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                  道元禅師・・・素描  

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 2013年                 上から・・・ 下へ    
 5月/18日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(1)

永平寺/曹洞宗(日本曹洞宗)の開祖。主著 『正法眼蔵』 …

道元は、鎌倉幕府を開いた源頼朝が没した、翌年に誕生しています。京都は後白河

院の後の、後鳥羽院の最盛期でした。一方、法然(ほうねん)や親鸞(しんらん)の念仏運動

は弾圧されていて、親鸞が越後に流罪になったのは、道元が8歳の時です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(2)

道元は13歳の時に比叡山に入り、天台座主の公円について授戒します。しかし、2年

足らずで山をおり、京都/建仁寺の門を叩きます。この寺は渡宋した栄西(/日本臨済宗

の祖)が、臨済宗を普及する為に建てた寺です。道元は、明全を師として修行し、入宋

求法(にっそうぐほう)の志を固めて行きます。

 

 5月/19日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(3)

道元が建仁寺で修行を始めた頃…3代将軍・実朝/頼朝の次男が、壮大な渡宋計画

を推進も、若くして暗殺されます。2年後、承久の乱が勃発。後鳥羽上皇は敗れ、隠岐

の島に流されます。

その頃…親鸞は関東にあり…日蓮が産声を上げ…24歳の道元は宋に渡ります…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

(道元禅師…素描 )・・・(4)

道元と師の明全は、渡海入宋する。思いは、日本仏教の伝統に対する絶望と言われ

る。が、中国で見たものは、同じく世俗化した仏教界の姿でした。ただ禅宗のみが、

五家七宗に分かれて繁栄していた様です。そして、天童山景徳寺に入門するも、やは

り世俗化に落胆します。


 5月/20日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(5)

道元は明全とも別れ、天童山を出て、中国の諸山を巡る求法の旅に出ます。しかし、

正師には出会えず、心は晴れません。そんな中、天童山の新しい住持に、如浄が就

任したと聞きます。如浄は座禅を重視し、その修行は峻烈をきわめたという。道元は

天童山へ帰ります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(6)

道元が、如浄に拝謁したのは26歳…如浄が63歳の時でした。道元は如浄の元で坐

禅弁道に励みます。そうしたある日、心身に透明な脱落感を得たと言います。“心身

脱落”/ 悟りが、開けた瞬間でしょう。この時、明全は病没していて、道元は新しい師を

得たのです。


 5月/21日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(7)

約4年の、宋/中国留学を終え、道元は帰国し、建仁寺に入ります。それから懐奘(え

じょう・・・日本曹洞宗の第2祖/永平寺第2世。常に道元の身辺に随身し、道元の教えを記録、その教えを広めること

につとめた)を伴い、山城の深草に移って閑居します。

この頃、興福寺と延暦寺の衆徒がコトを構え、高野山の僧徒も武装。一方、専修念仏

への弾圧が苛烈も…親鸞は東国常陸で 『教行信証』 を執筆。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(8)

(7)で…懐奘(えじょう)を伴いと記したが間違い。懐奘は建仁寺で道元に法戦を挑み、

数日に及ぶも負けを認め、師事を願い出ます。

しかしこの時は、仮住まいを理由に断られていました。そして山城の深草の草案を訪

ね、再度師事を願い出て、許されています。懐奘は2歳年上。


 5月/22日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(9)

道元が帰朝した時…鎌倉幕府は北条泰時の時代。貞永式目/御成敗式目が制定さ

れた頃です。 道元は深草で、入宋の貴重な精華を、脇目も振らずに執筆した様です。

『普勧坐禅儀』/只管打坐(しかんたざ/・・・ひたすら坐禅すること)の本質を論じたもの…続い

て『辨道法』(弁道法)で…伝統教義と念仏を批判します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(10)

『辨道法』の破邪の書に対し、『現成公案』は顕正の書と言われます。仏法の本質と

現実と内面を見つめたもので、後に 『正法眼蔵』 の冒頭に据えられる名文です。この

文章を書き上げ、道元は、自らの仏法の立ち位置を宣揚します。この後、深草から宇

治に移ります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(11)

京都/宇治では、興聖寺/日本曹洞宗の最初の寺院を開きます。本尊は釈迦三尊

の様です。

興聖寺は比叡山/延暦寺の弾圧を受け、道元が越前/永平寺の開山に向かって以

降荒廃します。住持4代で、廃絶した様です。当時の宗派対立の凄まじさが垣間見え

ます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(12)

興聖寺を開いた道元は… 『一顆明珠』 『即心是仏』 『渓声山色』 など…歴史を超

えて親しまれる独特の思考と感性の文章を、次々と書き上げて行きます。道元自身、

筆を走らせつつ、自らの思考回路と文才に、驚くこともあったのでしょうか…動/渡宋

から静の時です…


 5月/23日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(13)

道元の、坐禅・只管打坐という斬新な仏法の主張に対し、比叡山を中心とする旧仏教

勢力は、強大な圧力をかけ続けます。

道元も次第に息苦しさを感じ…天童如浄の、深山幽谷に生きよ…という言葉を想いま

す。44歳の道元は、越前の地での永平寺の開創に動きます。


 5月/24日

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(14)

道元が深山に越前の地を選んだのは、有力信者の波多野義重の知行地だったから

と言われます。ここは、加賀白山の山岳信仰圏にあり、天台と真言の勢力にも囲まれ

ていた様です。この風雪の厳しい越前で、永平寺を開創した道元は、急速に変貌して

いったようです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(15)

道元は永平寺を開創し、純粋な出家教団の創出に精力を注いだ様です。そのために

僧堂規定に関係する文書を、続々と書き上げて行きます。

実践したのは、出家主義の宣揚、只管打坐・坐禅弁道、深山幽谷での孤高の道…

まさに、正師/天童如浄の教えだった様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(16)

道元は師/如浄の言葉に反し、北条時頼の招きを入れ、宝治元年に鎌倉に下向しま

す。越前で世話になっている、波多野義重の依頼があったようです。道元48歳の時

です。しかし、執権/時頼との溝の深さを悟り、半年を過ごしただけで…永平寺へ帰っ

て行きます…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

( 道元禅師…素描 )・・・(17・完 )

鎌倉から永平寺に戻った道元は、二度と俗世に近づく事はなかったと言われます。

6年後の8月28日、道元は54歳で孤高の生涯を閉じます。鎌倉では、日蓮が活躍

を始めていました。

ちなみに…8月28日は私の誕生日…他愛もない事で心を和ませています。