ミニファンタジーコン ロシア・東欧編 講演用資料

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●ファンタスチカの分類について

 ファンタスチカは、大分類。ジャンルでもあり形式でもある。
 ゴーゴリ「鼻」や「外套」、ブルガーコフ「巨匠とマルガリータ」などを紹介する。「巨匠とマルガリータ」は日本などでは文学作品として認識されているが、ロシアでは代表的なファンタスチカである。
 ベリャーエフに始まる純粋な科学小説は、エフレーモフ、ストルガツキイ兄弟へと受け継がれる。例外的な作家として、アレクサンドル・グリーンがいる。グリーンは「空想の作家」であり、ロマンス作家にすぎないという見方もできるが、今の基準では十分にファンタジーである。
★しかし、この分類にしたがうとアレクサンドル・グリーンは扱いが難しい

●リアリズムを表現する手法

 ファンタスチカの神髄はリアリズムであると言っても過言ではないだろう。決して現実から逃避するための手法でも、幻想そのものを楽しむためのものでもない。
 幻想という非現実的なものの中に、社会や心理をより純粋に写し取る、または際だたせるという手法が使われる。現実をありのままに描く以上に、有効に現実を映し出すことを目的としている。
 したがって、「官憲の目を誤魔化すためにSFや幻想という手法を使う」という風評が決して正しいものでは無いことがわかる(まったく正しくないということではない)。
 逆に、より痛烈な批判の武器として使われるため、ファンタスチカ作家で不遇な目に遭っている人も少なくはない。
 たとえば、ザミャーチンのSF作品「われら」はソ連時代に日の目を見ることはなかった。ブルガーコフは文学の巨匠であるのと同時にSF作家とされているが、SFやファンタジイの手法を用いて強烈に社会を批判した作品は発禁になった。ストルガツキイ兄弟も、「そろそろ登れカタツムリ」や「トロイカ物語」で発禁、「滅びの都」は発表すらできなかった。
 官憲も馬鹿ではない。幻想の手法は決して批判逃れの隠れ蓑として機能していないことがわかる。
 ただし、中には注意深く批判が織り込まれ、何とか逃れたものはあるし、アンダーグラウンドで絶大な人気を得た作家もいるというのは面白いところである。
 その中の一人にセルゲイ・ルキヤネンコがいる。ソ連時代、BBSで作品が回覧され、絶大な人気を得た。ハイファンタジーやスチームパンクもこなし、SF界の巨匠と言っても過言ではない。
 ボリス・ストルガツキイの次の発言が、ファンタスチカを端的に表している。「未来のことに興味はない。今日の自分のことに興味があるのだ」
 これは未来について考えることを否定しているのではなく、今日のことを知らずして未来は語り得ないという当然のことを言っているだけである。
 このように、ファンタスチカ――広義のローファンタジーは、リアリズムのための手法として機能している。

●ロシアファンタジーはリアリズムだった?

 リアリズムとは別の傾向として「歴史改変」ジャンルがある。歴史的事実を変え、現実の世界を変容させる小説が多く書かれており、サブジャンルを形作っている。歴史の意味や現在の意義を問いただすことを目的とした小説である。
 これは、ソ連時代の精算、政治的・経済的な変換による社会の疲弊など、さまざまな事件により、自分たちが現在のアイデンティティを確認するため、これまでの流れを再検証しようという意識によるものである。
 小説の中に現実を写すのではなく、小説の中にある変容した世界から現実を比較・検討・評価し、世界を見直すという逆の効果を持っている。方向を逆にしたリアリズムの手法と言えるかもしれない。
 その流れの中でロシアファンタジーが登場する。
 まず、なぜヒロイックファンタジーという、ある意味で極端な形式が選ばれたのか。
 ロシア時代になり、現在の社会ばかりではなく、「ロシア人」というアイデンティティが揺らいできたことが原因の一つである。ノヴゴロド王国やキエフ・ルーシ以前の古代ロシア人を想定することで、ロシア人の発祥や気質、性質、歴史的な背景を、架空の舞台に移し替えることで際だたせるという効果をヒロイックファンタジーに期待したのである。
 ロシアファンタジーの代表格ともいえるマリヤ・セミョノワの「ヴォルカダフ」などの成功により、この手法は根付いたと言えるかもしれない。
 事実、19991123日の「ETV特集 混迷するロシア2 混迷するアイデンティティー」という題名で、ロシアでは自らのアイデンティティの復権と再確認の行為として、プーシキン(文学)、ロシアン・ファンタジー(歴史的な源流)、ロシア正教(社会的文化的な出発点)が注目されているという内容の番組が放送された。その中では、やはりロシアファンタジーの第一人者としてセミョノヴァにインタビューが行われていた。また、ロシアファンタジーには熱狂的なファンが大勢いるということも放送されていた。

●補足的事項 歴史に登場するロシアの起源

 862年、ノルマン人リューリクに率いられたルーシがスラヴに来てノヴゴロド王国を作った。ここからルーシという呼び名ができたとされている。
 リューリクの家臣がドニエプルを下ってコンスタンティノープルに向かう途中、ハザールの支配下にあったキエフの街を発見してここに住み着いた。そして882年、キエフはリューリクの子イーゴリの摂政オレーグのものになり、キエフはルーシの首都になった。
 日本は平安時代、フランク王国の分裂の頃である。

●当然のことだが批判もある

 そしてもちろん、アメリカや西欧のようなハイファンタジーやヒロイックファンタジーを書く作家もいる。また、アメリカなどのファンタジーも大量に翻訳され、読まれている。
 そのような作品は、先に紹介したロシアファンタジーと入れ物は同じであるものの、目的はまるで違っている。
 そのような作品を否定するつもりはないし、独自の色が出ていて面白いのだが、説明が面倒くさくなっているうえ、評価する側、読む側にも多少の混乱を招く。
 また、先のような、アイデンティティの復権といった大きな目的を持ち得ているうちは良いかもしれないが、ファンタスチカが目的としている「今日の自分たち」というテーマとは相容れないものがある。
 ファンタスチカが現実を写し取ることを目的としているのであれば、ハイファンタジーやヒロイックファンタジーのような舞台は現実離れしているが、実際には現実そのものの世界であるかのような小説を無理して書く必要はない。
 ロシアの社会がもつ危険性を、そのまま剣と魔法に置き換えることは可能だが、単純な置換――直喩にしかならなければ必然性が問われるだけである。
 「ファンタジーは不要」と言い切る人も少なくはない。たとえば、キリル・コロリョフはトールキンの翻訳や幻獣百科の編纂など、ロシアのファンタジーに大きく貢献しているが、彼はファンタジーの手法に疑問を持ち続けている。
 また、アンドレイ・ストリャロフは、主流文学に近い位置にいる作家だが、「ファンタジーはその場だけの本だ」と公言してはばからない。
 もちろん、楽しみのための読書や、娯楽が否定されているわけではない。「物語」の重要性は十分に理解しての発言である。問題は「その場だけ」であるという点である。

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