「まだ 今のところ 地球は回っている
まだ 今のところ 光に満ちて…」
これはオクジャワ作詩・作曲「祈り」の歌い出しのフレーズです。オクジャワがこの紙を書いたのは1964年だったのですが、21世紀の最初の年が終わろうとしている今も痛切に響いてきて、やりきれなくなります。
いろいろな無責任、いろいろなおごり、たかぶり、無思慮の結果が、いつ、この地球の動きを止め、青空をかき消してしまってもおかしくないように感じられる昨今、気力がなえそうです。
静かに穏やかに暮らしたい。生あるがままに愛(め)でながら… そんな願いさえ、どんどん難しくなってきました。せめて生きている間は、精一杯心をうちふるわせ、熱い潤いに身をまかせていたいという気持が日ごとに強くなってきます。
私に演劇の喜びを一番教えてくれたポクロフカ劇場の日本公演に、招へいスタッフとしてのめり込んでいた一方で、8月以来、同年齢の歌手坂本真理砂さんや中学の上級生○○○○さんをはじめ、7人もの親しい人たちの死が続き、公演後は仕事の疲れもあって、いささかまいっておりました。
お便りが遅れてしまったお詫びを申し上げますと共に、健やかな新年を迎えられますよう、心からお祈り申し上げます。
モスクワに住んでいた頃(中断を挾み'96〜'99年)、日本へ一時帰国するたび、「日本のTVニュースは国内ニュースばかりで、町内の有線放送みたいだなあ」と感じたものです。国際ニュースの量がとても少なく、外国の事件・事故報道の際にも邦人犠牲者の有無ばかりが問題にされる傾向に違和感を抱いていました。9月の米国同時多発テロ事件以後、ようやく、世界の動きも他人事ではないんだというふうに情報料が増えてきたのは皮肉ですが、地球上が運命共同体的な宿命にあるという自覚は、現代ではとても必要なことではないでしょうか。
「罪もない民間人が殺され」ているのは、NYが初めてではなかったのに、その知識すらなかったらしい日本の政治家たちの軽はずみな言動に寒気さえ覚えます。冷静で賢明な対応と、より公平を期した国際法を順守し、何より、大量の武器を他国に売ったり供与したりする大国のエゴを止(と)めなければ悲劇の堂々めぐりは終らないような気がします。
ご観劇ありがとうございました! ご感想から
ヤーマチカ通信読者の、延べ二百人近い方々がご覧くださいました。楽しんで下さったようで本当にウレシイ!!
「検察官」で好スタートし、「三人姉妹」では早々とチケットが売り切れて、わずかな当日券に行列ができました。「結婚」は知名度の低さから売れ行きが伸びなかったのですが、複数作品をご覧になった方からは、実は、例外なく「『結婚』が一番面白かった」との声が。
そうなんです。
前ニ作品でもスゴイので、予算の制約もあり、当初は日本公演はニ作品に絞られていたのですが、モスクワへ打ち合わせに行って偶然「結婚」を観たアートスフィアの若手スタッフ数人がすっかり惚れ込んでしまい、上層部の決定を覆して三本立てにしちゃったという、お勧めのダーク・ホースだったのです。
再演が実現したあかつきには、是非、お見のがしなく。
なお「検察官」は来春(HTML作者註:つまり2002年)、NHK教育TV「芸術劇場」で放送されます。番組後半のアルツィバーシェフへのインタビューは山之内がしました。
俳優達のセリフを生かすためには字幕の方がふさわしいのですが、今回は「三人姉妹」で、客席が舞台を挟む形になるため、位置的に難しく、また経費もかなり割高になるので、使えず、「ポクロフカ劇場の魅力を生かせるイヤホンガイドの適任者は山之内!」と懸命に売り込んで三作品をやらせてもらいました。
「感情は入れず、情感とセリフのスピード感を芝居に合わせる」。つまり「字幕の音声化」を心がけたつもりです。お客様がイヤホンを聞いていることを忘れてしまえるのが理想のはずですから…。さらにご批判も下さいませ、今後のために。「ナマの同時通訳で!」という希望はリスクを恐れる制作側に却下され、「検察官」と「三人姉妹」はあらかじめビデオを見ながら寸法(HTML作者註:舞台用語で音楽や劇の所要時間をいいます)を合わせて吹き込みました。「三人姉妹」では、男女の役を分け、森田順平さんに加わっていただきました。
その録音をMDに打ち込み、本番では、スタッフのマクウチさんがボタンを押しながら細かく繰り出していき、私が横にへばりついて補佐する二人三脚。時には「あ、ズレた!…まだよ!…ここで!」など、声を潜めつつ、大変でした。お蔭で、お客様から「ナマでやってるんだろう?」と間違われるくらいの確度にまでは近づけました。
「結婚」だけは、諸事情ゆえのケガの功名で、本当にナマで通訳していたのです。評判は一番よかったヨ!
最終日の10/14には、終演後も大勢のお客様が客席に残り、演出・主演のアルツィバーシェフや俳優たちと一問一答式のトークショーが行われました。私は司会兼通訳をしましたが、印象的だった言葉をいくつか…
HTML作者註:当項目は「婦人の友」誌2001年10月号「first step」からの重引です。正当な引用の条件を満たしているとは考えますが、不都合があれば御連絡下さい。
三年余り看病した両親を相次いで見送ったときの私は、気力も体力も貯金も使い果たし、抜け殻のようだった。一人で生きることは覚悟の上でも、看護に専念すれば収入が途絶える現実を忘れていた。物心両面で支え合える者がいない人生にホゾを噛み、きょうだい、友人、恋人との違和感や、出産可能年齢が過ぎつつある虚無感にも打ちのめされていた。だから、モスクワでのラジオ局勤務を決めたのだ。逃避行のように。
国営ラジオ局の月給は円で換算すればわずか一万円強だったが、制服も定年もなく、ファーストネームで呼び合うロシア人の職場で翻訳とアナウンスをしながら、心身のこわばりが解けていくのを感じた。人工的になり過ぎたタテマエ社会の日本で、私の金属疲労は相当たまっていたらしい。冬の厳寒や春の芽吹き、冷房などない丸ごとの夏の陽射しや木陰の涼しさを感じとる、生物としての力が蘇っていくようだった。身体の細胞ばかりでなく、心も呼吸をしはじめた。喜怒哀楽を率直にぶつけあえる日常の人間関係に加え、私を救ってくれたのが、演劇と音楽だった。コーヒー一杯の値段でチケットが買えるのも、ロシアでは芝居やコンサートが人々の生活になくてはならぬ必需品であるからだ。なんとおおらかで繊細な演技力! 劇場とは、自分でも気づかずにいた魂の機微を見事にあぶりだし、人生に活力といとおしさを与えてくれる所だった。日本の新劇調のリアリズムが足もとにもおよばない世界がそこにあった。
目を見開かれ、心潤わせ、私は三年後に帰国できたのだった。
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