プロローグ 
「お久しぶりです!マチコです!
うーん...今回は、免疫系の難しい話なので、ミミちゃんと、ポンちゃんにも来てい
ただきました。難しい話は、外山さんとアンに頼み、私たちは簡単な基礎的な部分を
解説して行きます...
ええ、まず...アン、お願いします...」
「はい...ええ、厨川(くりやがわ)アンです。“赤毛のアン”と呼んでください!」
「アボンリーの、アン・シャーリーね!」マチコが言った。
「そう...カナダのプリンスエドワード島/アボンリーの、アン・シャーリー...」アン
が、ニッコリとうなづいた。「ええと...ポンちゃん、またお願いします。ミミちゃんは初
めてね、」
「うん!よろしくね、アン」
「よろしくお願いします...」動物好きのアンは、ミミちゃんの小さな額を撫でた。「ええ
と、それから...
外山陽一郎さんは、分子生物学
、生物情報科学
(バイオインフォマティクス)での、私の先
輩であり、同僚でもあります。色々とお世話になってきましたが、またよろしくお願いし
ます」
「こちらこそ、よろしく...
うーむ...厨川アンが来てくれたとは、心強いですねえ...アメリカからは、何時
帰ってきたんですか?」
「本拠を日本に移したのは、2年前ですわ。それから、向こうでお会いしたのは、東京
から出向いた時です、」
「ああ、そういうことですか、」
「ええと...今回は、“制御性T細胞”ということですが...“T-
reg細胞”のことです
ね、」
「そうです...
免疫系は、非常にややこしい領域なので、《企画室》では、あえて取り上げて、解
説していくという方針です...ま、我々も、第一線の研究者ではないわけで、〔参考
文献〕をもとに、解説していくことになります...」
「はい...」
「ええ...マチコさん、さっそく始めましょうか、」
「はい!」
〔1〕 “免疫”と、“自己免疫”という現象

「ええ、マチコです...
ええと...まず“免疫”ということを...あらためて、簡単に説明しておきます。ミミ ちゃん、久しぶりに、《ミミちゃんガイド》をお願いします!」 「うん!」ミミちゃんが、長い耳を揺らしてうなづいた。
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《ミミちゃんガイド・No.1》 
<免疫とは・・・ アレルギー/エイズ/感染症/ガン/...そして、ワクチン
とは、 >
「免疫とは...生体が、疾病(しっぺい)...特に感染症に対して、抵抗力を 獲得する現象なの...体内には、細菌やウイルスや異物などが入ってくる けど、自己と非自己を識別して、非自己から自己を守るシステムなの...
体内というのは、体の細胞の中のことで、何かを食べて胃の中に飲物や 食物などが入ったのは、本当の意味で、体の中とは言わないの。本当の体 内へは、注射なんかを使って、薬なんかを入れるわけよね...
この免疫システムは、脊椎動物で特に発達しているわね...微生物な どの異種の高分子(/抗原)の、体内への侵入に対し、“リンパ球”や“マクロ ファージ”などが働いて、“抗体”を形成し、“抗原”の悪い作用を排除した り、抑制したりするわけなの...これで、病気や感染症に対して、生体が 抵抗力を持つわけなの。
これが、強過ぎたり弱過ぎたり、壊れたりすると、アレルギーやエイズや 感染症にかかったりするの。年を取るとガンになりやすくなるは、この免疫 システムが、弱くなってしまうからよ」 「免疫には、“細胞性免疫”と“体液性免疫”とがあるわね...
それから、ワクチンというのも、この免疫システムを応用したものなの。つ まり、ワクチンというのは、免疫原(/抗原)として用いられる、各種感染症の 弱毒菌、死菌、または無毒化毒素のことを言うの...これを、生体に接種 して、あらかじめ“抗体”を生じさせ、インフルエンザなどのウイルスなどに、 あらかじめ抵抗力をつけて、備えておくの...
でも、新型インフルエンザウイルスだと...そのウイルスが初めて現れ たウイルスだから、まだ特効薬の弱毒の生ワクチンを作ることができない の。ワクチンが作られて、工場で大量に製造し、流通するまでに、早くても、 6ヶ月ぐらいはかかるかしら...
その特効薬のワクチンが出回るまでの、半年間が恐いの...パンデミッ ク(世界的大流行)が起こるかも知れないの...」 ************************************************************************************
「はい、ミミちゃん、どうもありがとうございました...」マチコが言った。「アン、こんな
所でいいかしら?」 「そうですね...」アンが、ミミちゃんに手を伸ばし、耳に触れた。「では、本題の方に 入りましょう...でも、私たちも、免疫系の全般風景についてザッと触れておきましょ う...
100年ほど前...
非常に優れた洞察力を持つ、細菌学者/エールリヒは、“自己中毒・忌避”という 言葉を作りました...彼は、免疫系が自分自身の身体組織を攻撃する“自己免疫” という現象を想定しました...そして、“この現象は生物学的に起こりうるが、何らか の形で抑制されている”と考えました。
つまり...“自己免疫反応”があり...また、この“自己免疫反応を回避するシス テム”が存在する、と提唱していたわけです。でも、この画期的なアイデアは、当時の 医学界では受け入れられなかったようですわ...
そもそも、“自己免疫”などは、ありえない...自己を攻撃するようなシステムが、 遺伝子に組み込まれることは、進化の過程では生じにくい...という考えが主流に なっようです...
でも、エールリヒの洞察は、まさに正しかったのです...その後、謎とされていた 多くの疾患が、まさに“自己免疫”が原因であることが分って来たわけです...そし て、“自己免疫を回避するシステム”として、最近になり、“制御性T細胞”の存在が明 らかになってきたのです」 「アン...」マチコが、電磁ペンを持つ手を上げた。「その、謎とされていた多くの疾患 というのは、どんな病気なのかしら?」 「そうですね...」アンが、手元のコントローラーで、スクリーンボードをスクロールし た。「...“多発性硬化症”や、“インスリン依存性糖尿病(T型/若いうちから発症する事の多い 糖尿病)”や、“慢性関節リウマチ”などですね...
これらの病気は、実は、“CD4・T細胞”/(白血球の1種)/(免疫系の司令官)/ (ヘルパーT細胞)の、裏切り行為で起こるのです...この“ヘルパーT細胞”は、ま れに体内の構成成分である自己を、敵とみなすことがあるのです...“免疫系の司 令官”が、自己を裏切って、“間違った命令”を発するのです...それで、重篤(じゅうとく /病状が、いちじるしく重いこと)な病気になってしまうのです」 「うーん...政治家や役人がさあ...」マチコが、電磁ペンを頬に当てた。「国家や国 民の信頼を裏切って、“悪事”をするようなものかしら?」 「うーん...」アンが、マチコを真似て言った。「そうですね...非常によく似ているか も知れませんわ...」 「それでは、よ...」ポン助が、口を尖らせ、スクリーンボードを見た。「日本の国はよ う...“多発性硬化症”や...“インスリン依存性糖尿病”や...“慢性関節リウマ チ”などでよう...末期症状になっているわけだよな...」 「うーん...」マチコが、コクリとうなづいた。 「エールリヒの洞察は...」アンが言った。「“自己免疫”と言う現象と、もう1つの点で も、まさに正しかったのです...
それは、“自己免疫反応を回避するシステム”が存在するという指摘です...それ がつまり、最近になってその存在が明らかになってきた、“制御性T細胞”です。かつ ては、サプレッサーT細胞とか抑制
T細胞と呼ばれていました。
でも、その時代には、サプレッサーT細胞を特定することも、分子的メカニズムを突 き止めることもできなかったのです。そして、エールリヒの時と同じように、免疫学の主 流から外れていったのです。このことは、後でもう一度、触れることにします...」 「はい、」マチコがうなづいた。 「ええ...
この“制御性T細胞”は、先ほど言った、“ヘルパーT細胞”/(免疫系の司令官)と 同じ“CD4・T細胞”の内の、1グループなのです...今回は、この“制御性T細胞”に ついて話していくわけですが、免疫系の調和を保つ上では、欠かせない存在ですわ。
その上、この細胞は...ただ“自己免疫を抑制”するだけではないことが、次第に 明らかになってきています...どうやら、病原体、ガン、臓器移植、妊娠などに対す る免疫反応にも、関与しているようなのです...これらも、自己にとっては異物です。 そして、ガンは悪性化した異常細胞なのです...
