秋のある一週間・・


未だ厳しい暑さの残る九月のさなか、平日に5日間休みが貰える事になった。勤続満15年経過の特別休暇、ということであるがまぁこのご時世にありがたい話しでもある。会社の建物を出てからは出きる限り会社のことを忘れようと思っている自分にとってこの5日間は思いきり嫌な世界から離れて忘我を味わう絶好の機会である。5日間、それに前後する土日をつなげると一体何が出きるだろう・・、子供の学校と幼稚園も始まっているしこの平日は自分の好きな様に過ごせる。やはり山だろう。山三昧だ。日頃出来得ない大型縦走だ・・・・。が、それもいいが、それとは別に漠然とバイクで何処かにふらりと行きたいという考えがあった。自分が一番バイクツーリングに熱を上げていたのは大学生後半から社会人になって4,5年目あたりまでだから、もう15‐20年近く前の話しになってしまった。幸いにバイクは今でもあるので、のんびりと好きな山を巡りながら走るのも悪くない。だいたい何日間も掛けてもの大型縦走など体力的にもつかどうか。バイクなら座っているだけなので良いだろう。贅沢な一人だけの時間を満喫させて頂こう。行く先はなんとなく長野。信州は、今まで何度もバイクで走り回った。軽井沢から佐久、志賀、上田、美ヶ原・・土地感のある地へ何を今更でもあるが、お気に入りのなつかしの地をバイクで再訪するのも悪くない。山も豊富だ。まずは四阿山に行ってみようと思う。手頃に感じていて未だ登った事がなかった。その周りにも山はいくらでもある。 大枠が決まった。後は行くだけである。

9月某日 月曜日

今日から行こうか、という意気込みも何気なく寝過ごしてしまった怠惰な朝の前には潰えてしまった。まぁ急ぐ事もない。子供達が出払ってしまうと妻と二人だけである。下の娘の幼稚園が終わるのは2時だから4,5時間ある。そうだ、何処かお洒落なランチでも、柄にもなく誘ってみようか・・。最近発達している近所の郊外ニュータウンのショッピングセンターにちょっといかしたなパスタ屋があったけ。行こうか、と言うと妻は二つ返事で、これまた着ていく服なぞ選びだした。「おいおい、ちょっとそこまで行くだけだよ。普段着でいいじゃん!俺なんかポロシャツ半パンにサンダルだよ。」 …どうもこういう機会でもない限り半袖のワンピースなどに袖を通す機会もないらいしい。まぁ、いいか。

昼前のショッピングセンターは驚いたことに幼児を連れた若い母親ばかりだ。ベンチに飲み物や玩具などを持ちこんで、遊ぶ我が子を傍らに母親達はお話しに夢中の様子。初めての子供を産んだ母親が近所の公園に集う母親仲間のグループに入れてもらう「公園デビュー」という言葉がしばらく前に流行ったが、これはさしずめ「郊外デパートデビュー」、と言ったところだろう。「今はリッチになったわね。公園じゃなくて郊外デパートなのだから」と妻。

お目当てのパスタ屋は待ちが出るほどの行列だった。買いものついでの主婦グループや、若い母親グループなどに混じって待っていると更に肩身が狭く感じ身の置き所を意識してしまう。オーソドックスなペペロンチーノを食べる。ちょっとキツそうでもありもはや流行の形でもないワンピース姿の妻。何か話したいけどちょっと気恥ずかしい。今更10年以上も前の結婚前の頃の思い出話もないだろう…子供の話しがオーソドックスで良いのかな?子はかすがいとはよく言ったものだ。泡立つエスプレッソの苦味が美味しい。泣き出す子供を上手く押えつけながら会話に盛りあがる若い母親グループの弾けるような声が耳に届いた。

