東海道を東京から横浜まで,徒歩の小さな旅 

 (1994年2月)


私がとても尊敬し慕っていた会社の先輩、Y氏が今度退社するという、その話をその先輩の口から焼鳥屋で聞いた時、どれほど私はショックを受けたことだろう。今の不景気な時期に次なる就職先も決めずに、悩み続けていたサラリーマン生活に取りあえずの終止符を打つという。いつも自由な考え方をしていた人らしい、思いきりのいい、そして取りあえずは安定した生活に安穏としている私にはまず出来ないであろう決断に思えた。

Y氏の先輩の一言や行動に容易に見いだせる独創性、私とは全く異なった物事へのアプローチ法がどんなにか私を魅きつけてきたことか。会社が変わってしまえば彼にはそうは会えなくなってしまうだろう、寂しくなるな、というのが最初に浮かんだ事であった。

勿論大人同士だ、皆個人の道がある。「おめでとう御座います」と私は口にした。どことなく照れた、そして少し晴れ晴れしい表情の先輩の笑顔を見ながら、会社も決しておもしろいとは思ってもないくせにその安定さにただ身を任せている自分に腹が立ってきた。「自分は安穏に身を任せている。これでいいのか・・」「何かやらなくては」、渇きに近い焦りのようなものをその時感じた。こんな自分に何が出来るか、でもともかく自分に喝を入れたい、自分をいじめてみたい、そんな気持ちになった。

それがどうころんで東京・神田の会社から横浜の自宅まで歩いてみよう、という行為に頭の中で結びついたのか自分でも良く分からない。が、こうでもしなければその先輩に顔向けが出来ないように感じた(変な表現だが)のも確かであった。かつてY氏は神田の会社からから都内蒲田の自分のアパートまでまで歩いた事がある。歩いてみたかったからそうしたんだ、という話を彼から聞いた時、何と変った事をする人だなぁ、とあきれつつも感心したものだった。だがY氏の退職の話を聞いた今、自分がその行為をする事によって少しでも彼に、彼の考えに近づけるのではないか、そんな気がしたのだった。車や電車の今の時代に東京から横浜まで歩くという行為は一般的には愚かな行いであろう。でもそんな行いをしてみたい、いやしなくてはいけない。そんな愚行をする事で自分に喝を入れ自らをいじめる、という事には勿論ならないだろうけど。

自宅から東京の中心地までを歩いてつなぐという事にも旅としてのちょっとしたロマンを感じる。旅人の道、東海道を辿るのだ。善は急げだ、スニーカを通勤鞄に入れ翌日早速行動に移した。    

* * * * 

会社を午後3時半にフレックスし、そそくさとビルを飛び出した。神田橋の高速道路下の公園の公衆トイレでトレパンとゴアジャケットに着替えた。大手町のオフィス街におよそ似つかわしくない格好。嬉しくてワォッと飛び跳ねる。

(芝からは東京タワーが見えた)

天気は良いが風がやたらに強い日で、丸の内から日比谷までの直線路は向かい風で難渋する。開けた皇居側から突風が吹く。樹林帯を抜け森林限界を飛出して出会う強風みたいなもんだ。OL達がコートの裾を押さえながらうつ向き加減に歩く。この風が早くやむように念じつつ歩く。風は突刺す感じでトレパン一枚の脚がとても冷たく前途は明るくない。モモヒキでも履きたい気分。でもそれはもったいない出費に思える。そうだ、女性用のストッキングならオフィス街のコンビニでも手に入るだろうし第一数百円の出費ですみそうだ。保温力はいざ知らず、無いよりはいいだろう。次のコンビニで買う事にする。

芝までは割と近くビルの陰に東京タワーが見えかくれする。コンビニがあったので入る。ストッキングの棚で妙に緊張する。女性店員に変態に思われないだろうか・・。結局今一つ勇気が出せず軍手のみを買い求めコンビニを出た。