ええと、外山さん...前置きは、このぐらいでいいでしょうか?」 「そうですね...“制御性T細胞”についても、一応の説明をしていただきました。予備 知識としては、十分です」 「はい、」
〔2〕
不完全性の深淵・・・/免疫防御機構

「実は...」と外山が言った。「マチコさんのように...どんなに健康な人であっても、 “自己免疫疾患”を引き起こす恐れのある“危険な免疫細胞”が、体内に潜んでいま す...」 「はい...」マチコがミミちゃんの頭を、指先でトンンと打った。 「私たちの人体の構成上...こうした免疫学的な危険性と...生体の防御システム とは...非常に接近して存在している言うことです...ニアミスが発生するような、 複雑性の環境にあると言うことです...」 「はい...」マチコが、コクリとうなづいた。 「免疫系にしても、単なる生体防御という任務を越えて...生体として、1つの完璧な 生命体を形成しているのです...不完全なシステムであるがゆえに、生体として完 璧なのです...
生体とは、ある側面においては、不完全性が絶対条件ともいえるのです...そう した不完全性の中に、“自己免疫疾患”を引き起こす事象が、入って来るのかも知れ ません...」 「うーん...」マチコが、曖昧に首を振った。 「もし...」外山が、肩を引いた。「欠陥のない、“完全な生物種”というものがいたとし たら、そこで“進化は終了”してしまいます...つまり、その生物種は、それゆえに不 完全であり...ダイナミックな生態系の中で、たちまち滅んでしまうでしょう...
生物学的・柔軟さ...生体が不完全であるがゆえに...進化というベクトル(/力と 方向)の上で、玉響(たまゆら/ほんのしばらくの間)の命の安定を示すのです...“力”と“方向 性”が発現するから、自転車が倒れないように、“生命現象というプロセス性”が機能 するのです...」 「そのために...」アンが言った。「私たちの意識は、“生きる/存続する”という方向 へ、強力な動因が掛かっているのです...生命現象に、意識が強く関与していると いうのは、そういうことでしょうね...」 「うーん...」マチコが首をひねった。 「つまり...」外山が、重ねて言った。「遺伝子コピーの、かすかなミスや時間的揺ら ぎが...ガン細胞も生み出しますが...分子進化(DNAのヌクレオチド配列や、タンパク質のアミノ 酸配列の進化)も生み出していると言うことです...
ま...少し難しいかも知れませんが、一応、聞き流して置いてください。いずれ、 役立つものです...」 「はい...高杉・塾長からも言われています。それが、勉強だって、」 「そうですね...」アンが言った。「塾長の言う通りですわ、」 「はい、」 「生体という...」外山が言った。「解放系システムの不完全性は...生物進化のベ クトルとして統合され...膨大な“生命潮流”となっているのかも知れません...つ まり、免疫学的な欠陥もまた、そうした“生命潮流”の一部を形成していると考えられ るのです...
その不完全性が、“生命潮流”のベクトルを発現し...生命活動のダイナミックな 力と方向を生み出す、原動力になっているのかも知れません...まさに、そういう意 味において、生命体として、完璧性を形成していると言うことです...
ええと...では、アン...免疫システムが、私たちの生体にどのように存在してい るか...簡単に説明してもらえますか、」 「あ、はい...」アンが、体を揺らした。 「あの、外山さん、」マチコが言った。「免疫細胞って、何処にあるかんでしょうか?」 「ああ、そうですねえ...」外山が、口に手を当てた。「免疫細胞は、生体を他者から 防御する、膨大なシステムです...全身に存在します。それは、おいおいと説明して いきましょう」 「それは、よう...」ポン助が、マチコを見上げた。「オレの方で、用意してあるぞ... 《“幹細胞”のガン化》/“造血肝細胞の階層性”のページで、免疫細胞を説明して いたよな、」 「あ、そうですね...」アンが、ポン助の頭に手を伸ばした。「ポンちゃんは、《“幹細 胞”のガン化》に参加していましたわ...あの時に、説明しています...ポンちゃん は、よくお勉強していますね」 「おう...」ポン助は、アンに誉められ、顔を赤くした。「じゃ、簡単に説明するよな、」 「お願いします!」アンが、コクリとうなづいた。
************************************************************************* ≪ポン助のワンポイント解説・・・No.5≫  
<免疫細胞・・・・・>
「...人間の体内を循環する...血球細胞や、免疫細胞はよう...ほと
んど骨髄(骨中にある腔所を満たす柔軟組織)にある、ごくわずかな“造血・幹細胞”か
ら作られるよな...ここから、膨大な免疫システムが、階層的に細胞分裂
して流れ出して行くぞ...
この、“造血・幹細胞”から作られる“前駆細胞”はよう...まず“骨髄系・
前駆細胞(/血液系)”と、“リンパ系・前駆細胞(/免疫系)”に系列が分かれて行
くぞ...
“骨髄系・前駆細胞”からは...赤血球や血小板や貪食(どんしょく)細胞の マクロファージなんかが作られるよな...“リンパ系・前駆細胞”からは、T 細胞や、ナチュラルキラー細胞や、形質細胞(プラズマ細胞)などが作られるぞ。 マクロファージは、“骨髄系・前駆細胞”から作られるけどよう、免疫に関与 しているよな...
サイトカイン(シグナル伝達分子)なんかはよう、こうした免疫細胞から放出され るぞ...HIV(エイズウイルス)はよう、免疫細胞に感染して、免疫システムをダ メにするんだよな...」 *************************************************************************
「はい、ポンちゃん...」アンが、うなづいた。「ありがとうございます...
ええ...免疫は、膨大な生体の自己防衛システムです。その欠陥から来る難病 やガン、アレルギーなど、多岐にわたる医療分野を形成しています...
また、感染症や、異物の侵入、全ての疾病の治癒に対しても、不可分に関与して います。つまり、“ホメオスタシス(恒常性)”という、生命体の本質に深く関与しているシ ステムです。医療とは、この生命体が本来持っている“ホメオスタシス”から来る治癒 力を、人為的に支援する行為とも言えます...」 「うーん...治癒力を持っているのは、生命体の特徴ですよね、」 「そうですね...
コンピューターなどにも、ごく簡単な自己修復能力はあります。でも、自己再生能力 と言えるほどのものではありません。あくまでも人間のサポートがあって、それが可能 です。“ホメオスタシス”のような、生命的深淵につながるものではありません...
“呼吸”すること、“自己増殖”すること、そして“自己再生能力”を持っていること が...これまでに観測されて来た、生命体を特徴付ける3つの条件でしょう...」 「高杉・塾長は...」外山が言った。「それに、“意識”を加えたいのかも知れません」 「...“意識”ですか...」アンが、外山を眺めた。 「高杉・塾長の持論です。ま、それは、塾長に聞いてください...話がややこしくなる」 「そうですね、そうしましょう...
ええ、免疫細胞は...今、ポンちゃんが説明してくれたように...骨髄にある、ご くわずかな“造血・幹細胞”が、その源流です...でも、まだその全貌は、とても解明 されている状況にはありません。ようやく、その形が、分りかけて来たと言う所でしょう か...
人体も、もともとは1個の受精卵です。そこから卵割が始まり、それが60兆個のと いう、膨大な細胞の階層性の流れになるわけです...わずかな“造血・幹細胞”が、 免疫細胞の源流だといっても、別に驚くことではありません...」 「うーん...」マチコが、うなった。「こんな小さな細胞の防御システムが、病原菌やウ イルスから、体を防御しているわけね」 「そうです...」
「さて、話を戻しましょう」外山が言った。「ええ...つまり...どんなに健康な人で も、“自己免疫疾患”を引き起こす恐れのある、“危険な免疫細胞”が体内に潜んでい ます。まず、そのことを話しましょう」 「はい、」マチコが言った。「私にも、本当にそんな危険因子があるのかしら?」 「そうした危険因子は存在します、」アンが、赤髪を耳の後ろへ撫で上げた。「簡単に 証明できますわ...
例えば、マウスに...自己の中枢神経系から採取したタンパク質を、“アジュバン ト”と共に注射すると、恐ろしい免疫反応を起こします...“アジュバント”と言うの は、“免疫応答を増強する添加剤”ですね。
すると...マウスは、“多発性硬化症”と同じように、マウス自身のT細胞が、自分 の脳と脊髄を攻撃し始めるのです...まさに、恐ろしい免疫反応ですわ...」 「アン...」マチコが言った。「“多発性硬化症”というのは、前にも聞いたけど、どうい う病気なのかしら?」 「“多発性硬化症”というのは...“脱髄疾患”の1つです...脳および脊髄の白質 に、脱髄病巣が多発するものですわ...すると、運動麻痺、知覚麻痺、眼症状、構 音障害などを引き起こします...
