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トップページ/New Page Wave/Hot Spot/Menu/最新のアップロード/ 担当: ボス= 岡田 健吉 |
2013年 |
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11月/1日 |
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(1) また宗派ではなく、京都・鎌倉の五山を中心に展開した...五山派(ござん)/五山叢 林(ござんそうりん・・・ 室町幕府が制定した寺格制度である五山十刹諸山の制度に組み込まれ、保護・統制下に置かれていた禅宗寺院。 一般的に五山以下の寺格が与えられた寺院が臨済宗であったため、五山派=臨済宗と見えるが、間違いである。 臨済宗でも大応派は五山の支配を受けない。曹洞宗でも大陸系の宏智派はその保護・統制下に入っていた。足利 尊氏の崇敬を受けた夢窓疎石のもとで大きく発展する)と... 地方に発展した林下(りんか)/林下禅林(りんかぜんりん・・・ 五山派に対して、室町時代に在野禅を標榜し地方武士や上層町衆に教線をのばし、座禅に徹した禅本来の姿を追 求した。臨済宗大徳寺・妙心寺派と、曹洞宗全体を含む林下と呼ばれた諸寺院)とに、分けることもできる 様だ。そして、中央から地方への伝播は、3波に分けられる。
岡田健吉@zu5kokd1
( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(2) 第1波は… 曹洞宗の越前永平寺(/旧仏教側の迫害を避け、新たな道場を築く)の開山の道元(/日本曹洞宗 の開祖)…臨済宗の紀伊国由良西方寺(/後の興国寺・・・臨済宗妙心寺派の寺)の開山の無 本覚心(むほん・かくしん)…陸奥国(むつのくに、みちのくのくに/・・・青森・岩手・宮城・福島と、秋田県の 1部)の松島円福寺(/瑞巌寺(ずいがんじ)/詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺・・・平安時代の創建で、宗 派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した)の性才法心 (しょうさい・ほうしん/入宋し、無準師範に師事し嗣法)…山城国(やましろのくに/現在の京都府中南部)の 勝林寺の天祐思順(てんゆうしじゅん)など。 鎌倉前期で、中国禅を積極的に求め地方に隠遁。教団形成には否定的。道元と 天祐以外は、密教的の様だ。
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11月/2日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(3) 第1波の道元ら続き…第2波で禅宗を地方へ波及させたのは…五山派寺院の門 弟たちである。地方豪族の保護を受け、各地に禅寺を建立、それらは五山の末寺 となった。 第3波は…入元(/元への留学僧)し浄土信者/中峰明本(ちゅうほう・みょうほん/元時代の禅 僧・・・6祖/慧能の法嗣/南岳懐譲下の第22世に当たる)に参じ…念仏禅(/念仏と禅を兼ねたもの)を 伝えた人々が多く…隠遁的のようだ。
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11月/4日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(4) 第3波の人物では… 近江国永源寺(/臨済宗永源寺派の本山)の寂室元光(じゃくしつげんこう/諡号は円応禅師)…常 陸国法雲寺(/茨城県土浦市(旧新治郡新治村)にある臨済宗建長寺派の寺院)の復庵宗己(ふくあん・ そうき/入元して、中峰明本に師事し嗣法する)…筑前国高源寺(/郷里の筑前に草庵を結び、高源寺と称 した)の遠渓祖雄(えんけい・そゆう/入元して、中峰明本に師事し嗣法する)…甲斐国天目山棲雲 寺(/臨済宗建長寺派寺院)の業海本浄(ごうかい・ほんじょう/入元して、中峰明本に師事し嗣法する)な ど。 南北朝前期 ~ 中期の人々で…五山やその周辺から地方へ出た人々もあった。 一派を成したり、他派へ流入する者もいた様だ。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(5) こうした時代推移の中で…教団結成には否定的だった各派も、教団を形成するよ うになる。 曹洞宗/永平道元の法孫も…永平寺から加賀大乗寺(/石川県金沢市にある曹洞宗の寺 院)へ出た徹通義介(てっつうぎかい/道元の没後は永平寺第2世の懐奘に師事。永平寺第3世となるも 対立が治まらず・・・永平寺を出、加賀国に移り、大乗寺を真言宗寺院から禅寺に改めて開山となる)、能登永 光寺(ようこうじ/石川県羽咋市にある曹洞宗の寺院)と横浜総持寺(そうじじ/曹洞宗の大本山)を開い た瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん/日本曹洞宗第4祖で総持寺の開山)などが登場。曹洞宗は、大 規模な教団へと変貌して行く。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(6) 五山派に属することなく… 各地に展開した林下禅林の代表は…曹洞宗/永平道元の系統、臨済宗/京都大 徳寺(/臨済宗大徳寺派大本山)・妙心寺(/臨済宗妙心寺派大本山)の系統など… 曹洞宗でも宏智派(/宏智正覚(わんししょうがく/中国の宋代の禅僧)の法系の、東明恵日や東陵永璵 と いう渡来僧によって伝えられる、宏智派と通称される曹洞宗の一派・・・)は、五山叢林の中にあり、永平 寺のある越前にも進出。むろん永平道元の系統も、朝倉氏(/南北朝時代に、越前国守護 斯波氏に仕えた朝倉広景から始まる)の保護下にあった… |
11月/6日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(7) さて…別の角度から禅宗史を見る… 栄西は帰国後 『興禅護国論』(こうぜん・ごこくろん) を著し、将軍頼家の援助で、京都 に台(/天台)・密(/真言)・禅の3宗兼学の寺/建仁寺を建立。後に、東大寺の勧進 職(かんじんしょく/勧進は・・・仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行う行為の1つで、勧 化(かんげ)ともいう。勧進帳(かんじんちょう)は歌舞伎の演目。有力寺院の再建には勧進職が任命されるのが 恒例)となり、東大寺の復興にも尽力。西行(/西行法師)が東大寺勧進で奥州平泉(/ 奥州藤原氏ゆかりの歌人/僧侶/西行が、東大寺勧進のために、義経のいる平泉を訪問。この後、頼朝が平泉 を滅亡させ、鎌倉時代となる・・・)へ行ったのは、平安末期だった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(8) 次に…大日房能忍(だいにちぼう・のうにん/諡号は深法禅師)の存在感が大きい。能忍は独 力で悟りを開き、三宝寺(/摂津水田/大阪府吹田市)を開創した。 独悟(/嗣法すべき師僧を持たなかった。釈尊以来の法灯の嗣承を重視する禅宗においては極めて異例)が 批判されると、弟子2人を入宋させ、拙庵徳光(/浙江省寧波市太白山の麓にある阿育王寺の 住職・・・中華五山の1つ。鑑真和上が日本に渡る時、この寺で休息。南宋の孝宗帝の帰依を受け、仏照禅師の 号を賜る)の印可(/・・・自分の禅行が誤っていないか、文書で問いあわせた。徳光は禅門未開の地で独修し た能忍の努力に同情。達磨像、自讃頂相などを与え、印可の証とした・・・)を得た。 以降…初祖/達磨から6祖/慧能の流れを強調…日本達磨宗を開創する。禅僧 としての活動は、栄西以上という。
