公正証書遺言を無効とした判決-その2/弁護士の事件簿・相続

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認知症の母の死亡

Aさんんは、 海外で働いていました。年に2回ほど帰国していました。
平成24年12月10日、Aさんの母親が亡くなりました。父は既に亡くなり、相続人は、Aさんと妹でした。
母親は、平成22年7月、公証役場で、公正証書遺言を作成していました。Aさんは、妹から、遺言作成 の手続きを相談した弁護士の名前を聞き、 尋ねました。弁護士から、遺言書の写しをもらいました。遺言状では、遺産の大部分を妹が相続することになっていました。
母親(遺言者)は、以前から認知症でしたので、Aさんは、納得できず、法律事務所を 尋ねました。

調査依頼:区役所にある介護認定調査票、病院にあるカルテ

Aさんの話を聞いた弁護士は、遺言者の遺言能力に問題があると考えました。Aさんは、平成25年2月5日、弁護士に、遺言者が認知症であったことの資料集めをすることを 依頼しました。
弁護士は、弁護士法23条の2の照会を使い、弁護士会を通して、遺言者が入院、通院したことがある3つの病院および区役所から、下記書類を取り寄せました。

病院にあるカルテ看護日誌
区役所にある介護認定調査票主治医意見書要介護認定調査結果通知書

病院のカルテは、5年間保存されています。 カルテを見ると、平成22年5月19日、遺言者は、長谷川式簡易認知症検査(HDS-R)を受けており、結果は、4点でした。
遺言者が入院した病院で、遺言者の転倒、転落アセスメントシートの中で、認識力についての評価がなされていました。それによると、遺言者は、平成22年5月29日と退院日の前日の平成22年6月8日に、「認知障害がある」、「判断力、理解力、記憶力の低下がある」項目に該当記載がある。
また、遺言者に対する、区役所の介護認定調査が、平成22年6月4日に行われました。それによると、遺言者は、要介護5の認定を受けていました。区役所の介護認定調査員の調査票中には、遺言者の認知機能について、「複雑なことは、意思の伝達はできない」、「直前のことを忘れることが多い」、「季節を理解できない」等の調査結果がありました。それに加えて、遺言者は、夜間に大声を発するなどとても正常とはいえない状態でした。遺言者は、点滴を抜いてしまうので、医師は、遺言者の両手にミトン(大きな手袋)を付けていました。
平成22年6月4日付主治医意見書では、医師は、遺言者をアルツハイマー病と診断していました。2年前より痴呆が継続しているとの記載がありました。
さらに、主治医は、遺言者の認知症の症状について診断していました。 それによると、遺言者の短期記憶は、「問題あり」、日常の意思決定を行うための伝達能力は、「判断できない」、自分の意思の伝達能力についても、「伝えられない」と遺言者の認知症状は、すべての項目の最も重度の度合いの認知度と診断されていました 。認知症高齢者自立度は、Vbでした。 また、主治医は、その他、認知症の周辺症状として、遺言者に妄想、昼夜逆転などの症状があるとしていました。 

遺言能力がなかったとして訴え提起

遺言者には、遺言作成当時、遺言能力がなく、公正証書遺言は無効である旨の確認を求め、 平成25年11月6日、Aさんの弁護士は、訴えを提起しました。
被告(妹)の主張は、次の通りでした。 原告(Aさん) 側は、長谷川式簡易テストをした 医師を証人として申請しました。弁護士から、医師に手紙で、 出廷をお願いし、原告本人も、病院へ行き、直接、医師にお願しました。その結果、医師は、法廷で証言することを承諾してくれました。
法廷で、医師は、「自分の専門は、呼吸器内科であるが、 認知症のテストを50回〜70回実施した経験があること。テストの結果が4点であることだけを理由に認知症と判断したのではなく、総合的に、認知症と判断した 」と証言してくれました。
被告側も、公証人を証人申請しました。公証人は、遺言者に意思能力があった証言しました。しかし、この程度の証言では不十分です。

