仏道特別道場・草枕まほろば修行の大地
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                                  解 脱 風 景 へ の 道   

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード         担当: 高杉 光一 ( 2000.1.18/開始 )

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 No.1  直下に見よ!  2000.8.18
 No.2  第2ステージへようこそ!  2000.10. 1
 No.3  “まほろば”のデザイン  2000.10. 1

 

 第一部    解脱の風景への道

 

 第1章直下に見よ!        

 

  第1ステージの“無門関峠の永遠”で、“時間”とは、リアリティーを時間と空間に

分断して生まれたものだと言ってきました。つまり、“時間”とは二元論的産物であ

り、それは幻想だと言ってきたわけです。しかし、“時間”が幻想だということは、い

うまでもなく、“空間”もまた幻想だと言うことです。

  したがって、“時間”に支配されるもの、また“空間”に支配されるもの、そのいず

もが幻想だと言うことです。では何が真実なのか?それは、事物がまだ時間と空間

に分断される以前...つまり、生(き)のままのリアリティーです。これはあまりにも身

近すぎて、私たちはこの真実になかなか気づかないのが実態です。禅ではこれを、

“直下に見よ!”と言います。また、道元禅師も、こう言っておられます。

 

  心身を一体として、ものごとを見聞きするならば、見るもの聞くものを直

接に知ることができるが、その有様は鏡に影が映るようでも、水に月が映

るようでもない。主観と客観は一体であるから、その一方だけを知ろうと

するならば、あとの一方は消えてしまう。

                                    ( “正法眼蔵”/現成公案より)

 

  主観と客観の一方だけを知ろうとするとは、科学に用いられる二元論的方法で

す。私たちはよく“客観的事実”などと言う言葉を使いますが、本来“客観”だけなど

という事は有り得ないということです。その証拠に、量子力学で極微の世界を探求

していくうちに、ついに“参与者”というような概念を導入せざるを得なかったので

す。つまりこれは、客観に対する“主観の導入”という事態になったことを意味して

います。

  量子力学の創設は、20世紀に入ってまもなくの事ですが、仏法ははるか二千数

百年も前の思想です。釈尊はその頃すでに、主観と客観を超えたリアリティーの世

界に覚醒していたのです。まさに、その底知れない思想、その底知れない奥深さが

感じられます。

 

                                                

 第2章第2ステージ “ まほろば ” へようこそ!

 

  さて、実際に悟りに至るには、修行という大きな流れがあります。第1ステージ、

“無門関峠の道場”では、“悟り”とはどのようなものか、どのようにそのきっかけを

掴むのかを話してきました。この第2ステージでは、その無門関峠から1歩踏み込

んだ修行の場を用意しました。

 

  いずれにしても、座禅、瞑想、数息観 などの実践的な修行を続けることが最も大

切です。私などは日常生活に追われ、10分、15分の細切れの時間に、数息観を

やっています。これは息を整え、数を数えるものです。言うまでもなく、これはいわゆ

る座禅の呼吸法なのですが、歩行しながらでも出来ますし、車の運転をしながらで

も出来ます。(運転中は、事故を起こさないようにお願いします。)

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  さて、私のこの様な修行でも、10分やれば10分の効果があり、15分やれ

ば15分の効果があることを、はっきりと保証します。集中にかけたり、迷いが

あったり、いい加減であったりしても、それを積み重ねていけば、それなりに満

足の行く効果が出て来ます。ここで、あえてこのようなことを言うのは、それが

私の体験から来たもので、真実だと確信できるからです。

  むろん、中途半端な時もありますし、短時間でも深い禅定に入れる時もあり

ます。しかし、中途半端な時は、中途半端ななりに、それはそれで一切世界を

極め尽くしているのです。また、深い禅定に入った時は、その深い禅定のなり

に、一切世界を極め尽くしているのです

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  第1ステージ、“無門関峠の道場”でも言ってきたことですが、“無心になる”

とは、心の中を真っ白にし、何も無くするという事ではないのです。目に映って

いるものは、目に映っているまま、流れているものは流れているままでいいの

です。ただしそれを見つめていて、何も考えていない状態...それが、いわゆ

“無心”なのです。

  山が山を見つめ、川が川を見つめ、車の流れが車の流れを見つめる時、そ

れは内外打成一片となって、一切世界は内にあるのでもなく、外にあるのでも

なく、ただそれそのものがそれそのものを見つめています。

  修行では、この様に、主観と客観を超えた体現を習熟してください。

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 第3章/“まほろば” のデザイン

 

  さて、第1ステージ“無門関峠の道場”を超えた、第2ステージ“まほろば”は、

どのようにデザインしたらいいか...

 

  wpe75.jpg (13885 バイト)  凛然とした、解脱の風景の構築!

