音楽の湧く風景 


雪の残る奥秩父の山を歩き山小屋に泊まった翌朝は天井を柔らかく叩く雫の音が目覚まし替わりだった。シュラフから上半身を起こし細い隙間の空いたガラス窓から外をのぞいてみる。まだ暗いが良く見ると濃白色のガスが漂いその中を絹糸のように細い雨が無数に走っていた。破れた雨樋から大きな雫がぽたりと垂れてそれが霧に滲んだ。今朝は雨のようだ。

明るくなり様子を見るが天井を叩く音は止む気配も無くむしろ強まったようでもある。小屋の前に盛り上げてあった雪の塊に雨樋からの雫が親指大の穴を深くあけていく。こんな日の出発は気が進まない。でも今日は下山のみでコースも心配ない。僅かな同宿者も出払ってしまい取り残されたような思いがした。 ・・・行くか・・・。

小屋の重い扉を引いて外に出ると思ったより明るいではないか。霧が細かい粒子の集積から成り立っているということがよくわかる。まとわりつくようなガスの海を泳いで下山路を歩いた。

しばらくは雨雲の中を下界にむけ歩いている感じだったがじきにガスを抜け出したようだ。足元の雪もいつしかなくなり視界が延びた。だいぶ高度が下がったようだ。展望が開き振り返ると今自分が抜け出たばかりのガスが未だ奥秩父の黒い森にかかっている。ゆっくりと白いガスが動き木々がその中から浮かびあがっては沈んでいく。黒い森に白い霧が映え神秘感に溢れていた。これは・・・原始の息吹だ・・。おもわず体の芯から震えが来て、同時に頭の中にうろ覚えのブルックナーのシンフォニーが無意識に浮かび上がってきた。そうだこれは交響曲「第六番」の冒頭のメロディだ。。霧が流れるようにそっと忍び寄ってくる前奏から中低弦が力強さをもって導入部を奏でていく・・。幾つかのメロディが、織りなすように浮かんでは消えていき、そんなことの繰り返しからやがておおきなうねりのようなゆるぎない全体がその全貌をあきらかにしていく・・・。「原始霧」と呼ばれるブルックナーの交響曲に共通な、神秘的な音楽のイントロだ・・・。

(霧がゆっくり漂う道は森の精の棲み家・・。独り歩く足音は
静寂に消える。頭の中にゆっくりとメロディが流れる・・・。)


ああ、ブルックナー・・。漆黒の山肌を流れる乳白のガスを見ながら頭の中からメロディが止むことはなかった。壊れたレコードのようにうろ覚えの箇所だけを何度も何度も口ずさみながら、原始の漂う山肌を前にしばらく時のたつのを忘れていた・・・。

音楽の湧く風景、というものがあると思う。何も山に限ったものではないかもしれない。現実にある風景ではなくたとえば青春の頃読んだ甘くて切ない小説が与えてくれた頭の中の風景かもしれない。ただそんな風景に触れ、思い出すたび、音楽が頭の中を巡ることがある。それは剛毅にして勇壮な曲かも、甘美にしてせつないメロディの時もあるかもしれない。

もう15年近く前か、ドイツ北端の北海に面した古い港町から中部の町まで長い汽車旅をした。仕事も終わり明日は日本に帰るのだ。流れ去る車窓の外には黒い針葉樹森が点々と続いていた。時折差し込む西日も夕暮れの闇の中に徐々に光を失っていく。森と闇が一体となりやがて窓の外は黒一色となった。時折思いだしたように家の明かりが浮かぶのみだった。あぁ森が地球に還っていく・・。そのときたまたまカセットテープでブルックナーの「第七番」を聴いていたせいかもしれないが、ドイツの森と自然に触発され生命の美しさを唱ったといわれるブルックナーの重厚なシンフォニーが無理なく目の前の風景にとけ込んでいく様を、まるでなす術もなく感じていた。音楽と風景が溶けあう事を知ったのはこれが初めてだった。

初めて登った南アルプス。下山した朝、谷あいの林道から振り返り首が痛くなるほど見上げた視線のその果てに、真っ青な夏空に白く透徹した輝きを放つ稜線を見た。昨日まで自分が歩いた、まさにその稜線。思わず頭に浮かんだのはシューベルトの交響曲「第九番」だった。冒頭のホルンの奏でる豊かであり少し寂しいメロディが、初めて踏んだ三千メートル級の山々の持つ想像を越えていたスケール感に対する驚きと畏敬、自分の足で歩けたという満足感、もう帰るんだという安心、それに過ぎし山への寂寥・・・、そんないくつかの心の起伏とオーバーラップするかのように、頭の中を途切れることなく流れていた。

長い稜線歩きを終え森林限界近くの山小屋にテントを張った。憧れのジャイアントの頂を踏み一日好天に恵まれ展望も申し分なかった。不安だった長丁場を無事に歩ききったという満足と安堵が大きかった。夕暮れに染まる稜線を見ながら、闇に沈み行く周りの光景を見ながら自然にワーグナーの旋律を口ずさんでいた。「ニュルンベルグのマイスタージンガー」、あの有名な第一幕前奏曲。「無限旋律」とも言われる果てしなく続く豪華で魅惑に満ちたメロディ。テントから顔を出しうろ覚えのその曲を適当に口笛で吹いていると、今日一日で経験したとても一日に凝縮することの出来ない濃密な出来事が、ワーグナーの無限旋律の持つ壮大さと官能さのように、深い喜びとともに走馬燈のように改めて思い起こされるのだった。