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11月/7日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(9) 能忍は、もとは比叡山の学僧。禅に傾倒して三宝寺/禅道場(/摂津水田/大阪府吹田 市)を開いた。天台宗(/比叡山)の主流をなす学僧に対立する別所聖(べっしょ・ひじり/本 寺から離れて別所や村里に隠遁、廻国遊行し・・・念仏、造寺、造仏、写経、鋳鐘、架橋など、はば広い勧進活動 を行った)などが多数集まり、達磨宗と称した。 栄西と共に京で禅宗を起こす運動を始めるが、延暦寺・興福寺の訴えで、朝廷か ら禅宗停止の宣旨(せんじ/朝廷が出す文書の形態の1つ。詔勅の変体)が下される。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(10) 能忍は…大和多武峰(やまと・とうのみね/奈良県桜井市南部の山)の妙楽寺(/平安時代に天台僧 ・増賀を迎えたことから、同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら、宗派の違う興福寺とは争いが絶えず、鎌倉 時代から室町時代にかけて、度々領地などを巡り、争論を繰り広げた。)に拠り再起をはかる。 が…甥の藤原景清に暗殺される。死因は諸説がある。ちなみに、禅風は南宗(/南 宗禅)/頓悟禅であった。声跡や語録はほとんど残されていない。 弟子の仏地覚晏(ぶっち・かくあん/仏地房覚晏・・・大日房能忍の法嗣)が多武峰(とうのみね)に移 る以前、京都東山で、懐鑑(えかん)に血脈を残した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(11) 多武峰(とうのみね)は…興福寺(/南都6宗・南都7大寺の1つ・・・藤原氏の祖・中臣鎌足と、その子息・ 藤原不比等ゆかりの寺院。藤原氏の氏寺。古代から中世にかけて強大な勢力を誇った)衆徒(しゅうと/大寺 院に居住して学問・修行の他に、寺内の運営実務にあたった僧侶身分のこと)に焼打ち(/・・・興福寺の国宝 /銅造仏頭は“天武天皇”が旧山田寺に造ったものを、奪ったとも・・・?・・・物騒なこともやったようです・・・)さ れる。 覚晏(かくあん)門下は離散する。懐鑑(えかん)は、越前足羽郡/波着寺(はちゃくじ/後に、 道元禅師が越前に入った時、最初に身を寄せた寺)に拠点を移した。 多武峰の覚晏の下に…若き永平寺2世/懐奘(えじょう)がいた。懐奘は帰国して建 仁寺(/栄西が建立)にいた道元に、禅問答を挑むも完敗。深草(/建仁寺を出て深草(現在の 京都市伏見区深草)の安養院に閑居・・・後、京都深草に興聖寺を開山)に移った道元に、弟子を許され る。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(12) 越前/波着寺(はちゃくじ)の懐鑑(えかん)も…門下の義介、義演、義準、懐義尼、義荐、 義運らを率いて上洛(じょうらく/・・・京都に入ることを意味する言葉)。深草興聖寺の道元門下 に入る。 永平寺3世/義介(/徹通義介(てっつうぎかい))は、波着寺にいた懐鑑のもとで出家して いる。この達磨宗の相承物は、義介から、総持寺/瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん)へと 伝播されて行く。(/道元禅師は、禅宗という呼称も、達磨宗という呼称も批判している)
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11月/8日 道元禅師 永平寺開山 『正法眼蔵』の著者 瑩山(けいざん)禅師 總持寺開山 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(13) 曹洞宗永平寺開祖/道元は…大日房能忍の法系/達磨宗を傘下に…林下禅林 を拡大する。永平寺2世/懐奘(えじょう)…永平寺3世/義介…永平寺4世/義演… 永平寺5世/義雲…と続く。 達磨宗は…道元門下に入った1派と、三宝寺に残った1派があった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(14) 《道元禅師の足跡》・・・(1) 永平寺開祖/道元の伝記は… 総持寺開山/瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん/総持寺開山)が中心に編集した 『元祖孤雲 徹通三大尊行状記』(/元祖は道元・・・孤雲は孤雲懐奘・・・徹通は徹通義介)、それを再編集した 『永平寺三祖行業記』(/1394年~1428年間に再編集)、『永平開山道元禅師行状…建 撕記(けんぜいき)』(/永平寺14世・建撕(けんぜい)の著した道元伝)、また…瑩山紹瑾の 『伝光 録』(/瑩山紹瑾述・・・編者未詳。釈迦より達磨大師に至るインドの仏祖29人。慧能より天童如浄に至る中国 の祖師22人。日本の道元・懐奘ら計53人の仏法相伝のあり様を述べている )などがある。
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11月/9日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(15) 《道元禅師の足跡》・・・(2) 道元は…頼朝が鎌倉に幕府を開いた8年後、京都に生まれる。父は村上源氏(/ “第62代/村上天皇”の皇子を祖とする源氏氏族。賜姓皇族の1つ)の久我通親(こが・みちちか/七朝に わたり奉仕。村上源氏の全盛期を築いた。土御門通親(つちみかど・みちちか)と呼ばれるのが一般的)とも、 その子の道具とも言われる。母は松殿藤原基房(まつどの・ふじわら・もとふさ/松殿基房・・・ 正式には藤原基房・・・公卿。松殿家の祖)の娘/伊子(いし)というが、不明な点もある。父は、 “土御門上皇”(つちみかど・じょうこう)の外祖父(/母方の祖父)であり、政界の実力者。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(16) 《道元禅師の足跡》・・・(3) 道元は、3歳の時に父を失い、8歳の時に母を失う。母は、初めは木曾義仲(きそよし なか/源義仲・・・信濃源氏の武将。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟)に嫁ぎ(/正室)、後に源通親(/村 上源氏の久我通親)の側室なったという説もある。薄幸な人であったようだ。母方の伯 父は道元を官職につかせようとするが、道元は13歳の春、家を出る。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(17) 《道元禅師の足跡》・・・(4) 家を出た道元は…比叡山の麓の庵に、良観法師(/『永平寺三祖行業記』、『建撕記』には・・・ “良顕”)を訪ねた。これも、母方の叔父。 良観は、道元を比叡山横川(/横川は本堂にあたる横川中堂を中心とする区域。西塔から北へ4キロメ ートルほどのところにある。第3世天台座主/慈覚大師円仁によって開かれた)の、首楞厳院(しゅりょうごん いん)般若谷(はんにゃだに)の千光房(せんこうぼう)に住まわせることにする。般若谷は、 共に入宋する明全(みょうぜん/栄西の弟子)が参学し、弟子の懐奘(えじょう/永平寺2世・・・ 道元よりも年上)も参学した所だ。
