トロイカの会
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「ロシア・ソビエトSF傑作集」書評

堀浩樹

 故・深見弾の編集になる『ロシア・ソビエトSF傑作集』(全二巻)が実に24年ぶりに復刊された。同じく編集に当たった『東欧SF傑作集』(全二巻)も復刊されており、長らく読むことのできなかった貴重なアンソロジーが再び日の目を見ることは喜ばしいことである。
 編者の深見弾はストルガツキイ兄弟の作品をはじめとする同時代のロシア・ソヴィエトSFの翻訳家として著名であった。しかし、それ以外にもロシアSFの古典の紹介、ソヴィエトSF映画の紹介、現地のファンとの交流など多方面にわたる多くの業績を残した。地域的にも、専門としたソ連邦だけではなく東欧諸国のSFを精力的に紹介しようと力を注ぎ、広い視野を持っていた。
 なかでも、『ロシア・ソビエトSF傑作集』は彼のロシアSFの古典紹介の分野での代表的な業績にあたる。当時、ロシア・ソビエトSFの諸作品ではエフレーモフの「アンドロメダ星雲」やストルガツキイ兄弟の「神様はつらい」などの同時代の作品では紹介されているものもあったが、19世紀の先駆的作品については一般的な日本の読者にはまったく知られていなかった。その意味でもこのアンソロジーは他に類書のない画期的なものであった。このアンソロジーによって、ロシアに西欧とは異なる独自のSFの流れがあることを実作品を通じて知ることができるようになったのである。
 特に注目されるのは巻末に置かれた編者の筆になる「ロシア・ソビエトSFの系譜」、「初期のソビエトSF」と題された解説である。この解説は非常に簡潔で要領をえたロシア・ソヴィエトSFの通史としてすぐれており、いまもなお生命を保っている。アンソロジーが刊行された1979年にもこれほどまでに詳細な概説は存在していなかったし、その後、現在に至るまでこの解説を上回るような文章は日本語では書かれていない。
 深見弾の解説に大きな影響を与えた文献は、おそらく、上巻解説の末に掲げられているアナトーリイ・ブリチコフの「ロシア・ソヴィエトSF小説」(1970)である。ブリチコフが執筆するに当たっては当時の有力な批評家であるエヴゲニイ・ブランディスらの協力を受けている。この本格的なロシアSFの研究書は、19世紀前半に活躍したオドエフスキイからロシアSF史を説き起こし、ロシア革命後の1920年代のSFの繁栄と、1930年代から1950年代中頃にかけての停滞、1957年のエフレーモフ「アンドロメダ星雲」の発表によるSFの復活、1960年代のストルガツキイ兄弟を含む当時の最新の作家の歴史的な評価に至るまで詳細で歴史的な記述を試みた非常に興味深い著作である。巻末にはリャプーノフの編になる非常に詳細なロシア・ソヴィエトSFの文献リストが付されており、ロシアSFの研究者にとっては必読の文献である。ちなみに、最近、現代のロシアSFの批評家であるエヴゲニイ・ハリトーノフの評論「ロシアのユートピアの地平」(2002)が発表されたが、深見弾の解説の作品紹介に当たる部分の記述がハリトーノフの評論の記述とほとんど変わらないことに驚かされた。ハリトーノフのこの評論は18世紀から20世紀末にかけて発表されたロシアSFの諸作品を題材に、作品中に現れたユートピア性を考察した非常に興味深いものである。このことからも深見弾の解説が非常に高い客観的な精度を保った記述であることが確認できる。深見弾の解説はブリチコフらの先行研究や19世紀から20世紀の先駆的な作品をよく読みこみ、消化したうえで書かれたものである。
 もちろん、この24年間で状況は大きく変化した。現在では思想史の側からロシア・コスミズムの研究が進み、その代表的思想家とされる19世紀末の哲学者フョードロフの思想がロシアの宇宙開発の父と呼ばれるツィオルコフスキイへ与えた影響も指摘されるようになった。とすれば、ロシアSFの起源はさらに広がりをもつことになる。本集中のボグダーノフ「技師メンニ」などもこの視点から読むとおもしろい。
 しかし、なによりも大きな変化はロシアSFそのものの変化であった。ソ連が崩壊したという状況もさることながら、すでにペレストロイカ期においても、アンドレイ・ストリャローフやヴャチェスラフ・ルィバコーフといった旧来のソヴィエトSFの枠を打ち破るような新しい作家が登場しつつあった。彼らはボリス・ストルガツキイが1970年代からレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)で開いていた作家セミナーのメンバーであり、文学としてのSFを志向した。その際、彼らがロシアSFの祖として新たに見出したのが「外套」や「鼻」の作者ゴーゴリであり、「巨匠とマルガリータ」の作者ブルガーコフであった。新しい作家にとって、SFとは規範にしばられたジャンルではなく、自由自在にファンタスティックな手法を用いて現実をつかみとる一種のリアリズムの方法論であった。1990年代初めにロシアでこれらの作家によって主張された「ターボ・リアリズム」運動もゴーゴリやブルガーコフをSFに取り込むためのものだったと言えよう。
 深見弾による解説にはこれらの変化はもちろん反映されていない。しかし、だからといってこのアンソロジーの価値が少しでも減じるということはない。まだ手にとられたことのない方にはこの本を買われることを強くおすすめする。収録された作品について言えば、いわゆる古典であるためどの作品もそれなりに古いが、多彩な作品がバランスよく収められている。現代の視点から見たロシアSFの歴史はまた新たに書かれるべきであり、アンソロジーも新しく編集されるべきであるが、それはそれでまったく別の話である。

■その他の参考文献
1. S・G・セミョーノヴァ/A・G・ガーチェヴァ編(西中村浩訳)、『ロシアの宇宙精神』、せりか書房、1997年
2. S・G・セミョーノヴァ(安岡治子・亀山郁夫訳)『フョードロフ伝』、水声社、1998年

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