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年の瀬が押し迫った12月23日。2001年最後の東海道徒歩の旅となります。箱根を越え、いよいよ静岡県。東海道が本当の姿を見せるのはこれから。冬晴れの三島に降り立ち、富士山を旅の友として、沼津宿・原宿を目指すのが今回の行程です。 三島は三島大社で有名な水の都。富士山の湧水が街のあちこちに流れ、透明で澄んだ水が街に潤いを与えています。 |
富士山と三島大社 | |
10時34分、三島駅に降り立ちました。この日はとても天気がよく上空も澄んでいたため、富士山が青い空をバックにくっきりと浮かび上がっていました。今回の行程では右側に常に富士山が見えるため、富士山を旅の友として原宿まで向かうことになります。それにしても、雪の積もった富士山は本当に綺麗です。江戸時代の旅人も安藤広重も、ここからは富士山を見ながら旅をしたのでしょう。広重の絵にも、今回の行程では富士山が必ず描かれています。昔も今も日本人の心の山なのでしょう。 |
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年の瀬迫る12月23日。三島大社では年末年始の準備に追われていました。前回は真っ暗な中の三島大社でしたが、今回は青空の下、白い鳥居が太陽の光を浴びて輝いています。参道は長く、奥に本殿がある三島大社で、旅の無事を祈願し、いざスタート。 |
[11時30分] 問屋場跡、[11時35分] 本陣跡 | ||
三島大社を出発して少し歩くと、郵便局の脇に問屋場跡の碑が建っていました石碑は小さいのですが、しっかりと「問屋場跡」と刻まれています。 | ||
さらに先へ進むと左側に「樋口本陣跡」の碑が、反対の右側には「世古本陣跡」の碑が建っていました。三島宿には本陣が2軒あり、向かい合っていたようです。 |
[12時03分] 時の鐘 | ||
世古本陣跡はそば屋になっていたので、少々早いのですが昼食としました。建物は古く、宿場特有の間口が狭くて奥行きの長い建物でした。味わいのある建物の中で、おいしくそばをいただき、徒歩再開。しばらくすると、三石神社の脇に「時の鐘」なるものがありました。案内板を見ると、寛永年間に創建され、時を報じ、火災の信号にも使用された鐘とのことです。 |
[12時16分] 境川と千貫桶 | ||
伊豆箱根鉄道の三島広小路駅をすぎ、やがて三島宿を出てしばらくすると、境川を渡る小さな橋がありました。ここには「千貫桶」もあります。「千貫桶」とは、土地よりも高い位置に用水路を引いたために、樋のように作られた水路のことで、境川の上をまたいでいます。 また、境川は伊豆と駿河国の境にあることから、このような名前が付いています。 |
[12時29分] 一里塚 | ||
境川から駿河の国に入りしばらく進むと、道を挟んで宝池寺と玉井寺がありました。双方の寺の境内には一里塚があります。写真左は宝池寺(京に向かって左側)にある一里塚で復元されたもの。写真右は玉井寺(京へ向かって右側)にある一里塚で、こちらは原型をとどめています。 |
[12時50分] 八幡神社と対面石 | ||
街道沿いにある八幡神社には、源頼朝と義経が対面した時に腰掛けた石があります。対面石と呼ばれるその石は、八幡神社の奥にありました。確かに人が腰掛けられるような、表面が平な石です。 |
[13時04分] 松並木 | ||
三島広小路から先、東海道はほぼ道なり進めば迷うことがなく、そういう意味では退屈な道のりです。そうこうしているうちに、わずかながら松並木が残っていました。長沢の松並木と書かれていて、松並木の名残のようです。 |
清瀬川の橋から見る富士山 | |
松並木の先には、清瀬川を渡る橋がかかっていました。橋は歩道がなく危険ですが、交通量が多くないため、景色を見ながら渡ることができました。橋からは富士山が見え、思わずシャッターを押してしまいました。雲はかかっているものの、山頂はしっかりと見えていて、まずますの景色です。どこかのどかなこの辺り、冬の暖かな日差しと青い空、そして富士山。これこそが東海道の旅の醍醐味かもしれません。思わず観賞にひたってしまった自分を我に返らせてくれたのは、路線バスの音でした。 |
[13時21分] 「従是西沼津領」の碑 | |
橋が三島市と沼津市の境になっているようで、橋を渡り終えると沼津市に入りました。すぐに、亀鶴姫の墓がある潮音寺があります。亀鶴姫?この辺の知識がうとい自分にはなんのことやら。東海道とは関係なさそうなので、寺の門を見ながら通過することにしました。しばらくすると、「従是西沼津領」の碑が駐車場の横に立っていました。(続きは次へ) |
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