ツキノワの会−人と野生動物との共存を考える−」の背景

 

 ツキノワの会は、1985年に設立した団体です。10名で創設した団体で、私もメンバーの一人です。人と野生動物との共存を目指し、以下の3つを柱に活動しています。@啓蒙普及活動:観察会、講演会を実施、A行政対応:対立でなくNGOとして後押し、情報収集、意見書提出、B山村との交流:秩父浦山にツキノワ荘という拠点があり、地域住民と交流。現在は、観察会と山村との交流がほとんどです。

 

 組織が作られた背景は、昭和521977)〜55年、岐阜、長野、滋賀で特別天然記念物のニホンカモシカが植林木に食害を起こすことが社会問題化し、日本自然保護協会が特別天然記念物のニホンカモシカも守り、日本の林業も守る方法はないかと考えられた活動が背景にあります。

 

 ニホンカモシカはウシ科の動物で前歯は、下あごにしか歯がなく、植物を噛んで、食いちぎる食べ方をします。戦後の高度経済成長期に、スギやヒノキが全国に植林されました。岐阜、長野、滋賀の植林地に生息するニホンカモシカは、冬場、下草刈りされた植林地に残されたされたスギやヒノキを食べました。針葉樹は、一番先端の成長点を食べられると折れ曲がって成長するため材木として使えなくなります。そこで、食いちぎられないように、成長点を食べられないようにポリネット(キオスクなどでミカンなど入っているネット状の物)を成長点に被せ、ビニタイ(パンやケーブルを束ねる、針金が中心に入ったビニールの紐)で留めると食害を防げることが分かりました。

 

 日本自然保護協会は、1979年に「カモシカ食害防除学生隊」を募り(募集要項@A)、全国から学生が集まり、3県で食害防除のボランティア活動を始めました。私も学生時代にボランティアで参加して、岐阜と長野で活動しました。

 秋に食害調査とポリネット掛けを行い、春に外す作業を行います。1週間から10日間、岐阜、長野、滋賀の山中に泊まり込み活動します。当時、携帯電話もない時代でしたから日中は、食害防除活動を行い、日没後、プレハブの小屋で酒を飲み、酒池肉林と化します。

 「カモシカ食害防除学生隊」の記録は、次のところにあります。

http://www.pure.ne.jp/~j-serow/problem/problem.html

 暫くして、日本自然保護協会の中に「カモシカ保護基金」が作られ、全国から寄付が集まりました。

 

 「カモシカ食害防除学生隊」は、後に「カモシカの会」と名前が変わり、東京や関西にもグループが出来ました。ボランティア活動をすると色々と知ることも多く、また、国に対して聞きたいことなど運動が広がります。しかし、自然保護協会から国に対することは、同協会がやるので「君たちは、やらなくて良い」とか「カモシカ保護基金」のお金が使えないなど、色々問題が起きました。

 

 当時、活動を行っていた「カモシカ食害防除学生隊」の創設メンバーも社会人となり岐阜、長野、滋賀に足を運ぶことが難しくなりました。また、前記の理由から「カモシカの会」は、同協会に残して、自分たちで新しい会を作ることになりました。活動の基本が野生動物と人との共存です。カモシカの次に危ないのがツキノワグマだから「ツキノワの会」にしようと言うことになりました。活動の基本が人と野生動物のと共存ですから、サブタイトルに明記しました。また、活動の拠点を関東にし、活動しやすい場所として、当初の活動地域は、神奈川県の丹沢と埼玉県の秩父、そして、カモシカが観察しやすい場所として足尾を選びました。足尾は、足尾鉱毒事件が起こった場所であり、日本の環境問題も知ることができ、また、クマやシカ、カモシカが観察できるフィールドです。神奈川県では、今は、活動していません。

 

 埼玉県の秩父で活動することになり、頻繁に通ううちに、メンバーの一人が民家を買い取りました。その民家を会員総出で改修工事して使えるようにしたのが「ツキノワ荘」です。

 

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