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10日目
箱根湯本(三枚橋)〜元箱根(箱根宿)
2001年11月17日(土)
晴れ
遂に来た。箱根を目指して歩き始めた東海道の旅。当面の目標だった箱根の山は目の前。箱根の石畳を歩きたい。でも、どうせなら歩いて到達したい。その思いが実る時。万感の思いを込めて、箱根東坂に挑みます。天下の険箱根。江戸時代から最大の難所とされた箱根には、今も石畳が残されており、当時の東海道を振り返ることができます。
12時40分、少々遅くなってしまいましたが、当初の目的「箱根芦ノ湖」へ向かい、三枚橋をスタートです。

辻村伊助邸跡の案内板
三枚橋をスタートすると、すぐに道は急坂となります。小田原から800メートル以上も上る箱根路は、この先こうした急坂が連続します。また、箱根山は噴火によって山の中央部分が大きく窪んだカルデラ形の山なため、外輪山を越えると芦ノ湖へ向かって下りとなる独特の地形です。

さて、前方に外輪山を見ながら急坂を上っていると、「辻村伊助邸の跡」なる案内板がありました。案内文を読んでみると、大正の人で、日本人としては初めてヨーロッパアルプスの登頂に成功した人のようです。東海道とは関係のない人なので、ここは簡単に案内文を読んで先を急ぎました。

[12時51分] 早雲寺と北条5代の墓
戦国時代の北条氏は、北条早雲が小田原城を奪取したことにより始まります。その後、豊臣秀吉が小田原城を包囲し陥落させるまでの間、北条氏は5代に渡り、小田原城を主として関東に君臨しました。早雲寺は北条氏の菩提寺として、北条氏5代の墓があり、永眠しています。

[13時13分] 一里塚跡
早雲寺を後にし、道祖神や寺などの史跡を見ながら車に追い立てられつつ急坂を上っていくと、右側に一里塚の碑がありました。日本橋より22番目に位置する一里塚で、立派な石碑と案内板がありました。ここで小休止をし、再び歩き始めました。
それにしても、やっぱり箱根となると、そんじょそこらの坂道とは違います。権太坂を制したから大丈夫だろう、と思っていたものの、相手は山。舗装された道でも急で結構辛いものです。この先の石畳は大丈夫なんだろうか・・・。

[13時19分] 箱根旧街道石畳
遂にその時がきた!右側に下る坂道が現れると、入口に石畳の案内がありました。最初の石畳です。石畳の入口には、「馬の飲み水桶」がありました(写真左)。この辺り、江戸時代は馬立場といい、馬子が一休みする場所だったようです。石畳は、255メートル程で、あっさりと終わってしまいました。意外にあっけなかった。

[14時31分] 初花の滝
県道と合流すると、いくつかの坂を越え、やがて「初花の滝」と書かれた石碑がありました。右側を見ると、少し開けたところから正面に滝が、見えました。かなり遠いため、デジカメではほんのわずか写っているだけですが、木々の間に見え隠れする白い水の筋は、一見の価値あり、といった感じです。

女転し坂
初花の滝を後にし、坂道を上っていくと、途中に「鎮雲寺」という、小さな滝のある寺がありました。この寺には「箱根霊験記」の勝五郎と初花の墓があります。箱根霊験記?文学にうといため、なんのこっちゃ?といった状態ですが、ちょっと見学した後、歩を先に進めました。
途中「須雲川自然探勝歩道」なる案内板がありました。県道は右へカーブを描いていて、さて、どっちが東海道なんだろうか?ここで迷いが・・・。本を見ると県道が東海道になっているし、そもそも「自然探勝歩道」というくらいだから、遊歩道として整備した道だろうと、ここ県道を進みました。右に左にカーブをして登っていくと、「女転し坂」の案内板がありました。なんでも、箱根路の難所の一つで、馬に乗った婦人がこの付近で落馬し、命を落としたため、このような名がついたとか・・・。箱根はやっぱり難所なんです。

[14時50分] 箱根旧街道石畳(須雲川自然探勝歩道)
発電所を右に見ながら進むと、「割石坂」の碑があり、「須雲川自然探勝歩道(一部旧東海道)」といった案内があります。東海道を含めて遊歩道として整備した石畳道のようです。出だしは階段ですが、その先は石畳の道が続きます。途中、江戸時代の石畳も残っていて、東海道らしさを醸し出していました。石畳道の出口付近には、接待茶屋跡の案内板がありました。

[15時01分] 箱根旧街道石畳
一旦県道に合流し、すぐに反対側に「箱根旧街道」の白い木抗がありました。どうやらここが旧道らしいのですが、覗いてみると獣道。意を決して進みました。一気に下ると小さな沢を渡り、石畳が待っていました。ここの石畳は長く、約1キロも続いていました。途中、石畳の構造を案内したものや、坂の名前(写真左下は大澤坂の案内、右下は大澤坂)が刻まれた碑がありましたが、見る余裕がありません。石畳は現代人にとってはとても歩きにくく、大きさのまちまちな石が足の自由を奪っていきます。おまけに、苔むしていて滑るし坂が急。歩くので精一杯です。

また、通常の山であれば、ひたすら上るだけなのですが、この石畳道、沢を越えるたびに下るので、とにかくアップダウンが激しい道になっています。箱根八里の歌の歌詞に「昼なお暗き」とありますが、確かに石畳道は鬱蒼とした森の中を通るため、昼でも薄暗く、おまけに日が傾いてきているため、次第に悪条件に変わっていきます。この季節に汗をかきました。

[15時21分] 畑宿本陣跡(茶屋本陣)と寄木細工
悪戦苦闘しながらも石畳を抜けると、そこは畑宿でした。畑宿とは「畑」という宿名ではなく、「畑宿」が地名です。ここは間の宿として栄えたところで、寄木細工の発祥の地です。
また、本陣跡は、建物こそありませんが、日本庭園が残されており、貴重な遺構になっています。
写真右は、バス停の近くにあった大きな木の切り株?がポイントの、寄木細工の店です。

[15時28分] 畑宿の一里塚
寄木細工の店や石碑などを見ながら進むと、「畑宿」のバス停がありました。バス停の近くには茶屋もあり、県道は右へカーブしますが、直進する細い道があります。これが旧街道で石畳になっています。茶屋横を過ぎると、円形の塚が石畳道の両側に現れます。畑宿の一里塚です。最近復元工事が完了したようで、とても綺麗な一里塚でした。石畳道を挟み両側にある塚、ここだけは当時の街道を偲ばせてくれます。
一里塚を過ぎると、再び薄暗い森の中へ入っていきます。この辺りから、斜度もきつくなり、いよいよ本番といった感じです。箱根越えの場合、一般的に箱根峠を境として、神奈川県側を東坂、静岡県側を西坂と呼んでいます。斜度や道筋から、東坂の方が険しいようで、その姿は21世紀となった今でも当時のままのようです。

いよいよ激しさを増す箱根東坂
石畳+急坂は、思った以上に足に負担となります。特に、畑宿から先の石畳は坂も急なうえに長い。いつまで続くのだろう!今どの辺なんだろう!だんだん不安になってきました。しかも、日が傾き、山中は暗さを増してきている上に引き返すことができない。箱根は恐るべし。当時の旅人も苦労したのだろう。ということは、今自分も当時の人と同じように苦労している。うーん、苦労を分かち合うとはこういうことか(はたしてそうなのだろうか)。などと考えながら歩いていましたが、この後、さらに驚かされてしまいます。

ページ内の画像が多くなってきたので、ページをわけました。続きはこちら→「箱根東坂パート2



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