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         響子の・・・ 土佐日記  

  )  <国府 ~ 大湊/12月21日 ~ 1月7日>

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 10月11日

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(1)

★ プロローグ/序章 ★ (1)


「ええ、響子です…

『響子の・・・小倉百人一首』 は…思いの外長く2年以上もかかってしまいました。

100首の歌だけではなく、歴史背景なども書いた事から、長くなってしまいました。

ひと休みしましたので…今度は、紀貫之(きのつらゆき)『土佐日記』(とさにっき)の方を、

(のぞ)いてみようと思います…」

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(2)

★ プロローグ/序章 ★ (2)


「さあ、そもそも…

『土佐日記』とは…どの様な古典なのでしょうか。日本文学源流古典ですから、ワク

ワク します!

『土佐日記』とは…平安時代成立した日記文学1つです。これは紀貫之が、土佐国

(とさのくに/現在の高知県)から、京/都帰る途中に起きた出来事を、虚構を交えて綴(つづ)

ったものです」

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(3)

★ プロローグ/序章 ★ (3)


成立は…

承平5年/935年頃と言われます。古くは…『土左日記』表記されていたと言います。

さあ、まず…作者/紀貫之とは、どの様な人物かというと…

『小倉百人一首』

【35番→ 紀貫之】(きのつらゆき/平安時代前期の歌人。『古今集/古今和歌集』の選者の1人。また三十六

                 歌仙の1人。紀友則は従兄弟。散文作品として、『土佐日記』があります。日本文学史上、

                 少なくとも、歌人としては、最大の敬意を払われてきた人物です。


★ 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける



岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(4)

★ プロローグ/序章 ★ (4)

 

< あなたは、さあ…

       どんなお心か、分かりませんが…

             この昔なじみの故郷では…

                    そこに咲く花は、昔と変わらずに…

                          良い匂いで、私を迎えてくれますねえ…〉


…の作者です。

『土佐日記』 は…日本文学史上最初日記文学と言われます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(5)

★ プロローグ/序章 ★ (5)


紀行文(きこうぶん/旅行記、道中記)に近い要素を持っていて、後の仮名による表現/特に女

流文学発達に、大きな影響を与えたと言われます。

延長8年/930年~承平4年/934年にかけて、紀貫之土佐国国司(こくし/古代から

中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏。四等官/四等官制で、守(かみ/長官)

、介(すけ/次官)、掾(じょう/判官)、目(さかん/主典)を指す)として赴任していました。その任期を終

え、土佐から京/都へ帰る55日間旅路ですね。



岡田健吉‏@zu5kokd1
 紀貫之
 

《響子の・・・土佐日記》・・・(6)

★ プロローグ/序章 ★ (6)


あ、そうそう…本文に入る前に、もう1言、言っておきましょうか。

書き手を、女性仮託している事…ほとんどを仮名日記風に綴ってあり…57首

を含む事です。

さあ…私/響子も…『土佐日記』 は、全くの初めて触れる古典になります。一体、どん

な事が書かれているのでしょうか。


 

 10月12日



岡田健吉‏@zu5kokd1
 紀貫之
 

《響子の・・・土佐日記》・・・(7)

十二月 二十一日 /(原文・1)


男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。それの年の十二月の二十日あ

まり一日の日の、戌(いぬ/ 十二支のひとつ。通常十二支の中で第11番目に数えられる。)の時(/戌の刻・・・

現在の、午後8時の前後2時間頃を指す)に門出す。そのよし、いささかにものに書きつく。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(8)

十二月 二十一日 /(現代語訳・1)


男もする
(書く)という日記というものを、女(の私)もしてみようかと思って、する(書く)

である。ある年の十二月二十一日の午後八時頃に(土佐の国府を)出立する。その次

(しだい)を、少しものに書きつける

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(9)

十二月 二十一日 /(響子の言葉・1)


「うーん…」響子が言った。「任地

土佐国府出発するくだりから、書き出していますが…午後八時頃出発するの

でしょうか…?

すると…徒歩ではなく…なのでしょうか?

ともかく…ここが書き出しなので…まずは、少し先まで見てみましょうか…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(10)

二十一日 /(原文・2)


ある人、県の四年五年はてて、例のことどもみなしをへて、解由(げゆ/奈良・平安時代において、

官人が任期満了で交代の事務引き継ぎをすること。)などとりて、住む館より出でて、舟にのるべきとこ

ろへ渡る。かれこれ、知る知らぬ送りす。年ごろよく比べつる人々なむ、別れがたく思ひ

て、日しきりに、とかくしつつののしるうちに、夜ふけぬ。



 10月13日

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(11)

十二月 二十一日  (現代語訳・2-1)


ある人が、任国の四、五年
(の勤務)を終えて、定例のこと(引継)も全て完了して、解由

状などをうけとって、住んでいる官舎から出て、船に乗ることになっている所へ行く。あの

人この人、面識のある人ない人が、見送りする。 長年、たいそう親しく…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(12)

十二月 二十一日  (現代語訳・2-2)


…つき合ってきた人々は、とくに別れ難く思って、一日中、あれこれしながら騒いでいるう

ちに、夜は更けてしまった。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(13)

十二月 二十一日  (響子の言葉・2)


「ここまで読むと…背景事情が分かってきます。

解由状を受け取り、身支度して、官舎を引き払い、へ行くわけですね。名残り惜しく

も、都へ帰ることの喜びも、交錯するわけですね。

では…別れの宴が張られ、騒いでいる内に、夜も更けていった様です。

 



岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(14)

二十二日  (原文・3)

二十二日に、和泉の国(いずみのくに/現在の大阪府南部・・・大阪府和泉市の市名は、かつて市内府中町に

国府があったことに由来する。)までと、たひらかに願立つ。藤原のときざね、舟路なれど馬のは

なむけす。上中下、酔ひあきて、いとあやしく、潮海のほとりにてあざれあへり。

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(15)

二十二日  (現代語訳・3)


二十二日に、和泉の国まで平穏にと、
(神仏に)願を立てる。藤原のときざねが、船旅で

あるのに馬のはなむけをする。身分の上中下(を問わず)、十分に酔って、たいへん妙な

ことに、海のほとりでふざけ合っている。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(16)

二十二日  (響子の言葉・3)


「うーん…

しっかりと、道中無事を、願かけするわけですね。朝廷威信をかけた道中ですから、

それなりに、恵まれた旅なのでしょう。でも、海や天候の荒れ病気不慮の出来事など、

当時は、をするのは命がけです。

奉公に出る人々なども、同行したのでしょうか。

 



 10月14日


岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(17)

二十三日  (原文・4-1)


二十三日。八木のやすのりといふ人あり。この人、国にかならずしもいひつかふものにも

あらざなり。これぞたたはしきやうにて馬のはなむけしたる。守がらにやあらむ、国人の

心の常として、

「今は」

とて見えなざるを、心あるものは…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(18)

二十三日  (原文・4-2)


…恥ぢずになむ来ける。これは物によりてほむるにしもあらず。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(19)

二十三日  (現代語訳・4-1)

二十三日。八木のやすのりという人がいる。この人は、国府で必ずしも召し使っている者

でもないようである。この人が、立派な様子で餞別(せんべつ)をしてくれた。国守の人柄の

せいであろうか、地元の人の心の通例として、

「今は(関係ない)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(20)