遺言無効とする判決言渡

平成27年7月15日、判決(下記)がありました。公正証書遺言は、無効であると確認されました。
要介護認定の資料、および、カルテおよび医師の証言が認知症を示していました。遺言の内容が複雑で認知症の者には書けないとのとの判断も示されました。
被告には、自己の主張を立証する証拠が欠けていました。

東京地裁平成27年7月15日判決抜粋

J子 遺言者(母親)
原告(Aさん)  遺言無効を主張
被告(妹) 遺言有効を主張
固有名詞などは変えています。OCRを使っていますので、誤字があります。

第3 当裁判所の判断
1 認定事実
前提事実に加えて,後掲の証拠及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認め られる。
(1) J子のK病院入院前の生活状況等
ア J子は,H雄がJ子と同居していた自宅において経営する歯科医院で歯科衛生士等として稼働していた。H雄は,平成18年5月12日に死亡し,共同相続人であるJ子,原告及び被告の間で、遺産分割協議が行われ た結果,原告が法定相続分よりも約1割少ない財産を取得し,被告が法定 相続分よりもその分だけ多い財産を取得することとなった。
イ(ア) 原告は,昭和61年に医師免許を取得し,平成3年7月に渡米し た後,シカゴにおいて眼科医院を開業し,本件遺言書作成時 には年に数回帰国する程度であった。
(イ) 被告は,歯科大学・大学院を修了して矯正専門医となり,平成18年 頃から,J子の自宅で同人と同居しながら歯科医院を開業していた。
な お,このほか自宅には, 50年来住み込みで歯科助手として勤務し家事 全般も行っているS子(以下「S」という。)が居住している。
ウ J子は,過去の交通事故に起因して歩行に障害があり,また,平成20 年頃から便秘症のためK病院に通院してK医師による経過観察を受け ていたところ,平成22年3月(以下,特に断りのない限り,平成22年 の日については年の表記を省略する。)頃には,自ら自動車を運転するこ ともあったが, 5月頃から,ほぼ寝たきり状態となり,尿が出なくなった (閉尿)ため導尿処置を受けていた。
(甲2・6,7,17,19頁,甲3の3, 1 6の2,乙11 )

(2) K病院入院時の治療経過等
ア J子は, 5月19日,閉尿による下腹部の腫大と全身衰弱の治療のため K病院に緊急入院した。入院時連絡票には, 「入院時JCS-I群−1. 清明とはいえない」との記載がされていた。J子の入院時の体温は, 37. 0°C,血圧140/80,心拍数90/分であった。(甲2・3' 7頁)
イ O一郎医師(以下「O医師」という。)は,入院特にJ子を診察し た際,同人に元気がなく食事もあまり摂らない様子を見て認知症を疑い、 同日,長谷川式検査を実施したところ,その結果は,痴呆に分類される3 0点満点中4点であった。
なお,J子は,同検査において,年齢については答えることができたが, 今居る場所について江東区と,家か病院かの問に対しては分からないと, 「10 0−7に対して73などと答えた。また,同検査において,J子 は,O医師から,言われた単語を復唱するよう指示され, 「桜」、' 「猫」、「電車」と言われてそのとおりオウム返しに答えることはできた が,読み上げた複数の数字を逆の順序で復唱するよう指示されたときには 答えることができなかった。
O医師は,J子を神経因性膀胱炎と診断するとともに,長谷川式検査 及び入院中に実施したMRI検査の結果で脳梗塞の所見が見られなかった ことなどに基づき, 「老人性痴呆」 (認知症の意。以下「認知症」といい, 後記のアルツハイマー病と併せていうときは「認知症等」という。)と診 断しその旨診療録に記載した。
なお,入院時連絡票には,J子の主傷病名として,神経因性膀胱炎のほ かに腎孟腎炎,敗血症,脳梗塞後遺症との記載があるが,これらの記載は, DP C請求(包括医療費支払制度)に基づき検査を行うために記載された もので,実際の診断名とは異なっている。(甲2・1、3、1 1頁,証人 O・2, 5, 9, 11頁)
ウ K病院の看護師らによる看護記録には,J子の認知能力等について次 のような記載がある。
(ア) 5月19日
「簡単な問質に返答可だが,年号を答えられないなど認知力低下があ る」、「理解力低下しているため,安全な入院生活を送ることが出来る よう援助していく」、「点滴のラインを丸めてにぎりしめている」、 「認知あり。治療継続困難」、「右手ミトン装着」
(イ) 5月20日
「支えあれば立位可能も,認知あり,自己体交せず」、「褥瘡悪化の 可能性あり, AD L低 下しているため援助していく必要あり」
(ウ) 5月27日
「ちょっと…(意味不明) 」、 「訪室すると右手に点滴ルートをから めており,引っ張っている。DI Vルート確保の為,右記(両手ミトン) 開始す。認知あり,自己抜針予防してゆく必要あり」
(エ) 6月1日
「認知あり。尿意わかっていなそうな様子である」
(オ) 6月2日
「認知あり尿意の有無わからず・・・。」
(カ) なお,K病院の看護師ら作成によるJ子の転倒・転落アセスメント シート1には, 「認知障害がある」, 「判断力,理解力,記憶力の低下 がある」欄に評価スコアの記入がされており,これによればJ子の転 倒・転落の危険度はV(転倒・転落をよく起こす)とされていた。
(甲2・22, 29, 31, 45, 55, 57頁)
エ J子は,入院期間中,主に胃酸中和薬,便秘薬,抗菌剤などの投与を受 けたが,認知症等に対する薬の投与は受けなかった。(甲2・73ないし 8 2頁,証人O)
オ J子は,入院中,導尿バルーンの挿入や投薬による尿路感染症の治療を 受け,症状の改善がみられたとして, 6月9日,K病院を退院した。
(甲2・1, 6頁)