 

というのはどうでしょうか。

 

  第1ステージでは、多少“無心”や“禅定”というものを体験できたでしょうか。1度

でも2度でも、それらしいものを体験できたら、それは無門禅師の言う“無門の関

に足を踏み入れたということです。そうしたら、第2ステージの“まほろば”へどうぞ!

また、まだその片りんを体験していない方も、ここから“無門の関”に入ることができ

るかもしれません。それこそまさに、無門禅師の言う所の、“大道無門”、“千差路あ

り”なのです。何処にでも、至る所に、“悟り”に至る“門なき門”が大きく開いている

のです。

                                       

大道無門 ...

千差路あり ...

この関を透得( とうとく )せば

      乾坤( けんこん=宇宙 )に独歩せん

                       <無門禅師>  house5.114.2.jpg (1340 バイト)     

 

  <1> 凛然とした、解脱の風景           

                                       

  今ここに見られる山水は、諸仏の方々の悟った

境地を現されている。山は山になりきっており、水

は水になりきっていて、その他の何者でもない。

  それはあらゆる時を超えた山水であるから、今

ここに実現している。あらゆる時を越えた自己であ

るから、自己であることを解脱している。

                 < 『正法眼蔵』/山水経より >

                                                      

 

 

   この有名な 『正法眼蔵』の“山水経”は、もはやあえて説明する必要はないと思

います。修行を積んでいくうちに、山は山であり、水は水であり、全てがそれそのもの

になりきっていることを体現できる時があります。それは、道元禅師のこのような解

脱の境地を、ほんのわずかに垣間見た瞬間です。さあ、この解脱の瞬間に慣れ親し

み、そうした瞬間を持続させていくことが、この第2ステージの修行です...

 

  上記の“山水経”がまだ理解できなくても、海や山の風景、夕焼けや、風の吹

き渡る風景に、思わず息の止まるような感動を覚えたことはないでしょうか。

“山水経”を理解するには、それを言葉の上で解釈するのではなく、まさにその

ような風景の中に、自己を溶け込ませて行くことが必要です...

  そのような風景の中で、自己を捨て、自己を忘れ、自分もその風景そのもの

になってみて下さい。そして、その風景が、まさにその風景自身を見つめてい

る無心の境地になった時、この“山水経”の真の意味が見えてきます...その

境地の深い浅いはあるにしても、ここがまさに“無門関”、“悟り”の世界への入

り口です。

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  さあ、この“山水経”の境涯とは、ピンと張り詰めた禅的な緊張感の中に、穏やか

日常的な透明感のある世界です。そしてこの境涯はまた、全ての禅的な風景に共

通するものです。さて、これをどのように持続的に体得し、己のものとしていくか...

これが、この第3章のデザインであり、特別道場・第2ステージ/“まほろば”のテー

マでもあります。

 

  <2> 修行の1歩         house5.114.2.jpg (1340 バイト)      

 

  さあ、一言で言ってしまうのは容易ですが、修行となるとそれほど簡単ではありま

せん。私などは日常生活に追われ、座禅をやっていませんが、禅修業の基本は、ま

ずは座禅です。これは、是非お勧めします。しかし、座禅が出来なければ禅の修業

ができないかというと、そうでもありません。私などは、座禅の呼吸法である数息観

いどです。

  それから、私にとっての主要な修行は、この“特別道場・草枕”のページをはじめ、

“正法眼蔵・草枕”や、“無門関・草枕”のページを執筆していることです。むろん、執

筆に当たっては、そのような内容のことを考察しつつ、日々、自分自身の修行を積ん

でいるということです...

  どうにも、実が入らないとか、まとまりがないとか、何が何でも実質

的な修行に入っていきたいんだという方は、私のように執筆を重ねて

いくことも一考ではないでしょうか。それをホームページにアップロー

ドしていけば、さらに励みになるかもしれません。

  それにしても、何も書くことが無いという方は、私のように、独自に

『無門関』を考察してみてはどうでしょうか。最初は全て、真似ること

から始まります。

  ( このようなホームページが出来た時は、是非ご一報を下さい。

                           こちらからも、リンクを張りますので...)

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  <3> 覚醒していること! / ピンと張り詰めた禅的な緊張感 !

 

  “山水経”の境涯とは、ピンと張り詰めた禅的な緊張感と、穏やか日常的な透明

のある世界と言ってきました。さあ、この“ピンと張り詰めた禅的な緊張感”とは、

どのようなものであり、修行の中でどのように体現していったらいいのでしょうか。

 

  無門関の第十二則に、巌喚主人( がんかんしゅじん )という考案があります。

 

 

 

メモ     

< 南北を越え、生死を越え、>

                         智慧の道   原始仏教への回帰