この“多発性硬化症”は、先ほども言ったように...“ヘルパーT細胞”の、裏切り 行為で起こる、“自己免疫疾患”です。難病に指定されていますが、寛解(緩解/かんか い)することの多い病気です。寛解というのは、症状が、軽減したり、消失したりするこ とですわ」 「うーん...」マチコが、首を傾けた。「つまり...中枢神経系から採取したタンパク質 を、“アジュバント”と共に注射すると、“多発性硬化症”のような症状が起こるわけね。 そんなに簡単なことで、難病のような症状が起きるのかしら?」 「ええ。中枢神経のタンパク質ではなく、他のタンパク質に変えれば、他の“自己免疫 疾患”を起こすことも、出来るようですわ...」 「うーん...自分のタンパク質でないと、いけないわけよね?」 「あ、そうです...
“自己免疫”ですから、自己のタンパク質です。他者のタンパク質や、異物ですと、 それは“抗原”になります。正常な免疫反応になります。
それから、これはマウス実験の話です...もちろん、ヒトでも同様の反応が観測さ れています...ヒトの場合ですと、“自己に反応する免疫細胞”は、健康な人の血液 から、簡単に見つかるようです...これらは試験管の中で、本人から採取した組織 に、強く反応すると言うことです...
つまり、マチコさんの血液にも、“自己に反応する免疫細胞”があるということです。 私は研究者ではないので、詳しいことは分りませんが...参考文献によれば、そう いうことですわ...」 「うーん...免疫というのはさあ...」マチコが言った。「様々な組織を攻撃する、危 険性を持っているわけね、」 「そうですね...
これらの“自己に反応する免疫細胞”は、“自己免疫疾患”を、何時おこしてもおか しくない状況を、明確に示していると言います...では、何故、逆に...ほとんどの 人は、そうした間違いを起こさずに、無事なのかと言うことです」 「はい」 「それについて、これから話しましょう...」 「はい」  「ええ...ともかく...」アンが言った。「外山さんが言うように...生物体には、不 完全性なるがゆえの、“生命潮流のベクトル”...その膨大な“解放系システム”の、 波動の一端を垣間見ることがで来ます...
今、人類文明は、生態系の崩壊、“地球温暖化”が大問題になっています。でも、 生命の深淵は、μm(マイクロメートル/100万分の1m)レベルや、nm(ナノメートル/10億分の1m)レ ベルにおいて、よりダイナミックです...
この貴重な、“生命の泉...地球生命圏”を、決して文明の暴走などで破壊して はいけません...この、《“今”の座標》は、私たちが思っている以上に、この宇宙の 特異点かも知れません...まさに、《神の座標》なのかも知れませんわ...」 「うーん...」マチコが、椅子の背に体を伸ばした。「アンはさあ...“天動説”のこと を言っているのかしら...地球が宇宙の中心というのは、“天動説”のことよね?」 「いわゆる...」アンが、顎に手を当て、優しく笑った。「“ヨーロッパ中世の天動説”と は違いますが...ここは、まさに、宇宙の中心かも知れないと、思っています...何 故なら、まさに、《私/主体》がここに存在しているからです...
私は科学者ですが、これは“科学というパラダイム”を越えています。“科学のパラ ダイム”では、地球は宇宙の中心ではありません。でも、“物の領域”と“心の領域”が 統合された、《次世代のニューパラダイム》では、どうなるでしょうか...もちろん、 そうしたものはまだ存在しませんから、私にも分りませんが...」 「うーん...」マチコが、ミミちゃんの頭に手を置いた。「私にはよく分らないけど... 高杉・塾長がさあ...宇宙論の中に、《人間原理》を導入すると言っていたわよね」 「アンの言っているのは...」外山が、斜(はす)に眺めて言った。「それに、近いでしょ う...私は、何度も聞かされたものです...」
アンは、唇を結び、何も言わなかった。 「このホームページの名前は...」マチコが言った。「《人間原理空間》よね...ま ず、《人間原理》あり、という立場です...アンの言うように、《神の座標》ではない けど、よく似ているのかしら?」 「似ていますね...」外山が言った。「そのうちに、塾長に聞いてみましょう...」 「私も...」アンが言った。「是非、伺いたいですわ、」 「うーん...難しい話よね、」 <
“自己免疫寛容”
= 自己防御システム
>

 「ええ...さて...」外山が言った。「話を進めましょう...
“自己免疫寛容”...つまり、免疫細胞が...“自己の組織や器官を攻撃しない
状態を作り出し、それを維持”するために...免疫系全体で、幾つもの防御システム を備えています...」 「うーん...ややこしいわねえ、」マチコが言った。「そんなことが必要なのかしら?」 「まあ、聞いてください...」外山が言った。「まず...〔第1の防御システム〕は、胸 腺に存在します...これは、心臓の前にある、あまり目立たない臓器です。
免疫細胞であるT細胞は...ポン助君が説明したように...骨髄にある“造血・ 幹細胞”から作られます。そして、“未熟なT細胞”は、胸腺で“厳しい教育”を受け、調 整されます。どのような自己の組織に対しても、強く反応しないようにプログラムされ ます。つまり、T細胞は自己を攻撃しないように調整されるのです。また、調整できない T細胞は、破壊されます...
しかし、何度も言うように、完璧なシステムというものは存在しません。この胸腺の 防御網をすり抜ける、“自己攻撃性のT細胞”も、少数ですが存在するのです...こ れが、細胞や血管やリンパ管の中に紛れ込んで暴走すれば、“自己免疫疾患”が生 じるわけです」 「うーん...」マチコが、感心してうなづいた。「ありうる話よね...」 「さて...〔第2の防御システム〕は...血管とリンパ管です。脳や脊髄のような所 では、血管やリンパ管が物理的なバリアとなって、免疫細胞が正常組織に侵入する のを防いでいます。
しかし、この物理的な隔離も、完全ではありません...例えば、組織が損傷を受 けたりすると、“自己に反応する免疫細胞”が入り込んでしまうことがあります...」 「組織が損傷を受けると...」マチコが、コクリとうなづいた。 「〔第3の防御システム〕は...より積極的な防御方法です...
免疫系自身が、“自己を攻撃する免疫細胞”を破壊したり、無力化したりするシス テムです...この“第3の防御システム”の中で、最も重要と考えられるのが、今回 のテーマである“制御性T細胞”です
...これについては、これから詳しく説明しま す」 「はい、」マチコがうなづいた。
  「大多数の“制御性T細胞”は...」外山が言った。「他のT細胞と同じように、胸腺で 成熟します...それから、胸腺を出て、“T細胞の特殊グループ”として、身体中に広 がり、免疫細胞の監視任務に当るわけです」 「うーん...憲兵のような感じかしら?軍事警察の...」 「そうですね...」外山が言った。「免疫細胞というのは、全・細胞組織から見れば、 防人(さきもり)/日本国防軍のようなものです...“制御性T細胞”は、その軍事組織を 見張る憲兵に当るかも知れません...マチコさんは、面白い発想をしますねえ、」 「そうかしら、」マチコが、口をあけた。 「でも...」アンが、人差し指を立てた。「こうした幾重もの防御システムをすり抜け、 “自己免疫疾患”は生じてしまうわけです...でも、こうした疾患を発生する患者は、 総個体数に比べて、ごく少数ということです...」 「はい、」 「1つ、是非、言っておきたいことがありますわ...
それは、人類が文明社会を形成していることの、“最大の特徴の1つ”に...医療 文化・医療技術があると言うことです。これは、言うまでも無く、弱者をケア(介護)し、治 療し、保護して行くということです...弱者とは、“様々な理由で負傷した人”、“疾病 を発した人”、そして“先天的に確率的に、そうしたものを背負って生まれてきた人”、 等です...
野生では、こうした人たちは、淘汰されていくわけです...したがって、こうした人 たちを救済していくことは、“文明社会の大きな力”であり、“文明の成果”です...こ うしたことは、生物体として、誰にも起こりうることだからです...
こうやって、文明社会は、少しずつ〔極楽浄土/パラダイス〕を目指しているので す。その、文明社会を形成する、“本来の大目的”を見失ってはいけないという事で すわ...最近、世界の傾向は、“グローバル経済”に流され過ぎています...」 「うーん...」マチコが、ポン助の頭を押えた。「最近の、日本社会の風潮も...競争 原理というか...野生の原理というか...弱肉強食の原理に回帰しているんじゃな いかしら...」 「そうですね...日本の社会もそうです。慣習法が、総崩れになり始めています」 「不思議よね、」マチコが言った。「どうしてこんなことになったのかしら?」 「さて...」外山が言った。「話を戻しましょう...
こうした複雑性の中での...不完全性こそが...多様性を生み出す、原動力な のかも知れないということです...“複雑性”と“多様性”は、生命体や生態系にとっ ては、何故か“安定性”を生み出すようですねえ...