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11月/10日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(18) 《道元禅師の足跡》・・・(5) 道元は14歳で天台座主(てんだいざすは/天台宗の総本山・比叡山延暦寺の貫主(住職)。天台宗の 諸末寺を総監する役職)/公円について得度(とくど/出家の儀式・・・本来は、迷いの世界から悟りの彼 岸に渡る/悟りを得る、といった意味)。菩薩戒(ぼさつかい/菩薩(ぼさつ/梵名ボーディ・サットヴァの音写。 仏教において、成仏を求める修行者)が受けて、保つべき大乗の戒律。自己の悪を抑え、善を勧めるだけでなく、 利他を含む)を受け、仏法房道元と名乗る。 天台教学を学ぶうち、疑問が生じる。《一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっ しょう)》 ならば、諸仏祖はなにゆえ、修行の必要を説くのか。真正面に答える人物 はなかった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(19) 《道元禅師の足跡》・・・(6) 当時…延暦寺(えんりゃくじ/比叡山全域を境内とする寺院。延暦寺の名より比叡山、また叡山と呼ばれる ことが多い)・興福寺(こうふくじ/法相宗の大本山の寺院。南都7大寺の1つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその 子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺。古代から中世にかけて強大な勢力を誇った)・園城寺(お んじょうじ/三井寺(みいでら)・・・滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山)の間では争いが生じ… 天台座主は辞任。 道元も15歳頃に比叡山を去り、園城寺座主/公胤(こういん)を訪ねる。公胤の指示 (/公胤は・・・単純で深い道元の質問には答えず、参禅を進める)で、京都建仁寺を訪ね、臨済宗黄 竜派(/南宋禅)の禅に接する。以後、建仁寺、園城寺において学ぶ。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(20) 《道元禅師の足跡》・・・(7) 栄西は鎌倉寿福寺(ふくじゅじ/臨済宗建長寺派の寺院・・・鎌倉五山第3位の寺院)で没す…道元 が参謁(さんえつ)できたかは微妙…栄西なき建仁寺で、道元は栄西の弟子の明全 (みょうぜん)について参禅。 1223年/24歳の時…明全と博多から渡宋(とそう/宋に渡る)。天童山景徳寺(/浙江 省寧波地区)に入り、臨済宗大恵派/無際了派(むさいりょうは)に参謁する。
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11月/11日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(21) 《道元禅師の足跡》・・・(8) 道元が宋で見たのは、世俗化した仏教世界…比叡山を捨てたように、天童山をも 去る。明全(/天童山に残った)とも別れ、諸方歴訪に出るが、満足せず… そんな折(/道元は帰国を決意したようである)、如浄(にょじょう)が天童山住持(/住職)に就任し た事を知り、天童山に帰る。明全と再会するも、間もなく死別…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(22) 《道元禅師の足跡》・・・(9) 道元は…古仏(こぶつ/悟りをひらいた高僧の敬称)のごとき如浄の下で坐禅弁道(ざぜんべん どう)に励む。ある日…心身に透明な脱落感を得る。<心身脱落>の境地の開悟 である。この頃、参禅の師/明全が他界。道元は24歳で入宋(にっそう)…28歳で 如浄より嗣書(ししょ/嗣法の証明書)を受け帰国…建仁寺(/栄西が建立した出発地の寺・・・しか し、明全は帰らず・・・)に入る。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(23) 《道元禅師の足跡》・・・(10) 帰国の年(1228年)…道元は早くも 『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)を著述。永平寺所蔵 /道元真筆本/国宝…は天福元年(1233年)。同書は6年後に、深草興聖寺を開創 した折に清書したもの。<正伝の仏法・・・釈尊の正覚に直結>する坐禅を、広く 一般に勧めた書。
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11月/12日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(24) 《道元禅師の足跡》・・・(11) 建仁寺にいる道元に…法を問う者が多く訪れる。能忍の法嗣/覚晏の高弟である 懐奘もその1人だ。 しかし、建仁寺は静かな環境ではなくなって行く。道元は31歳の頃、建仁寺を出て 山城深草に閑居…懐奘の弟子入りも許す。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(25) 《道元禅師の足跡》・・・(12) 当時の建仁寺は腐敗の様子もある。道元の房舎も破棄されたようだ。教禅兼修の 建仁寺で、純粋禅を説くために、比叡山の迫害があったのだろうか… 深草安養院に移り…道元は自身の禅を如実に示す 『弁道話』 を著述している。
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11月/13日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(26) 《道元禅師の足跡》・・・(13) 道元は如浄の仏法を、釈尊正伝の仏法と称した。只管打坐(しかんたざ/ひたすら坐禅す ること)である。坐禅は手段ではなく、それ自体が悟りの姿形であり 、坐禅修行以外 に悟りに至る道は無いとする。すなわち<修証一如>(しゅうしょういちにょ)。また、男 女貴賎を問わないと明示する。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(27) 《道元禅師の足跡》・・・(14) 道元の周囲にも、助力者が形成されて来る。近衛家(/五摂家の1つ、公家。家名は平安京 の近衛大路に由来。本姓は藤原氏で、藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流がある。) や藤原教家(ふじわら・のりいえ/九条教家(くじょう・のりいえ)・・・公卿、漢詩人、能書家、号は弘誓院。 25才で大納言、32才で出家)である。 近衛家は…父/久我通親が抗幕派(/近衛家は、近衛基通と道元の父とされる久我通親とがと もに抗幕派として政治的に深い関係にあったとされる)として深い関係。所領目録からも、相模国 波多野(/神奈川県秦野市)の地を管理…波多野は道元の大檀越(だいだんおつ/大檀家・・・ 寺や僧に布施をする信者)となる、波多野氏(/摂関家領である相模国波多野荘を本領とした豪族。坂東 武士としては珍しく、朝廷内でも高い位を持った豪族)の本貫の地(/本籍地・・・出身地)である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(28) 《道元禅師の足跡》・・・(15) 藤原家と密接な寺院の中には、山階寺(/法相宗の大本山・興福寺の旧称・・・前身は飛鳥の厩 坂寺、さらにさかのぼると天智朝の山背国・山階寺が起源 )や法性寺(ほっしょうじ/京都市東山区にある浄 土宗西山禅林寺派の寺院・・・藤原氏の寺として栄えた)をはじめ、多武峰(とうのみね/・・・一帯にあった 寺院)や極楽寺(/鎌倉唯一の真言律宗の寺・・・?)も存在する。これらは近衛家とも無関係 ではなかった。道元が建仁寺を出、深草の極楽寺の別院/安養院に移住した経 緯も、近衛氏との関係が推測される。
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11月/14日 |
岡田健吉@zu5kokd ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(29) 《道元禅師の足跡》・・・(16) 藤原教家(ふじわら・のりいえ/九条教家)は、母方の関係者のようだ。この藤原教家や正 覚禅尼(しょうかくぜんに/3代将軍・源実朝の正室。実朝が暗殺されると剃髪・・・27歳の時という。道元の強 力な外護者の1人)の助力で…天福元年(1233年)頃に、興聖宝林寺(/観音導利興聖宝林禅 寺)を深草の極楽寺の跡に開く(/当初は仏殿だけが建てられた。 1235年に、正覚禅尼が法殿を建 立。法座は弘誓院(藤原教家)が寄進・・・)。 また、この年の夏 『正法眼蔵』/〔摩訶般若波羅密の巻〕 を書き上げる。以後、 同書を書き進めて行く。
