|
|
|
|
東海道を歩き出してから28日目の朝。この日の行程で、鳴海宿を通り、いよいよ宮宿(名古屋市)に到達します。また、各地でお祭りに出くわし、この時期ならではの東海道を楽しむことができました。 |
総持寺〜今岡町の旧道分岐 | ||
10月13日。鳴海宿目指してスタートです。広い通りを渡り旧道を進むと、総持寺(写真左)がありました。徳川家康の側室、お万の方の出生地といわれています。総持寺を過ぎると、逢妻側の土手に出ます。逢妻橋を渡り、国道1号線に合流すると、しばらくは国道歩きとなります。やがて、今岡町に入ると、東海道は斜め左に分岐します(写真右)。 |
今岡町の旧道 | ||
それらしい道ではあったのですが、本当に東海道なのか不安でした。しかし、分岐してすぐ、道の右側に大切に守られているお地蔵様がありました(写真左)。どうやら道はあっていたようです。今岡は立場のあったところで、当時の雰囲気はほとんどありませんが、ところどころに旧家が残っていたり、写真右のような史跡がありました。 |
祭り・富士松駅付近の歩道橋 | ||
旧道を歩いていると、ちょうど旧家が両側に数軒並んでいるところで、お祭りに出くわしました(写真左)。子供達が獅子舞を担いで、各家をまわっていました。小規模ではありますが、なかなか楽しい光景でした。 旧道はやがて、富士松駅付近で車道に阻まれます。歩道橋があるので、反対側に渡ることができるのですが、妙に低い歩道橋(写真右)です。 |
地下道〜境橋 | ||
今度は国道を横切るのですが、妙に天井の低い地下道(写真左)を使います。 東海道はやがて、三河と尾張の国境に流れる境川にさしかかります。川には境橋が架かり、橋の向こう側は尾張の国です。 晴天の中、境橋を渡り、いよいよ尾張の国に入りました。 |
阿野一里塚 | ||
一旦、国道に合流した東海道は、少し先で左に分岐します。旧道に入ると、道の両側に木の茂った一画が現れます。阿野一里塚で、国指定史跡になっています。しかし、想像していたような塚は存在せず、塚のあった位置に石碑が建っているのみでした。ただ、なんとなく、こんもりとした盛り土があるようにも思えました。 どうでもいいのですが、この一里塚、妙に蚊が飛んでいて、数カ所刺されてしまいました。訪れる季節によっては蚊の攻撃を受けるので、注意が必要でしょう。 写真左上:京側に向かって左側の塚 写真右上:京側に向かって右側の塚 写真左下:右側の塚から見た東海道 |
||
阿野一里塚の先の旧道 | ||
阿野一里塚を過ぎると、名残の松がありました。その先には、立派な黒塀に囲まれた屋敷(写真左)がありました。誰の屋敷なのかわかりませんでしたが、妙に目立ちます。さらに先には、おもしろいもの(写真右)を見つけました。お寺なのですが、入り口が自動ドアになっていて、ドアを開けるとさい銭箱があります。なんか、お寺というよりは公民館みたいな建物でした。 |
桶狭間古戦場跡 | ||
市街地に入ると、ただひたすら歩く時間が増えてきます。やがて旧道は国道に合流すると、名鉄の中京競馬場前駅にたどり着きます。ここで一旦東海道をそれ、桶狭間古戦場跡へ。 桶狭間といえば、織田信長の奇襲攻撃により、今川義元が戦死した場所。一度は訪れてみたいと思っていました。まさか、徒歩で到達するとは・・・。時間をかけてじっくりと散策しました。 |
鳴海宿入り口(平部町常夜灯)〜枡形 | ||
有松の町並みを過ぎ、名鉄の踏切を渡ると、現在の建物が連なる住宅街となります。やがて、比較的大きな常夜灯(写真左)が目に飛び込んできます。案内板には平部町の常夜灯と書かれ、どうやら、この辺りから鳴海宿のようです。鳴海宿に入ってからしばらく行くと、枡形(写真右)がありました。 |
本陣跡〜丹下町常夜灯 | ||
枡形を過ぎ、ところどころに旧家の残る鳴海宿の中程まで進むと、駐輪場の前に本陣跡の案内板がありました(写真左)。 さらに先へ進むと、再び常夜灯がありました。案内板には「丹下町常夜灯」と書かれています。この辺りまでが鳴海宿のようです。 |
|
||||
鳴海宿に入ると、大勢の人が街道に出ていました。何事かと思っていると、はっぴを着た子供や大人が大勢向かってくるではありませんか。しかも、かなり立派で大きな山車が・・・。かなり規模の大きなお祭りに遭遇したようです。何基も山車が続き、しばらく見入ってしまいました。東海道を旅していて、ここまで大規模なお祭りに遭遇したことはありませんでした。 |
|
東海道のトップに戻る |