そして、そうした“複雑性”や“多様性”に、何故か人は感動するのです...何故か は分りませんが、そこに生命の深淵を垣間見ることができます...」 「塾長が言っていたわね...」マチコが言った。「年々...世界中の風景が単調にな り、感動がなくなって来るって...それと関係があるのかしら?」 「うむ、あると思いますねえ...」 「どうして、」マチコが言った。「生物や生態系は...複雑になったり、多様になったり する方向へ向かっていくのかしら?」 「それは、難しい問題ですわ...」アンが言った。 「高杉・塾長は...」外山が言った。「“宇宙の進化・構造化/...生命の進化・複雑 化”は、“熱力学の第2法則/エントロピーの増大”に拮抗する力ではないかと、言っ ていました...その背景になる宇宙モデルが、どのようなものかは、分りませんが ね」 「アン...」マチコが言った。「“宇宙の進化・構造化”と、“生命の進化・複雑化”は、 同じものなのかしら?」 「システム論的に言えば、同じという事ですわ...
でも、高杉・塾長の言うように、“エントロピー増大”と“生命潮流”が、拮抗する力だ という根拠は、見つかっていませんわ...高杉・塾長は、“生命潮流”とは、いったい 何者なのかと言いたいのでしょう...
それと、塾長の言うように...“生物”というものの条件に、“呼吸/新陳代謝”、 “自己増殖”、“自己再生/治癒能力”に加え...“意識”というものが絡んでくると、 この世界の風景は、非常に複雑になりますわ、」 「高杉・塾長は、」外山が言った。「生体というものを、統合管理しているのは...並列 処理のようなデジタル計算では、計算時間がすぐに爆発してしまうと言います。生体を 統合管理しているのは...おそらく、“無意識”も含めた、“意識”だろうというのが、 塾長の考えです。
確かに...“ミラー・ニューロン”などで、一瞬で相手の行為が読み取れるのは、意 識”というものが、きわめてダイレクトに働いているのかも知れません...まあ、軽々 な事は言えませんがね...
しかし、“意識”というものについても、“量子力学”や“相対性理論”のような、しっ かりとしたモデル構築が必要な時代になってきたのではないでしょうか...」 「そうですね...
いずれにしても、“生命現象”も、“意識という問題”も、非常に古くからある、非常 に厄介な問題ですわ...」 「うーん...」マチコが、首をかしげた。
〔3〕
サプレッサーT細胞から、制御性T細胞へ

 「ええ...」アンが言った。「“自己に反応する免疫細胞”を、抑える能力を持つ“T細 胞グループ”の存在を、初めて提唱したのはエール大学のガ−ションです。
この仮説で提唱された免疫細胞は、“サプレッサーT細胞”と命名されました。ええ と...先ほども説明しましたが...この時代/1970年代には、実際には“サプレッ サーT細胞”を見つけ、同定することができませんでした。また、その分子的メカニズ ムも解明できなかったわけです。
そして、“サプレッサーT細胞”という概念も、免疫学の主流から外れて行ったようで
す。でも、研究は続けられていたのです...では、そもそも、“サプレッサーT細胞”と いう概念が、どのような背景から生まれてきたかを考えてみます...ええと、ポンちゃ ん、お願いします、」 「おう!」ポン助が、スクリーン・ボードをスクロールした。
「1969年...」アンが体を横に開いて、ボードを見た。「名古屋にある、愛知県がん
センター...中央病院・研究所ですね...
そこの、西塚泰章と板倉照好の2人が...生まれて間もないメスのマウスから胸 腺を摘出すると、成長後に“卵巣がなくなる”という、奇妙な現象を発見しました。これ は、最初は卵巣の発達の維持に必要なホルモンを、胸腺が分泌していて、それが断 たれた為だと考えました...」 「はい...」マチコも、スクリーンを見ながらうなづいた。 「ところが、その後、驚くべきことが分りました...免疫細胞が卵巣に浸潤(しんじゅん)し ていることが分ったのです」 「あの...」マチコが言った。「ガン細胞のように、“浸潤”したのでしょうか?」 「そうですね。“浸潤”とはそういうことでしょう...そうやって、“自己免疫反応”によっ て、卵巣が破壊されていたのです...つまり、胸腺を除去したことによって、免疫系 の制御ができなくなり、暴走したと考えられます...
先ほど説明しましたが、“造血・幹細胞”から作られたT細胞は、全ての種類が、胸 腺で厳しい教育を受けます。胸腺において、自己に強く反応しないように調整され、 プログラムされます。胸腺を除去したということは...つまり、T細胞をプログラムでき なかったということです」 「はい、」 「この実験では...
胸腺を除去されたマウスでも、正常なT細胞を接種すると、“自己免疫反応”は起き なかったとあります...このことから、T細胞は必要に応じて、自らの反応性を、何ら かの方法で、制御していると考えられたわけです...」 「ふーん...」マチコがうなづいた。 「ええ...1970年代初頭...
イギリスのエディンバラ大学のペンヘイルも、成体のラットで、同じような現象を観 察しています...それから、アメリカのエール大学のガーションが、“サプレッサーT 細胞”という概念を提唱したようです...」 「うーん...ガーションさんが、提唱したわけね、」 「そうです...
ええ...この概念は、しだいに免疫学の主流から外れてい行くわけですが...こ の“サプレッサーT細胞”を、同定しようと努力を継続した研究者もいたわけですね。彼 らは、そうした細胞だけが表面に持つ、マーカーとなる分子を見つけようとしていまし た。それさえ見つかれば、“サプレッサーT細胞”を同定できるわけです」 「うーん...」マチコが、ミミちゃんの長い耳を折った。「大変なことよね、」 「1980年代初頭には...」アンがポン助に、スクリーン・ボードの画像をスクロール するように合図した。「様々なマーカーの候補が、検討されていたようです...でも、 成果は上がらなかったようですね...」
ポン助が、画像をスクロールし、1つ戻した。アンが、うなずいた。 「1995年になって...
坂口志文(京都大学/参考文献の著者の1人)が、信頼性の高いマーカーとして、CD25とい う分子を突き止めました...この図ですね...
マウスを使った実験で、CD25をもつ、CD4・T細胞を除去したところ...甲状 腺、胃、性腺、膵(すい)臓、唾液腺などの器官が、“自己免疫”によって攻撃され... 激しい炎症を起こしたわけです。白血球(リンパ球、単球、顆粒白血球など)が、これらの器官や 臓器に大挙して入り込み、ダメージを与えたのです...」 「“サプレッサーT細胞”を、」マチコが言った。「除去したために、起こったのかしら?」 「そうですね...それを確かめる実験でした。そして、確かめられたということですわ。
もちろん、確認実験も行われました。さらに、試験管内の実験でも、確かな証拠が 得られました。そして、CD25という分子は、マーカーとして確立したわけです。
以前の、“サプレッサーT細胞”には、曖昧なイメージもありました。そこで、マーカ ーで確認されたこれらの細胞は、新たに“CD25・制御性細胞”、または“T-reg細 胞”と呼ばれるようになったようです...また、分りやすく、CD4・D25・T細胞とも 呼ばれるようです...」 「うーん...細かい話よね、」 「それが、医学なのです...それが、医学の進歩になるのですわ」 「はい、」 「さて...」外山が言った。「“T-reg細胞”は、免疫システムが、正常組織を攻撃し ないように抑制しています...いわゆる憲兵(軍事警察)のような仕事をしています。言 い換えれば、軍事機構のような巨大な暴力装置である免疫システムを見張って、間 違いのないように、体内をパトロールしているわけです...
全ての種類のT細胞は、胸腺で成熟します...“T-reg細胞”というのは、憲兵で すから、そうした中でも、きわめて特殊なグループになるわけです...その働きにつ いて、これから詳しく考察して行きます...」 「はい、」マチコがうなづいた。
「難しいけどよ...」ポン助が言った。「面白そうだよな!」
「うん!」ミミちゃんが、うなづいた。
〔4〕
T-reg細胞の、自己免疫阻止の機能

「ええ...」マチコが、ミミちゃんの頭に手を置いて言った。「ポンちゃんのフグ鍋で、小
休止を入れました。スタミナをつけたので、また頑張りたいと思います」 「はい、」アンがうなづいた。 「外山さん...」マチコが、外山に顔を向けた。「“T-reg細胞”というのは...いった いどのようにして、“自己免疫反応”を抑制しているのでしょうか?」 「うーむ...そうですねえ...