ここから大通りをやめ裏通りに入る。思ってもなかった処に商店街がある。自転車が行きかい主婦が夕飯の魚の品定め。ビルの谷間に不釣り合いな一角だ。こんな所があったのか・・。活気があり歩く私も楽しい。惣菜屋で焼鳥の一本でも買いたい気分。国道15号に飛び出て田町の駅までは近かった。

(潮の香りに満ちた長いトンネル。
圧迫感がすごい)

国道歩きはパス。逃げるようにJRの品川操車場の下を横断する細いトンネルに潜り込んだ。このトンネル、実は毎日の通勤電車から見て知っていたもので、この広い操車場を横断するのだろうから長いだろうな、といつも思っていた所だ。トンネルはとても低く狭く車高制限150センチ。無論一方通行で圧迫感はすごい。なぜか潮の香りが狭くて長いこのトンネルに満ちていたのはもしかしたら昔この一帯は海岸だったのだろうか。背を屈めながら歩くトンネルの中は暖かく、自分がもし街頭生活者になったらここなら風雨をしのげるのでは、などと考える。一人で歩いていると一つの事が頭に浮かぶとその事をずっと考えていられる訳でなかなか飽きない。

Y氏との出会いは私が新入社員であった9年前の事だ。配属された部署の隣の課に彼はいた。一年先輩だった。技術系の学校を卒業した彼は当時ようやく世に出はじめたコンピュータなどに造詣が深く皆に頼りにされていた。又物事に対する考え方も文科系の自分とは違う。人に聞かず何事もまず自分流にトライしてみる、という姿勢。自分と違う人格は魅力的だった。彼は又アウトドア遊びが好きでいつしか私も彼と共にバイクを駆り野や山を走り、テントで一夜を過す事が週末の楽しみとなった。焚火の名人だった彼と火を眺めながら時を過すのは至福の時間であった。

品川駅裏で夕暮れ。運河にかかる橋の上で風に吹かれながらコンビニで買ったパンを食べる。人の道はそれぞれだ、これからはY氏とは会社の先輩、という枠を越えて会える事だろう、と考える。

(旧東海道は長い商店街だ。
青物横丁から鮫州辺り)

番地表示は北品川から南品川へと変わる。運河が複雑に入組んでいるのは埋立てを繰返した東京湾の歴史でもあろう。いつしか京浜急行に沿った商店街を歩いている。青物横町から鮫州、立会川そして鈴ケ森へと一本道だが切れるともなく商店街が続き飽きない。商店街歩きは楽しい。焼鳥を売る惣菜屋はしかしここでも見つからなかった。この素直に続く路は旧東海道だろうか、古道の面影を残す歩き易いいい路だ。勿論舗装されているが道路と民家が馴染んでいるのだ。酔っぱらいが声高かに行きかい遠慮して道を譲る。鈴ケ森刑場跡で再び国道15号線に出た。 

大森で又裏通りへ。今度はラブホテル街だ。相場は表に面したホテルより裏の方が安いようだ。和風あり、シティホテル風あり。消費者の嗜好の多様化に応じた各種ホテル。日陰の文化が花咲く通りだ。誰か出でこないか、とスケベ心を抱きつつ歩く。しかしラブホテルの近くに住んでいる人々はどんな気分なんだろう?

大通りにぶち当たる。環七だ。信号待ちでしゃがみこむ。そういえばここまで殆ど休まず歩いてきた。信号は結構歩くリズムをみだす。

住宅地の中の細い道を歩く。好んで小さな狭い通りを選ぶ。街灯に歩く自分の陰が浮かび上がる。夜、こういう道を歩くとき最も警戒すべきは犬だ。野良犬もさることながら特に飼い犬。無心に歩いているのにいきなり吠えられたらたまらない。動悸がしばらく落ちつかないのだ。住宅地の一角にあるスナック。これもよく見かけるが、一体儲かっているものやら。どの店の中にもママと呼ばれる赤い服を着た厚化粧の中年婦人がいそうな気がする。歯に衣を着せぬ下品な言葉が飛び交う。赤ら顔の客のカラオケ・・・。