二十三日  (現代語訳・4-2)

…といって、(顔を)見せないのだが、道理をわきまえている人は、(世間体)をはばから

ずにやって来た。これは、贈り物によって褒(ほ)めるわけでは決してない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(21)

二十三日  (響子の言葉・4)

「うーん…

このエピソードは…どこかで聞いた事があると思うのですが、その原典『土佐日記』

あったわけですね。こうした折に、その人人間的本質が現れるという事でしょう。

舟旅に、馬のはなむけがあったり…作者/紀貫之さんの、人間性ユーモア(/人間生活に

にじみ出る、おかしみ。上品なしゃれ。)が見えて来ます」



 10月15日


岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(22)

二十四日  (原文・5)


二十四日。講師(こうじ/奈良・平安時代に、国分寺に設置された上座の僧侶のこと。後に令制国内の寺院の監督

なども行った。)、馬のはなむけに出でませり。ありとある上下、童まで酔ひしれて、一文字を

だに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(23)

二十四日  (現代語訳・5

 

二十四日。国分寺(/741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立

を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。)の住職が、餞別(せんべつ)

をしにおいでになられた。居合わせたあらゆる人々は、身分の上下を問わず、子供ま泥

酔して、一という文字さえ知らぬ(無学な)者が、足は十の文字に踏んで遊び興じる。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(24)

   二十四日  (響子の言葉・5-1


「うーん…

ようやく、『土佐日記』考察する、スタイルが固まってきました。

さて…

12月21日から数え、24日4日目になります。ここは何処なのでしょうか。現代の船

ら、21日はともかく、22日には和泉の国/大阪に着いていますよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(25)

   二十四日  (響子の言葉・5-2


でも…

土佐の国府官舎を出て、まで行っただけで…まだ土佐の港なのでしょうか?

『土佐日記』(/成立は、承平5年(935年)頃)が書かれた、平安時代別れの宴(うたげ)とは、

もかけて、行われていたのでしょうか。

うーん…

それと、当時の船旅ですから…風待ち(かぜまち/順風を待っていること)や、潮待ち(しおまち/船の

航行に適した潮を待つことも、ありますよね…」

 


 

 10月16日


岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(26)

十二月二十五日  (原文・6)


二十五日。守の館より、呼びに文もて来たなり。呼ばれていたりて、日一日、夜一夜、と

かく遊ぶやうにて、明けにけり。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(27)

十二月二十五日  (現代語訳・6)


二十五日。国守の官舎から、招待しに手紙を持ってやって来た。招かれて行って、一日

中、一晩中、あれやこれやと遊んでいて、夜が明けてしまった。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(28)

十二月二十五日  (響子の言葉・6-1)


「うーん…

やはり、まだ土佐でしたね…

かつては結婚式でも、何日もかけてするものがあった様です。特に、国と国家と家、が

結びつく政略結婚などは、この儀式の方が大切だったのでしょう。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(29)

十二月二十五日  (響子の言葉・6-2)


こうした、政略結婚による社会的結合は、古来、世界中で行われて来ました。人類文

の、社会性の力学とも言えますよね。そして対極にあるのが、戦争・確執だったわけ

です。

平安時代別れの宴も…慣習法制度化された、儀式だったのでしょうか」




 10月17日



岡田健吉‏@zu5kokd1
 紀貫之
 

《響子の・・・土佐日記》・・・(30)

二十六日  (原文・7-1)


二十六日。なほ守の館にて、あるじしののしりて、郎等までにものかづけたり。漢詩、声

あげていひけり。和歌、あるじもまらうども、ことひともいひあへりけり。漢詩はこれにえ

書かず。和歌、あるじの守の詠めりける、

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(31)

二十六日  (原文・7-2)


都出でて君にあはむと来しものを来しかひもなく別れぬるかな


となむありければ、帰る前の守の詠めりける…


しろたへの波路を遠くゆきかひてわれに似べきはたれならなくに


こと人々のもありけれど、さかしきもなかるべし。…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(32)

二十六日  (原文・7-3)


…とかくいひて、前の守、今のも、もろともに下りて、今のあるじも、前のも、手とりかはし

て、酔言に心よげなる言して、出で入りにけり。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(33)

二十六日  (現代語訳・7-1)


二十六日。依然、国守の官舎で、御馳走し、騒いで、従者にまで祝儀を与えた。漢詩を

大声で吟じた。和歌を、主人も客も他の人も詠み合った。漢詩は(女の私には嗜(たしな)

みがないので)、これには書けない。和歌は、新任の国守が詠んだというのは…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(34)

二十六日  (現代語訳・7-2)

 

★ 都出でて 君にあはむと 来しものを 来しかひもなく 別れぬるかな


都を出発して…

     あなたにお会いしようと…

          土佐に来た甲斐(かい)もなく…

               すぐに別れてしまうのだなあ…


…とあったので、帰京する前任の国守が詠んだのは…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(35)

二十六日  (現代語訳・7-3)

 

★ しろたへの 波路を遠く ゆきかひて われに似べきは たれならなくに

 

白波の立つ航路を…

         はるか遠く…

              行き違いにやって来て…

                   私と同じように…

         無事に任期を終えて…

              帰京する方は…

                   他の誰でもない…

                     貴方であるのに…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(36)

二十六日  (現代語訳・7-4)


他の人々の歌もあったけれど、すぐれたものはないようである。

あれこれ語って、前の国守、今の国守も、一緒に(庭に)おりて、今の主人(国守)も、前

(国守)も手を取り合って、酔った言葉で気持ちのよい言葉を述べて…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(37)

二十六日  (現代語訳・7-5)


(前の国守は外に)出て、(今の国守は中に)入った。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(38)

二十六日  (響子の言葉・7-1)


「うーん…

これが…本当引継ぎの宴ですね。

前日の…国分寺住職餞別に来た時は、居合わせた人々身分上下を問わず

子供まで泥酔して…とありますから、人々にとっては数年に一度めでたい酒盛りです。

その費用は、国分寺住職が…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(39)

二十六日  (響子の言葉・7-2)


…持つわけです。気前がいいかどうかは、末長く語られるわけですね。

そして、本当引継ぎ関係者だけの様です。新しい主人/国守は、前任者従者

までご祝儀(ごしゅうぎ/祝儀とは・・・時節、時期、機会や出会いなどの、人生や日常においての節目節目に金品を

贈る行為。)を与えています。

国分寺住職にしても、国守にしても…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(40)

二十六日  (響子の言葉・7-3)


