第8話 ー金井菜々という人ー
 暑さの続く中、夏休みが終わりを告げた、大学も後期の授業に入り、今までどおりの生活が再び始まった。サークルでは文化祭恒例のコンサートについて各組に別れてどうするか検討していた。毎年コンサートは文化祭の最後に行われ、その時を盛り上がって締めくくろうと言う意図から始まっている。僕らは街のイベントで成功をおさめてからもっと舞台でその雰囲気を感じ取ろうと張り切っていた。  それから3日後、授業が終わりサークルのない日だったので家に帰ろうとしていた時、ふと1102号室である音楽室からピアノの音が流れていた。「この時間になんで流れてるんだ?」本来この教室では放課後ピアノは自由に弾いていい事になっている。教室をちらりとのぞいてみると、ピアノを弾く金井菜々がいた。彼女の姿は普段の大人しい部分とは違って力強く、また可憐に見えた。「始めてサークルで会った時と同じ曲を弾いているな」そう思って何気なく僕は教室に入り彼女の元へ。「いつもここで弾いているの?」声をかけると、すこしおどけた後こう答えた。「うん、ここ放課後自由に使っていい事になってるし、それに自分の弾きたい曲だってできるから」「・・・。俺、お邪魔だった?」彼女といると「・・・」彼女は黙ったままだった。僕がここを出ようとした時、彼女はこう答えてきた。「どうしてここへ来たの?」「以前もここへ来た時にね、金井さんがピアノを弾いてて、結構上手く弾いてるんだなと思って青山と見に来たんだけど俺達を見るなり慌てて教室を出ていったから不思議に思ってさ。今この教室でピアノの音が聞こえて来たんで、もしかしたら金井さんじゃないかと思って今度こそじっくり聴けたらなぁ思ってここへ来たんだよ」「なら・・・、聞いてくれる?」「もちろんだよ」彼女は僕の言葉を聞き、明るい表情を見せ、自分の気持ちを理解してくれた。ピアノを奏でる音は近くで聞いていてもうるさいと感じることはなかった、むしろ静かな旋律で。鍵盤をただ叩くというよりも叩き加減をコントロールして音の強弱をつけることで音に色々な表現をつけて演奏している。聞き惚れているうちにあっと言う間に時間が流れ放課後から一時間も経っていた。「ずいぶん長く聞いてたんだな。ごめん、練習の邪魔をして」「ううん、そんな」自分の弾いた曲を聞いてくれたことで彼女は少し微笑んでいた。「俺、もう帰るよ。あとは時間があるまで自分の腕を磨いてよ、それじゃぁ」「けっこう上手いよな、本当に。でもなんで俺を見た時なんであんなに怯えていたような顔していたんだろうか?」帰り道心の中でそんな事を考えていた。 翌日、昼休みに食堂で青山と出会ったので早速この事を話した。「へえ、彼女の曲をねぇ」「サークルの時も確かにそうだったけどやっぱり上手かった、無闇に鍵盤を叩いているんじゃなくて盛り上げる所は盛り上げて、静かな時には静かに弾いていたしかなり指の使い方も熟練されてるって感じだったな」「一度ピアノだけで聞いてみたいよな、バンドの場合は他の楽器と音が混じるからはっきりピアノの音が聞こえないこともあるからね、それにバンドの時は彼女の場合自分の所から持って来たキーボードだったしな」「また行ってみないか、1102室へ」青山が僕を誘った。「そうだな、また行ってみるか?」「でも彼女、警戒しているような感じだったんだよ。なぜだかわからないけど」「それならさ、お前が彼女に話してくれた方が良いんじゃないか? お前には聞かせてくれたんだろ?」僕は青山と共に放課後になってから半信半疑のまま教室へと向かった。「お前の方は授業はこれで終り?」「ああ、さすがに5時間目は履修する気になれなくて、上手く単位がとれるように時間割りを調整して履修したからな」「効率よくやってるんだな、お前」「まあな」僕らが 1102室へ行ってみると鍵がかかっており、誰もいなかった。