(3) 要介護認定時の調査等
ア J子は, 5月28日,介護保険制度に基づく要介護認定の申請をし, 6月4日,所轄の江東区の調査員による調査を受け,その結果に基づき介 護保険認定調査票(申3の3。以下「本件調査票」という。)が作成され, これに基づき各調査項目に対する判定(甲3の2。以下「本件調査結果」 という。)が行われた。本件調査票及び本件調査結果は,おおむね次のと おりである。
(甲3の2及び3,甲18)
(ア) 本件調査票の「認知機能に関連する項目」には, 「1 (意思の伝達) 複雑なことは伝達出来ない。 3 (生年月日)昭和7年6月9日78才と 回答。後に昭和7年6月1日76才。 4 (短期記憶)直前のことを忘れ ることが多い。 6 (季節)秋と回答 理解はないように思われた。7 (場所)お手伝さんの手指をしっかりと握りながら,ここはどこかの質 問にお手伝いさんと一緒に住んでいる所との事」 と記載されていた。 これに基づき本件調査結果のうち第3群認知機能欄の「1.意思の伝 達」 については「ときどきできる」 と, 「2.毎日の日課を理解」、 「4.短期記憶」、 「6. 今の季節を理解」及び「7.場所の理解」につ いては,いずれも「できない」と判定された。
(イ) 本件調査票の「精神・行動障害に関連する項目」 には, 「6 (大声をだす)自宅にいると勘違いするのか,夜間でも大声をだす( 2〜3/ 月)」、「7 (介護に抵抗)ときどき治療上嫌な内容だと(もともとは っきりしている性格であった) N. S (看護師の意)の腕を強くつかみ 抵抗する」と記載されていた。
これに基づき本件調査結果のうち第4群精神・行動障害欄の「6. 大 芦を出す」及び「7 介護に抵抗」欄については,いずれも「ときどき ある」と判定された。
(ウ) 本件調査票の「日常生活自立度に関連する項目」には,「7 − 2 (認 知症高齢者の日常生活自立度) V b 大声が夜間にあり,見当識障害が ある」と記載され,木件調査結果ではVaと判定されていた。
なお,認 知高齢者の日常生活自立度は, T からW及びMの各ランクがあり,Vは, 日常生活に支障を来すような症状・行動や意思疎通の困難さが見られ, 介護を必要とする状態で,ランクUより重度のものをいい, Vaは日中 を中心に上記状態が見られ, Vbは夜間を中心に上記状態が見られるも のをいう。
イ O医師は,J子の介護認定のために, 6月4日付けで介護保険主治医 意見書(以下「本件意見書」としづ。)を作成したところ,本件意見書に は,おおむね次の記載がされていた。(甲3の4)
(ア) 「傷病に関する意見,診断名 アルツハイマー病 発症年月日 平成 2 2年5月19日頃」
(イ) 「生活機能低下の直接の原因となっている傷病または特定疾病の経過 及び投薬内容を含む治療内容 2年前より痴呆が進行し,半年前からはねたきり」
(ウ)「認知症高齢者の日常生活自立度 Vb」
(エ)「認知症の中核症状 ・短期記憶問題あり。 ・日常の意思決定を行 うための認知能力 判断できない。 ・自分の意思の伝達能力伝えられ ない。」
(オ)「認知症の周辺症状 有 妄想 昼夜逆転」
ウ 上記調査及び本件意見書に基づく介護認定審査会の審査を経て,J子に ついて,介護保険法上の要介護状態区分を5とする認定がされた(認定有 効期間は5月28日から11月30日まで)。(甲3の2)
エ 1 0月5日,J子について介護保険制度に基づく要介護認定の申請が再 度行われ,同月15日に行われた江東区の調査員による調査の結果(以下 「本件再検査結果」という。)及び同月19日付けのK医師の介護保険 主治医意見書(以下「K意見書」という。)等に基づき,J子の要介護 状態区分を5とする認定がされた(認定有効期間は12月1日から平成2 4年11月30日まで)。なお,K意見書の内容は,治療内容の点を除き 本件意見書とほぼ同様であり,また,本件再検査結果も本件調査結果と ほぼ同様であった。(甲16の2及び3)

