プロローグ
支折は背筋を伸ばし、スーパー・コンピューターと向きあっていた...大量の基礎
データから、必要な画像や解析グラフを次々と呼び出し、プラットフォームに入れ、モザ
イクとして登録している。
小さなモザイクは、ボタン1つで拡大表示になる。その拡大表示から、無数の最深
度データまで引き出せるように設定している...ポン助が、それを黙って覗き込んで
いた...
その作業がひと通り終ると、支折はモニターのデータを壁面の大型スクリーンへ転
送した。それから彼女は、側らのハーブ・ティーに手を伸ばした...大型スクリーンの
画像の動きを眺めながら、カップを口へ運んだ...冷めたハーブ・ティーを、一口、二
口、と喉に流し込んだ...
大型スクリーンの上部ラインに、リアルタイムの各種情報と、時刻表示が流れて行
く...彼女は、時刻表示を、デジタル表示から2個の時計文字盤表示に切り替えた。
インターネット・カメラ/作動開始まで...あと5分弱...
【外気温18度/風速11m/“関東南部=大雨・洪水警報”/(国内トピックス)/
(海外トピックス)/(時刻表示)】
支折は、“関東南部=大雨・洪水警報”を、クリックしてみた...気象情報画像
が拡大表示された。次に“大雨・洪水警報”が詳しく表示された。集中豪雨の雨雲が、
発達しながら関東西部地域から東部地域へ拡大しつつあった。危険レベルは中程
度...支折は、時計を眺め、最深度情報を呼び出すのをやめた...
ポン助が、ボーッ、と突っ立って眺めていた。やがて、“剣菱(日本酒の銘柄/辛口)”の徳
利から、ほんの少し酒を杯に注ぎ、ゆっくりと呑んだ...
支折は、ハーブ・ティーのカップをカチャリと置き、胸元を整えた。それから、ポン助
の頭を片手で押え、インターネット正面のカメラに向きあった...「コホン...」と咳払
いをした。カメラ上部のランプが、“赤”...“黄”...“青”と変わった...
************* *********
「お久しぶりです!星野支折です!
ええ...久しぶりに、2つの大型ミッションが動き出しています。1つは、“原子力
関連”、そしてもう1つは、“文明のグランドデザイン”に関するものです...すでに、
“原子力関連”のものと、この両方に関わる“文明のエネルギー管制”が、アップロ
ードされています...
さて、このページでは...いよいよ“輸送システムの未来”/“脱・車社会”の考
察を開始します...私達がこれから進むべき、“理想とする未来社会のモデルを想
定”し、それに私達独自の考察を加えていこうと思います...
世界的な傾向ですが...21世紀はますます“将来展望が描けない時代”になっ
て来ています。人類文明は“活力”を失い、“足踏み”をしているようにも見えます。そ
こで私達は、“文明をデザインして行く時代”を提唱し、“グランドデザイン”を描く、
大型ミッションを推進している次第です...
今回のミッションは、その中心軸の1つを形成するものです...“文明をデザイン
して行く...その第1歩を...“文明の折り返し/反・グローバル化への奔流”とし
て、全力をあげて検証して行きたいと思います...
まだ、各方面の意見もバラバラな状況で、まとまったものになるには、多少の時間
的熟成が必要と思います...しかし、ともかく、スタートを切ることにしました。どうぞ、
“未来社会/考察”の、新たな展開にご期待ください。
このページが、“1つの叩き台”になってくれれば幸いです...」
〔1〕
自由主義原理の終焉!
文明の折返し点の急接近!
支折は、作業テーブルを見回した。今回は、新しい作業テーブルが設定され、中央
の低いマウントに、それそれのパソコンのモニターが埋め込まれている。しかし、支
折と茜は、それぞれ別に、自分のノートパソコンを持ち込んでいた...
時間になったので、支折は準備作業に余念のない一同に声をかけた。
「ええと...いいかしら...?」
「うむ、」高杉・塾長が顔を上げた。「いいとも、始めてくれ、」
「はい!」支折が、うなづいた。「ええ...最初のテーマが、“自由主義原理の終焉!
/文明の折返し点の急接近!”と言うことですが...
茜さん...まず、“自由主義原理の終焉!”とは、どのようなことか...何故、そ
れが不可避なのか...繰り返しになりますが、もう一度“基本”から、説明していただ
けないでしょうか、」
「はい!」秋月茜が、ノートパソコンに両手を添えた。「これまで、私たちは、“自由主
義”というものを、ダイナミックで、自由奔放で、より人間的なものと、全面肯定的に考
えてきました...小動物も、昆虫も、そして人間も、何者にも束縛されることなく、この
生態系の中で自由奔放に生きる権利があると...それが、自然なのだと...」
「はい、」支折が、まばたきした。
「ところが...