そのまま車に乗って幼稚園に行く。迎えに行った妻に手を引かれて下の娘は嬉しそうに門から出てきた。

9月某日火曜日

今日あたり出発しないとな・・。準備は万端、でもちょっと気だるい。どうも独りだと山にいく気はあっても最後の一歩に踏み出せないことが最近多い。のんびりとだれるのも悪くないしやっぱり家はくつろげる。と、ぐずぐずしていると「早く行ってきなよ」と妻から激が飛んで来た。今日は予定が一杯で今から1日家にいないという。幼稚園を通じての趣味のサークルとか、いろいろ忙しいらしい。それに理由は何であれ山に行かなくてあとでぐずぐずと「あぁやっぱり山に行っとけばよかった」などと愚痴を垂れる私を見るのももう散々飽きたのだろう・・、ハイハイ分かりました。

子供を連れて妻が出て行ってしまうとがらんと空虚な家でもある。カチカチカチと時計の音がいやによく耳に届く。ザック類はすでに前夜のうちに準備をしていたのでそれをバイクに載せて着替えるだけだ。

不安と言えば、半日もそれ以上も、何時間もバイクに乗りつづけるような事をもう10年はしていないのでちゃんと事故らずに走れるか・・。それに最近腰痛なども感じやすいのでバイクでのツーリングはきっと体に悪いだろうなぁ・・体がもつかなぁ、等など。反面不安が大きい分期待も大きい。なによりもあの心地よいエンジンに身を委ねられる。風の匂いを、久々に味わえる。

10年前の色あせたライディングジャケットとブーツを身につけてエンジンを始動すると不思議とやる気が湧いてきた。行くぞ・・。11時が近かった。

このバイクでの高速走行の辛さとそもそも最近バイクで高速道路を走る事自体をしていないので、ずっと一般道で行く事にした。漠然と八王子・川越あたりから八高線に沿って走ろうと考える。多摩川に出てずっと土手の道を北上する。この道は二子玉川と稲城で混むがあとは悪くない。府中で多摩川を渡り刑務所横から所沢へ抜けた。このあたりから土地感がなくなりハンドルバックに入れた地図を取り出す。古いロードマップなので実際の道路状態がそれについていっていない箇所もある。山の地図も、ロードマップも同じだ。

八高線沿いの道は狭いが交通量も少ないのでマイペースで走る。越生で数年前に家族で遊びに来たみかん農園への道を分ける。その時皆で登った懐かしい弓立山の麓を駆けて北上する。風の匂いに堆肥の匂いが混じると遠くへ来たという気がする。荒川を越える。のどかな道だがコンビニエンスストアが随所にありあまり代わり映えのない眺めでもある。妻の携帯電話に電話してみる。「あぁ、ちゃんと行ったのね。良かった」との事。あまりあっさり送られると少し寂しくもある。

いつしか群馬県で富岡の街。抜けて横川を目指す。妙義山を前方に見ながら快適に流す。里道を適当に走り国道18号線に出た。信越線の軽井沢-横川間が廃止されてからここを訪れるのは初めてだ。

大学生の頃、親が富山市に転勤していたので帰省の度に越えていた碓氷峠。信越線随一の難所を控えた横川の街はいかにも峠の街らしく活気があり、そこでホームに駆け下り買い求める釜飯にはやはり旅情を感じたものだ。峠を越える特急車両は増結された電気機関車から伝わる鈍く重い振動を余すことなく感じさせながら長い上り坂を登った・・そんな記憶の街は綺麗さっぱり変わっていた。

駅舎を境に、線路は途切れていた。正確には赤錆びた一組のレールが言い訳程度にその奥にある鉄道公園に向かってのびているだけだった。碓氷峠は鉄道技術の革新にも一役買った、ある意味で日本の文明史にも重要な所とも思えるが、高速運輸の波を前にあっさり切り捨てられてしまったのがやはり寂しい。長野オリンピックがなかったらこんな事にはならなかったかな、などと考えた。