(4) 本件遺言書作成の経緯
ア(ア) 被告は, 6月18日,東京都墨田区江東橋所在の錦糸町公証役場を訪 れ,Y公証人に対し,J子の自宅に出張して,J子の公正証書遺言を 作成するよう依頼した。その際,被告は,Y公証人に対し,J子が本 件遺言書と同旨の遺言を作りたいと述べていると伝え,Y公証人は, 被告の述べた内容をメモ書きした。また,Y公証人は,被告から,J 子は体が不自由で寝たきりになっているため前記公証役場に来ることが できず,手に力が入らないため署名ができないことなどを告げられたが, 認知症等などの具体的な診断名は聞かされていなかった。
(イ) Y公証人は,被告との上記面談結果に基づき, 7月1日の出張に先 立ち,本件遺言書の案文を作成して,前記公証役場を再度訪れた被告に 手渡し,その案文に基づいてあらかじめJ子の意思を確認するように依 頼した。
イ Y公証人は,遺言公正証書作成のため, 7月1日午後2時頃,J子の 自宅を出張訪問した。なお,Y公証人がJ子に会うのはこれが初めてで あった。Y公証人は,J子が居住している自宅3階の居間において,上 半身部分を斜めに起こした介護用ベッドに横臥しているJ子と面会して本 件遺言書の作成作業を進めた。その際,歯科医院の従業員であるS及び T子が証人として立ち会い,被告は少し離れた場所に座ってその作業 を見守っていた。
ウ Y公証人は,J子に対し,遺言公正証書作成のために来訪した旨を告 げ,J子の本人確認を行った後,事前に作成した本件遺言書の案文の要旨 を告げて,作成する遺言書の内容は要旨のとおりで間違いないかを問うた ところ,J子は,間違いないと述べた。
次いで,Y公証人は,J子に対し,案文を見せ,鉛筆で該当の箇所を 指し示しながらその内容を読み聞かせた上,その内容で間違いがないかを 問うたところ,J子は間違いないと答える素振りを示した。
Y公証人は,読み聞かせ終了後,J子において署名することが困難で あったため,同人の氏名を代筆して署名し本件遺言書を作成した。なお, Y公証人は,遺言公正証書を作成する際に遺言者の意思能力に問題があ ると考えられる案件について,後日の紛争に備えて「遺言作成メモ」を作 成しているが,木件については作成しなかった。
(甲I,乙1, 2' 1 1,証人Y)