人類文明が、“第1ステージ/文明の曙”を経て...“第2ステージ/産業革命”
に突入...この“エネルギー革命”が暴走し始めると...生態系・地球環境を急速
に食い潰し始めました...それに象徴されるのが、“車社会”であり、“航空機社会”
であり、“冷暖房社会”です...
これはまさに、“莫大なエネルギーを浪費する文明形態”なのです。同時に、そ
のエネルギーで、“限りなく環境汚染/環境破壊を推し進める文明形態”でもある
のです。
グローバル化は、“人・物資・情報・文化・宗教”等を、膨大なエネルギーをかけて坩
堝(るつぼ)の中でかき回し...そこに、経済最優先という、単一の価値観で味付けを
したわけです...
結果...全ての価値観は、絵具をかき混ぜたように、“灰色”になってしまいまし
た...さらに、“富の寡占化”が起こり、非常に味気のない世界風景になってしまいま
した。
世界文学でも、かっては名作が溢れるほどあったものです...『罪と罰』、『戦争と
平和』、『風と共にさりぬ』、『老人と海』...そうしたものを生み出した心の土壌/文
化の土壌は、いったい何処へ行ってしまったのでしょうか...」
「その通りですわ」支折が言った。「やはり、文明が、行き詰まっているのでしょうか?」
「そう思います...」茜は、頭をかしげてうなづいた。「戦後民主主義も、文化も、物質
主義も、経済優先的な価値観も...全てが、行詰っています...
科学技術さえも、その目標を見失い、見誤っています...限りなく技術革新を追求
し、限りなく豊かで便利になっても、はたしてそこに極楽浄土は出現しなかったからで
す。そこは、相変わらず、“欲望の支配する世界”でしかなかったのです...
現在の日本の状況を見れば、それが非常に明瞭です。哲学性の欠落した小泉・政
権による改革は...“ヤクザの使う長ドス”で、やたらに切りまくり、突きまくり...さら
に混乱を加速させ...“慣習法”をシステム・ダウンさせてしまいました...
その象徴的な事件が、イタリア人画家/アルベルト・スギ氏の絵画の、盗作事件で
す。その大量の盗作作品に、文部省/文化庁は、“賞”を与えていたわけです。この現
実は、日本文化の荒廃・衰退と、決して無縁ではありません...
文部省/文化庁の与えている全ての“賞”の、真贋(しんがん)が問われています。こ
れは、方程式を解けば、“日本文化の壮大なシステム・ダウン”であり、また“慣習法
の壮大なシステム・ダウン”です...これでは、社会が腐ってしまうのは当然です」
「その罪は、大きいですよね!」
「非常に大きいと思います...政治部長の青木さんの言葉を借りれば、今回の構造
的な巨大なバカは、“官僚的な弾圧的なバカ”の臭いがします」
「うーん...政治家によるバカは、“政治的腕力”によるもので...マスメディアによ
るバカは、“世間を意識したバカ”という分類ですね、」
「そうです」
「どうしたらいいのかしら?」
「そうですね...この話は、別の機会に譲るとしましょう」
「はい」
「ともかく...“文明の折り返し/反・グローバル化”というのは...文明発祥以来
の発展/開発型の文明形態から、“大ターン”をする事なのです...
しかも、これは緊急を要し、“選択の余地のない課題”です。地球という、有限の孤立
した生命圏では、明確な物理的な限界が来たと言うことです」
「はい!」支折がうなづいた。
「“緑の革命(/1960年代の農業技術革新)”に象徴される...」茜が、ザーッ、ザーッ、と雨の
吹き込む窓の方を眺めた...「食糧の大増産と安定供給は...さらなる人口爆発を
生み出しました...この人口爆発が相乗効果となり...地球生態系の様相を激変
させて来たのです...
まず、顕著に影響が出ているのは、海でしょう...乱獲により、全世界の漁業資源
が激減しています...また、海洋の汚染も進んでいます。さらに、温暖化では海水
面の上昇もあります。“エネルギー革命”による悪影響は、海において確実に蓄積され
ています...」
「うーん...そうですね...」支折は、窓の方を見やった。
「“水の惑星・地球”は...
