イーリス×ディアーナ その1
プロローグ
皆様お集まりいただきありがとうございます。
これより致しまするは、
一人の吟遊詩人と駆け落ちしたある国の姫君の物語。
そんな一つの恋のお話。
願わくば、最後までお聞きあることを。
クライン王国。
魔法の研究はさかんだが、飛び抜けて進んでいるわけではない。豊かで平和
ではあるが、何より小さな国だ。軍も兵も大規模なものは持っていない。
そんな穏やかな国。
その国の舵取りを事実上任されているのは、若干23才の皇太子
セイリオス=アル=サークレッドである。
彼は両親の、国民の、友人の期待によく応え、文武両道・高潔にして誠実な青年であった。
もちろん、そのまつりごとは理に適い、常によりよくなることを目指していた。
そんな中にあって彼の8歳下の妹君、ディアーナ=アル=サークレッドは懊悩していた。
「あーっ! もう、こんなにたくさん一度にできるわけがないじゃありませんの?!」
机にうずたかく積みあがった学問の課題の中からうめき声が聞こえる。
「はあ……、あと4ページ……」
1、2、3、と本日のお勉強の課題の残り枚数を数えてみる。
でも、何回数えてみたって、課題が減るわけでも進むわけでもない。
「ここまでの8ページを終わらせるのに、2時間くらいかかっていますから……」
単純計算ならあと1時間で終わる。はずなのだが。
ここにきて、めっきりとスピードが落ちていた。
「人間の集中力が2時間も3時間も、もつわけがないんですわ!」
ディアーナは、ばんと机を叩いて立ち上がった。きちんと
お手入れされた髪の毛がふわりと風をはらむ。
「続きは帰ってからやることにしましょう」
だって一時間やれば終わるんですから、言ってディアーナは部屋を抜け出した。
盛装ではないととはいえ、十分過ぎるほどに優雅で豪奢なドレスをひるがえして
王宮の廊下を走り去る。
足取りは軽やかで、先ほどまでの疲れ顔は現金なまでになくなっていた。
──同日、街──
数分の後、ディアーナは城下町の大通りを歩いていた。
「やっぱり町はいいですわね」
クラインはけっして大きな国ではないが、この街は栄えていた。
喫茶店のように時間を過ごすためのお店もあるし、雑貨屋・骨董屋のような
生活非必需品を扱うお店もある。食料品や被服のためのお店になると、一度では
思い出せないくらいの店数が軒を連ねている。
しかし、さすがは「趣味はお忍び」と言い切るだけあって、ディアーナは人ごみの中も
すらすら歩き、お気に入りの店の棚先をチェックしていく。
「おい、姫さん」
幾つか目のお気に入りを冷やかしている最中、ディアーナは肩を叩かれた。
「きゃぁっ…て、シオンじゃありませんの! ど、どうしてこんなところに!」
「おいおい、そりゃこっちのセリフだぜ、姫さん」
青年は呆れた声で続ける。
「アイシュが出した本日の歴史のレポート、もう終わったのか?」
「も、もちろんですわ! わたくしにかかればあのくらい、ちょちょいの
ちょいですわ!」
嘘である。
「そうーか、それは結構。……俺にはもう一時間くらいはかかると思えたんだがね。
ちゃんとやることやってんなら、『たまに』お忍びするくらいは仕方ないよな」
「うっ」
シオン=カイナスは26歳。ディアーナの兄セイリオスと学院では同期の腐れ縁で、現在は
筆頭の宮廷魔導士を勤めている。一見陽気でお調子者だが、発言はどこか韜晦していて
本音がつかめない。いつもふらふらとした調子で、しかも女に手が早く節操がない。
どう見てもまじめに仕事をしているようには見えない
だが、本当に仕事をしていないわけではないのだ。
「なあ姫さん、いつまでも子供じゃあいられないぜ。いくら王子に比べたらお飾りだ、
つっても、補佐くらいできなきゃ情けないし、外交の場で教養がなかったら洒落になら
ないぜ」
「……分かって、いますわよ」
重い声でこたえたディアーナに対して、シオンは一転して軽い口調で言った。
「ああ、なんか湿っぽくなっちまったな。わるいわるい。ま、俺もたまには真面目なことも
言ってみないと、セイルに愛想を尽かされちまうからな」
「そんなことありませんわよ」
「だといいけどな。んじゃ俺はもう行くわ」
「はい」
……15歳。
いつまでも子供ではいられない。いつかは私も、どこかの国との間で婚姻をかわして
この国を出て行くのでしょう。私の仕事は政治家なのかしら。それとも外交?
それとも『お人形』?
シオンはいつもふらふらして見えて、ちゃんと仕事をできている。
この国が平和で豊かなのは、お兄様のおかげ。
だから私はきちんとお勉強して、作法にも気をつけて。
でも。
机の上で勉強したことがどのくらいこの国の役に立つのかしら。
もし、この国がなくなってしまった時、私はいったい何ができるのかしら。
見上げたそらは憎たらしいくらいに晴れていて、そんな広さとくらべたら『たまに』
してみた哲学も、ちっぽけな、地面に打ち捨てられた石ころのように思えた。
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