「あれ? 音が聞こえないし、教室もしまってるな」「いつも練習している訳じゃなさそうだな」「今日はだめだな」そう思って帰ろうとしていた矢先、金井菜々が1102室へ鍵を開けて入って行く姿を見た、そこに中林佑子も一緒にいたのだった。「たしかあの2人って音楽科だったよな?」「ああ、結構彼女1人でいる時よりも明るい表情をしている」大学へ入ってから2人はかなり親しくなり、大人しい金井もそれなりに会話していると中林が話していた。「後を付いて行ってみるか」青山が積極的にそんなことを言って、僕の方は仕方なくその言葉に従ってついて行く事に。1102室を覗いてみると2人はピアノの前で何か話をしているようで、青山が盗み聞きを。 「そう、彼来てたんだ。それであなたの弾いてるのを見てどう話してたの?」中林がお馴染みの明るい声で話していた。「彼、上手いって言ってた。サークルの時はピアノの音がいろんな楽器の音が混じってわからないから、ぜひピアノの音だけで聞きたいって」「そうなの。でも嬉しかったんじゃない? 私以外にも聞いてくれる人が出来たんだから」「うん、本当に嬉しかった・・・」金井は少し笑顔でそう言った。「なぁ、彼女結構嬉しそうだったぞ」「そうだね、本当に」僕は彼女のその言葉が手助けになったようで素直に嬉しかった。「彼女に頼んでこいよ」「だったらお前も来てくれよ、物を頼む時にはその方が礼儀正しいってもんじゃないか?」僕は青山を連れて音楽室に。「あっ? 三嶋君。ちょうど今あなたの事を話していたの」「一体どんなことなんだ?」青山は盗み聞きしていたにもかかわらず質問した。「今日も来てるかと思ってさ、青山が金井さんのピアノを聞きたいって言うもんだからつれて来た」「それならいいんじゃない、ね」「うん」彼女は嬉しそうに答えた、あのピアノの音が教室全体に流れ一時の音楽鑑賞を僕らは満喫した。 そして一週間後、金井と第2校舎で偶然会った。「あの・・・、時間ある?」「うん、あるけど」素っ気無く僕は返事する。一体何なんだろうという漠然とした疑問が頭に浮かんでいた。僕らは学校の近くの公園のベンチに座って話す事にした。「教室でのピアノの事なんだけど、私ピアニストになりたくてこの大学へ入ったの。色々と音楽の事を勉強して将来音楽に関係する仕事がしたいと思って」「そうか、練習するためにあそこで放課後に・・・」「人と話すのが苦手だから自己表現なんて上手くできない。それでも・・・、それでも私、自分の好きな事、憧れている事に打ち込めるなら自分を変えられるかと思って時間がある時はあそこで練習していた」「自己表現が上手く出来ない、か」「本当に出来ているのかどうかわからなくて、どうしても自信が持てない!」「でもさ、あそこまで一生懸命やっているんだ。すぐには成果は出ないかも知れないけど自分自身のためにやろうとする姿勢があるんだったらいい結果が出せるって信じてみるのが大切なんじゃないかな?」「・・・」彼女は下を向いて僕の話を聞いていた。「とにかくピアノを続ける事が大事だと思ってるよ。そこまで自分を追い詰めているなんてね・・・、少し自分に自信をもってみたらどう。少なくても金井さんのことをわかってくれる人がいるんだから」「ありがとう、そう言ってくれただけでも嬉しい」彼女は少し笑って答えてくれた。「それじゃ、またサークルで」僕らは公園を後にして帰宅した。  彼女が喜んでくれた、あまり笑顔を見せない彼女が。自分に自信の持てなかった彼女がサークルでの出合いをとおして自分の夢を、また悩みを僕に話してくれたことで彼女の思いはほんの少しわかったように感じられた。これからも彼女をそっと見守って行こうと僕は心に誓った。