もはや、“人類文明の飽くなき拡大”により、豊かな生命圏ではなくなりつつありま
す...陸は人類で溢れ、海洋は汚染され、漁業資源も激減しつつあるのです。また空
には、CO2(二酸化炭素)が蓄積し、オゾン層が破壊され、文明による地球温暖化の原因と
なっています...」
「大気中に蓄積したCO2は、」支折が言った。「やがて海洋に溶け込み、炭酸になりま
すね...これも大問題ですよね」
「そうですわ...ここでは詳しくは述べませんが...炭酸は海洋の酸性化を促し、珊
瑚(さんご)のアラゴナイト(/あられ石/天然産の炭酸カルシウム)の殻を溶かしてしまいます...」
「うーん...珊瑚がピンチだと、よく聞きますよね」
「こうした“文明の行き詰まり”中で...人類文明は今、“第3ステージ/情報革命”に
移行しつつあります...
この“第3ステージ”への移行と同時に、有史以来の“文明のパラダイム”が変更必
至となっているのです。それが、つまり...“文明の折返し”のインパクト(衝撃)でなの
です...」
〔2〕 “神”以前の神々
“恒常性(ホメオスタシス)”の視点から見る、
/種の共同意識体/生態系の超越の座標/“36億年の彼”
茜は、高杉・塾長の方へ軽く会釈をし、ノートパソコンのキーボードを叩いた。そして、
しばらくモニター画面をじっと眺め、コブシを口に当てていた。開け放された窓の外で
は、雨がザーザーと降りしきりっている。
支折は、紫陽花(あじさい)の花が激しい雨で揺れているのを眺めていた。吹き込んで
くる激しい雨の飛沫で、窓の下の床が広く濡れていた...
「失礼しました...」茜が、作業テーブルを見回して言った。「ええ...
この、“文明の折り返し”に成功しなければ...現在の還元主義的・機械論的・
科学技術文明は...この地球生態系を崩壊させてしまうのは明らかでしょう...こ
のまま推移すれば...現・地球生態系は、現・地質年代を謳歌している全生物種に
とって、取り返しがつかないほど荒廃させてしまいます...」
「すると、どうなるのかしら...?」
「究極的に、どうなるのかと言うと...」茜は、天井を見た。「人類文明の行為が、地球
表面の生態系の風景を、ガラリと変えてしまうでしょう...その際、どのぐらいの人間
が生き残るのかと言うと...非常に、ごくわずかだと考えます...ほんの、一握りで
しょう...
ほんの一握りが、生物体として“適応”するか、“進化”するでしょう...あるいは、そ
れ以前の段階として、“地下や宇宙空間に文明をシフト”し、旧来の生態系を細々と維
持することになるでしょう...それは、人類文明の100年後の姿かも知れません」
「ありうることだ!」津田・編集長が言った。「いずれにしろ、人類文明の敗北の姿だ!
そして、人口も激減している!」
「もう1つ...」堀内秀雄が、右手を立てた。「可能性があります...実は、この方が
必然なのかも知れません。それは、この地球生態系の“恒常性(ホメオスタシス)”が、“人
類文明を打ち砕く”だろうと言うことです...」
「はい!」茜が、堀内に強くうなづいた。「そうですね...では、それは堀内さんの方
から、説明をお願いします」
堀内が、黙ってうなづいた。
「この“恒常性(ホメオスタシス)”は...すでに何度も説明していますが...私達の人体
が、“病気やケガから治癒する力”と同質のものです...実に不思議な力ですが、生
命体の本質に属するものです...地球生態系レベルのこの能力が、“自身を治癒す
るために発動”していると考えられます...」
「うーむ...」津田が、椅子の背に体を伸ばした。
「生命体には、“3つの際だった特徴”があります...生物と無生物の違いとも言え
るものです...
まず、“呼吸すること”...そして、“増殖すること”...それから、“自己修復するこ
と”です...どれも、複雑・深遠なるシステムで、神の領域にまで続いているものかも
知れません。このシステム全体が、宇宙の“エントロピー増大(熱力学の第2法則)”と拮抗
し、構造化/進化しているのです。しかし、こうした膨大な数量の生命体で溢れ返っ
ているのが、まさに地球生命圏なのです...」
「はい」支折が、まばたきした。
「生命体の最小単位は、細胞です...これが、個体レベルを超え...上位システム
の種レベルを超え...さらに生態系レベルも超え...地球生命圏レベルで、現在の
巨大な危機に対し、“自己修復能力”を発動していると想像できるです...」
「はい」
「“種の共同意識体”の存在は...イワシやイカやあらゆる魚たちの、“生き残り戦
略”を見れば明らかです。それぞれ、独特の“種の生き残り戦略”を展開しています。食
べられてしまう小魚は、非常に多くのタマゴを産みます。また、イワシの群れは1つの
生き物のように統制の取れた行動をします。それは個体レベルを超えた、種のレベル
で発動されている“生き残り戦略”です...
