私の心に残る山


私には好きな山はどれかと問われても答えられるほど山に登っていないのでなかなか難しい質問だ。が心に残る山というのであれば2、3挙げる事が出来るかもしれない。

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私が生まれたのは香川県高松市、讃岐の国だ。もっとも自分が高松に居たのは3歳になるまでで、後私達家族は横浜へ引っ越してしまった。ただ香川・仲多度郡には祖父祖母叔父がおり毎夏の帰郷は両親私にとっても大きな楽しみだった。

さてかの地を一度でも訪れた事があるのであれば讃岐平野の印象的な風景は頭に残っているに違いない。平野というと普通だだっ広い平地を想像するが讃岐平野は違う。平地にポコポコと小さな盛り土のような山がいくつも置いてあるのだ。山は普通なだらかな裾野の隆起に始まり徐々に高みを増し尾根を為しその果てに頂上があるものだが、讃岐平野のはまさに盛り土だ。唐突にぽっこりと盛り上がっている。そう巨人がおままごとでもして茶碗にもった土をあてずっぽうにひっくり返して置いていった、という風である。盛り土であるからどれも可愛らしい丸みを帯びた・小さな山で、それが広くはない平野に幾つもあるから、実際讃岐平野の光景は故郷であるという贔屓目を差し引いても平和的で愛らしかった。瀬戸内海・塩田・盛り土のような山々の作る風景は箱庭のようにコンパクトで、宇野から高松へ渡る国鉄連絡船のなかからその風景を見るたびに祖父祖母親戚へ会えるという喜び、これから始まる楽しい夏休みへの期待感、空気水・食べ物・方言、そのすべてが自分の肌に合うのだ、という安らぎ感などで私はいつもはちきれんばかりの興奮を覚えていた。

楽しい夏休みもじきに終り横浜へ帰る日が来る。見送られるのは寂しい。親戚一同の住む街の駅は予讃線・土讃線の分岐駅で、ホームの向こうから親戚に手を振られながらそのだたっ広い構内からディーゼルカーがガラガラとエンジンを唸らせ動き出すとああ夏も終ったという実感が子供心にも感じられた。 高松までは30分程度だがディーゼルカーは箱庭の中を快走する。いくつもの盛り土達ともしばしさよならだ。山々は本当に丸く・親しみやすい不格好さがあったが、そんな中円錐に近い尖った均整のとれた盛り土が独りぽつんとあるのがいつしか気になっていた。車中で父親に問うとあれは讃岐富士だよと教えてくれた。小学生の頃は遠足で登った事があるよ・・。

高さが秀でているわけでもないが盛り土たちのなかで何故か目立つ存在の讃岐富士。いつか郷里といえば讃岐富士が思い浮かぶようになっていた。 あれから25年以上・・、祖父は他界したが祖母はまだ達者だ。家族持ちとなった私もさすがに四国へ行く機会は減ってしまった。数年前久々に戻った讃岐は本四連絡橋がかかりすっかり変わってしまったあたり一面には戸惑いを覚えた。塩田はとうに消滅しコンビニが立つ街道風景は都会のそれと変わりなかった。帰路は新しくなった高松空港へこれまた真新しい高速道路で行ったがその道は何とあの懐かしい山のすぐ裾を走っていた。これほど近くから讃岐富士を見るのは初めてだった。讃岐の、愛らしい平野にマッチした立派で、小さな、富士だった。

飯野山、通称讃岐富士にはまだ登った事はない。いつか讃岐に戻った時、一度は登ってみたいな、とも考えている。でも登ってしまったら何か故郷が遠くなってしまうような、そんな複雑な気分もする・・。

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小学校への登校路からは富士が良く見えた。冬の日など澄んだ青い空の下に白い富士と山々が遥かに見えた。昭和40年代の横浜・旭区はまだ新興住宅地だった。小学校の校歌にも丹沢・箱根・富士の空・・と歌われていたがそれほど良く見えたのだろう。

丹沢の名はそんなわけで早くから知っていたが初めて行ったのは小学校6年生の時だった。担任の佐々木先生は若く山の好きな先生で、クラスから有志を募って大山に登ったのだった。何故私もそこに加わったのか良く覚えていないが、多分悪友達以外に当時ほのかに憧れていた女の子、A子ちゃんが行く事が分かったからかもしれない。明るく快活なA子ちゃんは色白で小学校6年生にしてはややグラマーで、彼女の傍にいると私はドキドキした。今思えば性の意識の芽生えを感じていたのかもしれなかった。

そんな訳でA子ちゃんにつかず離れず登った大山は楽しかった。伊勢原から蓑毛までバスに乗り春岳沢沿いにヤビツ峠まで登り、イタツミ尾根というコースだった。ヤビツには車道が通っていた。今思えばなぜヤビツ峠までバスに乗らなかったのか佐々木先生の真意は分からぬが当時は多分バスがなかったのかもしれない。 ヒィヒィ言いながら皆で駆け上がった山頂には茶店がありそこでコーラを飲んだ事を良く覚えている。クラスの仲良し同士で食べたお握り。辛かったけど気持ちは最高だった。 下山はケーブルカーだったが駅までの下山路では膝ががくがくした。A子ちゃんが膝が笑うねと言う。膝が笑う・・、そんな言葉を初めて知った・・。彼女は物知りで素敵だった。

小学校を卒業してすぐ私は両親の転勤に伴い広島へ引っ越した。仲間たちとも、A子ちゃんともそれ以来会う機会はない。があの大山登山は一番の思い出だ・・。

今、丹沢が良く見える家に住んでいる。山々が克明に浮かび上がる冬の日の丹沢の眺めは素晴らしい。とりわけ最前列に立つ大山は大きな裾野と尖った山頂でその立派さは傍らに立つ富士にも負けていない。A子ちゃんや仲間達と登ってから20年以上、あの時大山に登っていなかったら果たして今のように山に興味を持っていたかどうか。自分の場合あの大山山行が自分の中に潜在的なものを残し、それが20年近くたってからなぜか芽を出したような気がする。

小学校時代の仲間の一人は小学校横のお寺の住職の息子だった。多分あいつならその気になれば連絡が取れるかもしれない。20数年ぶりに会ってクラス会の企画でも持ち込んでみようか・・。A子ちゃんも来るかな、もう子供の2、3人もいるかな・・。皆あの大山登山の事を覚えているだろうか?

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飯野山と大山、場所も高さも違う山。でもどちらも過ぎ去った子供時代の郷愁を感じさせてくれる。故郷への意識を植えつけてくれた山。どうやら自分に山登りのきっかけを与えてくれた山。登った事ない山、登った山。いくつかの山に登ったが懐かしさを感じさせてくれるこの二つの山が自分にとって心に残る山といえるのかな、と考えている。

(終り)

Copyright : 7M3LKF, 1998/8/13