…何かとものいり(物入り/・・・費用のかかること)ですが、経済はどうなっていたのでしょうか。

大きく豊かな国国守だと、任期満了ひと財産ができるとも言われますが、放漫にや

っていては何も残りません。

私服を肥やしても、上納さえキッチリとやっていれば、罰せられることは無く、国守ウマ

のある官僚ポストだった様です。

紀貫之さんも、晩年にようやく従五位下に叙されるような中流貴族です。歌人として有名

でも、官位が上がらなければ生活安定しなかった様ですね。

『枕草子』清少納言父/清原元輔(きよはらの・もとすけ)も、紀貫之と同様に三十六歌仙

歌人ですが、62歳従五位下・河内権守に叙されています。そして79歳の高齢で

後守として九州に赴き、任地83歳で亡くなっています。清少納言も父にくっついて

を回っていたようですが、結婚していたこともあり、さすがに最後の赴任には、ついて

いかなかった様ですね。

『源氏物語』紫式部父/藤原為時(ふじわらの・ためとき)も、有名な学者であり、漢詩人

ですが、国守になりたいという趣旨の漢詩を書き、それが天皇にまで届き、国守に任命

されています。さらに、その国実入りが少なく駄々をこね、越前の国配置換えしても

らったという、逸話もある様ですね。三十六歌仙有名な学者でさえ、国守を務める必

要があったのです。

一方、国分寺は、かなり豊かな様ですね。寺の財源として、僧寺には封戸50戸水田

10町尼寺には水田10町を施すこと…僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くこ

とも定められた…様ですね。でも、災害飢饉となれば、地方全体窮乏し、それなり

に…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(41)

二十六日  (響子の言葉・7-4)


大変だったのだと思います。

当時の…産業流通税制国守の権限など…調べてみれば面白いと思うのですが、こ

こではともかく、『土佐日記』を読み進んでみましょう。

あ、もう一言…ご祝儀をとありましたが…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(42)

二十六日  (響子の言葉・7-5)


宋銭(そうせん/中国の宋の貨幣)大量に流入するのは、数十年ほど後の事になります。

『土佐日記』の成立が935年頃であり、中国北宋が成立するのは960年です。宋銭

は、北宋時代鋳造された銅銭ですから。

あ、もちろん…日本にも、天武・持統天皇(じとうてんのう/第40代天武天皇の妃で、第41代天皇になる)

富本銭から、第43代/元明天皇(/天武・持統天皇の皇太子/草壁皇子の妃。天智天皇の皇女)

和同開珎(わどうかいちん)の流れが、ありますよね…」



 10月22日


岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(43)

十二月二十七日  (原文・8-1)

二十七日。大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに、京にて生まれたりし女子、

国にてにはかに失せにしかば、このごろの出で立ちいそぎをみれど、何事もいはず。京

へ帰るに、女子の亡きのみぞ悲しび恋ふる。在る人々もえ耐へず。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(44)

二十七日  (原文・8-2)

この間に、ある人の書きて出だせる歌、


都へと思ふをものの悲しきはかへらぬ人のあればなりけり


また、ある時には、


あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける


と言ひける間に、鹿児崎といふ所に…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(45)

二十七日  (原文・8-3)

…守の兄弟、また、こと人、これかれ酒なにと持て追ひ来て、磯に下りゐて、別れがたき

ことをいふ。守の館の人々のなかに、この來たる人々ぞ、心あるやうにはいはれほのめ

く。かく別れがたくいひて、かの人々の、口網ももろもちにて…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(46)

十二月二十七日  (現代語訳・8-1)

二十七日。大津から浦戸を目指して漕ぎ出す。このような中で、京で生まれた女の子が、

(土佐)国で急に死んだので、この頃の出立の準備を見ても、何も言わない。京へ帰る

のに、女の子のいないことばかりが、悲しみ、恋しく思われる。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(47)

二十七日  (現代語訳・8-2)

居合わせた人々も堪えきれない。この間に、ある人が書いて出した歌は…


都へと 思ふをものの 悲しきは かへらぬ人の あればなりけり

都へ帰るのだと思うのに…

     何となく悲しいのは…

         一緒に帰らない人が…

              いるからであったなあ…


また、ある時には…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(48)

二十七日  (現代語訳・8-3)

あるものと 忘れつつなほ なき人を いづらと問ふぞ 悲しかりける


生きているものと…

      死んだことを忘れてしまって…

            今、なお…

      その子が何処に居るのかと…

            尋ねるのは…

                   悲しいことだなあ…



…と言っている間に、鹿児の崎という所で、新任の国守の兄弟、また、他の人、この人あ

の人が…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(49)

二十七日  (現代語訳・8-4)

…酒などを持って追いかけてきて、磯に下りて、座って、別れ難いことを言う。国守の官

舎にいる人々の中で、この来た人々が(とくに)思いやりがあるように(前国守は)ほの

めかしておっしゃる。このように別れがたく言って…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(50)

二十七日  (現代語訳・8-5)

…かの(見送りに来た)人々が、網を大勢で持つように口を揃えて、この海辺でやっと作

り出した歌は…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(51)

十二月二十七日  (響子の言葉・8-1)

12月27日

7日目に…ようやく漕ぎ出し、出発ですね…

うーん…

最初に思ったのですが…原文<舟>という漢字が出て来ます。私も<船旅>という

字は使わず、あえて<舟旅>としてきました。舟の大きさ想像できますよね。<舟>

小型手漕ぎのものを言い、<船>大型動力のついたものを言います。でも、

当時大型船は、はありましたが動力は無く、手漕ぎの魯が何本も付いていたようで

す。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                      遣唐使船・・・2枚の帆と10本ほどの魯が見えます。   (ネットより画像借用)

《響子の・・・土佐日記》・・・(52)

二十七日  (響子の言葉・8-2)

遣唐使船なども、あったわけですし…

斉明天皇(()さいめい・てんのう)中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)大海人皇子(おおあまの・み

こ)と共に動座(どうざ/貴人、神輿などが座所を他に移すこと。天皇が動座すれば、都も動きます。)して九州

下った時も、それなりの規模だったと思われます。

そのの中で…

大伯皇女/大来皇女(おおくのひめみこく/・・・天智天皇の皇女/大田皇女が母であり、持統天皇の姉。大田

皇女が先に大海人皇子に嫁ぎ、妹の鸕野讃良(うのの・さらら)/持統天皇が後に嫁いでいます。姉妹で乗船していたわ

けですね。)・・・伊勢神宮の初代斎王/斎宮(さいぐう)が、生まれているわけですね。

中大兄皇子は…第38代/天智天皇であり…


(★ 斉明天皇(さいめい・てんのう・・・

第37代/斉明天皇第35代/皇極天皇と重祚(ちょうそ/2度即位)しています。第34代/舒明天皇(じょめい・てんの

う)の皇后です。舒明天皇の先代は、聖徳太子が仕えた第33代/推古天皇になります。

ちなみに、斉明天皇は・・・蘇我入鹿(そがのいるか)の首を落とし、中臣鎌足(なかとみのかまたり)【大化の改新】をス

タートさせた、中大兄皇子、そして大海人皇子の母親です。中臣鎌足は、晩年に天智天皇から<藤原姓を賜り・・・藤原鎌

足>となり、<藤原氏の祖>となっています。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(53)

二十七日  (響子の言葉・8-3)