これは、植物種でも、動物種でも観測されています。“種の共同意識体/種の統一
意識体”によるものです...こうした“種の超意識体”は、生態系や生命圏の意識
体とヒエラルキー(階層制)的にリンクしていると考えられます...
さて、では“36億年の彼”の、“生き残り戦略”はどうなのか...地球生命圏であ
る“彼”は、どういう行動をとるか...上位システムである“超越の領域”(ボスの小説の題
名)のことは、下位にいる我々には想像を絶したものですが、ここでも、“恒常性”...
つまり“ホメオスタシス”が発動していることは、想像できるわけです」
堀内は、高杉の方へ顔を向けた。
「うむ...」高杉は、静かにうなづいた。「しかし、下位にいるものが、上位システムと
隔絶していると言うのは、正しくはないと思う...ヒエラルキーではそうなるが、リアリ
ティーでは、この世に“局所性”は存在しない。見えにくくはあるが、全く見えないもので
はない...」
「そうですね...“ホロン(/A.O.ケストラーの造語)”の階層構造の概念にこだわると、リア
リティーが霞んでしまいます...」
「うーむ...我々にも、時間的熟成が必要だな...」
「はい...」堀内は、高杉に言った。「さて、話を戻します」
「うむ」
「“36億年の彼”は、暴走する人類文明を“害悪な存在”と認識し...すでに“免疫”
のような、“排除機構”を発動させていると言うことです...まだ、科学的に認知され
ていない上位システムにおいて、すでにそれが活性化しているだろうと言うことです」
<超越の領域
= 地球生命圏>
「うーん...」支折が言った。「神様がいると言うことね...いえ、“神様以前のシステ
ム”として、イワシにもイカにもタコにも、“種の共同意識体”があるわけね...“民族
の共同意識体”も、“宗教の共同意識体”も、“人類の共同意識体”も、様々にあるの
かしら...」
「あえて、」と、堀内が言った。「“そうしたものが存在しない”と考えるには、無理があり
ます...そして、“36億年の彼”も、やはり存在するのでしょう。“神以前の神々”
は、精霊のような形で、無数に存在しています。それはいわば、“共同意識体”に似た、
意識の塊です。そうしたものが、無数に漂っているのでしょう...
何故、“意識”が存在するかは、この世の最大の謎です。しかし、“第3ステージ/情
報革命”が進展していけば、やがてそうした上位システムの、“自然情報系の姿”も人
類文明の俎上に上ってくるものと思います...」
「それは、神様に似ているのかしら?」支折は、高杉の方を見た。
「さて...」高杉が、微笑を浮かべた。「ともかく、そうした“超越の領域/超越の座
標”は確かに存在している...そして、下位システムを統括的にコントロールしてい
ることは確かだろうね」
「うーん...“神以前の神々”と言うのは...無数に存在しているのでしょうか?」
「無数の上位システムは存在しているでしょう...それが塊となって、浮遊しているこ
ともあるかも知れない...精霊や八百万(やおよろず)の神々も、確かに存在しているの
だろう...数々の奇跡も、確かにあるのだろう...私は、人を疑うのは得意ではない
のでね...みんな信じてしまいます」
「うーん、塾長らしいですよね」支折は笑った。
「いや...これは、私の全ての洞察力をかけての、見解でもあるのです」
「ふーん...」
「時に、それは宗教的な奇跡だったり...因果応報から来る天罰だったりするかも知
れない...だから、仏罰や神罰も当然あり得るでしょう...この“言語的亜空世界”
は、強烈に“人間的なバイアス”がかかっています。
そして、“人間原理空間のストーリイ”は、スパイラル状に繰り返し、前進しているよ
うです。したがって...信心深くし、行動を慎むことです...それが、この世の実態だ
からです...」
「はーい!」支折は、口をすぼめた。
「さて、何度も言うことですが...」堀内が言った。「この“恒常性”は、私達にも備わ
っています。私達の人体が、病気やケガを克服し、元の元気な体に戻るのは、この“恒
常性”によるものです。
私達は今まで、それを医学に応用してきましたが、生態系全体という巨視の立場か
ら眺めれば、人類文明の暴走こそ害悪ということになるでしょう。文明自体に、自浄作
用が備わっていないなら、強制排除ということになります...