実際には、“T-reg細胞”の機能を知ろうとする研究は、現在、精力的に行われて いる所です...したがって、その全貌というものは、まだ分っている状態ではないの です。最初に、それを断って置きましょう」 「はい、」マチコがうなづいた。 「まず...
この“T-reg細胞”というのは、様々な免疫細胞を、抑制する力があるらしいという ことです...免疫細胞の増殖だけでなく、細胞間の情報伝達を担うサイトカイン(シグナ ル伝達分子)の分泌なども阻害しているようですねえ...
それから...“T-reg細胞”は、他の細胞と直接接触することで、抑制機能を発揮 している、と考えている研究者も多くいるようです...直接接触して、抑制シグナルを 送っているらしいと言うことですね...それ以外は、まあ、全体がまだ謎だらけの状 態のようです...」 「うーん...」マチコが、頭を揺らした。 「最近になって...」外山が、指を立てた。「“T-reg細胞”には、“Foxp3”という細 胞内分子が、大量に含まれているのが発見されました」 「はい、」 「あ、外山さん...」アンが言った。「その前に、これまでに“T-reg細胞”で分ってい ることを、簡単に説明しておきましょう...話がややこしくなりますから、」 「うむ...」外山がうなづき、あごに手を当てた。 「ええと...」アンが、椅子を少し下げ、体をらくにした。「くり返しますが...
“T-reg細胞”は、“自己免疫疾患”を防ぐ、要となる細胞です...“T-reg細胞” は、腸内の善玉菌を、免疫系の攻撃から守ったり...妊娠という体内の異物を、維 持するのにも役立っています...それから、体内にくり返し侵入してくる、病原体との 戦いにも、役立っています。
でも、一方では...この“T-reg細胞”のせいで、“ガン細胞が免疫系の攻撃を免 れている...”というようなことも、起こっている様子です...」 「うーん...」マチコが、腕組みをした。「この、“憲兵さん”も...そういう間違いを起 こすわけね...やはり、人間的と言うことかしら...」 「“T-reg細胞”は、人間ではありませんわ...細胞です。したがって、“生物/生物 の最小単位”といった方が、正確でしょう...」 「“意思”はないのかしら?」 「そういうことは、高杉・塾長に聞いた方がいいかも知れません...独特の考えが、 おありのようですから、」 「そうかあ...塾長よね、」 「ええ、ともかく...
“T-reg細胞”が、どのように自己免疫を阻止するのかを、検証 してみましょう...と、言っても、先ほど外山さんが言ったように、完全に分っている わけではありません」 「はい、」
 「まず...」アンが、パソコン・モニターを眺め、マウスをクリックした。「免疫反応の最 初のステップは...“抗原提示細胞”が、病原体などの異物を...“抗原”としてT細 胞に提示する所から始まります...“T-reg細胞”は、この段階から、何らかの関与 をしていると考えられます。
“ヘルパーT細胞(免疫系の司令官)”が、他の部隊に召集をかけたり、“キラーT細胞” がウイルス感染した細胞や組織を攻撃するには、まずそれを“知る”必要があります。 つまり、“抗原提示細胞”の提示する“抗原”を、“ヘルパーT細胞”や“キラーT細胞” が、しっかりと“認識”する必要があるわけです...これは、いいですね?」 「うん...それは、分るわよね、」マチコが言った。 「“ヘルパーT細胞”や“キラーT細胞”は、“抗原”を認識すると同時に...“抗原 提示細胞”から、ある種のシグナルを受け取ります。それで、細胞が活性化し、その “抗原”を持つ相手に攻撃を仕掛けて行くわけです...
その際、“抗原”が病原体・由来のものであるか...自己の身体・由来のものであ るか、それは関係ないようですね...だから、“自己免疫疾患”のようなことが起こる わけです...」 「うーん...そこが、微妙なわけね...自己の身体・由来の、ガンのようなものもあ るわけね、」 「そうですね...」アンが、スクリーン・ボードの方に肩を回した。「さて...ここで、“T -reg細胞”が登場します...自己免疫を“阻止する方法”として...幾つかの仮説 があります...」
ポン助が、スクリーン・ボードの画像を送った。 「はい、そこですね...」アンが言った。「ええ...図に示すように...
“T-reg細胞”は、“抗原提示細胞”に結合したり...“抗原提示細胞”を不活性化 したりします。または、“抗原提示細胞”を足場として...裏切り者の“自己反応性T 細胞”に直接接触して“抑制シグナル”を送ったり...あるいは、近距離で作用する “抑制性サイトカイン”を放出したりして...阻止しているようです...」 「うーん...」マチコが、頭を横にした。「難しいわねえ...細かくて...複雑で...」 「まあ...」外山が、椅子の背に体を引いた。「多様性と、複雑性こそが...生命体 や生態系の、最大の特徴と言えるかも知れません...それで、生命体や生態系が、 安定するようなのです...何故、そういうベクトル(力と方向)が働いているのかは、知り ません...ともかく、それが基本のようです...
前にも言いましたが、それが進化・構造化であり...私たちの“意識”もまた、自 我の覚醒と共に...生存し続ける方向へ、強力な動因がかかって来るわけです。決 して、“どうでもいい”とか、“死んでもいい”というような動因はかかりません。それが あってこその生命体ですが、そのことが私たちに、“存在しなくなることへの恐怖”/ “死への恐怖”を、植え付けてしまうのです...
この方面は、私はあまり詳しくはないのですが...“存在しなくなる”ということは、 “何も恐れることはない”のでしょう...ところが、“生き続ける”という強力な動因が、 “死への恐怖”という“意識”を植え付けてしまっているようです。このことが...人生 に“悲劇”を生み出し...また、悲喜こもごもの、“豊かなストーリイ”を生み出してい るようです...ま、これは...高杉・塾長から聞いたことですがね...」 「うん...」マチコが言った。「塾長は、そんなことを言うわよね、」 「ともかく...こうしたわけの分らない、複雑系である生命体を、私たちは相手にして いるわけです...まさに、何者か分らない、自らの命を相手の仕事です...」 「それが、医学なのでしょうか?」 「まあ...そうでしょう...
しかし、医学の威力は、絶大です!これが、人類社会、人類文明の防波堤になっ ています...したがって、ここが突破されると、大変なことになります...新型・イン フルエンザのパンデミック(世界的大流行)のような事になり...被害は甚大になります。 すでに世界中に蔓延しているHIV(エイズウイルス)も、しかりです...」 「うーん...」マチコが、頭をかしげ、口にコブシを当てた。 「ええと...」アンが言った。「難しい所ですが...ともかく、聞き流して置いてくださ い。こういうものだと、分かってくれれば、とりあえず、それでいいのです...」 「うん、」マチコが、うなづいた。「それなら、得意よね、」 「その程度でも...頭の隅には、入っているものですわ...それが、役に立つので す」 「うーん...そうかしら、」 「そうです、」アンは、眼鏡に手をやり、ニッコリとうなづいた。「保証しますわ。サッと読 み流しておけば、“免疫”というものについては、一応、免許皆伝としましょう...
もともと、非常にややこしい分野ですから、これで十分です。必要な時に、再度ア
クセスできる、下地ができれば十分でしょう」 「うーん...アンは、話が分るわよね」 「ついでに、もう少し進みましょうか、」 「はい!」
<
T細胞 を
T-reg細胞 に熟成する
Foxp3・分子 > 
「ええと...それでは...先ほど外山さんが言いかけていた、“Foxp3・分子”につ いて、話しましょう...これは、これまで話してきた、CD25・分子や、CD4・分子の ように、細胞内分子のことですね...
ええ、これも余談ですが...最近、新聞でで、CD38という分子が話題になってい ました...この分子は、白血球表面や脳などにあるのですが、脳での機能が不明だ ったとされていたようです...それが、“オキシトシン”というホルモン分泌に関係して いることが、金沢大学などの研究グループによって突き止められたとありました... (...東京新聞/2007年2月8日)
“オキシトシン”は、親子やつがいの“絆の形成”など、社会行動に関係するホルモ ンですが...CD38はそういう意味で、自閉症に関係している可能性があるようで すね。1部の自閉症ということですね...
何故、こんな話をしたかというと...この間、《危機管理センター》の響子さんが、 《薬剤耐性菌の現状》の中で、自閉症の話をしていたからです...そこでは、ミラ ー・ニューロン・システムが、自閉症に重要な関わりがあると言っていました。
つまり、ミラー・ニューロン・システムは、基本的認識の構造的な話でした。ところが CD38の方は、ホルモンに関連するタンパク質・分子の話です...いずれも、自閉 症に関連しています...生命体というものの、底知れない奥深さを感じさせます。
ええ...それでは、外山さん...“Foxp3・分子”について、お願いします...」 「はい...」外山が、あごに手をやった。「ええ、最近になって...