冬枯れの尾根路をカサコソと歩く。紅葉もすっかり終わり風通しの良くなった稜線に雑木を透かして柔らかな光が届く。ひと気もなく落ち葉に埋まった踏み跡を辿り時折吹く風に北方を伺えば、冬近い高山はもううっすらと白い化粧をしている。そんな自分が最も好きな山、何処にでもある身近でいて心休まる近郊の山。そんな山で、雑木と落ち葉、それに冬の日差しが作り上げる光景には何か立体的な美しさがあるように思う。そしてそのような風景を前にすると、時折グレン・グールドの弾くバッハの数多いピアノ曲達がとめどもなく浮かんでは消えていく。バッハの作り上げた対位法の織りなす構成美が、重層的な美しさを持つ冬枯れの山に驚くほど近く溶け込んでいくのを感じる。

風景によって想像される音楽ばかりではない、音楽が風景を導き出すこともあるかもしれない。

エルガーの「威風堂々」を聞けば、いつも”巣立ちの春”の風景が頭に浮かんでしまう。それはたまたま自分の小学生の時の卒業式に流れていたからかもしれないが・・。又チャーミングで魅惑に満ちたフォーレの「マスクとベルガマスク」を聞けばそれはまさに山行という小さなオデッセイに対する期待と不安に満ちわくわくした出発前の自分の風景に結びつく。又一度音楽を感じた風景では、今度はその音楽を聞けばすぐにその時の風景を思い出すこともある。音楽によって楽しかった山へ、思い出の風景へ、すぐに自分を戻すことが出来るのだ。

今はそんなこともないが、ひと時音楽に傾注したことがあった。なけなしのバイト料で買い漁った中古レコード。学生の頃は時間だけは豊富で、長大で時として難解で眠くなるだけの音楽であってもそこにわずかに美しさを感じれば気に入った部分だけでもよく聴き入ったものだった。その間の時間だけは現実とは違う世界にいる自分を感じることができた。

時が経ち山を歩くことを知った。歩いてみるとその間は会社での出来事・日常でのちょっとしたいざこざなどすべて忘れてしまい、下界とは違う時の流れを実感することがある。音楽を聴き、現実から遠ざかることも、山に行き非日常感を味わうことも、もしかしたらその本質は同じかもしれない。いずれも方法は違っても、自分の心がリラックスし普段とは違う世界を味わい夢想の中に自分を置けるのかもしれない。

田部重治はその著書の中で千曲川源流の川上村・梓山の風景に振れ、「その紅葉の美しさ・白樺の若葉の美しさに、節奏美しわき音楽が漂う」、と述べている。あいにく高原野菜畑の広がる今の梓山にそんな美しさが今も残っているのかわからないけど、大正の時代、もちろん美しい桃源郷のような場所だったのだろう・・。一体どんな音楽をそこに感じたのだろうか?

最近では北八ケ岳の山小屋などで生の演奏会が行われることがあるという。北八ケ岳には一度も行ったことが無いけれど、ガイドブックや写真などで見ると、深い針葉樹林、白樺、苔蒸した山肌、そんなイメージをもつ。そんな樹林の中の道を辿り小さな山小屋に着くのだろう。薪がはぜる中、闇に落ちていく小屋の中で聴く音楽。やはり少人数の室内楽・・・弦楽四重奏あたりだろうか・・。明朗と寂寥のモーツァルトか? 濃厚で甘美なブラームスか? 清澄な弦の響きが夕闇の白樺の林に吸い込まれていく様を想像する。森で生まれた楽器が奏でる音が森に還っていくのだ。

最近は音楽を聞くにも時間も無く、またそんな気にもならない。長い時間音楽をゆっくりと聴こう、という気持ちにならないのは、仕事が忙しいからとか疲れ気味だからといった理由が思いつくけど、本当だろうか? 気がつくと山に行くのにも最近では以前ほどときめかないし、だいたい寝過ごすことも多くなってしまった・・・。ここ数年、いろいろな意味で、自分を取り巻く環境はリラックスとは無縁のものになりかけているような気がする。社会自体の話題も暗いし、それは個人レベルにも影を落とさないと言えば嘘になる。あたりさわりのない生活を続けていても自分も気づけばもう中年の中年たる年齢になっている。一目では感じなくても何時しか忍び寄り効いてくるもの。本人はそんな気もなくいつまでもマイペースでのんびりやりたいと思っていても、気づかぬところでなにかをすり減らされているのだろうか・・・?

静寂な山を歩いて、音楽を感じたいと思う。音楽を聴いて、いろいろな風景を感じてみたいと思う。そんな余裕を持ち続けたいと思う。不感症にならず、興奮と喜びを持ち続けたいと思う。いつの日か北八ケ岳の山小屋にでも行ってみよう・・。森のコンサートを聞いてみよう。原始の息吹に旋律が混じりあう光景がそこにあるに違いない。それは日常から自分を解き放ってくれる事だろう。

新鮮な空気と清澄な響き、惑わされず見失わず。いつまでもブルックナーを聞いて森の美しさを感じることが出来ることを忘れたくない。いつまでも冬枯れの山でバッハの旋律を思い出したい。音楽の湧く風景にこれからもたくさん接して、大切にしていきたい。そんな事を考えた。

(終わり)
(本文は同人誌「山と無線」39号に掲載したものです。)

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