哀愁の横川の街を出ていよいよ碓氷峠越え。国道18号の旧道で走る。今となっては懐かしの信越線に沿って走るのだ。ヘアピンカーブを辿り始める。時折覗く信越線の廃線跡は線路も架線も撤去されずに残っている。また再開すればいいのに、と旅人は勝手なことを考える。

バイパスや高速道路が通る今ではこの道の交通量は少ないのだろう。誰も来ない峠道を下手糞なライディングで登っていくと徐々に空気が冷たくなってくるのがわかる。単気筒の心地よいサウンドが緑に吸い込まれていく。ラストのコーナを回ると長野県で、更に空気の匂いが変わった。高原の匂いだ。もわーっと一面に薄い霧がかかる高原の街。登りきった軽井沢には薄い霧がただよっていた。その粒子がヘルメットの隙間から顔にあたる。古びたライディングジャケットがしなりと濡れて来た。空気とふれあいそれを味わう、言い古された感があるがこれがバイクの旅の良さなのだろう。

新幹線が通ることもあり軽井沢の駅舎は新しい。自転車に乗った女子高生が寒そうに通り過ぎていく。九月の平日。がらんとして霧がしっとりと流れる以外は人影もまばらな避暑地。追われるようにアクセルを開けて先を急いだ。

漠然と今日は小諸か、上田あたりに泊まろうと考えていた。10年、15年前なら間違えなくバイクにテントを積んで何処かでキャンプしただろうが、今はそんな元気もない。テントは山の中だけで充分。バイクに乗ってのキャンプツーリングはあまり興味がなくなってしまった。単に歳をとっただけかもしれない。大型ショッピングセンターに見慣れたコンビニエンスストア、レストランチェーン店・・、横浜と代わり映えしない渋滞の国道を走りながら上田に着いた。電話で予約したビジネスホテルはすぐそこだった。

9月某日 水曜日

早朝の上田の駅前はまだ閑散としていた。横断歩道の信号を知らせる鳥の鳴声のような音が朝の街に響いている。静けさを切るように市街地を走り抜けると交差点の傍らで腰の曲がったおばあさんが路肩の掃除をしている。

菅平へ向けて高度を上げていく。立ち向かう風はやはり冷たい。昨晩は土地の食べ物を探したが良くわからず、結局駅前のラーメン屋でビールとラーメンの夕食だった。ホテルに戻り何もすることもなく黙ってテレビを見ていると寝入ってしまい、独りは山歩きだとそうも思わないが変に街中でいるとやはり寂しいものであった。

今日は四阿山だ。こちらも夏が終わって空虚な菅平の街を抜けて高原牧場への道を辿る。牧場の管理棟を過ぎて林の中を一直線に登ると駐車場があった。準備をしていると菅平のペンションのものと思われる一台の車が上がってきて2人の母娘らしいパーティが降りてきた。運転台の親父が「あぁ高妻山ですね」、と遠方を指している。このあたりの山は全く未知で、それらしい山影を見るのみだ。7:45、身づくろいを終えて歩き始める。

牧場の脇を抜けてすぐに看板がありそのまま指導標通り林の中に分け入っていく。牧場の柵を離れると薄暗くなり沢を渡る。これが大明神沢だろう。 8:00、母娘パーティをここで追い越しここからしばらくは廃林道を歩くが5分ほどで指導標があり四阿山へのなだらかなスロープに直接取り付く道となった。

美しい高原だ。緑のシャワーを浴びているような白樺の美林の中を登って行くと、登坂は苦しいけれど、心も体もリフレッシュされていくように思える。じきに白樺もまばらとなると潅木の中を登る様になった。

8:35、小岩峰の1917m峰に登りつくと展望が思いのほか素晴らしい。目指す四阿山はまだ高く山頂までの間に針葉樹林の林をまだまだ抜けなくてはいけないようだ。左手の根子岳は山頂から南面が大きくガレているが、その右側の四阿山との鞍部には写真でお馴染みだった広闊な原が広がっていた。後であそこを歩く予定なので楽しみでもある。