蒲田で環八を越える。蒲田は妻の実家のある街だ。駅裏、焼き肉屋のいいにおいがたまらない。羽田行きの赤い電車がテールランプを残し去っていく。蒲田着午後8時。

この辺から足の裏が痛くなってきた事に気づく。ここからだと電車とバスで30分あれば家に着くだろう。歩けばあと2、3時間か。折角蒲田まで来れたのだ、頑張ろうと思う。既存の価値観とは無縁の世界で自由な空気を吸っていたY氏の事を考えた。会社が、上司がどうあろうと、主張する事は主張し、自分の考えを明確にしていた彼だった。悪く言えばマイペースだがその自分の思いに忠実な彼に私は惹かれ続けていた。大げさな言い方だが私に出来る価値観外の行動とはこの程度のものだ。情けない。

六郷橋で多摩川を越える。最下流から二番目の橋だ。多摩川もここまで来れば河原も広く橋も長い。強風で空気がクリアなせいか川崎の繁華街の明かりが綺麗だった。それは私の初山行であった丹沢・塔の岳山頂の尊仏山荘から夜中に眺めた遥か下界の街明りのように固くて美しい明りだった。橋を渡りやっと神奈川県に入った。まもなく午後9時だ。

再び裏道へ。どうやらここは特殊浴場街、堀ノ内のメインストリートのようだ。極彩色の通り。寒風の中、ポン引きの諸氏ご苦労様。トレパン姿の私にもお声がかかる。ある通りでは一見ガード下小料理屋街のような小さな格子戸の店が多く続く。てっきり小料理屋街かと思いきやさにあらず、格子戸はすべて半開きで狭い土間続きの畳の部屋に女性が腰掛けている。一軒に一人。たまに扉の閉まった店もある。営業中なのだろう・・。どうぞぉ、と声がかかる。東南アジア系女性も多く、彼女達が典型的な日本家屋に腰掛けているその光景は少しアンバランスだが、同時に異国情緒もある。このような営業形態の店があるとは知らなかった。一人ひつこいポン引きがつきまとう。いやいいです、と答え、足を早める。思わず大きな声を出してしまった。少し緊張したが、退屈しない通りでもあった。飽きずに歩けた。

ここから横浜・鶴見の我が家までは割と近い。頭の中で地図を広げ最短距離コースを探る。京浜急行とほぼ平行に歩く。鶴見川を渡る。汚染の進んだ川で川面を渡る風も生臭い。鶴見駅前のJRのガードをくぐった時に今回の計画がなんとか成功する事を意識した。

(国道一号線、テールランプが流れた)

丘陵地にある自宅まで坂を登るのが今回のルートの中の唯一の登り坂だ。ゆっくりと登る。スニーカの中で靴下が滑っている。違和感がありどうやら靴下の底に穴が開いてしまったようだ。

国道一号線を陸橋で超える。眼下を走る車が赤いテールランプを残していく。ここまでくると自宅は目の前だ。あぁ、やっと着いた。凱旋将軍のような気分で玄関を開けた。生後7ケ月の我が子は泣き叫び、妻は忙しそうにしている。いつもの光景だった。凱旋将軍はただのパパちゃんになった。午後10時自宅着。所用時間6時間半だった。    

* * * *

運動不足の私にはいきなりのちょっとハードな行いだったか、食後吐き気と急な寒気に襲われ全部もどしてしまった。そういえば初めて丹沢に上った時尊仏山荘で同じく疲れのせいかひどく寒気を感じた事を思いだした。早々と寝る。

後日車で今回のルートにほぼ沿って走る機会を得た。約30キロの行程を車は一時間で走って家に着いた。

これからは東京から遠く離れた街で暮らしはじめるY氏。でもいくらでも会う事は出来るだろう。彼のこれからの新しい人生経験の話しを今後は聞けるであろう事が、今の私にはとても楽しみになってきた。

(1994年2月、歩く。尚掲載の写真は1998年8月に新たに撮影したものです。)

(終り)

Copyright:7M3LKF,1998/8/9