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旅籠 紀伊国屋 | |
新居関所を出てすぐ、今度は左側に旅籠の建物がありました。旅籠紀伊国屋の建物で、こちらも中を見学することができます。旅籠は、旅人が宿泊した、今でいう旅館に相当するもので、2階のある建物がほとんどです。 折角なので、中を覗いてみることにしました。有料なので入館料を払い、いざ中へ。間口は狭いものの奥行きがあり、大小様々な部屋がありました。現在の旅館やホテルは、プライベートを守ることから、基本的には個室となっています。しかし、江戸時代の旅籠は、相部屋が基本であったため、各部屋は襖で仕切られているだけでした。黒光りする柱や床。土間などが、なかなかいい雰囲気を醸し出しています。 |
新居宿本陣跡 | ||
紀伊国屋を出て、東海道を先へ進むと、T字の交差点となります。東海道は、この交差点を左折しますが、交差点付近が宿場の中心部で、本陣跡が固まっています。新居宿には本陣が三軒ありました。 |
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一里塚・棒鼻跡 | ||
本陣跡をまとめて見ると、東海道を西へ進みます。T字交差点を左折し、しばらく行くと、一里塚跡の碑が建っていました。新居一里塚跡で、江戸から数えて六十九番目の一里塚です。 一里塚跡からわずか先にいったところに、棒鼻跡の碑が建っていました。棒鼻とは、宿場の外れのことをいいます。両側より土塁が突き出て、一度に大勢が通れないようになっていました。ということは、新居宿はここまでとなります。 |
風炉の井 | ||
東海道を先に進むと、やがて国道1号線に合流します。が、すぐに右へ分岐します。分岐する手前左側には、「風炉の井」と呼ばれる井戸跡があります。建久元年(1190年)に、源頼朝が上洛した際、この付近の橋本宿に宿泊し、この井戸の水を汲み、茶の湯に使用したと伝えられています。 |
立場跡・明治天皇御野立所跡 | ||
旧道に入ってしばらくすると、左側に松並木が残っていました。青い空に輝く松のコントラストが、なんともさわやかな印象を与えます。 松並木を歩いていると、「立場跡」と彫られた石碑が建っていました。このあたり、立場だったようです。先に進むと、今度は「明治天皇御野立所跡」の立派な碑が建っていました。明治天皇も、東海道をずっと歩いていったのでしょう。 |
火鎮神社と元町 | ||
快晴の空の下、太陽をまともに浴びながら東海道を進むと、「火鎮神社」が右側にありました。白須賀宿は、宝永4年(1708年)の大津波で壊滅するまでは、神社から潮見坂下あたりにありました。大津波で宿場が壊滅すると、翌年、潮見坂上に移され、坂の下にあった元々の宿場跡は「元町」と呼ばれるようになりました。現在でも、この辺りの地名は「元町」となっています。 |
一里塚跡・高札場跡 | ||
静かな住宅地の中を進むと、一里塚跡の碑が建っていました。元町の一里塚跡で、江戸から数えて七十里目の一里塚です。また、隣には高札場跡の石碑も建っていました。 |
潮見坂 | ||
白須賀宿といえば、潮見坂が有名ではないでしょうか。東海道は元町を進み、やがて旧家の前で右折します。目の前に、ガイドブックなどで紹介される、見覚えのある光景が飛び込んできます。ここが潮見坂。道はゆるやかに登り、やがて木々の中にすいこまれていきます。最初はまっすぐ登り、木々に覆われる辺りから3度曲がって上り坂は終わります。途中で振り返ると、前方には遠州灘が。残念ながら、現在はバイパスの高架橋がじゃまをしていますが、江戸時代はさぞかし眺めのよかったところでしょう。 坂を上りきると、「おんやど白須賀」という資料館&休憩所があったので、しばしの休息タイムとしました。 <写真説明> 左上:東海道は右へ。潮見坂の入り口 右上:右折するとこのような光景が 左下:途中まで登り振り返ったところ 右下:おんやど白須賀 |
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潮見坂公園と遠州灘 | ||
おんやど白須賀の先には、潮見坂公園があります(写真左)。この辺りからの眺めはよく、左側を見ると、遠州灘が一望できます(写真右)。この日はとても穏やかで、空も海も青く、木々は緑色。なんともいえないコントラストが、旅人の気分を楽しくさせました。 |
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木々の間から見える青い海。景色を楽しみながら進むと、旧家の残る町並みが現れます。白須賀宿に付いたようです。旧家の軒先には燕の巣がいくつもあり、だいぶ大きくなった雛が顔をのぞかせていました。 写真左:白須賀宿「曲尺手」 写真右:現在の白須賀宿 |
本陣・脇本陣跡 | ||
「曲尺手」と呼ばれる鍵型の曲がり角(宿場防衛のために作られた曲がり角です)を過ぎると、道は真っ直ぐに伸び、やがて本陣跡・脇本陣跡の石碑が立て続けに現れます。この辺りが宿場の中心ですが、現在は静かな住宅地でした。 |
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