それが、具体的には、エイズ・ウイルスの台頭であり、新型インフルエンザ・ウイルス
の大感染であり、エボラ・ウイルスの発現である、と解釈することもできます。こうした
強力な感染症ウイルスは、今後も続々と出現してくることが指摘されています。
エイズやエボラに代表されるアフリカ型と、インフルエンザやSARS(新型肺炎)に代表
される、中国大陸南部型があるようですね...」
「そのあたりは、どうなのでしょうか?」茜が、聞いた。「アフリカ中央部と中国南部は、
地球生態系/地球生命圏にとって、特別なエリアなのでしょうか?」
「うーむ...」高杉が、うつむいた。「何らかの、未知の上位システムが存在するのだ
ろうねえ...“第3ステージ/情報革命”が進んでいけば、そうしたものも見えてくる
はずです。まあ、研究課題としておこうかね、」
「はい、」茜が、小さく答えた。
「さて...」堀内が言った。「ともかく...
人類文明が生態系を食い潰すか...生態系が、人類を適正数量に押さえ込む
か...いずれにしろ、地球上の“総人口/生物種としての総トン数”を、とりあえず、
現在の数分の1まで減らして行かなければならないでしょう」
「社会保障制度の維持から、」支折が言った。「“少子化対策”などを画策している場
合ではないですよね」
「そうですわ」茜が、唇を引き結んだ。「ぐずぐずしていると、人類文明に対する本格的
な排除機構が動き出します...それは、生態系では定番となっている“飢餓”かも知
れないし、“感染症”かも知れません...あるいは、もっと間接的で確実な、長期・短
期の“気候変動”から、“大艱難(だいかんなん)”が押し寄せて来るかも知れません...
現在の人類文明の基盤は、私達が認識している以上に、極端に脆弱なものになっ
ています。ちょっとした天候不順でも、世界経済が大混乱に陥り、その皺寄せは弱者
の飢餓となって現れます...」
「おそらく、」堀内が言った。「文明が崩壊するような時は、様々なものが複合的にやっ
て来るでしょう。文明の防波堤が崩壊すれば、身近にいる日和見的な雑菌や小動物
さえ、抵抗力のない人類には、巨大な脅威になってきます。
途方もなく大勢の人間が消滅するでしょう...そして、生態系における人類の数
量は、適正なレベルにまで引き下げられるでしょう...こうしたことは、他の生物種で
は、大自然の中で、毎年、非情なまでにくり返されている事実です...
食糧自給率40%の日本が、少子化対策などをやっている時ではないのです」
「はい!」支折が、コクリとうなづいた。
〔3〕
国家プロジェクト
=
社会形態の大変動
人口/1億2000万人・・・1億人・・・8000万人・・・
脱・車社会
=
“人間の巣”の創設
「茜さん、」支折が言った。「いよいよ“脱・車社会”の話に入りたいと思います!」
「はい、」茜は、ノートパソコンに両手を添えた。
「まず、“脱・車社会”というものは、そんなに簡単に実現するものなのでしょうか?人
間は、一度手に入れた便利な個人的機動力を、簡単に手放すものでしょうか?」
「そうですね...強引に押し付けようとすると、強烈な反発が出てくるでしょう...し
たがって、“政策”から入って行くと、色々と抵抗もあり、難しいものがあります...」
「はい」支折は、首をかしげ、髪を揺らした。
「でも...そうした社会的なシフトは、予想外に早くやってくるでしょう」
「うーん...そうなんですか、」
「そのカギは...実は、日本にあります...」
「日本に、ですか、」
「そうです...
日本は、世界一急速に、“少子高齢化社会”が進行しているからです...日本の
高齢者は、いずれ大量に、“脱・車”へと移行せざるを得ません。これは、単純に、肉体
的な問題です。したがって、日本は、それに対応した“脱・車社会の器”が必要になっ
てきます...」
「うーん...そうですね...今は“少子化対策”などと言っていますが...むしろ、
“高齢者対策”の方が...現実的に差し迫っていますし、長期ビジョンも必要です
ね...」
「その通りですわ...
日本は、5〜10年後には、そうした本格的な“高齢者・対応型社会”へ移行してい
かざるを得ません。そして、それは同時に、“文明の折り返し”と“文明の第3ステージ
/情報革命”に対応していなければなりません。これは、社会的大変動になります」
「はい!」
「厚生労働省の人口動態統計によると、日本の人口は昨年/2005年に、初めて減
少に突入しています。これは実際に、どのようなインパクト(衝撃)になるかというと...
2010年から、“生産年齢人口/15〜64歳”が、年間100万人単位で減少して行
くのだそうです...分りやすく言えば、人口100万人の都市が、毎年1個づつ消滅し
ていくのに等しいのです...」
「うーん...そんなにですか!」
「そうですわ...