大海人皇子(おおあまの・みこ)第40代/天武天皇であり…その妃/后/鸕野讃良(うのの・

さらら)/持統天皇も乗っていたです。うーん…私の想像ですが、当然、1隻だけではな

いですよね…大船団だったと思います。が動くわけですから、実力者/中臣鎌足も一

緒に下向したと思われます。

余談ですが…

天智天皇晩年皇太子/大海人皇子皇位継承をめぐって都落ちし、その後、<吉

野出兵・・・壬申の乱(じんしんのらん/672年)となるわけですが…その時には実力者/

調停者/藤原鎌足は…すでに、この世にはいなかったわけですね。

あ、これも余談ですが…

斉明天皇大宰府へ下ったのは、<新羅・唐の連合軍との戦い/白村江の戦い(663

年8月)のためです。

でも…筑紫朝倉宮斉明天皇遷幸し、大戦(おおいくさ)に備えたのですが、筑紫

してすぐに、斉明天皇崩御するなど、不吉な出来事が続きます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(54)

二十七日  (響子の言葉・8-4)

…あげく…

百済王国(くだら・おうこく/・・・有名な百済観音はこの王国の名に由来します。)再興のために朝鮮に送っ

朝廷大舟団/大船団は、陸上部隊もろともに全滅します。

日本国際的・大敗戦は…

昭和20年<第2次世界大戦>敗戦と、この663年<白村江の戦い>2回

みです。そのため、世界でも稀(まれ)な、多くの歴史遺産民族遺産が、現在まで日本列

に残されました。それが、現在日本観光ブームの基盤となっています。

ええと…さあ…

大陸/朝鮮/白村江での大敗戦が判明すると…一行は、(やまと)/飛鳥京に逃げ帰

り…さらに、琵琶湖湖畔近江にまで遷都します。それほど、大陸側・連合軍

を恐れたわけです。

ともかく…それが、天智天皇近江朝です。新羅・唐連合軍に対し、太宰府には水城

(みずき/福岡県の太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれました。)が造られ、防人(さきもり)配置

れます。『万葉集-防人の歌』は、その時代のものですよね。



 10月23日

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                  当時の舟のイメージ/ “法然上人絵伝/端舟に乗る遊女”        (ネットより画像借用)

《響子の・・・土佐日記》・・・(55)

二十七日  (響子の言葉・8-5)

さて…

舟が出発したわけですが、現代人の私たちが考えるように、海原へ出て、室戸岬(むろと

みさき/高知県を代表する観光地の1つで、室戸阿南海岸国定公園に指定されている。)を回り、大阪湾に入る

わけではありません。

何隻かはまだ判明しませんが…一族郎党荷物小舟に載せ、岸沿い漁村を渡って

行くのでしょうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                  当時の舟のイメージ/ “法然上人絵伝/端舟に乗る遊女”        (ネットより画像借用)

《響子の・・・土佐日記》・・・(56)

二十七日  (響子の言葉・8-6)

私は海育ちではないので、漁村港町のことは詳しくはないのですが…土佐の南方は、

茫々とした太平洋が広がっています。

当時は、陸が見えなくなるのは、大きな恐怖だったと思われます。したがって、

沿岸張り付くように、漕ぎ進んで行ったのでしょう。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                  当時の舟のイメージ/ “法然上人絵伝/端舟に乗る遊女”        (ネットより画像借用)

《響子の・・・土佐日記》・・・(57)

二十七日  (響子の言葉・8-7)

うーん…そうですね…

当時でも…沿岸沿い海の道/海上ルートは、確立されていたと思われます。土佐の

年貢/穀物などは、このルートでまで運ばれたのでしょう。

詳しく研究してみれば、面白いのかも知れませんね。でも、ここは、 『土佐日記』 を読み

進んで行きましょう…」



 10月25日

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(58)

二十七日  (原文・9-1)


…この海辺にて担ひ出だせる歌、


をしとおもふ人やとまると葦鴨のうち群れてこそわれは来にけれ

といひてありければ、いといたくめでて、ゆく人の詠めりける、

棹させど底ひも知らぬわだつみの深き心を君に見るかな

といふ間に…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(59)

二十七日  (原文・9-2)

…楫取(かじとり)、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、はやくいなむとて、

「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」

とさわげば、舟にのりなむとす。このをりに、在る人々、をりふしにつけて、漢詩ども、時

に似つかはしきいふ。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(60)

二十七日  (現代語訳・9-1)


★ をしとおもふ 人やとまると 葦
(あし)(かも)の うち群れてこそ われは来にけれ


名残り惜しいと思う人が…

       もしここに…

             留まってくれているかと…

          葦鴨が群れるように…

                 私たちは大勢で…

                        来たことであるよ…


岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(61)

二十七日  (現代語訳・9-2)


と詠んで、(そこに)おりましたので、たいそうひどく感心して、(京へ)行く人が詠んだ歌

は…


★ 棹
(さお)させど 底ひも知らぬ わだつみ(海神)の 深き心を 君に見るかな



岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(62)

二十七日  (現代語訳・9-3)

(さお)をさしても…

          底もわからない…

                大海の深さと同様の…

             深い心遣いを…

                 あなたに感じることだよ…


と詠む間に、楫取
(かじとり)/船頭は、ものの情趣も分からないで、自分は酒を飲んでし

まったので、早く行ってしまおうとして、

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(63)

二十七日  (現代語訳・9-4)


「潮が満ちた。風も吹くだろう」

と騒ぐと、舟に乗ろうとする。この時に居合わせた人々は、その場に合わせて、漢詩など

その時にふさわしいものを吟(ぎん)じる。


岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(64)

二十七日  (響子の言葉・9-1)


当時様子が、目に浮かびます…

(いにしえ)の時代には、会うも別れも<一期一会>(いちごいちえ/茶道で・・・一生に一度の出会い

であるということを心得て、亭主・客ともに、互いに誠意を尽くす心構え。)なのです。から遠く離れた任地

旅の途上では、別れたら二度と会うことはありません。そして、それを承知していて、

キリッと、襟を正し、生きて行くのです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(65)

二十七日  (響子の言葉・9-2)

貫之さんも、『土佐日記』の中で記しています。

もう会うことはないのだから…任期を終えた国守は、関係ないという態度の人々…その

一方、八木のやすのりという人は、国府召抱える者ではないけれど、立派な様子

をしてくれた、と。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(66)

二十七日  (響子の言葉・9-3)

貫之さんの心に残ったのは、そういう人だったのです。こうした人々が、(りん)とした

本文化を育んできたわけです。

でも…いつの時代でもそうですが、こうした風雅と逆行するような、即物的な人々も、常

にいるわけですね」



 10月28日

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(67)

二十七日  (原文・10)

またある人、西国なれど甲斐歌などいふ。かくうたふに、

「舟屋形の塵も散り、空ゆく雲も漂ひぬ」

とぞいふなる。こよひ浦戸にとまる。藤原のときざね、橘のすゑひら、こと人々追ひ来た

り。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(68)

二十七日  (現代語訳・10)

また、ある人は、(ここは)西国であるけれど、(東国の)甲斐歌などを歌う。このように歌

うので、

「舟屋形の塵も散り、空を行く雲も漂ってしまう」

と言っているようだ。今夜は浦戸に泊まる。藤原のときざね、橘のすえひら、そのほかの

人々も追ってきた。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(69)

二十七日  (響子の言葉・10)

別れの風景は、基本的今と違いはない様ですね。西国甲斐/山梨県をうたう

など、トンチンカンなあたり似ています。

藤原のときざね橘のすえひら、その他も追って来た、とありますが…うーん…これは、や

はり…舟で追ってきたと考えるべきでしょうか…?この一帯は、まだ、土佐国内部です

よね…」

 