2 争点( 1) (J子は,本件遺言書作成時,認知症等により意思能力を欠いていたか。)について
(1) ア 前記認定のとおり,J子は, 5月 19日にK病院に緊急入院した当時77歳と高齢であり,ほぼ寝たきりの状態となったものであり,O医師 は,入院時にJ子を診察した際,その様子から認知症等を疑い,同人に対 し長谷川式検査を実施したところ,同検査の結果が30点満点中4点と痴 呆に分類されるものであったのであり,このような長谷川式検査の結果や 入院中に実施したMRI検査結果等から,認知症等と診断したものである。
また,J子には,簡単な質問には返答できるが年号を答えられず( 5月 1 9日),右手に点滴ルートをからめて引っ張り点滴を抜こうとしたため に両手にミトンを装着する処置がされ( 5月27日),意味不明の発語が ある( 5月27日)など,K病院への入院期間を通じて認知症等の発現 と認められる行動が見られたものである。
さらに,前記のとおり,J子は,入院期間中,要介護状態区分5と認定 され,本件意見書では,J子は認知症等の一類型であるアルツハイマー病 に罹患しており,短期記憶,意思決定を行う上での認知能力,意思伝達能 力(以下,これらの能力を併せて「認知能力等」という。)の低下など, 認知症等の中核症状のほか,妄想、,昼夜逆転などの認知症等の周辺症状も あり,その結果同人の日常生活自立度はIIIbと診断されていた。そして, 本件調査結果でも,J子の認知機能につき,意思伝達については「ときど きできる」 と判定されたものの,その余の項目は「できない」などと判定 され,夜間に大声を出し見当識障害があるとして,同人の認知症高齢者の 日常生活自立度はVaと判定されていた。
このように,本件意見書及び本件調査結果ともに,J子の認知能力等に 問題があることを指摘し,日常生活に支障を来すような症状,行動や意思 疎通の困難さが認められるとして介護を要すると診断し,判定していたも のである。
以上のとおり,J子は,入院中,認知症等と診断され,医師を含む複数 の医療従事者及び介護認定事務従事者から認知能力等がかなり低下し,そ れが常態となっていることが指摘されていたものである。そして,本件遺 言書が,J子が退院したわずか22日後に作成されたことや,本件遺言書 作成後の調査に基づく本件再検査結果及びK意見書の内容が,本件検査 結果及び本件意見書の内容とほぼ同様であったことからすれば,本件遺言 書作成時も,J子の認知能力等が回復していたと認めることはできず,そ の能力は入続時と同様かなり低下していたと認めるのが相当である。
イ これに加えて,本件遺言の内容は,H雄が歯科医師会を通じて購入し たまま放置されていた群馬県吾妻郡長野原町所在の原野等を含む多数の不 動産や本件預貯金等が個別に列挙され,不動産については,その一部を原 告に,残部を被告に相続させるとするなど,詳細かつ多岐にわたる内容と なっており(甲1、8ないし10,原告本人,被告本人),J子は,前記 のような認知能力等からすると,本件遺言書作成当時,物事を論理的に考 えることができる状況になかった(証人O)というのであるから,J子 が本件遺言の意味内容や本件遺言をすることの意義を理解することは困難 であったといえる。
ウ 以上によれば,被告は,平成18年頃から,J子の自宅で歯科医院を 開業し,同人と同居していたのに対し,原告が,平成3年7月から渡米し て眼科医院を開業し,本件遺言書作成当時,年に数回帰国する程度であっ たことや,H雄の遺産分割の際,原告の相続分を1割程度減らしその分 被告の相続分を多くしたことなど,J子が被告に有利な本件遺言をする動 機がないとはいえないことを考慮しでも,J子に意思能力があったという ことはできない。