“T-reg細胞”の成熟過程や、その機能に関する、新しい手がかりが発見されまし た...発見したのは、参考文献の坂口志文のいる京都大学の研究室と...アメリ カ/ワシントン州/シアトルのワシントン大学のルデンスキーのグループ...それか ら、アメリカ/ワシントン州/ボセルにあるセルテック社のラムスデルのグループで す...
それぞれが、独自に発見しているようですねえ...まさに、“T-reg細胞”の研究 が、精力的に進められている状況が分ります...」 「はい、」マチコが、うなづいた。 「ええ...
“Foxp3”という...“T-reg細胞”の中の分子は、転写因子の1種で...ある特 定の遺伝子の、活性を制御しています...活性を制御とは、言い換えれば、その遺 伝子が作る、タンパク質の量をコントロールしているということです」 「はい」 「この“Foxp3”という分子が...実は、“T-reg細胞”には、大量に含まれているこ とが分ったのです...実際に、これまでに報告されている“どのような分子”よりも、 “T-reg細胞”に、特異的に存在するようです」 「うーん...」マチコが、ポン助の頭に手を置いた。「その、“Foxp3”という分子はさ あ...“T-reg細胞”の中で...あるタンパク質の量を、コントロールしているという わけね、」 「そうです...
一般にタンパク質は、細胞内分子の中で、中心的な役割を果たしています。したが って、ほんの1、2種類のタンパク質の量が変化するだけで、その細胞の機能そのも のに、影響が及ぶことがあります...」 「はい...それが、どんな関係があるのかしら、」 「つまり...
“Foxp3”によって、遺伝子の活性に変化がおきると、未熟なT細胞が、“T-reg 細胞”に、変化/熟成することが分ったのです。
また...“Foxp3”を普通のT細胞に導入すると、そのT細胞は再プログラム化さ れて、“T-reg細胞”に変化するようです。そしてこれは、普通に胸腺で成熟した“T- reg細胞”と、同じ抑制能力を持ちます」 「これらは...」アンが、外山に言った。「マウスで研究が進んでいますが、ヒトでもあ るわけですね?」 「そうですね...ここは、大事な所です...
マウスの“T-reg細胞”と同じものが、ヒトにも存在することが分っています...ヒ トの“T-reg細胞”においても、Foxp3・分子やCD25・分子を発現しています。ま た、これらは、試験管の中においても、同様の“免疫抑制”を示します」 「うーん...ヒトでは、まだよく分っていないのかしら?」マチコが聞いた。 「マウスは、実験動物ですから、研究がしやすいのです。しかし、全ての動物実験 は、最終的には、人間の医療に役立てることを目指しています。“T-reg細胞”が、ヒ トの健康にとってきわめて重要なことは、“IPEX”という珍しい疾患を考えれば分りや すいでしょう...これは、アンに説明してもらいましょうか、」 「あ、はい...」 <“IPEX”を引き起こす原因は・・・“Foxp3”の突然変異!>

「ええ...」アンが、スクリーン・ボードを見やった。「“IPEX”というのは、“免疫調節 異常/Immune
dysregulation”、“多発性内分泌障害/Polyendcrinopathy”、 “腸炎/Enteropathy”、“X染色体連鎖性症候群/X-linked
syndrome”の、そ れぞれの頭文字をとった病名です。
これらはいずれも、X染色体にある、遺伝子の突然変異が原因となる疾病です。患 者は、基本的に男性で、子供のうちに死亡するケースがほとんどのようです...X染 色体異常の疾病は、女性では起こる確率が非常に低くなります。
つまり...ヒトの性・染色体には、X染色体とY染色体があり...女性はXX... 男性はXYというのは、聞いたことがあると思います」 「うーん...」マチコがうなづいた。「そんなことを、どこかで聞いたことがあるわよね」 「そうでしょう、」アンが、うなづいた。「女性は、X染色体を2本持っているので...も し、一方の遺伝子に異常があっても、もう一方が正常ならば、発症はしません...で も、男性には、X染色体が1本しかないわけですから、発生しやすくなるのです」 「うーん...」マチコが、口に手をやった。「そうかあ...」 「ちなみに、“IPEX”という病気では...甲状腺や膵臓などの様々な器官に、“自己 免疫疾患”が起こります...そして、慢性腸炎や難治性アレルギー(/食物アレルギーや重 篤なアトピー性皮膚炎)なども、併発します...
これらの症状は、“T-reg細胞”による抑制がないために...“免疫系が過剰に 働いている”ためだと...考えられています」 「うーん...そして、ほとんど、子供のうちに亡くなってしまうわけね、」 「そうですね...可愛そうですが、そういうことです...
直接の死因は...ええと...“自己免疫性の糖尿病”から、“重度の下痢”まで、 様々なようですね...」 「“T-reg細胞”が研究されてくれば、こうした病気も治るのかしら?」 「そうだと思います...
最近になって、“IPEX”を引き起こす原因が、“Foxp3”の突然変異であることが 突き止められました...いずれ、治療の道が開けてくるものと思います」 「うーん...そうなって欲しいですよね、」
〔5〕
T-reg細胞/その他の働き

「さて...」外山が言った。「“T-reg細胞”の、その他の働きですが...まず、腸内細菌
に関して、面白い実験があります...」
「はい、」マチコが答えた。
「ええと...1990年代になりますか...
アメリカ/カリフォルニア州/パロアルトにある、DNAX研究所のポウリー等が、面白
い実験をしています。彼等は、遺伝的に、免疫細胞の欠損しているマウスに、“T-reg細
胞”以外のT細胞を移植してみました。
すると、激しい慢性腸炎が起き、多くのマウスは死にました...しかし、免疫系の攻撃
対象は、最初から腸の組織そのものと言うわけではなかったのです...まず、異物であ
る腸内細菌を攻撃したのです...
ちなみに、マウスでもヒトと同様に、“腸の組織/1gあたり1兆個”という膨大な腸内細
菌がすみついています」
「“1gあたり1兆個”もいるのかしら...」マチコが首をかしげた。「ヒトの全細胞は、約60
兆個だと、高杉・塾長が言っていたわよね、」 「そうですね...」外山がうなづいた。「細菌は、小さいですからねえ...
これらの腸内細菌は、身体にとっては異物ですが、大概は有害ではありません。それど ころか、善玉菌と呼ばれるものです。食物の消化を促し、有害なサルモネラ菌のような細 菌が住み着くのを、排除してくれます...」
「その、善玉菌を攻撃してしまったわけね、」
「そうです...
正常な免疫系では、こうした善玉菌は、大目に見ているわけです。ところが、遺伝的 に、免疫細胞を欠損しているマウスの実験では...T細胞を移植すると、善玉菌を攻撃 し始めたのです。その過程で、マウス自身の腸組織もまきぞえをくい、攻撃を受けるように なったようですねえ。
T細胞ではなく、“T-reg細胞”を移植した場合には、何も問題は起こらなかったと言
います...実際、“T-reg細胞”を、他のT細胞と共に移植すれば、腸疾患を防ぐことが
できるのです...」
「うーん...さすがは、“T-reg細胞”よね!」マチコが、分かったような顔で感心した。
「免疫系の反応というのは、非常に鋭敏なのです。そして攻撃は、非常に強力です...
善玉菌に対しても、悪玉菌に対しても、共に攻撃準備体制が整っているのです。そして、
その上で、善玉菌への攻撃を、“T-reg細胞”が抑制しているようなのです...」
「うーん...」
「この敏感さというのは...有害な異物に対する反応にも、微妙に影響している可能性
があるようです...つまり、その強すぎる反応をも、“T-reg細胞”が抑制しているようだ
と言います...」
「はい、」 「そして、その反面...
“T-reg細胞”によって、免疫系の能力が抑えられるために...侵入者を完全に破壊 できずに、体内で生き延びさせてしまうこともあるようです。やがてそれらは、再び勢いを 取り戻し、また暴れだすということも...まあ、考えられると言うことです...」 「うーん...」
「胃潰瘍の原因となるピロリ菌が...」アンが言った。「胃の中で生き残っているのは、そ のためだという研究報告がありますわ...“T-reg細胞”の働きで、免疫系の攻撃力が 鈍り、そのために生き延びていると言われています...
ええ...米国立衛生研究所(NIH)のサックスらの研究から、さらに奥の深い事実が
明らかになっています...ええと、ポンちゃん...」
アンが、スクリーン・ボードのポン助に、スクロールするように合図した。ポン助は、少し
酔っ払って体を揺らしながら、画像をスクロールした。

「ええと...もう少しですね...」アンが、首をかしげた。「あ、その次ですね...」
「おう、」
「あ、はい、いいですね...
