長命寺 (新規;2014年4月30日)

隅田川七福神;福禄寿尊(百花園) ← 弁財天(長命寺) → 布袋尊(弘福寺) 

昨秋、木母寺や隅田七福神めぐりの社寺にも入っている弘福寺・三囲神社を訪れた際に行き漏らしたのが長命寺であり、桜の頃に再訪することにし、やっと参拝 することができた。
墨堤通りを北から南に歩って、墨堤桜植の碑を左側の道に進むと直ぐ長命寺に着いた。入口には幼稚園の表示も有る。境内には、色々な石碑が有るが、向島出身 の”木の実ナナ”さんの名前が表示されている石碑も有る。一番奥から隅田川沿いに抜けられるが、そこには「長命寺のさくら餅」の店があって、ちょうど桜の 時期ということもあって、お客が行列をなしていた。(2014年3月)

隅田川七福神のお寺で、弁財天が祀られている。



長命寺表門(左側門柱)

お寺の山門という雰囲気ではなく、幼稚園の門という印象であった。奥に入ってみると本堂や庭が見えて、やっぱりお寺さんであると納得するのである。














長命寺表門(右側門柱)長命寺表門(右側門柱)

長命寺付属の幼稚園があるらしく、丁度卒園、入園の季節だったこともあり、境内では数名の子供が元気に走り回って遊んでいた。子どもに話しかけると、地元の言問小学校に入学する子や入園する児がいた。
















長命寺本堂長命寺本堂

 比べるべきではないが、近隣の弘福寺よりは、大分こぢんまりした本堂である。
本堂に向かって右側に弁財天の碑が配してある。左側は庭になっていて、さまざまな石碑が有って、さらにその奥は隅田川の堤に出られる小路になっている。


長命寺 弁財天

 当寺の寺号の由来については、有名な故事がある。その昔、三代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急に病を催し、止むを得ずこの寺で休息することに なった。そして境内のの井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後、長命寺と改めたのである。
 長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。佛教とともに渡来してきてからは、次第に芸能 の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。
(引用;七福神コース案内板 より)




長命寺境内の枝垂れ桜とスカイツリー長命寺境内の枝垂れ桜とスカイツリー

本堂を背にして南方向をみると、スカイツリーの姿が。
松尾芭蕉や門人、門弟の方々は、この地にあのような建築物が出現しようとはまったく想像できなかったであろう。
芭蕉は、スカイツリーを見て、なんと詠んだであろうか。

”墨堤は枝垂桜とスカイツリー”

とか。











長命寺本堂の西側長命寺本堂の西側



















長命寺境内西側奥より「長命寺のさくら餅」店舗に行列をなす花見客長命寺境内西側奥より「長命寺のさくら 餅」店舗に行列をなす花見客


















芭蕉雪見の句碑芭蕉雪見の句碑

 芭蕉の句碑は、全国で千五百余を数えるといわれますが、その中で
「いざさらば 雪見にころぶ所まで」
と刻まれたこの雪見の句碑は、最もすぐれた一つといわれています。松尾芭蕉の門人祗空はこの地に庵をつくり、その後、祗空の門人自在庵祗徳は、庵室に芭蕉 像を安置し、芭蕉堂としました。そして、三世自在庵祗徳が安政五年(一八五八)に庵を再興し、この句碑を建立したのです。
 芭蕉は寛永二十一年(一六四四)伊賀上野に生まれ、のちに江戸深川六間堀に芭蕉庵を構え、談林派から出て俳諧の境地を高め、「さび」、「しおり」、「か るみ」に代表される蕉風を不動の地位にしました。元禄七年(一六九四)旅先の大阪で没しましたが、其角など数多くの門弟を排出しています。
  平成十八年八月
    墨田区教育委員会

引用;長命寺境内に設置された 墨田区教育委員会の芭蕉雪見の句 句碑案内板より





木の実ナナの石碑木の実ナナの石碑

風のように踊り
花のように恋し
水のように流れる

  木の実ナナ














<もどる>