(2)ア 被告は,J子のK病院入院時の長谷川式検査の結果が4点であったこ とにつき,その検査がJ子が敗血症を発症し意識朦朧となって緊急入院し た際に実施されたことや,検査を実施したのがJ子と初対面のO医師で あって不慣れな環境に置かれたことが,検査の結果に影響していると主張 し,本人尋問においても,O医師からJ子のCTなどの脳の断層画像を 見せられ認知症特有の脳の萎縮はないと説明されたなどと上記主張に沿う 供述をする。そして,確かに,前記認定のとおり,J子は, 5月19日, 閉尿による下腹部の腫大と全身衰弱の治療のためK病院に緊急入院した 際,意識レベルが清明といえない状況にあったものである。しかし,J子 は,K病院入院の際,救急車により緊急搬送されたものではなく(甲 2・3頁),体温は37℃にとどまっており,かつ,入院時連絡票に記載 された敗血症の傷病名は検査のためのもので実際の診断名ではない。 また,長谷川式検査の点数がその実施時における被験者の体調の影響を 受けることは否定できないとしても,O医師は,長谷川式検査の結果に 基づき過去に50人から70人程度の患者を認知症等と診断した経験があ ること(証人O・18頁)に加え,J子については,前記長谷川式検査 の結果のみならず, MR I検査の結果で脳梗塞の所見がないことなどを踏 まえて認知症等と診断したものである。
さらに,K医師もO医師の本件意見書とほぼ同内容のK意見書を 作成しO医師の前記診断を是認しており,看護記録上もこの診断に沿う ような認知症等の発現とみられる行動が記載されているのであって,これ らの事情からすれば,被告主張の事情は,J子を認知症等と診断したO 医師の判断の信用性を何ら左右するものではない。
イ 被告は,J子に対して認知症等に対する投薬が行われていないことをも って,同人が認知症等ではなかったと主張している。
しかし,J子に対して認知症等に対する投薬が行われなかった理由は, O医師が被告にJ子が認知症等である旨説明したところ,被告がこれを 頑なに受け入れなかったため認知症等の薬を投与できる状況になかったこ とに加えて,J子の認知症等の程度が進行していたため投薬の効果があま り期待できる状況になかったから(証人O・16頁)であり,O医師 がこのような理由に基づいて認知症等に対する投薬を行わなかったとして も,格別不自然であるとはいえないから,J子について認知症等に対する 投薬が行われていないことの一事をもって,O医師の前記診断の信用性 が左右されるものではない。
ウ 前記認定のとおり,J子は,平成22年3月頃に自動車を運転すること があったものである。
しかし,習慣となった自動車の運転ができることが直ちに認知症等に罹患 していないことの根拠となるか疑問がある上,J子は,自動車で外出し た際,途中で運転ができなくなり,結局,レッカー車で自動車を自宅まで 搬送してもらったこともあったというのであるから(原告本人,被告本 人・14頁),J子が平成22年3月頃に自動車を運転していた事実は, その当時,同人が認知症等でなかったことの裏付けとなるものではないと いうべきである。
エ 被告は,J子は,平成23年3月頃,自らの意思で所有していた投資信 託を売却しており,その際,金融機関の担当者が時簡をかけてJ子の意思 能力の確認をしたが問題がなかったと主張する。そして,これに沿う証拠 として,J子作成名義の平成22年9月17日付け三井住友銀行の投資信 託解約・買取注文書(乙12。以下「本件解約書」 という。)を提出し, これによれば,本件解約書には,J子名義の署名押印があり, 「取引の種類」の欄の「買取」及び「全額」の文字が丸印で囲まれていることが認め られるが,本件解約書の作成経緯は不明である上,前記認定のとおり,J 子は,平成22年7月1日の本件遺言書作成当時,手が不自由でこれに署 名することができなかったのであるから,本件遺言書作成のわずか2か月 後に作成された本件解約書にJ子の署名が存在することは不自然であり, J子が木件解約書の内容を理解し,自らこれに署名押印をしたものである とは認められないというべきであり,本件解約書の存在は,J子が本件遺 言書作成当時に意思能力を有していたことの積極的根拠となるものではな く,被告の前記主張は採用することができない。
オ 被告は,Y公証人が,J子の意思能力の有無を確認した上で,本件遺 言書を作成していることを根拠に,J子には意思能力があったと主張する。 そして,Y公証人が, 7月1日に来訪した際,J子に対し,遺言書の作 成を目的として来訪した旨告げてJ子本人の確認を行い,J子に対し作成 する遺言書の内容が事前に作成した案文の要旨のとおりで間違いないかを 問うたこと,Y公証人がJ子に対して案文を見せ鉛筆で行を追いながら 読み聞かせたことは前記認定のとおりである。
しかしながら,前記認定のとおり,本件遺言書作成当時,J子は,認知 症等により認知能力等がかなり低下しており物事を論理的に考えることが できる状況になかったのであり,長谷川式検査の結果に現れているとおり, J子は言われたことに対してオウム返しに答えること自体はできるが,そ の内容を理解して論理的に考えて答えることはできない状況にあったもの である。
そして,Y公証人によるJ子に対する確認の状況は前記のとおりであ り,J子は自発的に本件遺言内容を口授したのではなく,Y公証人から 事前に作成した案文の要旨を告げられ間違いないか間われて間違いないと 答え,さらに同公証人から案文を読み閣かせられた上で、間違いないか問わ れて間違いないと答えるような素振りをしたものであるから,J子はY 公証人の質問に対しオウム返しに答えたにすぎないのであって,本件遺言 の内容を理解していたとは認められないというべきである。
カ 本件遺言書は,Y公証人に嘱託して作成されたものであり,第三者的 立場にある法律専門家によるJ子の意思確認を経て作成されたことが認め られ,これらの事情は,木件遺言が有効であることを基礎づける事情であ るということができる。また,Y公証人は,遺言者の意思能力に問題が あると考えられる案件については,後日の紛争に備えて「遺言作成メモ」 を作成しているところ,本件についてこれを作成していないことは前記認 定のとおりである。
しかしながら,Y公証人は,もともと精神疾患の専門家ではない上, 被告からJ子について認知症等の診断がされているとの事実を聞かされて いなかったものであり,かつ,本件遺言書の案文の作成段階ではJ子に会 っておらず被告を通じて意思を確認したにとどまり,J子と会ったのは, 本件遺言書を作成した7月1日が初めてであったのであって,前記のとお り,J子がY公証人の質問に対しオウム返しに答え表面的には意思疎通 ができたかのように見えたため,J子の意思能力について疑問をもたず 「遺言作成メモ」を作成しなかったことも十分考えられるところである。
キ なお,前記に認定したY公証人によるJ子に対する確認の状況からす ると,民法96 9条が要求する「遺言の趣旨の口授」といえる程度のJ子 の言動があったと認めること自体困難であるということができる。