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11月/15日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(30) 《道元禅師の足跡》・・・(17) 1234年冬…懐奘が弟子入(/1233年に、興聖寺を開創しているので・・・山城国深草の草庵に参じ たのは、極楽寺別院/安養院というより、興聖寺が整ったからか・・・?)。 1236年秋…僧堂(/興聖宝林寺の僧堂)を開く。 1241年春…越前波着寺の懐鑑が、義介・義演・義準・懐義尼・義荐・義運らを率 い、道元傘下に入る。入宋伝法沙門(にっそう・でんぽう・しゃもん)/道元の僧団は、しだ いに大きくなって行く。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(31) 《道元禅師の足跡》・・・(18) 道元は…京都においても説法を行なうようになる。 1242年12月17日…六波羅/波多野義重(はたの・よししげ/相模国波多野荘(神奈川県秦 野市)を本領としており、越前を知行地とした。やがてそこに、本拠地/永平寺を開山することになる)のもとで 『正法眼蔵』 〔全機の巻〕 を説く。 翌/1243年4月29日… 六波羅密寺(ろくはらみつじ/空也(くうや)が開基。後、比叡山の僧/ 中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院 の末寺となる)で、 『正法眼蔵』 〔古仏心の巻〕 を説く。
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11月/16日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(32) 《道元禅師の足跡》・・・(19) 道元の六波羅での説法が…越前入り/永平寺開山と深く関わるようだ。越前は 波多野義重の知行地で、永平寺の大檀越(だいだんえつ/大檀家)となる。しかし、六 波羅密寺は天台の別院。『正法眼蔵』 の説法は比叡の僧徒を怒らせ、興聖寺が 破却された。
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11月/19日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(33) 《道元禅師の足跡》・・・(20) 六波羅密寺での『正法眼蔵』の説法は〔古仏心〕の巻…禅宗の系図が…釈迦以来 正しく伝わった事を示す。これが比叡山を刺激した様だ。 道元の越前入国は急で、一連の『正法眼蔵』の著述・開示から、深草興聖寺の破 却も推察できる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(34) 《道元禅師の足跡》・・・(21) 『正法眼蔵』の著述・開示は1233年/天福元年の夏に始まり、1242年/仁治 三年末に…9年半で42巻。同年12月…六波羅の波多野義重邸で〔全機〕…翌/ 1243年は1月6日に〔都機〕…3月10日に〔空華〕…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(35) 《道元禅師の足跡》・・・(22) 4月29日に六波羅密寺で〔古仏心〕…5月5日に〔菩提薩四接法〕、7月7日に〔葛 藤〕。六波羅以外は深草興聖寺の説法だ。 しかし…7月7日から1カ月を経ない閏(うるう/12カ月の他に付け加える月)7月1日…越前 大野郡の禅師峰(/1246年・・・道元が禅師峰の庵で『正法眼蔵』を開示・・・禅師峰寺/大野市西大月) で、〔三界唯一心〕を開示。
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11月/20日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(36) 《道元禅師の足跡》・・・(23) 道元は…深草興聖寺を去り…7月の内に越前に入った様子だ。興聖寺の破却が あったとすれば…説法に間のある、5月5日から7月7日の間…と推測される。 興聖寺には、義準(ぎしゅん/懐鑑(えかん)に師事し・・・越前波著寺から興聖寺の道元門下に入った)な どの弟子を残したが、やがて荒廃 して行く。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(37) 《道元禅師の足跡》・・・(24) 道元の越前入国は、直接には興聖寺の破却。しかし深山幽谷(しんざんゆうこく/人跡未 踏のような、奥深い自然の地)での修行は、師/如浄(にょじょう/天童如浄・・・宋の曹洞宗の禅僧。天 童山景徳寺(浙江省寧波地区)の第31世住職)の指示でもあり、道元の進む道だった。 興聖寺の破却、比叡山や建仁寺との関係悪化、大伽藍(だいがらん/巨大な寺院の主要建 物群)の東福寺(/京都五山の第四位の禅寺・・・臨済宗東福寺派大本山。開基(創立者)は摂政/九条道家 で、壮大な伽藍を誇った)建立も重なり、越前入りとなった様子だ。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(38) 《道元禅師の足跡》・・・(25) 道元が…吉田郡志比(/福井県吉田郡永平寺町志比・・・永平寺の所在地)に入った最大理由 は、波多野義重(はたのよししげ/道元の帰依者)の所領だったこと。 義重は、<承久の乱>(じょうきゅうのらん/鎌倉時代・承久3年・・・1221年に、“後鳥羽上皇”が鎌倉 幕府に対して討幕の兵を挙げ、敗れた乱・・・この結果、幕府が優勢となる。朝廷の権力は制限され、幕府が皇位 継承などにも影響力を持つ)の恩賞地(/出陣し、恩賞として与えられた土地)として野尻(/越中国)と 志比荘(/旧吉田郡志比谷村・・・九頭竜川中流南岸域の大荘園)をうけ、関東(/相模国波多野荘(神 川県秦野市)が本拠)から西遷(せいせん/西に移ること)。当時、六波羅探題(ろくはらたんだい/ 鎌倉幕府の職名の1つ。<承久の乱>の後、京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題 と呼ばれたのは鎌倉末期。それまでは、単に六波羅と呼ばれていた)の義重は、志比荘へ入宋僧(/ 入宋して修行した僧)を迎え、寺院を建立し、力を誇示(/帰依と同時に、自らの力の誇示にもなる) した。
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11月/22日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(39) 《道元禅師の足跡》・・・(26) 越前を選んだ別の要素は…越前足羽郡波着寺から参入した懐鑑以下の達磨宗 (/大日房能忍の系統)の存在だ。永平寺3世/義介(/徹通義介)などは足羽川流域の 稲津保の出身。越前の状況にも詳しかった。永平寺開山の志比(/永平寺の所在地は、 福井県吉田郡永平寺町志比5-15)は、波着寺(/波着寺跡・・・福井市成願寺町の山へ少し登った所) からはそう遠くない所である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(40) 《道元禅師の足跡》・・・(27) 波着寺は比叡山の末寺…多武峰と同様、天台の別所聖(べっしょひじり/山林に入って断 穀不食の苦修練行を積んだり、本寺から離れて別所や村里に隠遁したり、廻国遊行して念仏・造寺・造仏・写経・ 鋳鐘・架橋などはば広い勧進活動を行った)等が居住する所だった。 道元は、出発直前まで 『正法眼蔵』 の説法(/7月7日に深草興聖寺で〔葛藤〕を開示)を続 け、半月かけて越前に入り、すぐまた説法(/閏(うるう)7月1日…越前大野郡の禅師峰で、 〔三界唯一心〕を開示)を開始した。越前入りは…以前からの…計画だったのか?
