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13日目
原宿〜吉原宿
2002年1月12日(土)
晴れ
2002年最初の東海道は、原宿〜吉原宿〜蒲原宿〜由比宿の行程で、吉原宿で宿泊する1泊2日です。次第に歩行区間が遠くなるため、日帰りでは難しくなってきました。効率から考えても、今後は1泊がメインになってきます。
東京から新幹線こだまで三島へ、東海道線に乗り換え原駅に。11時8分、原駅前交差点に立ち、いよいよ2002年の東海道がスタートです。

富士山の霊水
11時8分。晴天の中、原駅前をスタートしました。この時期にしては暖かく、歩くには最高のコンディションです。雲一つない、晴れ渡った空の下、東海道を西へ向かって歩くと、「富士山の霊水」なる案内板がありました。どうやら、富士山の湧水を引いてきているようです。蛇口が着いていたので飲んでみました。いまいち味がわからない・・・。最も、水は基本的にほとんど味がありませんが・・・。夏場ならきっと冷たくておいしいでしょう。

東海道はこの先、特に目立った史跡のない一本道が続きます。右には富士山と浮島が原が見えかくれするようになります。交通量も少なく、どこかのどかな道ですが、史跡が少ないのは残念な限りです。

かすむ富士、なにもない東海道
天気は良くても気温が高めなので、富士山がかすんでいます。まるで空中に浮いているように。原から先も東海道にはこれといった史跡もなく、一本道をひたすら歩く状態が続きます。はっきりいって退屈であり苦痛です。唯一の救いといえば右側に見える富士山。東海道が富士山に最も接近している区間なようで、一段と大きく見えます。

東海道線の踏切を越え、いよいよ富士市へ
退屈な一本道をひたすら進むと、やがて東海道線の線路が左側に沿うようになります。そして、東海道は踏切で東海道線を越え、いよいよ富士市へ入りました。富士市に入っても、しばらくは何もない一本道が続きますが、やがて県道に合流します。

[12時42分] 六王子神社
富士市に入ると、写真右のような案内板が、要所に建っていました。これはありがたい。恐らく、東海道400年祭で建てたのでしょう。
県道に合流するとすぐに「六王子神社」があり、東田子の浦駅に着きます。そろそろお腹も空いてきたので、駅の方に行ってみましたが、そこには何もなく、小さな駅舎があるのみでした。昼食は断念せざるを得ず、先へ進むことにしました。

[13時09分] 一里塚の碑、そして春耕道しるべ第一号?
東田子の浦駅を過ぎ、昭和放水路を渡ると、一里塚跡(沼田新田一里塚)の碑がありました。東海道400年祭にあわせて整備されたようで、まだ新しいものでした。一里塚跡から先に進むと、「春耕道しるべ第一号」といった木抗がありました。なんのこっちゃ?まだ、新しい木抗ですが、不思議に思いつつも、そそくさと立ち去りました。

旧道分岐、そして毘沙門天
「ひのき」という交差点で、東海道は左へ分岐します。分岐点には写真左のように、富士市の案内板が設置されてるので、迷うことはありませんでした。東海道は閑静な住宅地を進み、やがて左側に毘沙門天を祭る妙法寺がありました。境内は以外に広く、ここで小休憩をとりました。そういえば、昼食がまだだった。時間は13時51分。とうに昼は過ぎているが、飲食店がない。地図をみると、もうすぐ吉原駅。そこまでがんばって歩こう。再び歩行を開始しました。

鉄道により分断される東海道
妙法寺を去り、東海道を進むと、道は直進と右に分かれます。右の道は東海道線の踏切を越えています。東海道は直進する道なので進んでいくと、東海道線に沿って左へ折れています。地図では鉄道を越え、反対側へ行っているはずなのに・・・。よく見ると反対側にそれらしき道が見えました。つまり、本来の道筋は鉄道により分断されてしまい、今では鉄道に沿う道へと変わってしまっていたのです。鉄道を越えるためには、先ほどの右の道を進み、踏切を渡るしかないようです。踏切を渡りすぐに左折。線路沿いに進むと、やがて右に分岐する道が現れます。これが東海道です。
東海道を進むと、吉原駅方面に向かう道があったので、遅くなったものの、昼食休憩をとりました。しかし、駅周辺には飲食店はなく、探し回った末に、ビジネスホテル1階の飲食店で遅い昼食をとりました。