ここでのんびりしていると先ほどの母娘のうち、娘さんのほうが登ってきた。長い足、柔軟そうな肢体でまだ20歳そこらだろう、決して美人ではないが健康的な清潔さに溢れている。ここまでの登りのせいかやや顔が上気している。軽く会釈をするが山でこんな女性に会うとも思ってもいなかったのでちょっとどきまきしてしまった。

ここから少し下りてまた笹や針葉樹が点在する道を歩いていくと8:58、四阿温泉からの道を合わせた。更に進むともはや四阿山-根子岳間の原は左手眼下となった。9:43、その原から伸びてきた縦走路を合わせるともう山頂は近い。植生保護の為の真新しい木の桟道を登りきると9:58、祠がありそこが四阿山の山頂2354mだった。

噴煙を上げる浅間山と、嬬恋村の高原台地がのびのびとして素晴らしい眺めだ・・。登山口で見えた高妻らしい山影も北アルプスの連嶺も青みがかったガスの中に埋まっているようだ。隣にいた50歳近い登山者は一人スキットルからお気に入りのウィスキ−をちびちびと嘗めている。少し離れて無線運用の準備をする。平日の登山なのではなから50MHzは持ってこなかった。釣竿に長さ1m程度のモービルホイップを固定しハンディ機をつなぐ。430MHzFMでCQを出すとすぐに応答があった。長野県須坂市-東京都23区でこんな簡易な設備と1W出力で59-59で問題なく交信できた。リクエストで1200MHzFMにうつるがこちらも59-59。自分のハンディ機の1200MHzは出力280mWだから、相手の設備にも救われているだろうがこの山のロケの良さを改めて感じる。交信だけ出来ればいいので長居する気もなくQSOを打ちきった。土日で、50MHzの運用がここで出来たらさぞや楽しめた事だろう、とちょっと悔しい気もする。

10:35、人が増えてきたのでザックをまとめ根子岳に向かう。先ほどの桟道のすぐ下の分岐で根子岳への縦走路に踏みこんだ。すぐに薄暗い黒木の林となる。かなりの急降下で、滑りやすい黒土とあいまって注意を要する。一瞬自分が奥秩父か南アルプス南部にいるのか、と錯覚するような日の射さない重厚な森林だ。がそれもあっけなく抜けると目の前に広い原が広がった。この明暗のコントラストは素晴らしい。

開放的な原の中を思ったよりもあっけなく高度を稼いでいく。前方に二人先行しているが、先ほどの母娘だった。こちらが四阿山で無線運用をしている間に抜かれたようだ。二人を抜いて大きな岩の基部を回り込むように進むと根子岳の山頂だ。11:45、標高2207m。まずは430MHzでCQを出すと長野市とつながる。これで「お勤め」は済んだので缶ビールを開け昼食とした。山頂からの眺めはこちらも素晴らしく、志賀や新潟県側の山々がよく見える。残念ながら土地感もなく、漠然と眺めるだけだ。いつの日かあのあたりまで足を伸ばす日が来るのだろうか・・。

12:15、ザックをまとめる。下山はあっけない。1時間もかからずに13:10にバイクを置いた牧場の駐車場に着いた。

さぁ、今日、今からどうしようか。明日は漠然と志賀にまわり岩菅山あたりを登るか、あるいは佐久に出て荒船山あたりを登るか、と考えていたが、志賀に出るとその後の横浜までの帰路が大変そうだ。佐久に行くか・・。着替えをしながらそんな事を考えていると先ほどの母娘連れが鼻歌を歌いながら下りてきた。私のバイクのナンバーを見て「横浜からですか・・私たちと一緒ですね。」と言う。「こんな遠くまで、すごいなぁ-・・・、私もセロ−(ヤマハの233ccオフロードバイク)に乗っているんですよ、でもこんなところまで来る自信ないです」と感心する。目の大きなお母さんもウンウンと頷いている。なに、こちらとて泊りがけで来ているのだが、こう素直に感心されてはそうも言い出せずに、ドキドキして曖昧に返事をしてしまった。彼等は屈託なく白樺の林の道を下りていく。