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11月/23日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(41) 《道元禅師の足跡》・・・(28) 越前入りの計画性から…興聖寺破却は無かったとする説もある。しかし多武峰(と うのみね)は興福寺衆徒の焼打にあい、覚晏門下が離散、懐奘は建仁寺に道元を 訪ねた。懐鑑の方、は越前足羽郡波着寺に移った。何も無かったわけもないが…
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11月/24日 吉峰寺/越前志比荘・・・ 観光案内より借用 永平寺/観光案内より借用 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(42) 《道元禅師の足跡》・・・(29) 『建撕記』(けんぜいき/永平寺14世・建撕の著した道元伝)によれば…仁治四年(1243年)7月 16日に宇治(/宇治市・・・京都府の南部に位置する市)を出発、7月末に越前吉峰寺(きっぽ うじ/波多野義重が道元を招いて越前志比荘に開山した寺。翌年、永平寺に移る)に入った。『正法眼 蔵』各巻の奥書(おくがき/本の来歴などを記録したもの)で、道元が何時何処(いつどこ)に居 たのかが見える。 道元は…閏(うるう)7月1日から11月13日まで吉峰寺にあり…16巻を開示説法 した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(43) 《道元禅師の足跡》・・・(30) 11月6日に〔梅華の巻〕で…<深雪三尺大地漫々>とあり、雪が深かったこと が偲ばれる。11月19日 ~ 翌年元旦まで…禅師峰下の草庵(/道元は7月に京都か ら越前に入り、まず波着寺に宿泊、すぐに禅師峰に入り・・・説法)で、5巻(/〔見仏、偏参、眼晴、家常、竜 吟〕)を開示説法。 懐奘(/永平寺2世)により2巻が書写される。正月を禅師峰で過ごし、吉峰寺に戻る。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(44) 《道元禅師の足跡》・・・(31) 夏安居(げあんご/夏籠(ご)もり、夏行(げぎょう)・・・夏の3か月間、僧が1か所にこもって修行すること)は 志比の吉峰寺が中心。越前に入国し、1年弱…道元は吉峰寺から禅師峰へ、再 び吉峰寺へ戻る。 春になり…大仏寺(/今の永平寺)の建立が始まる。2月29日に大仏寺・法堂(はっとう) の地ならし、4月12日に法堂の上棟式(じょうとうしき/神道の祭祀・・・棟上げ(むねあげ)、建前 (たてまえ)、建舞(たてまい)ともいう。仏教でも上棟式は行われる。 竣工後も建物が無事であるよう願って行わ れる )、7月18日には開堂説法。
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11月/25日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(45) 《道元禅師の足跡》・・・(32) 開堂の法要には…前大和守清原真人、源蔵人、野尻入道などがいた。野尻入道 は波多野義重の子息の時光。案主、公文といった、荘園管理の在地の人物と思 われる人々も参加。9月7日、京都の興聖寺より、木犀樹(もくせいじゅ/ギンモクセイ、キン モクセイ、ウスギモクセイなど)の総称。単に木犀と言う場合は、ギンモクセイを指すことが多い。祝賀と思われる) が送られて来る。
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11月/26日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(46) 《道元禅師の足跡》・・・(33) 翌/1245年4月15日…大仏寺において夏安居(げあんご)の上堂(/堂の須弥壇(しゅ みだん・・・本尊を安置する場所/仏の領域)の上に登って行なう説法)。大仏寺に僧堂(/僧侶が集団 生活を行いながら仏道修行に励む場)の完成を示す。 大仏寺建立は波多野義重と共に、従兄弟の覚念(かくねん/波多野義通の二男義職(義元) の子・・・中島義康と考えられる)が助力。道元の越前入国後、2人で寺地を選定している。 覚念は今南東郡内(いまみなみひがしぐんない)に所領をもつ。 岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(47) 《道元禅師の足跡》・・・(34) 今南東郡(いまみなみひがしぐん)は、今立郡(/日野川以東・・・)のうち、月尾川・鞍谷川流 域、足羽川上流域に相当。 覚念は京都に私邸をもち、今立郡を所領。道元は最晩年に上洛し、覚念の私邸 で療養生活を送っている。 大仏寺は、古寺を整地拡大して、旧寺名を残したようだ。
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11月/27日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(48) 《道元禅師の足跡》・・・(35) 大仏寺の開堂説法から2年…夏安居上堂から1年…1246年/寛元四年夏… 道元は大仏寺を 永平寺 と改名。『永平寺知事清規』(えいへいじ・ちじしんぎ) を撰述 … 永平寺 を運営する六知事(/寺の運営を担当する重職)の心構えを示す。永平寺開 創期の意気と、一山の勢いが偲ばれる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(49) 《道元禅師の足跡》・・・(36) 道元は、1247年8月…執権/北条時頼の招請により鎌倉に赴く。翌年3月に永 平寺に帰山。 .....もう少し詳しくは、<道元禅師素描>へどうぞ 権力に関わったことに、反省有り。鎌倉行きは、波多野義重の仲介があったので あろうか。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(50) 《道元禅師の足跡》・・・(37)
1249年/建長元年…道元は
【永平寺規制】 を制定。9カ条の禁止事項! 参陣(/武将の陣に参ずる)・訴訟(/訴え出る)を行なう…諸寺の役職に就く…他寺院 の勧進職(/建立・修理のために人々に寄付を募る役職)を勤める…地頭や守護所の政所 へ赴き訴訟を行なう…諸方の墓堂の供僧(ぐそう/供奉僧の略・・・本尊に仕える僧)や三 昧僧(さんまいそう/三昧堂・常行堂などに常住して、法華懺法や不断念仏などを修する僧)を務める等 …(/さまざまな能力の僧が参集・育成されて行くが、アルバイト禁止、風紀や規則が乱れないようにした・・・)
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(51) 《道元禅師の足跡》・・・(38) 永平寺 には様々な人々が参詣(さんけい)した。 1247年/寛元五年…正月15日の布薩説戒(ふさつせっかい/自分の犯した罪を告白、懺悔 し、清浄な生活を送ることを確認しあう儀式)では、五色の雲が方丈の正面障子にたなびいた という。参詣していた吉田郡河南荘中郷の人々が、それを目撃したという文書が 伝えられる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(52) 《道元禅師の足跡》・・・(39) 1252年/建長四年の秋…道元は病気となる。翌年7月…永平寺を退く。7月4 日…懐奘が永平寺2世。 8月5日…道元は懐奘を伴い京都に発つ。覚念の私邸に入る。8月15日…中秋 の和歌。8月28日…54歳で寂(じゃく/入寂・・・僧侶が死ぬこと・・・入滅)した。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(53) 《道元禅師の足跡》・・・(40) 懐奘は東山の赤辻で道元を荼毘(だび/火葬)に付す。9月10日… 永平寺 に帰山。 9月12日…葬儀。 (/京都まで付き添った懐奘、覚念、波多野義重たちが、赤辻の小寺で荼毘に付す。荼毘地は、現在円山公園の最南 端円山音楽堂の南出口前・・・西行庵の南。西行庵からは行けず、東側の細道を入るようです。道元禅師荼毘塔があり ます。遺骨は、懐奘が永平寺へ持ち帰り埋葬する・・・) 永平寺の西隅…如浄(にょじょう/天童如浄・・・天童山景徳寺(浙江省寧波地区)の第31世住職・・・道 元の師)の塔があった所に塔を建立。その庵を承陽庵と号す。如浄の塔は、道元を 慕い中国より渡来した、寂円(じゃくえん/・・・永平寺承陽庵の塔主となり、後、寶慶寺を開創)が守 っていた。
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11月/29日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(54) 《道元禅師の足跡》・・・(41) 道元なき 永平寺 は…永平寺2世/孤雲懐奘の尽力で維持された。懐奘は、生 前から 『正法眼蔵』 の書写を行っていた。そして道元なき後も、最晩年の新草/ 『正法眼蔵』 の書写を中心に、道元の遺作を整理、書写を続けたようだ。
