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【第3回】「コロボックル」を読みましたか?


 キノコを「食べる」ことの楽しさ、これがキノコ狩りの大きな目的になっていることは前にも触れた。しかし、キノコが最も魅力を見せてくれるとき、それは「生えているときの姿」だと私は思っている。湿った空気の中、木の根元で下草に隠れるかのようにひっそりと生えているキノコには、見るものをはっとさせる何かがあるようだ。

 林の中に生えているキノコに対して特別な何かを感じるようになったのには、小さいころの想い出がいくらか関係があるように思う。

 私は小学生の頃大好きな本があった。やっとあるていどの漢字が読めるようになってきた私に、父親が自分の本棚の中から4冊の文庫本を抜き取って与えてくれたのが、佐藤さとるの「コロボックル物語」シリーズ。小人が登場する童話小説として現在でも定番になっているものだ。場面が日本の都市近郊ということで親しみやすさがあったせいもあるが、よく自分の遊びのフィールドにあてはめて読んだものだった。小人の大きさは親指ほどで、動きは敏捷、頭脳は明晰、話す言葉はものすごい早口で、人間には「ルルルルルル」としか聞き取れない。「ぼく」だった私はそんな小人が自分の身近にいるのではと思い込み、小人が隠れているのではないかと林の中の葉っぱの裏や棄てられたヤカンの中などをひっくり返していた。当然、キノコの下にも隠れているのではないかと覗き込んだりしたものだ。今の私にはそのころの記憶はおぼろげな幻想のようにしか思い出すことが出来なくなってしまった。しかし、見えない白昼夢を夢中で追い求めたあの感覚は、今でも失われずに自分のからだに宿っている。

 大人になった今となっては、小人が存在するなんて口にするだけで頭がおかしいと思われかねないが、当時としては本気だった。それに、存在しないと言うのはたやすいが、存在しないと思い込むのはとても難しいし、悲しく寂しいものだと思う。だから、キノコの生える林に何かを感じるという感覚の裏側には、小人が見たいという幼いころの好奇心の無意識的な現われがあり、キノコに神秘的な魅力を感じるのは、キノコを通して空想の童話世界を見ているからだとはいえないだろうか。

 私としては、キノコの魅力というのは、その生えている環境までを神秘的に変容させてしまう所にあると考えているので、食べるかどうかも分からないキノコをむやみに採集してしまうという荒っぽいキノコ狩りにはあまり賛成は出来ない。そっと生えているキノコはできる限りそのままにして、せめて写真に収めることで満足するのが、私の接し方だと思っている。そこで、「見る」楽しみに主眼を置いて林に入るの時に必ず持っていくのが、一眼レフのカメラと延長コ−ド付きのフラッシュだ。使い捨てカメラやコンパクトカメラでは、薄暗い林の中は光量不足になりがちで、しかも内蔵のフラッシュでは正面からの光なので、立体感が失われてしまう。接写も出来ない。一眼レフなら接写のできるレンズもあるし、フラッシュを横から当てれば立体感もでる。ひとつ注意しなければならない事がある。それは、被写界深度を上げること。被写界深度をめいいっぱい上げないと、ただでさえ暗いところで接写なんて使うので、傘の一部分や茎の一部分にだけピントがあってしまい、何が何だか分からなくなることがあるからだ。

 しかし、撮影した写真はやはり写真でしかない。キノコの醸し出す神秘的な雰囲気になるべく沢山触れたいと思うので、実際にキノコを見にいかなければならない。そうして私の少ない休みはキノコに会うために使われてしまい、洗濯と掃除は後回しにされて、家はどんどんカオスの様を呈してくるのだった。そのうちにキノコが生えてくるかもしれない。

−つづく−




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