 10月29日


岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(70)

二十八日  (原文・11)


二十八日。浦戸より漕ぎ出でて、大湊を追ふ。この間に、はやくの守の子、山口のちみ

ね、酒、よきものども持て来て、舟に入れたり。ゆくゆく飲み食ふ。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(71)

二十八日 (現代語訳・11)


二十八日。浦戸から漕ぎ出して、大湊を目指す。この間に、以前の国守の子、山口のち

みねが、酒や旨(うま)い物などを持って来て、舟に差し入れした。行く行く飲み食いする。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(72)

二十八日 (響子の言葉・11)


「うーん…

以前国守の子とは…どの様な身分人物なのでしょうか。任期を終えた国守を送ると

ころを見ると、それなりの身分がある様ですね。そして、への差し入れですから、その

辺りで、岸へ寄った時でしょうか…」

 


岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(73)

二十九日 (原文・12)


二十九日。大湊
(おおみなと)にとまれり。くすし、ふりはへて、屠蘇(とそ)、白散(びゃくさん)、酒

くはへて持て来たり。こころざしあるに似たり。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(74)

二十九日 (現代語訳・12)


二十九日。大湊に泊まっている。医者がわざわざ屠蘇、白散に酒を加えて持って来た。

誠意ある人のようだ。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(75)

二十九日 (響子の言葉・12-1)


<くすし>というのは、医者のことですね。

かつて、昭和天皇御製歌に、<くすし>が出て来たのを覚えています。

うーん…この<くすし>というのは、一定の身分のある人なのでしょう。わざわざ、義理

がたく、を差し入れしているわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(76)

二十九日 (響子の言葉・12-2)


<屠蘇/とそ>は…お屠蘇(おとそ)のことです。1年間邪気を払い、長寿を願って正月

に呑む、縁起物の酒です。うーん…大晦日(おおみそか)も近いわけですね。

<白散/びゃくさん>は…新しい年健康を祈って、屠蘇と共に元旦に服用する散薬

です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(77)

二十九日 (響子の言葉・12-3)


これは…<白朮/びゃくじゅつ><桔梗/ききょう><細辛/さいしん>などを

刻み、等分に調合したものです。

<くすし>らしい気遣いですね…4年余りの任期の間に、<くすし>とは、様々な付き

合いがあったわけですね。べつに、餞別しなくてもいい身分なのでしょうが、日記の作者

/女性は、この<くすし>を、誠意のある人のようだと、評しています…」

 


 11月 4日


岡田健吉‏@zu5kokd1     

                          当時の航海     (/ネットより画像を借用 )      

《響子の・・・土佐日記》・・・(78)

一月 一日  (原文・13-1)


元旦。なほ同じ泊
(とまり)なり。白散(ひゃくさん)をあるもの、

「夜(よ)の間(ま)

とて、舟屋形(ふなやかた)にさしはさめりければ、風に吹きならさせて、海に入れて、え飲ま

ずなりぬ。芋茎(いもし)、荒布(あらめ)も歯がた(はがた)めもなし。かうやうのものなき国なり。

求めしもおかず。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   

                          当時の航海     (/ネットより画像を借用 )      

《響子の・・・土佐日記》・・・(79)

一月 一日  (原文・13-2)


ただ押鮎(おしあゆ)の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を、押鮎もし思ふやうあらやむ。

「けふは都のみぞ思ひやらるる。小家(こへ)の門(かど)のしりくべなは(縄)の鯔(なよし/ぼ

ら)の頭、ひひらぎ(柊)らいかにぞ」

とぞいひあへなる。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                                              大湊泊             (/ネットより画像借用 )

《響子の・・・土佐日記》・・・(80)

一月 一日  (現代語訳・13-1)


元日。依然(いぜん)、同じ港である。白散をある者が、

「夜の間だけだから」

といって、舟屋形にさしはさんでおいたところ、風に吹かれるままにして、海に落として、

飲めなくなってしまった。芋茎(いもし)、荒布(あらめ)も歯固めもない。このような…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   

                                          当時の地図             (/ネットより画像借用 )

《響子の・・・土佐日記》・・・(81)

一月 一日  (現代語訳・13-2)


…もののない国である。用意もしておかない。ただ押鮎(おしあゆ)の口を吸うだけである。

この吸う人々の口を、押鮎は、もしかしたら(何か)思うようなことがあろうか。

「今日は、都のことばかりが思いやられる。小家の門のしめ縄の鯔(ぼら)の頭・・・

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

                                              当時の地図             (/ネットより画像借用 )

《響子の・・・土佐日記》・・・(82)

一月 一日  (現代語訳・13-3)


…柊(ひいらぎ)などはどのようであろう」

と、言い合っているようだ。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1        

《響子の・・・土佐日記》・・・(83)

一月 一日  (響子の言葉・13-1)


「うーん…

(いにしえ)の航海では天候は、(あらが)ことのできない、大自然の猛威だっ

たわけですね。そのものも、茫漠として、果てしの無いものでした。

さて…

白散(びゃくさん)を海に落としてしまった話がありますが、これは<くすし/医師>が、差

し入れした元旦用お屠蘇(おとそ)散薬(さんやく)ですよね。大事にしていて…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1               

                                         屠蘇白散/とそびゃくさん (/ネットより画像借用 )

《響子の・・・土佐日記》・・・(84)

一月 一日  (響子の言葉・13-2)


に落としてしまうのは、笑えますよね。舟旅なのに<馬のはなむけ
(/古代、旅に出る人

の安全を祈って、出発時にその人の乗馬の鼻を行き先の方に向けた習慣・・・ここから、旅立つ人に餞別の金品を送ったり、

送別の宴を張ったりすること。の話があったり、作者/書き手女性とも思えない様なユーモ

が感じられます。

<芋茎、荒布も歯固めもない。このようなもののない国である。>…とありますが…



 11月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(85)

一月 一日  (響子の言葉・13-3)


<芋茎/いもし>とは里芋(くき)干したもの<荒布/あらめ>とは海藻

一種です。<歯固め>とは、正月の三が日、長寿を祈って神に供えた、大根・真菰(まこ

も)・押鮎(おしあゆ)・猪肉(ししにく)・鹿肉などの、食べ物を食べる行事だそうです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(86)

一月 一日  (響子の言葉・13-4)


ホホ…私は<歯固め>というから、を磨く焼塩のような物か、小枝の爪楊枝(つまよう

じ)などの小道具かと考えていました。

でも、要するに…正月の行事に食べる定番のご馳走のことですね。平安中期以降には、

これらに鏡餅(かがみもち)も加えられたそうです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                            柊鰯/ひいらぎ・いわし    注連縄/しめなわ ・・・(/ネットより画像借用)

《響子の・・・土佐日記》・・・(87)

一月 一日  (響子の言葉・13-5)


<押鮎/おしあゆ>とは、塩漬けにして重石(おもし)で押した鮎の事です。これは、舟旅

に積み込んでいたのでしょうか。このくだりも、ユーモラス(/ユーモアのあるさま)ですよ

ね。

それから…正月風景を偲んでいます。(かど)には注連縄(しめなわ)が飾られ、鯔(ぼら)