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11月/30日 金沢市・大乗寺・・・ (観光案内より借用) |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(55) 《道元禅師の足跡》・・・(42) 懐奘は…1255年/建長七年…徹通義介の嗣法を許す。義介は懐奘の要請で 入宋(にっそう)。在宋4年…1262年に帰国。入宋で学んだことを反映し、 永平寺 の伽藍(がらん/寺院または、寺院の主要建物群)・規律を整備。1267年…義介が懐奘の あとを受け、永平寺3世。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(56) 《道元禅師の足跡》・・・(43) 義介は…永平中興と称賛されるも、革新に反発もあり。1272年… 永平寺 を出 る。その後、寺の門前に養母堂を建て母を養う。<第一次三代相論> というべき 事件である。 永平寺 には懐奘が復帰も…1280年(弘安3年)8月24日…入寂。(翌年/弘安4年は・・・ 2度目の元寇/弘安の役)
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(57) 《道元禅師の足跡》・・・(44) 懐奘入寂で…再度、義介が 永平寺 に入る。しかし義介の革新を煽る1派と、道 元の宗風に固辞する1派の対立が激化。義介は住寺7年… 永平寺 を去り、加賀 大乗寺に入る。 永平寺4世は義演が就任も…詳細は、記録上確認できず。
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12月 2日 能登総持寺/総持寺祖院 瑩山紹瑾が開山 (観光案内より借用) |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(58) 《道元禅師の足跡》・・・(45) 義演は…義介が入宋していた頃、懐奘を手伝って 『正法眼蔵』 の書写や、道元 語録/『永平広録』の編集をしていた。義介の革新性に対し、義演は道元の禅風 を守る姿勢があった。義介派との対立になる。いわゆる<第二次三代相論>。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(59) 《道元禅師の足跡》・・・(46) 義演が没すると…義介と義演、いずれを永平寺3世とするかを論争…<第三次 三代相論>。 義演の行状では…加賀大乗寺(/石川県金沢市・・・徹通義介を招聘して開山。大本山永平寺、 大本山總持寺に格別の由緒をもち、両大本山に次ぐ曹洞宗の古刹)に入った義介の門弟/瑩山紹 瑾(けいざん・じょうきん/8歳で永平寺に入り、徹通義介の下で沙弥となる。13歳の時、永平寺2世孤雲懐奘 について出家得度。能登總持寺を開山)が…永平寺住持中の義演の許可を得、『仏祖正伝 菩薩戒作法』 を書写している。(/つまり・・・義演が、明確に永平寺住持であった証拠が、奥書とし て残っている)
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12月 3日 宝慶寺/大野市HPより 金沢浄住寺 観光案内より |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(60) 《道元禅師の足跡》・・・(47) 義演の行状では…住持中に2度ほど火災があったとする説がある。 1つは、1297年3月24日…山門と方丈を残し全焼したとする説。浄住寺(/金沢市 ・浄住禅寺)が所蔵する『安楽山産福禅寺年代記』に見える記載だ。しかし『建撕記』 (/永平寺14世・建撕(けんぜい)の著した道元伝)にはない。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(61) 《道元禅師の足跡》・・・(48) 2つ目は…1306年~1311年頃で、懐奘が書写した 『正法眼蔵』 も焼けたとす る説。 義雲が5世で入った時、永平寺 は荒廃していたようだ。しかし火災後の復興とい う記録はない。火災説は、史実ではないとも言われる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(62) 《道元禅師の足跡》・・・(49) <三代相論>などで 永平寺 は疲弊していた。そうした中、大野郡宝慶寺(ほうきょ うじ/宋から渡来した寂円が開山)から義雲が永平寺5世として入る。1314年である。 義雲は、道元を慕って宋より渡来した寂円(じゃくえん)の門弟。懐奘の 『正法眼蔵』 の書写を手伝ったこともある。
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12月 4日 永平寺全景 観光案内より |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(63) 《道元禅師の足跡》・・・(50) 義雲は…大野郡宝慶寺から什物などを持参。伽藍(がらん)の整備も行ない、永平 寺 の復興に全力を傾注した。 1327年8月4日には梵鐘(ぼんしょう)を鋳造。永平寺 に入って13年が経過し、梵 鐘の鋳造は、復興がほぼ完了したことを意味するようだ。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(64) 《道元禅師の足跡》・・・(51) 義雲は…伽藍の復興と共に、宗旨に関する面でも立直しを行なう。60巻本 『正 法眼蔵』 は義雲の編集によるものと言われる。 1329年5月には 『正法眼蔵品目頌』 を撰述。永平寺 の中興と呼ばれるのは、 義介から義雲に移った。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(65) 《道元禅師の足跡》・・・(52) 義雲の入寺以降…1598年に関東から入った門鶴(もんかく/上野鳳仙寺3世の大円門鶴と も、信濃広沢寺9世とも・・・詳細は不明。祖山本『永平広録』の書写を終えた奥書があり、その時の住職)が第 24世(/永平寺20世という資料もある)になるまで、永平寺住持は宝慶寺から入った。道 元を慕い渡来した寂円の門下が、永平寺住持を継承している。 義雲の入寂後は、門弟の曇希が永平寺6世(/宝慶寺3世)となった。
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12月 6日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(66) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(1) 『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)は1227年…入宋修行を終えて帰国した道元が、そ の年に撰述(せんじゅつ/著述・・・永平寺に伝わる本巻は、帰国から6年後に自らが清書したもの)した 書(/永平寺所蔵・・・国宝)。 28才の若き道元による帰朝第一声であり、具体的な坐禅の仕方について述べて いる。実質的な、道元の立宗宣言の書とも言われる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(67) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(2) 〔 序 論 ・・・要 約 〕 仏道とは…まっすぐな只管打坐(しかんたざ/ひたすら坐禅すること)である。ただそのまま が…仏の命の現成(げんじょう/眼前に隠れることなく、ありのまま現れていること)である。本来、 全てに通じ、妙用自在(みょうようじざい/不思議な作用が自在であること)の絶対真実である。 嗣法せられた坐禅・宗旨・宗乗(しゅうじょう/宗派の教義)であって…支障なく自在に功 夫(くふう/工夫)は重ねられる。
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12月 7日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(68) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(3) 真実の全体は…無常現成(むじょうげんじょう/無常が現前している)の命の存在なるゆえ、 坐禅が絶対真実。 尽十方界真実人体(/宇宙・大自然ないし、その生命活動及びそれに伴うあらゆる事実)は、はる かに迷いを超出している。 今、結跏趺坐(けっかふざ/座禅するときの正しい姿勢)する当処は、現前の仏の命の現成 (げんじょう)。この事実を離れて、修行の行脚(あんぎゃ)を用いる者があろうか。
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12月 8日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(69) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(4) 毫釐(ごうり/ごくわずかなこと)も違いがあると、理に叶(かな)った端坐依行(たんざえぎょう /姿勢を正して座り、教えにしたがって修行すること)も天地の隔たりとなる。心に違順(いじゅん /逆境と順境)が生じれば、たちまち明心を失う。 道を会得し…わずかばかり仏法に通達しても…その境をも解脱、身心脱落の無 上の命の全現成には遠く及ばない。