現在の、“開発・持続的発展型”の文明形態を持続しようとしている、経済・産業界
にとっては、まさに大問題でしょう...年間100万人の労働人口が消滅して行くわけ
ですから...
ともかく、このままでは、産業構造が維持できません...さしあたり、高齢者や女
性の活用も、今後は本格的に検討されるでしょう」
「うーん...」
「ただし、この事態に際し、外国人労働者を受け入れることは、非情に慎重でなけれ
ばなりません」
「はい」
「これは、移民差別や民族差別などではありません...日本列島はすでに、“人口
半減”を迫られている超・過密状態だからです...さらに、食糧自給率は40%にまで
落ち込んでいます。
日本列島においては、“人口半減”こそ...総合戦略において、“国家安定の至上
命題”なのです...日本列島の生態系では、それでもまだ安定した状態とは行かな
いでしょう。ですが、それに加えて、“文明の地下都市空間へのシフト”等で、当面は対
応できると思います...」
「はい...」
「現在の超過密状態は...天候不順による、世界的凶作が数年続けば、日本国内
で大量の餓死者が出る恐れがあります。むろん、凶作の程度にもよりますが...経
済力があっても、“食糧は戦略物資”と化し、流通しなくなってしまうことは必至です」
「では...」支折が言った。「どうしたら、いいのでしょうか?」
「まさに、どうしたらいいのか...」茜は、静かにまばたきした。「まず、当面は...“食
糧の備蓄”を増やして行くしかないでしょう。そして、ともかく、“食糧の自給率”を高める
ことです...
それから、畜産によって“食肉”を生産するのではなく、人間が直接“穀物”を摂取す
る食習慣に切り替えることも、重要なポイントです。その方が、はるかに多くの人口を
養えるからです...これは、かっての日本の食生活に回帰すればいいわけです」
「はい。その方が、健康的ですよね」
「そうですね...ともかく、人口の方は、急速な減少に向かっていますから、こちらの
方は静観というところでしょう...」
「はい...ともかく、その場しのぎで、外国人労働者を導入する状況では、ないですよ
ね」
「そうですね...
経済・産業界が何と言おうと、“経済原理・競争原理”優先の産業構造は、“文明の
折り返し”によって、終焉に向っているということです...“グローバル経済”も、逆流
が始まります...」
「うーん...はい...」
<日本の新・社会形態のスケッチ>
「さて...」茜が、ノートパソコンのキーボードを叩いた。「次に...
日本は、“国家戦略”として、激変する時代と、真正面から取り組まなければなり
ません...日本は今まさに、世界で一番急速に、“少子高齢化社会”が進行している
からです。こうした国家/社会的大変動に加えて、“人類文明の折返し”が急接近して
いるからです...
日本は、人類文明的な大課題に対し、明確な答えを出し...必然的に“文明の舵
取り”をして行くという...“水先案内”とならざるを得ないわけです...」
「現在の、日本の状況で、大丈夫なのでしょうか?」支折は、かたく両手を組んだ。
「それを...今から、検討して行くことになります」
「はい!」
「まさに...白いキャンバスに、最初に線を入れる所から始めます...“全体の構
図”を決定し、しっかりとした“下絵”ができるのは、まだ先の事になります。しかし、と
もかくスタートします」
「はい」
「すでに、“文明の折り返し”は切迫し...実際に、人類文明は大きくきしみ始め、分
解する内圧が非常に高まっています。人類文明は、“想定をはるかに越える危機的状
況”に...来ていると思います...
必然的に、日本が先鞭をつけ...“文明の大ターン”を目指して、明確な海図を示
し、航路を決定し...的確に舵を切って行く必要があります...急がなければなりま
せん...」
「はい...つらい所ですね」
「そうですね...特に現在の上流域のモラルハザードの状況では、そうです...し
たがって、日本は...全てに於いて、“主権者である国民”が立ち上がらなければなり
ません」
「はい...
日本は、外国人労働者を受け入れるのではなく...その分、社会を縮小して行くと
いうことなのでしょうか。この国土に見合ったものに、“コンパクトな社会”に、縮小し
て行くということでしょうか?」
「その通りです...」茜は、壁面の大型スクリーンを眺めた。そして、ノートパソコンの
キイボードを、トン、と打った。それから、高杉・塾長と津田・編集長と堀内が、何かの
議論している方へ、チラリと目を投げた。
「ええと...支折さんの言う通りですわ...」茜は、言った。「まず、“文明の折り返し”
という観点から...幾つかの戦略的なキーワードが出てきます...そのキーワード
をもとに、まず戦略的ラインが描かれます...最初に、それを説明して置きましょう。
*************************************************
“文明の折り返し”であり、非常に重い課題になってきますが...まず、“反・グロ
ーバル化”...そして、“開発・競争型の経済原理主導の終息”...それから、
“文明のエネルギー管制/文明の地下都市空間へのシフト”...そして、4つ目
になりますが、“文明の第3ステージ/情報革命への移行”
です...