の頭や、柊(ひいらぎ)が差してあるわけですね。



 11月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1   

               柊鰯/ひいらぎ・いわし    注連縄/しめなわ ・・・(/ネットより画像借用)

《響子の・・・土佐日記》・・・(88)

一月 一日  (響子の言葉・13-6)


<柊(ひいらぎ)と鰯(いわし)/イワシの頭>画像を、下に表示しておきました。当時は、

<柊と鯔(ぼら)/ボラの頭>だったのですね。

ボラは…

実は、私は投げ釣りで釣った事があるのですが…水面にピョンピョンと跳ねる魚で、

大型のマスぐらいもあります。イワシよりも相当に大きくなりますよね。

ボラは…出世魚(/成長するにつれて、名前の変わる魚)で、熱帯・温帯域に広く分布する魚で、沿

でよく見られるのは50cmぐらいまでだそうです。

うーん…イワシではなく、ボラ元旦の門に飾ったのは、貴族社会での出世縁起

を担いだもの…なのでしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(89)

一月 一日  (響子の言葉・13-7)


ともかく…

(かど)に、注連縄(しめなわ)と、(ひいらぎ)と、ボラの頭を、飾り付けた様ですね。その

を気にかけています。そうした風習が、お洒落(おしゃれ)だったわけですね。

<小家(こへ/小さな家)の門(かど)とありますが、貫之さん中堅クラス貴族です。

邸宅ではないにせよ、それなりに、ひとかどのお屋敷だったのでしょう。

それでも…当時の…はるかな(いにしえ)の…郷愁の素朴さが、偲ばれます…」

 


 11月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(93)

四日  (原文・16)

四日。風ふけば、え出でたたず。まさつら、酒、よき物たてまつれり。このかうやうに物も

てくる人に、なほしもえあらで、いささけわざせさす。ものもなし。にぎははしきやうなれ

ど、まくる心地す。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(94)

四日  (現代語訳・16)

四日。風が吹くので、出港できない。まさつらが、お酒や旨い物を献上した。このように

物を持って来る人に、少しの返礼をさせる。(とはいえ)ろくな物もない。(贈り物は)豊富

なようだが、(返礼が貧弱なので)気が引けてしまう。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(95)

四日  (響子の言葉・16)


「うーん…

国分寺住職以外にも、色々と差し入れがあるわけですね。でも、その場合には、返礼

をしている様ですね。その返礼の品に、苦慮している様です。

結局それは…如何に愛され如何によく面倒を見てきたか、に尽きるのでしょうか。」

 


 11月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(96)

五日  (原文・17)


五日。風波やまねば、なほ同じ所にあり。人々たえずとぶらひにく。



六日  (原文・18)



六日。きのふのごとし。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(97)

五日  (現代語訳・17)


五日。風や波がやまないので、依然、同じ所にいる。人々が絶えず訪ねて来る。


六日  (現代語訳・18)


六日。昨日の通りである

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(98)

五日 (響子の言葉・17)


「うーん…訪ねて来る人が多い様です。物入り
(ものいり/費用のかかること)でもあり…気も休ま

ませんね。この賑やかさも、国守交代なればこそです…」

六日 (現代語訳・18)

(いにしえ)の舟旅は…楽チンではあっても、風・波・天候待ちが、大変の様ですね…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(99)

一月七日  (原文・19)


七日になりぬ。同じ港にあり。今日は白馬(あおうま)を思へど、かひなし。ただ波の白きの

ぞみ見ゆる。かかるあひだに、人の家の、池と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめ

て、川のも海のも、ことものども、長櫃(ながびつ/衣服・調度を入れる形の細長い櫃。棒を通して二人で担

ぐ。)に担ひつづけておこせたり。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(100)

一月七日  (原文・19-2)


若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、



浅茅生
(あさじう/丈の低い茅
(ちがや)が生えている場所)

          野辺にしあれば水もなき池に摘みつる若菜なりけり


いとをかしかし。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(101)

一月七日  (原文・19-3)


この池といふは、所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃の

物は、みな人、童までにくれたれば、飽きみちて、舟子ども腹鼓を打ちて、海をさへおど

ろかして、波立てつべし。


 

 11月11日

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(102)

一月七日  (現代語訳・19-1)


七日になった。同じ港にいる。今日は、白馬の節会
(あおうまのせちえ)を思うが、無駄であ

る。ただ波の白さだけが見える。

こうしている間に、(ある)人の家で、池という地名がある所から鯉はなくて、鮒から始め

て、川の(魚)も、海の(魚)も…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(103)

一月七日  (現代語訳・19-2)


…その他の物などを、長櫃
(ながびつ)に入れて、担ぎ続けて、送ってよこした。若菜が(七

草の節句である)今日を知らせてくれた。歌がある。その歌は、

 

( 池という地名ではあるが )

浅茅が生えている…

  野原であるから…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(104)

一月七日  (現代語訳・19-3)

 

        水もない池で摘んだ…

             若菜なのだよ…


たいそう趣がある。この池というのは、土地の名である。身分の高い婦人が夫に従って

下向して、住んでいたのである。この長櫃の(中の)ものは、全員、子供にまでやったの

で、満腹になって…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(105)

一月七日  (現代語訳・19-4)

…水夫どもは腹鼓
(はらつづみ)を打って、海までも驚かせて、波を立ててしまいそうである。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(106)

一月七日  (響子の言葉・19-1)


「まだ、同じ港/大湊ですね…

今日は<白馬の節会>(あおうまのせちえ)のことを思いますが、帰京の舟の上ではど

うにもならないと、ボヤいています。<ただ、波の白きのみぞ見ゆる>というのは、

緒的ですね。

<白馬の節会/あおうまのせちえ>とは…1月7日天皇<豊楽院/後の紫宸

殿(ししんでん)出御(しゅつぎょ)して…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(107)

一月七日  (響子の言葉・19-2)


邪気(はら)とされる白馬を庭に引き出し、群臣らとを催すものです。これは群臣

として参加した、中堅貴族貫之さん自身記憶なのでしょう。

また…長櫃(ながびつ)に入れた大量差し入れがあります。うーん…差し入れた人は

なのでしょうか?

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(108)

一月七日  (響子の言葉・19-3)


という地名のある所からと、名前(はばか)っている様子ですが、その地方有力豪

なのでしょうか。

身分の高い婦人が、に従って下向して住んでいた、というのがミソですよね。身分の高

い婦人とは、内親王(ないしんのう/皇族女子)とかなのでしょうか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(109)

一月七日  (響子の言葉・19-4)


ほほ…ともかく土佐国では、地名を言えば周知の人の様ですね。思うに、地名というの

も、その高貴な人封地(ほうち/諸侯に封ぜられた土地なのでしょうか?