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12月 12日 釈迦立像 月岡芳年画 『達磨図』 (木版画 1887年) |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(70) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(5) 釈尊が難行苦行せられ…菩提樹下に端坐六年(/釈尊がカピラ城を出、空前絶後の決死の 修行6年の後、悟りを開かれた)…只管(しかん/ただその事だけに心が向かうさま)に行じられた跡 形をこそ学べ。 また…正しい禅の仏法(/ヒンズー教と融合した密教ではなく、釈尊が修行した原始仏教に近いもの) を中国に伝えた第1祖師/達磨(ダルマ)尊者(/菩提達磨=ボーディダルマ)が、少林寺で 9年面壁した。この尊い伝えは、今なお声名が聞こえるではないか。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(71) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(6) 古(いにしえ)の聖者でさえ、端座修行に没入された。法を継ぐ今人が、参禅弁道せ ずということがあろうか。 言葉で探し求めるのを、休まねばならぬ。なすべきは、対象に向かう心を返し、 自己の本来の所(/内観)に返照される只管打坐(しかんたざ)である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(72) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(7) 身心は自然に脱落し、もとより <真実そなわれる・・・本来の面目> は、たち まち現前するであろう。 恁麼(いんも/かくのごとく)な真実、身心脱落(/道元は天童山の如浄のもと、“身心脱落”をもって 開悟)なることあらんとするなら、一刻の猶予なく、恁麼な真実修行の打坐につと めよ。
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12月 13日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(73) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(8) 〔 本 論 ・・・ 要 約 〕 坐禅するには、静かな所がよい。 飲食の量は節度が大切。 種々の縁を放ち、心ゆるやかに、万事のいとなみを休息。 善悪是非の分別にかかわらず…心が動くのを停め…思量をめぐらさず…仏に成 ろうと図らず…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(74) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(9) 作仏(/仏となること。悟りを開くこと)は…迷妄(めいもう)の日常生活上の坐臥(ざが/座っている ことと寝ていること)に拘(こだ)わるものでなく、<坐臥を・・・脱落すべし> である。 通常…不断に坐禅する処には、厚く敷物を敷き、その上に坐蒲(ざぶ/坐禅の際に使用
する座布団)を置いて坐る。 坐法は…結跏趺坐(けっかふざ)、あるいは半跏趺坐(はんかふざ)がある。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(75) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(10) 結跏趺坐は…右足を左腿の上に安じ、左足を右腿の上におく。半跏趺坐は…た だ左足を右腿の上におく。衣服は…きちんと整えよ… 次に…右手を左足の上に安じ…左掌を右掌の上に安じ…両手の親指をそっとつ け…円相(/悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したもの・・・また、禅における書画の ひとつで・・・円形を一筆で描いたもの。一円相、円相図などとも呼ばれ、解釈は見る人に任される)を作る。
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12月 14日 京都/広隆寺「宝冠弥勒」 (国宝) 奈良/中宮寺 木造菩薩半跏像 (国宝) 中宮寺は・・・法隆寺に隣接 する聖徳太子ゆかりの寺 院。広隆寺の弥勒菩薩半 跏像とよく比較される。寺伝 では如意輪観音だが、これ は平安時代以降の名称。 当初は弥勒菩薩像として造 立されたものと思われる。 国宝指定の際の官報告示 は単に木造菩薩半跏像。 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(76) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(11) そのまま、正身端坐する… 左右に傾いたり、前屈したり、後にそってはならない。 両耳と両肩とが対し、鼻と臍(へそ)と向かい合うようにせよ。 舌は上顎(うわあご)につけ、唇も歯を合わせる。 目はかならず…常に開くようにせよ…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(77) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(12) 出息入息は、鼻で自然に静にせよ… 体の形を整えたら…口を開き息を長く大きく吐き… 体を左右にゆっくり揺り動か す。(/中心が定まったところで止める) 兀兀(こつこつ/・・・たゆまず努め、励むさま)と…動かざること巌(いわお)のように不動の形 で坐し…この不思量底(/心の底から・・・何も考えないこと)を思量せよ。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(78) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(13) 不思量底で、どう思量なのであろう… 思量はない。超出しきっている。ありとあらゆるものは非思量… 人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し…ただ打坐のみである…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(79) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(14) 不思量に止まり居る処のみを任運(にんぬん/運命に任せること)に、そのまま不思量底 である所…本来相としての非思量。これが坐禅の要術である。 坐禅は禅定(ぜんじょう/精神を集中して三昧(さんまい)に入り、寂静の心境に達すること)に習熟する ことではない。落ち着くべき所に落ち着く・・・ この上ない安楽の法門である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(80) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(15) 坐禅は…仏の命の働きそのままで…修行即実証(修行が、即、悟り)の相である… 現に…あるあらゆるものが、普遍的な働きの事実になりきっている… 命としてかけがえのない、絶対の真実そのものの現成(げんじょう)である…
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12月 15日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(81) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(16) この打坐…即ち、命の現成にあって…身心の安らぎ/自由をさえぎる煩悩や妄 想は到ることがない。 この意を得、そのまま打坐となれば…龍が水を得たように、虎が山に依るように、 本来の有りっ丈(たけ)の在(あ)り相であろう。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(82) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(17) 知るべきである… 仏の命が現れ、自ずから現成・・・ 昏沈(こんちん/煩悩の1つで、沈み込んだ心・・・明るく 澄みわたっている瞑想の対象がぼけてきたら、心が沈みこんできた証拠。心がさらに沈み込むと眠くなります) 散乱(/煩悩の1つで・・・心が認識対象によって散り乱れ一箇所に止住しない。“掉挙/じょうこ”は・・・心 それ自体が落ち着かない状態)する心は、先より脱落・・・ 尽十方界真実の現前であ ることを・・・ 坐を解き、立つ時は…ゆるやかに上体を動かし、安らかに気をつけて起ち、荒 々しい振舞いをしてはならない。
