してくるわけです。いずれにせよ、この必然的

な二元性の展開は、やがて科学という二元論的パラダイムを形成するまでに至った

ということでしょうか。

  むろん、人類文明を宇宙空間へシフトして行くのも科学力や技術力であり、私はこ

の威力を否定するつもりはありません。ただ、科学や数学はあくまでも道具であっ

て、人間原理におけるリアリティーではないということです。

 

                       < 参考 : 発達心理学における、原初の“我” >

 

 “相対性理論の時間と空間の関係式”...空間が伸びれば、時間が縮む...       

  これは、亜光速ロケットの内部では、“時間が遅くなる”というあの有名な概念です。し

たがって、亜光速ロケットの内部では、あまり年を取らず、旅をして戻ってきたら、“浦島

太郎”のようだったということになります。

 

 

  < さあ、話を進めます >

  私はこの道場の第一部で、“無門関”峠を越えて行くには、二元的対立を超えなけ

ればならないと言いました。また、その二元的対立を越えた所に、趙州和尚の「無」

があり、倶胝和尚の「一指」があり、無門禅師の「内外打成の一片」があるといいまし

た。

 

  さて...ここでは、二元論から派生した時間の概念を超え、“永遠”に至る道を考

察していきます。しかし、言っている内容は同じであり、空間的な超越と時間的な超

越の区別があるわけではありません。そもそも時間と空間の分断を否定しているわ

けであり、そうした区別をしているとしたら、それこそ二元論そのものに落ちてしまい

ます。

 

  こうした矛盾を抱えつつ考察していくことも、より深い洞察に至るための修行の場と

お考え下さい。しかし、考えてみれば、人類のもつ“言語”というものは、それそのも

のによって絶えずリアリティーを分断しているわけです。一語を発すればそこに一つ

の分断があり、二語を発すればそこに二つの分断があるわけです。つまり、“言語”

とはそのようなものだという事です。しかも私は、そのような性質の言語によって、リ

アリティーを説明し、二元論を超越しようとしているわけです.....

 

 

 <2> “今” とは何か.....        

 

 さて、この眼前に展開している風景、このリアリティーとしての“今”とはどのような

ものかを考察してみます。ここではあらゆる先入観や一般常識として定着している概

念を離れ、自分自身の頭で考え、教わるのではなく学んでいくことが肝要です。

 

  さあ...これまで、純粋な時間というものは存在しないと述べてきました。あるの

は時間と空間の相対性理論的な関係式であり、時間と空間の未分化の“リアリティ

ー”であると...私たちは二元論におけるおぼろげな概念から、“時間”というものを

類推し、その幻想に浸っているだけなのです。

 

  また、永遠の“今”を考察する時、“過去とは今の記憶”であり、“未来とは今の期

待”ということになります。つまり、過去、現在、未来の間には、何の境界もなく、一切

の二元的な分断が無いというわけです。このことについても、もう少し独自に考察し

てみる必要があります。

  ともかく、“今”というリアリティーを、再度じっくりと観察してみてください。この、最

初は薄っぺらな瞬間のように思える“今・現在”が、実は膨大な全体であることが次

第に分かってきます。なんにしても、私たちは幼少の頃から現在の年零に至るまで、

“今”という座標以外は経験したことが無いのです。いわゆる過去にも未来にも、半

歩足りとも足を踏み入れたことが無いのです。何故なら、時間そのものが幻想であ

り、人間原理においては、過去・現在・未来などという座標は存在していないからで

す。それでは歴史とは何かといえば、それは今の記憶に他ならないということです。

このように考えれば、釈尊も無門禅師も、そして道元禅師も、みなこの“今”の上にい

るということなのです。一切の二元的な壁は無く、すでに他界した肉親や友人も、み

なこの同じ“今”の上に生きているということなのです。

 

 

未熟者の私の心境ですが、さらに1歩でも深まっていくよう精進しています  wpe54.jpg (8411 バイト)