謎めいた人存在想像が広がります。国守は、そういう下向した高貴な人々を、庇護

するのも、任務の内なのでしょう。



 11月12日

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(110)

一月七日  (響子の言葉・19-5)


<担ひつづけておこせたり/・・・担ぎ続けて、送ってよこしたとあり、少し遠い所

ら来たのでしょうか。気前が良く、裕福そうですね。相手歌人貫之さんと承知で、

が添えられています。これは、高貴な婦人の方のなのでしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                    浅茅・・・茅(ちがや)/イネ科チガヤ属の植物。古来より親しまれた雑草です。

《響子の・・・土佐日記》・・・(111)

一月七日  (響子の言葉・19-6)


は…


★ 浅茅生(あさじう)の 野辺にしあれば 水もなき 池に摘みつる 若菜なりけり


この<池>とつく地名は、浅茅(まばらに生えた、または、丈の低いチガヤ)が生えていて、池の鯉

いなくても、(ふな)の住む水溜りはあるのでしょうか。ほほ…私/響子勝手な想像

す。をの贈られた…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(112)

一月七日  (響子の言葉・19-7)


貫之さんは、若菜という言葉から、今日<七草の節句>である事を思い出します。

長櫃(ながびつ)で担いできたわけで、正月7日ご馳走はタップリとあり、子供舟子たち

もたらふく食べた様子です。差し入れ側も、事前の準備をしてきたのでしょう。

 

★ 五節句・・・

1月7日/人日(じんじつ)・・・<七草の節句> 七草粥を食べる日。邪気を祓って、1年の無事を祈る。

3月3日/上巳(じょうし) ・・・<桃の節句>   ひな祭り。禊/ミソギをして穢/ケガれを払い、身代わりの人形に汚れを

                              移し河川や海に流す。

5月5日/端午(たんご) ・・・<菖蒲/ショウブの節句> 古くは薬草摘みの日。男子の立身出世を願う日。

7月7日/七夕(しちせき)・・・<笹の節句>  織り姫/織女星とひこ星/牽牛星が、1年に一度、天の川にかかる<カサ

                              サギの群れが作る橋>の上で、出会う日。

9月9日/重陽(ちょうよう)・・・<菊の節句> <九>は易によれば<陽数の極>にあたり、これが重なり、非常にめでたい

                             日。菊の花を飾り、邪気を祓って、長寿を祈る。



 11月15日

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(113)

一月七日  (原文・19-4)


かくて、このあひだに事おほかり。今日、破籠
(破子/わりご/・・・ヒノキなどの白木を薄くはいだ板で作

られた運搬用食器。)持たせて来たる人、その名などぞや、今思ひ出でむ。この人、歌詠まむ

と思ふ心ありてなりけり。とかくいひいひて、

「波の立つなること」

とうるへいひて、詠める歌、

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(114)

一月七日  (原文・19-5)


ゆくさきに立つ白波の声よりもおくれて泣かむわれやまさらむ



とぞ詠める。いと大声なるべし。持てきたる物よりは、歌はいかがあらむ。この歌を、こ

れかれあはれがれども、一人も返しせず。しつべき人もまじれれど…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(115)

一月七日  (原文・19-6)


…これをのみいたがり、物をのみ食ひて、夜ふけぬ。この歌主、

「まだ罷(まか)らず」

と言ひて立ちぬ。ある人の子の童なる、ひそかにいふ。

「まろ、この歌の返しせむ」

といふ。驚きて、

「いとをかしきことかな。…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(116)

一月七日  (原文・19-7)


…詠みてむやは。詠みつべくは、はやいへかし」

といふ。

「『罷(まか)らず』とてたちぬる人を待ちて詠まむ」

とて、求めけるを、夜ふけぬとにやありけむ、やがていにけり。

「そもそもいかが詠んだる」

といぶかしがりて問ふ。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(117)

一月七日  (原文・19-8)


この童、さすがに恥ぢていはず。しひて問へば、いへる歌、



ゆく人もとまるも袖の涙川みぎはのみこそ濡れまさりけれ



となむ詠める。かくはいふものか。うつくしければにやあらむ、いと思はずなり。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(118)

一月七日  (原文・19-9)


「童言(わらはごと)にては何かはせむ。嫗(おうな、おむな/・・・老女)、翁(おきな/・・・老人)、手おし

つべし。悪しくもあれ、いかにもあれ、たよりあらばやらむ」

とて、おかれぬめり。



 11月16日

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(119)

一月七日  (現代語訳・19-5)

こうして、この間に出来事が多かった。今日、(従者に)弁当箱を持たせて来た人、その

名前などは、今、思い出すであろう。この人は、(私と)歌を詠もうという下心があっての

ことである。あれこれと話し話しして、…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(120)

一月七日  (現代語訳・19-6)


「波が立つようだな」

としめっぽく言って、詠んだ歌、


★ ゆくさきに 立つ白波の 声よりも おくれて泣かむ われやまさらむ


行く先に…

      立つ白波の音よりも…

             死に遅れて…

                   泣くだろう…

           私の声の方が…

                 大きいだろう…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(121)

一月七日  (現代語訳・19-7)


と詠んだ。たいそう大きな声であるにちがいない。持ってきた食べ物よりは、歌はどのよ

うであろう。この歌を、この人あの人が感心するけれども、一人も返歌をしない。できる

はずの人もまじっているけれど…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(122)

一月七日  (現代語訳・19-8)


…これを感心ばかりし、御馳走だけを食べて、夜が更けてしまった。この歌の主は、

「まだ、おいとまはいたしません」

と言って、立ってしまった。ある人の子で、幼い者がこっそりと言う。

「私が、この歌の返しをしよう」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(123)

一月七日  (現代語訳・19-9)


と言う。驚いて、

「たいへん面白いことだな。詠めるだろうか。詠めるのなら、早く言ってみろよ」

と言う。

「『おいとまいたしません』と言って立った人を待って、詠みましょう」

ということで、捜したが、夜がふけて…



 11月17日

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(124)

一月七日  (現代語訳・19-10)


…しまったからであろうか、そのまま帰ってしまった。

「いったい、どのように詠んだのか」

と気がかりに思って質問する。この子供は、さすがに恥ずかしがって言わない。むりに

尋ねると、言った歌は、

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(125)

一月七日  (現代語訳・19-11)


★ ゆく人も とまるも袖の 涙川 みぎは(汀/みずぎわ)のみこそ 濡れまさりけれ


去る人も…

      留まる人も…

            袖に流れる涙の川の…

         水際ばかりが…

               いよいよ濡れてゆくことだなあ…


と詠んだ。
(子供が)このように(上手く)読むものだろうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(126)

一月七日  (現代語訳・19-12)


…全く思いがけないことである。

「子供の作とあっては何ともしようがないことだろう。(おうな)/お婆さん、(おきな)/お

爺さんが、署名をしたらいいだろう。悪かろうが、どのようであろうが、機会があれば(贈

って)やろう」

と言って…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(127)

一月七日  (現代語訳・19-13)


(とって)おかれたようだ。



 11月18日

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(128)

一月七日  (響子の言葉・19-8)


「うーん…

『土佐日記』紀貫之さんも…1月7日ですから、真冬ですよね。でも、南国/土佐国

せいか、寒さというのは伝わって来ません。

私は…からずっと、 《軽井沢基地》 滞在しているのですが…ここでは、が深くな

って来ています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(129)

一月七日  (響子の言葉・19-9)


私/響子短歌は…作歌はごくわずかしかありませんが…この季節に、軽井沢を詠ん

があります。2002年11月2日…のものです。


★ 御仏の 落葉松散りし 軽井沢 朝な夕なに 冬忍び寄り
    (みほとけ)    (からまつ) (ち)