(3) 小括
以上によれば,本件遺言書作成時,J子は認知症等により認知能力等に支 障がありその能力がかなり低下していたものであり,このような認知能力等 からすると詳細かつ多岐にわたる本件遺言の内容を理解しせず,Y公証人 による意思確認の際もその内容を理解できないまま,オウム返しに答えてい たにすぎない蓋然性が高いというべきであって,これらの事情からすれば, 本件遺言書作成日寺,J子は,遺言作成に必要な意思能力を欠いていたものと いうべきであり,この判断は,前記認定のとおり,J子に被告に有利な本件 遺言をする動機がないとまではいえないことを考慮しでも,左右されるもの ではない。
よって,争点(1)についての原告の主張には理由があり,本件遺言は無効と いうべきである。

東京高裁平成28年2月24日控訴審判決

控訴審においても、遺言は無効と確認され、第1審原告(Aさん)が全面勝訴でした。

上記事件は、当事務所で扱ったものです。

遺言能力がないとの証拠

通常は、介護認定調査票などの要介護認定資料と病院にあるカルテです。しかし、訴え提起時には、証拠が十分でなかったが、訴訟中に、診療情報提供書、診断書が見つかった幸運なケースでありました。

参考:遺言と 長谷川式簡易知能評価スケール (HDS-R)

登録 2016.1.3
東京都港区虎ノ門3丁目18-12-301(神谷町駅1分)河原崎法律事務所 弁護士河原崎 弘 03-3431-7161