ええ...侵入してきた微生物の、“一部が生き残る”というのは...再び勢いを取り戻
したり、薬剤に対する耐性をつけたりと...良いことではありません。でも、これから説明
しますが、必ずしも“悪いことばかり”ではなかったのです」
「うーん...生物の話では、常にそういう側面があるわけね、」
「そうです...」アンが、マチコにしっかりとうなづいた。「NIH(米国立衛生研究所)のサックスら
は...マウスに、ほとんど無害な寄生虫を感染させてみました...
この実験では、免疫系に全く問題がなかった場合でも、何匹かの寄生虫は体内に残っ
たと言います...そしてその後、再び感染させると、今度は効率的な反応が迅速に誘発
されました...」
「ふーん...」
「さて、一方...
“T-reg細胞”を減少させてみると...免疫反応はより強く反応し、寄生虫は完全に除
去されたといいます...でも...再度感染した時の反応は、むしろ効率が悪くなってし
まったと言います...
つまり...まだ、確かな証拠はないようですが...“T-reg細胞”は、抗原を適当に
体内に留めておくことにより、免疫記憶の維持に役立てているらしいと言うのです。免疫
記憶というのは、2度目以降の感染の際に、素早く対処するために重要です。予防接種
に効果があるのは、このためなのですわ...」
「つまり...」マチコが、口に手を当てた。「“人質”を取っておいたり...“犯人を泳がせて
おいたり”するわけかしら?」
「あまり...」アンが、苦笑して、楽しそうに首をかしげた。「適当な比喩(ひゆ/たとえ)とは思
えませんが、的外れではありませんわ...ええと、ポンちゃん、スクロールしてください」
「おう...」ポン助が、画像をスクロールした。
「次に...」アンが、斜めにスクリーンを振り返って言った。「妊娠に関係したことを話して
おきましょう...
妊娠は、母体にとっては一大事です。また、子孫を残し、増殖するということは、生命
体にとっても大きな特徴の1つです。そこに、“T-reg細胞”は、何らかの役割を果たして
いるようなのです。全貌はまだ分かっていないのでしょうが、分かっていることを話してお
きましょう」
「はい、」
「まず、胎児というのは...
遺伝子の半分を父親から受け継いでいます...つまり、母親とは遺伝子レベルで、半
分異なっていることになります。同一でないということは、すなわち異物であり、“移植され
た臓器”と本質的には変らないということです」
「うん、」マチコが、コクリとうなづいた。
「こうした胎児を、拒絶反応から守っているのは...“栄養膜”という、胎盤組織の一部で
す。この“栄養膜”では、様々なメカニズムが働いています。母親の血液中の免疫細胞な
どは、本来は胎児を攻撃する危険性があるのです。これらに対して、“栄養膜”は物理的
防壁となり、また一方では、免疫抑制分子も作り出しているのです...」
「うーん...異物として攻撃されたら、大変よね、」
「そうですね...また、免疫抑制ということでは、同時に、母親自身の免疫系にも変化が
起きているようです。
実際に、“多発性硬化症”のような“自己免疫疾患”の女性では...妊娠中には症状
が軽減するというレポートがあります。これは、“T-reg細胞”が活性化しているからだと
考えられています...」
「ええと...」外山が言った。「最近の研究では、もっと直接的なことも分っています。
妊娠中のマウスでは、母体の“T-reg細胞”の数量が増加することが分っています。こ
れは、イギリス/ケンブリッジ大学のベッツらの研究ですね...
この実験では、反対に“T-reg細胞”を欠損させると、胎児に対する拒絶反応が起って
いるようです...具体的には、母体から胎児へと、“栄養膜”を越えて大量の免疫細胞が
侵入し...その結果として、流産が起こるようです」
「流産かあ...」
「こうしたことから推測すると...」アンが言った。「女性で、自然流産を繰り返す人の中
には...“T-reg細胞”の活性が不十分な人がいる、と考えられます...つまり、その
可能性が、考えられということですわ...」
「はい、」
「では、次に、“T-reg細胞”の治療への応用を見てみましょうか、」
「はい、」
〔6〕
T-reg細胞の治療への応用


「まず、外山さんが言ったように...
免疫反応は非常に鋭敏です。そして、その系列で生み出された、“T-reg細胞”による
免疫反応の制御も、非常に強力です。きわめて有効です。したがって、“T-reg細胞”を
うまく利用すれば、様々な疾患に対して、強力な治療法になることが期待されます」
「うーん...するとさあ...まだ、具体的な治療法は確立されていないのかしら?」
「全体の流れとしては、そうでしょう...
“T-reg細胞”のマーカーとなる、CD25・分子が特定されたのが1995年です。それ
から、ここ10年ほどの間、精力的に研究が進んでいる段階です。本格化するのはこれか
らでしょう。したがって、一般的な臨床現場での活用となると、時期尚早でしょう...」
「はい、」
「でも、これまでのデータから、“T-reg細胞”の“活性を上昇/低下させる薬剤”や、“T- reg細胞”/“そのものを投与”することで、さまざまな疾患を治療できる可能性が出てき ているようです」
「うーん...」
「具体的に説明しましょう...ポンちゃん、次の画像を...」
「おう!」ポン助が、画像をスクロールした。
「ええ...」アンが、スクリーン・ボードを眺めた。「もっとも理解しやすい方法は、“T-reg 細胞”の“活性を強める”ことです...
これによって、“自己免疫疾患”の治療が可能になります。現在...ええと...“多発 性硬化症”や“乾癬(かんせん/肘、膝蓋、頭部に生ずる慢性皮膚炎の1種)”の患者に対する、薬物療法
が検討されています。それから、アレルギー治療にも役立つ可能性があります...
そして、特に期待されているのが、臓器移植手術での“拒絶反応の抑制”です。巨大な
異物が体内に移植されるわけですから、当然、免疫系が拒絶します。これを、“T-reg細
胞”で抑制するとわけです...
ほとんどの“免疫抑制剤”には、副作用がともないます。したがって、こうした薬剤を使
わずに、“免疫寛容の状態”を維持することが期待されます...ええと、それから...
“免疫抑制剤”の服用期間を短縮ることも、可能性として期待されていますね...ともか
く、色々な可能性が試されています...
ええと、ポンちゃん...次、お願いします...」
「おう!」
「次に...反対に、“T-reg細胞”を減少させて、“抑制作用を弱め”...“有益な免疫反
応を強化”する方法があります。
“T-reg細胞”を完全に除去してしまうと、“自己免疫疾患”を引き起こしてしまうのは、 前に説明しました。したがって、“部分的な減少”がいいのでしょう...このあたりは、非 常に微妙になると思います。最も良いのは、特定の免疫反応を阻害している“T-reg細 胞”だけを、除去し、調整することでしょう...でも、非常に難しいのではないでしょうか」 「うーん、」
「ええと...“この種の治療法”は...“結核”や“エイズ”のような、“難治性の感染症”
に対し、特に有効性が期待されていますわ」 「はい...」マチコがうなづいた。「“結核”や、“エイズ”かあ...」
「それから...
“T-reg細胞”を“減らす方法”は、ガン治療に応用できそうです...実際のところ、“T
-reg細胞”を操作する研究のほとんどは、ガン治療を目標としているようですわ」
「ガンは、ともかく注目されているわよね、」
「そうですね...
細胞がガン化すると、量的にも、質的にも、“異常な分子”が作られます。そして、これ
までの研究から、体内をパトロールしている免疫細胞は、これらの“異常な分子”の出現
を監視していることが知られています。
ところが、“T-reg細胞”が、この監視体制を抑制してしまっているかも知れないので
す。そして、自ら気がつかないうちに、悪性腫瘍の定着や成長を、手助けしているような のです」
「うーん...バカよね...何故、そんなことをするのかしら?」
「分りません...」アンが、顎に手を当て、難しい顔をした。「単純に、表面的に見れば、
“だまされている・・・”ということかも知れませんわ...確かに、マチコさんの言うように、
バカなのかも知れません。
でも、さらに深い、“生命の深遠”があるのかも知れません...いずれにしても、生命
潮流という巨大な流れの中では、“時間”や“現象面”で区切らない限り、“それが間違
い”とか、“損だ”とか、“だまされている”という評価は下せないのです。
何故なら、生命潮流は、全てが真理として円で繋(つな)がっているからです。結果が原因
としてフィードバックし、“今の命”として結晶化しているからです。その存在を、否定するこ
とはできません...