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12月 16日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(83) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(18) 〔 結 論 〕 古を見るに…凡夫は生死に流転、聖者は生死を解脱…こうした凡聖は2つなが らに超脱(/世俗にかかわらないこと)している。坐禅の相、立姿のまま…寂然(じゃくねん /ひっそり静かな様子)と涅槃(ねはん/さとり・・・証、悟、覚と同じ意味)に入る生死のあり方を見 せる。すべて、坐禅の力に一任されたからであった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(84) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(19) いわんや…指頭(しとう/1指頭の禅・・・『無門関・第3則/倶胝竪指』)や竿頭(かんとう/『無門関・ 第46則・竿頭進歩)を用い、鍼(はり)を把(と)り鎚(つち)を拈じ…知解分別を超え真実を 悟らせる機微の働きとなし…さらに払子(ほっす/もとインドで蚊・ハエやちりを払うのに用いた が、のちに法具となった)や拳頭(こぶし)をふるい、棒(/徳山禅師の棒)で打ち、一喝(かつ/ 臨済禅師の喝)をあびせ、ピタリ真実にかなえさせた…という働きはすべて坐禅の 力であった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(85) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(20) 決して…思量や分別で窺(うかが)い知れず、神通(じんつう/どんなことも自由自在になし得る、 計り知れない不思議な働き・力)の修行でもって分かろうはずもない。それは感覚的な現 実生活の外の、正しい身の行住坐臥(ぎょうじゅうざが/日常の振る舞い)、その威儀(いぎ/ 立ち居振る舞いに威厳を示す作法)と言うべきものである。知識とか認識とか言う以前の、 理にかなった法則である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(86) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(21) 賢愚(/賢者と愚者) は問題でなく、利人(りじん/りこう)か鈍感かは関わりがなく…専一 に力をつくす。ただ、打坐のみの世界が、修証一如(しゅうしょういちにょ/修行は悟りのため の手段ではなく、修行と悟りは不可分で一体のものだということ)である。自らに染汚されず、本来 の面目の趣く所が、本来のあり方。平常心の行持(ぎょうじ/ 仏道の修行を常に怠らずに続 けること)になりきって、行くばかりである。
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12月 17日 道元禅師 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(87) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(22) おおよそ、仏の現われとなる、この世界でも別世界でも… 西はインド、東は中国・日本に至る国土でも… 等しく仏祖の印証(/“証”とは・・・仏教用語で、正法を修得して真理を悟ること)を護持し…各々 みな非思量なるこの打坐の、仏の命現成を宗風とし…自在に実証(/悟りを実現)・ 体達(/実際に、理をきわめること)している。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(88) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(23) ただ打坐をつとめ兀兀(こつこつ/たゆまず努め、励むさま)と坐定…兀地(こつち/ただ1人・・・ ただひとつのことを頑張る)だけに礙(さ)えぎられ(/・・・無礙、無碍= 妨げのないこと)…他に一切 なく、少しも離れず。まさに自受用三昧に安坐。 この自らの修証(/修証一等・・・修行と悟りを区別しないこと)・接化(/接得心導の意で、師家が学人 を親しく教化し指導すること)において、千差万別様々であっても、ひたすらに坐禅し、真 実の道につとめるべきである。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(89) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(24) 仏性の自家としての… 自受用三昧(じじゅゆうざんまい/坐禅の外側の形が “正身端座” であり、中身を “自受用三昧” という 言葉で表現する・・・空なる器の無我に成り切り、それを楽しむこと)・端坐弁道(/端坐し、仏道修行に精 進すること)の坐位(/・・・具体的には、僧堂の単=1人1畳)をなげうち…他国の塵境(じんきょ う)に迷い、仏性の自己を見失ってしまうことが、どうしてあってよかろうか。もし、 この初1歩をあやまると、目前の大道を踏み違えてしまう。
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12月 18日 薬師座像 行基の作/新薬師寺 薬師如来は左手に薬坪 を持つ 薬師如来(『図像抄』) |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(90) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(25) 人は…すでに、受けがたき人身の、機(/はたらき)の肝要(/かなめ)が具わっている。 人は…むなしく光陰(こういん/月日)を渡ることが、あってはならない。 人は…仏道の肝要の機を用い保ち…それこそ、全うする器だからである。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(91) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(26) 誰が一体…生滅無常のこの日月をもって、あたら空しく、楽しみをこととするであ ろう。この肉体は草露のごとく、時運命数(じうんめいすう/めぐりゆくいのち)は稲光(いなび かり/稲妻)のごとく滅し去る。たちまちにして空に帰し、またたくまにして失し、畢 (おわ)ってしまう。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(92) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(27) 願わくは…ひとえに貴い志をもて発心修証(ほっしんしゅうしょう)し、参禅学道におもむ く方々よ… 久しく彫龍(/彫った龍)を愛する所から、すすんで真龍(/真の龍)を愛せよとの故事の ように、文字、知識の一端をもって、真実仏祖正伝の全道を見紛(みまご)うてはな らない。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(93) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(28) 言葉や文字にわたらず… 端的に指し示す兀坐(こつざ/じっとすわっていること)それ自体に精進…自受用三昧、安 住の仏法に徹せられた方を尊貴…諸仏の菩提(ぼだい)に、ピタリと合致するととも に…諸祖の坐禅三昧の、正統を嫡嗣(ちゃくし/宗教・芸能で・・・流派の正統を継ぐ人)せよ…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(94) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(29) 久しく恁麼(いんも/かくのごとく)為すならば、必ず恁麼なるはずである。まさに宝蔵お のずから開け、仏の命の働きの全現成を、自受用し、他受用し、意のままに限り もないであろう。
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12月 20日 東大寺盧舎那仏像 (国宝) (とうだいじ・るしゃな仏像) 一般的には奈良の大仏 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(95) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(1) 『正法眼蔵』 は… 日本曹洞宗の開祖/道元が、1231年から示寂(じじゃく/高僧などが、死ぬこと)する 1253年まで、生涯をかけた87巻(75巻+12巻)の大著。ここに日本曹洞宗の 神髄が説かれている。真理を正伝するため仮名で著述している。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(96) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(2) 鎌倉時代の仏教者の主著は、全て漢文で書かれている。法然、親鸞、栄西、日 蓮…しかり。 道元は古い巻を書き直し、新しい巻を追加。100巻にするつもりだったが、87巻 で病没。後、拾遺(じゅうい/漏れ落ちたものを拾って補うこと)として4巻を発見、追加された。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(97) 《 道元・・・ 『正法眼蔵』 》・・・(3) ここでは、幾つかの巻の全文/冒頭部分を紹介する… ★ 《 現 成 公 案 》 ★の巻 (げんじょうこうあん/・・・真理を実現すること) 全ての物事を、仏道の立場から見る時… 迷いと悟り、修行の有る無し、生と死、 解脱した人とそうでない人の、違いが明らかになる。
( 以下・・・ 正法眼蔵の各巻については、別途掲載・・・)
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