ザックを固定してこちらもセルを回す。少し走り二人を追い抜きざまに軽くホーンを鳴らすと二人とも大きなアクションで手を振ってくれる。さわやかな二人連れはバックミラーの中に小さくなっていく。女性でオフロードバイクを乗りこなし山歩きをするなんて、随分素敵なものだ。それに屈託なく清潔だ。素敵な女性を前にしばらくは胸のどきどきがおさまらなかった。

* * * *

小諸迄は幹線を外れ広域農道を走る。のんびりとして閑散な道はあじけない国道と違いいかにもバイクで旅をしているという気持ちがする。小諸駅前に以前美味しい蕎麦・天麩羅屋があったと記憶していて、そこを目指す。小諸駅は昔と変わらぬこぢんまりとしたもので、むしろ活気がない。そうか、この街には新幹線が通らなかったのだ・・。再開発が進む上田との違いは大きい。そのせいか蕎麦屋もすこし活気がなくなったようで、やや元気の減った天ザルを食べた。

佐久を目指す。とここで、なんとなく一人旅ももういいかなと思い始めた。少しもの寂しく感じてきたのだった。先ほどの清潔で元気な母娘を見たせいか、以前より少し元気のなくなった天ザルを食べたせいなのか、不思議なものだが早く家に帰りたくなってしまった。山を縦走していれば、そう簡単に下山出来ないという事もあるがさほど家への枯渇感はない。が下手に俗っぽい所にいると、随分と家が懐かしい。といっても昨日出て今日で二日目にすぎないだ・・。このまま佐久に泊まって明日荒船あたりを登って帰るか、いや、このまま今から横浜まで帰るか、などと馬鹿げた考えが浮かぶ。

佐久も以前と変わらず、何処が中心地なのか分からぬような街だった。正直、ここでビジネスホテルに泊まるのもまた侘しいような思いが高まった。中込の駅前で踏み切りをゆっくりと小淵沢行きのディーゼルカーが走っていく。小淵沢・・山梨だ。山の為に通いなれた山梨は地元と言う気がする。山梨まで行けば家は近い。妻の携帯に電話してみる。その声に安心し、帰ろうかな、という思いが高まった。どうも、先ほどの「馬鹿げた考え」にこだわりたくなってきた。ここから横浜まで一般道で6時間はかかろう。40歳目前のオヤジに、そんな馬鹿馬鹿しい事が出きるのか、と思うと、急にその愚行をやり遂げてやろう、と強く心が決まってしまった。

国道沿いのドラッグストアで眠気覚ましドリンクを2本購入して、頑張って清里を目指す。まずは清里へ。そうすれば小淵沢は近い。そこまで行けばいざとなればビジネスホテルは多い。

懐かしい御座山を行く手に望むと松原湖・茅野への分岐で、そこを過ぎると小海線に沿った長閑な道である。小さな230ccの単気筒は頼もしく回ってくれる。この音と振動に惹かれてもう20年以上もバイクが手放せないのだ。向こうからバイク2台がやってくる。すれ違いざまに彼らがピースサインを投げてよこした。ピースサイン・・自分が学生の頃はツーリングライダーが出会うと必ずピースサインを交わしたものだが、その風習がまだ廃れずに残っていたのだ。元気にサインを投げ返してアクセルを開いた。

野辺山で夕立にあう。慌てて来こんだカッパも清里を過ぎて高度を下げていくと乾いてしまった。もう山梨だ。ラッシュアワーと言うこともあり甲府が近づくにつれ渋滞が激しい。トラックにあおられて一瞬気が遠くなりかかる。国道20号線のコンビニエンスストアで一息入れる。携帯で妻に電話してみる。「今、甲府」というとさすがに驚いたようで「もう帰るの、もったいないね」と言う。こんなに普段好き勝手に山歩き等に出歩いている自分が、今回は何故そんなに早く戻ってくるのか、など多分わからないだろう・・。