それから、進化途上で、すでに役目を終えたムダな遺伝子であっても、それが100万
年後に、決定的に重要な役割を果たすかも知れないのです。それが、そこに存在してい
るということが、円のように閉じていて、そのことが深い意味を持つのです...」
「この世界そのものが...」外山が言った。「そうらしいですがね、」
「うん...」マチコがうなづいた。「塾長が、時々そんなことを言うわよね、」
「ともかく...」アンが、赤毛をすくい上げた。「私たちから見れば、個体の死という現象で
区切るわけですから...“だまされている”という価値観でもいいわけです。
マチコさんの言う通り、死をもたらすガン細胞を助けているのですから、バカという一面
もあるということでしょう。ただ、真にバカなのではないということを、承知しておいて欲し
いと思います。生命現象は、“全てが真理の塊”なのです...それはつまり、人の生死
や、人生観にもつながるものですわ...」
「うーん...」マチコが、頭の後ろで両手を組んだ。「生命潮流かあ...」
「ともかく...」アンが言った。「ガンの中には、この“T-reg細胞”の監視体制の抑制効
果を、戦略的に利用しようとしている事が観察されています...“T-reg細胞”を自分に
引き付けたり...他のT細胞を、“T-reg細胞”に変化させる“シグナル分子”を分泌した
りもしている様子です...」
「ガンの中にも、相当なワルがいるわけね...でもさあ...そんなことが、できるものな
のかしら?」
「参考文献によると...そのようですわ...
幾つかの研究では...ガン患者の血液中や、腫瘍内部には、活性化した“T-reg細 胞”が、異常に多く観察されることが報告されています...つまり、ガンは戦略的に、“T -reg細胞”の抑制効果を、利用しているように見えるのです...」
「うーん...」マチコが、ミミちゃんの頭を抑えた。
〔7〕
現在/研究中の治療法・・・

「さて、」外山が言った。「現在/研究中の治療法を紹介する前に、全体状況を説明して
おきましょう。
現在のところ...患者の体内で、“T-reg細胞”の数を増減させる薬の開発は、まだ 非常に難しいと言われています。まず、どの“T-reg細胞”を標的にすればいいのか、正 確に分かっていない事が多いと言います...
それから、“T-reg細胞”そのものを投与する治療法の開発では、十分な数の細胞を 確保することが、課題となっています。“T-reg細胞”は、もともと制御する相手細胞より も、かなり少なくても機能することが分かっています。でも、採取した細胞を、体外で増殖 させる技術は、不可欠だと言います」 「うーん...」マチコが言った。「それはさあ...薬を創るんじゃないわよね?」 「まず...基本的なことを言っておきますが...
“T-reg細胞”は、免疫細胞です。他人の免疫細胞を投与するわけにはいきません。 本人の免疫細胞を、増減するのです」 「あ...そうよね」 「その上で...
ヒトの“自己免疫疾患”を制御するには、数千万個の“T-reg細胞”が必要と言われま す...“T-reg細胞”というのは、もともと数が少ないわけで、そもそも個人の血液から、 これだけの数の“T-reg細胞”を採取するのは不可能なのです」 「うーん...それで培養が必要なわけね、」 「そうです。
現在、ようやくこの問題に、決着がつきそうな流れが出ています。世界各地の研究グル ープが、鋭意、研究開発を進めているわけですが、有望な報告が出ているようですね。そ れは、普通のT細胞を、いくつかの特定のシグナル伝達物質を混ぜた、“カクテル”で培 養するというものです。免疫抑制作用を持つ細胞を、かなり大量に作ることができるようで す。
こうして作られた細胞は、“Tr1細胞”といいますが...“T-reg細胞”と同じかどうか は、まだ分かっていないようです。今後の研究課題なのでしょうか。しかし、強力な免疫 抑制作用を持つことは、間違いないようです」 「ふーん...」マチコが、腕組みをした。「単に、それでいいというわけには、いかないわ けね、」 「まあ、そうかも知れませんが...医学的には、キチンとしておく必要があります」 「うん、そうよね」 「ええ...」アンが言った。「それから、現在では...“Foxp3”分子が、“T-reg細胞” の発達や機能をコントロールする、重要な分子であることが分かっているわけです...
そこで...別タイプのT細胞に、“Foxp3”遺伝子を導入すれば、目的の制御性細胞 を、大量に作ることも可能なはずです。多くの研究グループが、熱心にこのアプローチを 進めているようです...
また、“T-reg細胞”の成熟過程で...“Foxp3”が“作られはじめるスイッチ”となっ ている分子を、特定しようという研究も、行われているようです。もし、この分子が特定さ れれば、“Foxp3”の“産生をコントロールする薬”の開発につながります」 「はい、」 「こうした薬ができれば、“T-reg細胞”を体外で培養し、また身体へ戻すという面倒な作 業は、必要なくなるのかも知れませんね」 「うーん...」 「さて...」外山が、モニターから顔を上げた。「臓器移植について、少し話しましょう...
これは、移植を受ける患者から、あらかじめ採取しておいた“T-reg細胞”を、臓器提 供者/ドナーの細胞と一緒に培養します。こうすることで、拒絶反応を抑える能力の高い “T-reg細胞”を、増殖させようというものです...
ドナーの細胞というのは、もう少し詳しく言うと白血球ですね...この白血球には、ドナ
ー特有の抗原があります。成長因子を加えた培地で、2種類の細胞を一緒に培養するこ とで、ドナーの抗原を認識できる“T-reg細胞”を増殖させるわけです。この、“T-reg細 胞”を患者に大量に移植するわけですね。こうすることで、移植された臓器は、患者本来 のT細胞の攻撃から守られます。そして患者は、免疫抑制剤の服用を、中止できるという わけです...
と、まあ...口で言うと簡単ですが...実際の実験では、そうすんなりと行くわけでは
ありません。研究開発には...膨大な情熱と、莫大な費用...そして、長い時間がかか ります」 「そうよね、」マチコが、うなづいた。 「ちなみに...マウスを使った実験では、この方法で作られた“T-reg細胞”は、うまく働 いているということです。
一例を挙げれば...皮膚移植は、通常、拒絶反応が非常に強いわけですが、こうした
“T-reg細胞”を移植時に1度注入しただけで、移植片が長期にわたって定着したそうで す。ええと...これは...参考文献の著者の一人/坂口志文が行ったものですね...
この治療法は、免疫系の他の働きには影響を及ぼしません。したがって、感染症にか かりやすくなるという心配は、無用なようです。“T-reg細胞”に関する他の多くの研究か らも、この方法は、“実際の移植医療に役立つ”ものと、考えられています...」 「うーん...」マチコが、ミミちゃんの背中に手を置いた。 <現在/臨床試験中の治療法・・・>

「ええ...」アンが言った。「現在/臨床試験中...また臨床試験が行われる可能性 のある治療法には、次のようなものがあります...
“T-reg細胞”の少減または抑制
・・・《免疫力を増強の方向》
メラノーマ(悪性黒色腫)、卵巣ガン、腎ガン <方法> (・・・減少または、抑制する方法) @/毒素をインターロイキン・2などの物質と融合させて、“T-reg細胞”に送り 込む。 A/特定の分子に結合するモノクローナル抗体で、“T-reg細胞”の細胞死を 誘導。 B/“T-reg細胞”が、腫瘍のある場所に向かうのを妨(さまた)げる。
“T-reg細胞”の体内での増殖
・・・・《免疫力を抑制の方向》
多発性硬化症、乾癬、クローン病、インスリン依存性糖尿病 <方法> (・・・体内で増殖する方法) @/T細胞レセプターの構成成分を利用したワクチンで、“T-reg細胞”の増殖 を刺激する。 A/CD・3という分子に結合するモノクローナル抗体を利用して、“T-reg細
胞”を刺激する。
“T-reg細胞”の体の外での増殖
・・・・《免疫の抑制の方向》
移植片対宿主病(移植した骨髄に含まれていた免疫細胞が、移植患者の組織を攻撃) <方法> (・・・生体の外で増殖し、生体に大量投与する方法) @/ドナーの“T-reg細胞”を、特定の抗体や成長因子と共に培養する。得ら
れた“T-reg細胞”を、移植前や移植時に投与する。あるいは、発症時に
投与する。
ええ...以上のようなものですね。ともかくガンなどでは、“T-reg細胞”の働きを弱 め、免疫力を強めるわけですから、“自己免疫反応”が起らないように、慎重な管理が必 要です」 「はい!」マチコが、コクリとうなづいた。
「ええ、マチコです! 

このページは、これで終わります。長い間、ご苦労様でした。免疫のことが、 だいぶ分かってきたのではないでしょうか。
次は、《痛みの考察》に移ります。どうぞ、今後の展開にご期待ください!」
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