旅の友、富士山
昼食を終えて歩行再開。東海道は吉原で一旦右へ大きく進路をとることになります。これには理由があり、本来吉原宿は現在の吉原駅周辺にありました。ところが、度重なる津波の影響により、山側へ宿場が移動し、現在の位置になっています。このため、山側へ迂回する形になっています。これにより、有名な左富士が見られるようになりました。
東海道線から次第に離れていく東海道は、途中パルプ工場の脇を通り、国道139号線に合流します。パルプ工場付近では、広い通りの先に見事な富士山が見えました。夕方になり上空の気温が下がってきたのでしょう。ようやく稜線が見えるようになりました。

旧道分岐
国道139号線に合流後、すこしの間歩道を歩くことになります。前方に国道1号バイパスの陸橋が見えてきました。東海道は、陸橋を越えた先で139号線から右へ分岐します。が、ここの分岐は非常にわかりにくく、迷いやすいので要注意。左側の歩道には、富士市が建てた案内板があるので、それを見つけられれば、ここの複雑な分岐はクリアーできるでしょう。

[16時26分] 左富士
分岐後、比較的細い道を進みます。途中、神社や寺があることからも、ここが街道であることがわかります。道は次第に右へ方向を変え、たまに前方に富士山が姿を現すと、左に見えるようになってきます。前方に日新の工場が見え、小さな交差点にさしかかると、工場の後に富士山が見えました(写真左)。ここが有名な左富士で、確かに、東海道の左側に富士山が見えます。交差点を越えたところに、左富士の案内板、そして、1本の松が植わっていました(写真右)。
東海道に対し、通常は右側に見える富士山が、吉原の左富士と神奈川県にある「南湖の左富士」でだけ、左側に見えます。特に吉原の左富士では、今もしっかりと左側に富士山を見ることができます。ただ、残念ながら日新の工場がじゃまをしてしまい、富士山の全体を見渡すことはできません。
 

[16時39分] 平家越えの碑
左富士を過ぎると、東海道は左へ大きくカーブし、あっという間に富士山が見えなくなりました。しばらくすると、道が二手に分かれますが、左へ行くのが東海道です。道の分岐点には「平家越え」の碑が建っていました。

●平家越えの碑
治承四年(1180年)、源氏軍と対峙し、富士川と浮島沼の間に陣取った平家の大軍が、水鳥の羽ばたきに驚いて敗走したといい伝えられている、富士川の合戦を記念する碑で、大正13年(1924年)に建立されたものです。

[16時49分] 東木戸跡、そして明治天皇御小休所の碑
平家越えの記念碑がある分岐を左に進むと、やがて東木戸跡に着き、吉原宿に入りました。木戸跡を伝えるのは、石碑などではなく、富士市の案内板でした。
岳南鉄道の吉原本町駅を越えた辺りから、賑やかな商店街となります。途中、明治天皇御小休所の石碑がありましたが、このときは本陣跡などを見つけることはできませんでした。

[17時10分] たいや旅館で本日の行程終了
商店街の中程に、たいや旅館があります。今日はこの宿に泊まるため、ここで今日の行程は終了となります。
たいや旅館は、江戸時代からこの地で営業している旅館で、宿場時代の「旅籠」です。今では近代的な建物になっていますが、間口は狭いものの、中に入ると奥行きは長く、宿場の建物であることを実感します。部屋は一人用和室という、とてもユニークなものですが、なによりも東海道の宿場に泊まれることが大きな喜びでした。翌日に備え、かつての旅籠で疲れを癒しました。
ちなみに、この日は商店街がお祭りであり、夜は大変賑やかでした。せっかくなので商店街を歩いたところ、地面に旅籠や本陣跡を示す案内板を発見しました。詳しくは次ページで。



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