ここからは遠かった。国道20号線を延々と走り相模湖経由で家に着いたら夜11:30だった。長い一日が終わった。頭も腰も締めつけられるように痛いけど、とにかく、40のオヤジ、よく頑張ったではないか。二日間で525Kmのバイクの旅、本当はあと1日か2日は気ままに走っているはずだったけど、これでいいよ、もう充分に楽しんだ気持ちだった。

9月某日木曜日

昨日の疲れからか、子供達が学校に行くのにも気づかなかった。10:00頃起きると丁度妻が子供を送って幼稚園から戻ってきたところだった。四阿山とはいえさすがに登山の疲れに長時間のライディングが重なったせいか、体の芯が動かない。それでも昼前にはのそのそと布団から抜け出すと、妻は、せっかくだから何処かへお昼を食べにいかないか、と聞いてきた。どうやら先日のパスタが気に入ったようで、それなら他に気になっていた別のパスタ屋に行こう、と相変わらず我々は楽をする事と食べる事に関しては意思決定がはやい。

重たい体で車に乗り、近くの駅の商店街のこぢんまりとしたイタリアンレストランへ行く。店内は20才くらいの若い女性ばかりで入りづらい。奥まったテーブルに落ち着くと隣にはすぐにオバサン5人組が居てかしましいことこの上ない。運ばれてきたゴルゴンゾーラチーズソースのリングィーネは濃厚でとても美味しい。妻のトマトソースもなかなかだが、お隣さんから飛んでくる遠慮のない視線が気になってしまう。

「きっとあの5人組は、僕の事をリストラされた気の毒な人と思っているのだろうなぁ」と言いながら店を出ると「考えすぎよ」、と妻は言う。どうも僅か数日でも会社から離れた生活をしていると、随分と自分自身が不安定な気がしてマイナス思考だ。会社人の悲しい性というものだろう。

幼稚園に二女を迎えに行くが、主婦達にあうのが恥ずかしく車の中で待っていた。やはり自意識過剰なようだ。スーパーで夕餉の買い物をして、3人で家に帰ると小学生の上の娘もじきに帰ってきた。

9月某日金曜日

学生時代に作った銀行のクレジットカードが引出しから出て来たので、解約に行く。休眠口座扱いになっていたので発行店でないと解約出来ないらしい。そんな事もあり神奈川県中部の座間市まで車で行く。座間は20歳までの2年間を過ごした街だ。銀行で手続きをしているとカウンターの女性が古びた書類を持ってきた。18歳の春に自分が申し込んだ口座開設用紙だった。今の字体ともさして変わらない、下手糞な字だった。

この20年間以上、自分は何をしてきたのだろう。どう変わったのだろう。結婚をして、子供も二人設けた。幸せか、と問われれば、そうだ、と答えるだろう。でも、18歳の頃、自分がこんなふうに具体的に40歳を迎える年代になるなんて思ってもいなかっただろう。漠然と、就職をして家庭を設けるだろう、とは思っていただろうが。

来たついでに昔懐かしい安アパートを探してみる。多くの仲間と自堕落な生活を過ごしたアパートは当然の如く無くなっていて、替わりに立った分譲住宅からは昼下がりのテレビの音が聞こえて来た。

過去を振り返っても進歩はないが、振り返れる過去があるのは嬉しものだ。例えそれが人様に自慢するようなもので無くても、自分の中ではいつまでも輝く青春の時・・・。20年前の面影を残す懐かしの駅前で昼飯を食べる。少し疲れを覚えて帰路に着いた。