これに加えて、日本の特殊事情が重なります...“急速な少子高齢化の人口動
態”...“食糧自給率40%の危機的状況”...“上流域のモラルハザードによる社
会の弱体化”...“米国追随の覇権体制か、日本独自の国際平和戦略かの選択”
こうした状況下で、“新しい社会の器”を建設して行きます...
“毎年人口が100万人単位で減少”...“コンパクトな中核都市の建設”...“労
働集約型/自給自足型/都市近郊農業の確立”...“過疎地域の大自然への還
元”...“都市機能の地下都市空間へのシフト”...
*************************************************
まさに、こうした流れの中で、“地球政府の創設”も目指していかなければなりま
せん...」
「うーん...これ全部をですか、」支折が言った。
「そうです...でも、全て連動していますから、それほど複雑なことではありません」
「はい、」
「ええと...まず...
“コンパクトな中核都市”は...大自然に隣接した“農業都市・共同体型”で、文
化・芸術・学術・スポーツ等を振興します...ただし、それは画一的なものではなく、
“多様な価値観”、“多様な文化”、“多様な社会形態”を尊重し、独立性の高い“都市・
共同体”を形成します...」
「うーん...」
「独立性の高い分だけ...輸送交通面での他の都市との交流は、非常に縮小しま
す。例えば、グローバル化社会の極端な例ですが...ゴルフをする程度の理由で、飛
行機で移動したり、むやみやたらと外国旅行をしてみたり...そういうことは、しない
ということです。全て、無制限なエネルギーの浪費につながっています...
日常生活は、都市近郊レベルで、つつましく生活すると言うことです。また、個人的
機動力は、自転車を想定しています。つまり、そのサイズの、コンパクトな高機能都市
空間を建設します。
ただし...プライバシーの尊重や、人間的な快適さは、非常に重要な要素になりま
す。そのあたりは、社会工学や、都市プランナー...それから、芸術家の感性に期待
します」
「はい、いいですね...」
「ともかく...
他地域との不必要な交流は減少させ...次第に、計画的なものにデザインされて
行く方向になります...これは、“社会の演出”と言ってもいいと思います...
大きな祭りや、スポーツや芸術の交流や、国家レベルのイベントなどが計画的に実
施されます...そうした、メリハリのある国家/社会/都市共同体を、積極的に演
出していくと言うことです」
「分ります」支折が、うなづいた。
「都市以外の地域へ出て行くことは、非常に自粛されるわけですが...“文明の第3
ステージ/情報革命”の側面では、それを補って余る情報が共有されます...ただ
し、都市文化が混乱するのは、避ける必要がありますし、研究課題と言うことでしょう」
「はい」
「同様の観点から...観光やレジャーなども、都市近郊が中心となります。ただし、外
部への遠征は規模の大きな旅行として、都市レベルで計画的にデザインされるかも
知れません...また、国家レベルで、そうした旅行をサポートする体制が、デザイン
されるかも知れません」
「そうですね、」
「ええ...
これは私たちの、“コンパクトな中核都市”の“原型的な試案”ですが...日本の
未来社会の風景が、少しは見えて来るのではないでしょうか」
「はい!」支折がうなづいた。「ともかく、安定した良い社会を創りたいですよね!」
<大変動・・・
人口減少社会のスタート
>
「実際に、日本では、」支折が言った。「駐車違反の民間委託が開始され、ここでも
緩やかに、“脱・車社会”が始まってますよね...
自動車は、都市では非情に“使い勝手の悪いもの”になって来ています。これは、
必然的な流れだと思うのですが、」
「そうですね、」茜が、うなづいた。「そのように都市を創造してこなかったということで
しょう。人は自動車を乗り回し、その分だけウォーキングして汗を流したりしています。
つまり、人間は、そのくらい動き回り、汗を流すことで、正常な生理を保てる生物だとい
うことです。
新しい都市空間では、最適な運動量というものも、しっかりと組み込む必要があり
ます。ともかく、人間の体は、歩かなくてはいけません」
「それに加えて...」支折が、自分のノートパソコンに目を落した。「認知症のドライバ
ーも、急増傾向にありますよね...加齢による運転不適格者とも言えますが...そ
ういう人たちが、高速道路を逆走したりして、非常に危険になってきています...