          
<軽井沢基地・朝の散歩道にて、/里中 響子>・・・・・・・・ <詳しくは・・・ジャンプ>

          <2002.11.02/ 全アップロードの中からその日の情景 >・・・・・・・・ <詳しくは・・・ジャンプ>


うーん…14年前ですか…懐かしいですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(130)

一月七日  (響子の言葉・19-10)


ええ、それにしても…

<二十九日。大湊にとまれり。>とあり…

1月7日大湊ですから、もう10日目です。

外海で、太平洋に面しているとはいえ、(しお)待ち・日和(ひよ)り待ちが長いですね。

(ろ)動力の小舟で…南方無限の大海原

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(131)

一月七日  (響子の言葉・19-11)


…絶対に無理はできません。(いにしえ)の時代は、死の危険常に隣にありました。

現代の様に…

携帯電話1本で繋がり、子供何処にいるか分からない…という様な、絶対的安心感

論外です。人々は常に覚悟を持って、真剣に、<一期一会(いちごいちえ)を生きていた

のです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(132)

一月七日  (響子の言葉・19-12)


うーん…でもさすがに、10日は長かった様ですね。

この間に、多くの事が起こった…とあります。

従者に、弁当箱を持たせてやって来た人がいます。この人は、歌人/貫之さんを詠

もうという、下心があるのを見透かされています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(133)

一月七日  (響子の言葉・19-13)


<名前なども・・・今、思い出すであろう>と、相当に敬遠した書き様です。国守貫之

さんに、これほど敬遠され、しかも歌人/貫之さんを慕って、一緒にを詠みたい、とい

う…

まず、この人身分は、従者を連れている事から…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(134)

一月七日  (響子の言葉・19-14)


土佐国下役人(したやくにん/身分の低い役人)あたりでしょうか。そして歌の席で、何度か

悶着(もんちゃく/もめごと)くり返したのでしょうか…

それとも…役人としてメンツの立たない、人に嫌われる不祥事を、していたのでしょうか。

でも、貫之さんの所へ、選別に来れるはあるのわけですよね…

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(135)

一月七日  (響子の言葉・19-15)


この人を詠んでも…皆、感心はするけれど、誰も返歌をしません。そして御馳走

かり食べています。

あ、<破籠(破子/わりご/・・・ヒノキなどの白木を薄くはいだ板で作られた運搬用の食器。)というのは

弁当箱と訳されていますが、現代風自分だけの弁当箱ではなく、みんなで食べるご馳

が詰まっていたのでしょうか。だから、皆でそのご馳走を食べ、しきりに歌に感心して

いたのでしょうか。

うーん…<古典における・・・七不思議の様な情景>ですよね。

それから…<まだ帰りませんから>と断りを入れ、を立ちます。これは、返歌期待

しているわけですよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(136)

一月七日  (響子の言葉・19-16)


不思議情景描写ですが…

別の角度から、貫之さん表現力に改めて脱帽です。よくも、こんなややこしい情景

みに表現したものです。しかも、ユーモアが効いてますよね。

それから…

うま過ぎる童の返歌

これも不思議な情景です。でも、和泉式部(いずみしきぶ/『小倉百人一首』・・・【56番 → 和泉式部】

の、有名な歌に…


★ 暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端(は)の月

 


 11月19日

 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(137)

一月七日  (響子の言葉・19-17)

 

(この歌は…

月の光を御仏の教えにたとえ…暗き道から暗き道へと入っていく、長い人生の道を…山の上の月のように…どこま

でもどこまでも、照らしていってほしい…と美しく、透明感を持って、純粋な気持ちで…歌っています。)


この歌
は…

性空上人(せいくう・じょうにん/平安時代中期の天台宗の僧。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属

する法華経・持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。)への結縁歌(けちえんか)

ですが…和泉式部少女の頃に詠んで、周囲を驚かせたと言われるです。

彼女は、太皇太后宮/昌子内親王(/第61代・朱雀天皇の第1皇女)付きの女童(めわらべ)で、

といえば宮廷です。彼女は、波乱万丈恋愛遍歴を重ねるわけですが、生涯、この歌

を大切に持っていたわけですね。

うーん…

紀貫之さん平安時代・前期歌人で…


★ 性空上人への結縁歌・・・

この時代は・・・『枕草子』清少納言が仕えた中宮定子と、権力者/藤原道長の娘である中宮彰子が、2人中宮として

張り合っていた時代です。両名とも、第66代/一条天皇の皇后です。強引に割り込ませたのは道長です。やがて中宮

定子は出産で亡くなり、清少納言も宮廷の局から下がります。

中宮彰子には・・・『源氏物語』紫式部『和泉式部日記』和泉式部、さらに赤染衛門【小倉百人一首/59番→赤

染衛門伊勢大輔【小倉百人一首/61番→伊勢大輔 などが仕え、女流文学が大輪の花を咲かせた時代です。でも、

<羅生門/らしょうもん>には賊がいたとも言われ、都は悪疫が猖厥(しょうけつ)を極めていたともいわれます。

そんな中・・・中宮彰子の一行が性空上人の説法を聞きに書写山(/後の播磨国/弥勒寺・・・兵庫県南西部)に登ります。

一向には和泉式部もいました。ところが・・・


                                  < 『播磨伝説異聞』 を抜粋、参照・・・ >

今日、都から七人の鬼どもが、私を訪ねて登って来る。里へ下ったと伝えなさい。いち早く中

宮一行の登山を知った性空は、側近の若い修行僧に言い捨て、奥の持仏堂に籠ってしまっ

た。

都を発ち・・・やっとの思いで播磨の書写山にまで辿り着き、性空上人にお会いできると楽しみ

にしていた中宮彰子は、あまりの残念さに涙を流した。お供の女房たちもがっかりして、すごす

ごと山を降り、嘆きつつも帰路に立とうとしていた。

――さきほどの鬼どもが、かような歌を残しました。

式部はこのとき、上人に寄せる無念さを歌に託し、堂の柱に書き残していた。気品の漂う、嘆

きの滲む、祈りの聞こえるような優れた歌だった。



         

  暗きより暗き道にぞ入りにける 

                      遥かに照らせ山の端の月   (和泉式部)

――これは、鬼どもばかりではない。急いで呼び戻しなされ。

 救済を待つ気持ちの切実さに、強く胸打たれたのだろう。性空は修行僧に命じて一行を呼び

返した。そして、ねんごろに法を説いて、こんな歌を返していた。性空の返歌だった。

  
         日は入りて月はまだ出ぬたそがれに

                      掲げて照らす法のともしび    (性空上人)


岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(138)

一月七日  (響子の言葉・19-18)


和泉式部平安時代・中期歌人ですが、この時代は学校などはなく、女童

大人に混じってを習っていたわけですね。その道のある者は、でもこうした

を詠んだのでしょうか。

ともかく…

貫之さんは、この歌についても…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   紀貫之  

《響子の・・・土佐日記》・・・(139)

一月七日  (響子の言葉・19-19)


…あえて評価回避しています。その上で、何かの機会を見つけて、(おうな)・翁(おきな)

署名をし、かの人に送ってやろうと、を残して置きます。

相当敬遠しながらも…貫之さん風流光りまよね…それにしても、奇妙な話です、」