9月某日 土曜日

子供が休みだとゆっくり寝ていられない。朝一番からテレビ番組を見る子供達の横で妻はせっせと編物をしている。彼女は今、羊毛で作る人形に凝っており、今はその人形のベストを編んでいるとの事。子供達はそんな人形にいちいち名前を付けているようで、「XXちゃん、洋服出来たねぇ」などと言っている。自分は自分で50MHzの無線機をワッチしながらパソコンいじりだ。家族皆で何かをするでもなく、時間のみが過ぎていく。こうして何年もこれから過ぎていくのだろうか。「光陰矢のごとし」とはその最中に居ると感じなくとも、少し離れて振り返ってみて感じることなのだろう。

9月某日 日曜日

少し早く目がさめる。3人ともまだ口をあけて眠っている。居間に行きパソコンをつける。メールチェックは一日に何度もする日課でもある。開け放したベランダからはすこし冷やりとした空気が入ってきた。9月も半ばだ。

50MHzも閑散としている。特にすることもなくヘッドフォンでパソコンに入れた音楽なぞを聴いてみる。社会人になって最初のボーナスで買ったステレオももはや無用の長物となっていて、音楽は全部パソコンで再生するようになってしまった。あぁ長い休みも今日で終わりで、明日からは会社だ。決して会社人間ではないが、1週間でも会社から離れていると自分がずいぶんと宙ぶらりんな身分に思えてしまうが、また明日からは平板な日々でもある。

子供たちが起きてきてアニメなぞを見始めるとそんな一人の時間も終わりで、昼食をとるとはや午後になる。車を出して近所のスーパーへ買い物に行く。衣料品フロアで子供や自分の服を見るのは妻にとっては格好のストレス発散になる様子で、その間は待っているのも大変なので少し別れて本屋などに行く。児童書のコーナは立ち読みならぬ「座り読み」をする子供達で一杯で、我が娘達もそこに参加させて頂こう。自分は雑誌コーナーで、好きな雑誌の立ち読み。山の雑誌、飛行機や鉄道、バイク、模型やカメラの雑誌など・・。ストレス発散を終えた妻が戻ってくると階下に行き夕食の買出し。今日は作るのも面倒だし、出来合いの品でも買っていこうか・・。安売りの缶ビールパックも忘れずに買ってもらおう・・。いつもとかわらない、今まで何度そうしたかもわからない、日曜日の午後の風景だった。

* * * *

楽しみだった自由な休暇は終わってしまった。秋の一週間はあっという間に過ぎてしまった。結局バイク旅二日間と山一つのみ。もっと大きな事をしてみたかったが蓋をあけると取り立ててなんということもない休日となってしまった。いろいろなしがらみを忘れて気楽にずっと遠くへ行こうと思っても、結局は二日間で戻ってきてしまった。情けないといえば情けない。しがらみに充分浸かっているといえばそのとおり。いや、むしろそれに浸る事をしたかったのかもしれなかった・・。

なんにせよ帰ってこられる場所があるというのは嬉しいことだ。好きな山も、好きな無線も、結局はそんな場所があってこそ初めて楽しめる。一方仕事は決して楽しいものではないが、それが自分の中で意外に大きな比率を占めているというのもまた現実だった。

20年前のクレジットカード、あれを作ったときはついこの間のような気がしてしまう。が、そこから確実に時は流れているのだった。これからもいろいろな事が起きるかもしれないが、今から10年、20年も多分あっという間に過ぎてしまうのだろう。そして振り返ってみたら「気づいたらこんなに年が過ぎていたね」という会話を妻と、家族とで、するのだろうか。

何度過ごしたかわからない平穏で代わり映えのしない日曜日。大小の起伏が色々あったにせよ結局は10年以上も織物の様に続いた日々。平凡のもつ素晴らしさを改めて感じ、それを今後も味わっていくであろう事が出来るであろう喜びを改めて思った。

明日から始まる新たな1週間。食糧で重くなったスーパ−のビニール袋を手に、走るようにもつれ合いながら車に戻っていく3人を追って歩いた。

(終わり)

(本稿は山岳移動通信「山と無線」40号への寄稿文です。)


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