また、運転マナーの低下も指摘されています。車社会は安全面でも、根本的な問題
が広がっていると言えるのではないでしょうか...」
「認知症ドライバーの増加というのは、急速な高齢化社会と、これまでの開発型社会
との、ミスマッチから生じたものでしょう...過疎地では、車を手放したら生活が成り
立ちません」
「うーん...だから、高齢になっても、車が手放せないわけですね、」
「そうです...
そして、いよいよ“脱・車になった人々”は、必然的に都市に集って来るわけです。
これを政策として、積極的に受け入れるのが、緊急の課題でしょう。そのためには、そ
れ相応の“コンパクトな中核都市”を、再編成しなければなりません。
人間サイズの“コンパクトな中核都市”...さらに次の段階の、“地下都市空間/
人間の巣”が、最終的に創出されて来るでしょう...それまでには、長い試行錯誤が
繰り返されるかも知れません...
でも、生態系と調和した、“人間の巣”ができれば...人類は“種”として、生態系
の中で安定した地位を確保できます...」
「当面、“コンパクトな中核都市化”が進めば...実質的に“脱・車社会”になりますよ
ね」支折が、言った。「こうした傾向は、世界でも進むのでしょうか?」
「進むと思いますわ...
中国やロシアやインドでは、これからモータリーぜーションが進むでしょう。ですが、
急速に限界がやって来ます。一方、日本では、先進的に“脱・車社会”となり...“コン
パクトな中核都市化”と“エネルギー管制”が進んで行くでしょう...
“コンパクトな中核都市化”が進めば、“自給自足型/都市近郊農業”とタイアップし
た、クリーン・エネルギーやバイオマス・エネルギーも、非常に効率よく使えるようにな
ります。農業も、“脱・競争社会/労働集約型農業”を想定していますから、エネルギ
ー消費量は、さらに少なくなると思います」
「そうですね、」
「次に、“文明の地下都市空間へシフト”を実現すれば、膨大な冷暖房エネルギーも、
ほとんど必要なくなります。エネルギーは、クリーン・エネルギーだけでまかなえるよう
になります。これは地球上の、他の生物種と同じレベルになることを意味します...
“文明の生態系との調和”です...これは、人類文明に新たな安定期をもたらしま
すが...それでも人類は、まだ相当に減少していく必要があるでしょう。ともかく、現
在の地球生態系の風景は、まさに異常な事態なのです...」
「高杉・塾長...」支折が、高杉の方を向いた。「実際に、日本国内で...“コンパク
トな中核都市化”は、どのように実現して行くのでしょうか?」
「うーむ...」高杉は、肩を持ち上げ、振り向いた。「その推理は...難しいものがあり
ます...」
「はい」
「というのは...つまり...
過疎化と都市集中化のデータが、我々の手元にはないからです...いや、それ以
前に、全国規模での人口動態データというものが、何処まで整理されたものになって
いるか、大いに疑問のあるところです。したがって、当面は、思い切った推理で押し進
めて行く他はないでしょう...」
「すると、」支折が、言った。「私たちには、スーパー・コンピューターで処理するにも、そ
もそも、その基礎データが収集・作成されていないということでしょうか?」
「そうです...おそらく、その方向で、国家が大規模に動いてこなかったと言うことで
す...
“少子化対策”に重点を置いていましたし、その根拠とする“特殊出生率”でも正確
な予測数値を出しはいません...つまり、行政当局は、その程度のことしか、してい
なかったということでしょう...
もちろん、国勢調査等で、概略は掴んでいたとは思います。また、市町村の合併や
道州制の議論、地方分権なども活発化していますから、全く準備をしていなかったの
ではありません...
ただ、方向が、“少子化対策”というチグハグなものであり、“現・社会体制の維持”
だったことです...これでは、うまく行きません。問題の本質は、“高齢社会対策”で
あり、“人口減少社会対策”なのです」
「でも...“人口の都市集中化の胎動”はずっと以前から始まっていますよね、」
「まあ、そうです...
ここで、国家として大きく舵を切り、“高齢化社会の対応”と、“脱・車社会”、そして
“文明の折り返し”に備えることです」
「ある意味では...基礎データがない分、人間の優秀な頭脳を使えるということです
よね、」
「まあ...」高杉は、笑った。「そうかもしれません」
「支折です。このページはこれで終ります。次は、“地下都市へのシフト・第2段階”とし
て、新しいページに移ります。どうぞよろしく...」
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