失意の南アルプス

(1995/8/3,4、山梨県中巨摩郡、静岡県静岡市)


展望に恵まれなかった昨年の白根三山以来、北岳再訪は大きなテーマだった。今回も何か縦走コースはないだろうか、と考えおぼろげに春の頃から練り始めた計画が北岳、間ノ岳から三峰岳にまわり、仙塩尾根で仙丈岳まで北上できないか、という計画だった。北岳山荘で一泊、次に仙塩尾根の途中、水場のある伊那荒倉岳あたりでテントを張れば三日目には仙丈岳を越えて北沢峠に下山できよう。3000m峰三座を縦走するというかなり意欲的とも思えるその行程だが、未知の仙丈岳にも登れるし、何とかなるのではないか、と考えた。三峰岳-仙丈岳までの仙塩尾根が一般的ではなさそうなので、そのコースが心配ではあるが・・。

ニ夏続けての広河原だ。駐車場は満車に近い。どうにかスペースを見つけて歩き出す。二股までは目立つ急登もなくウォーミングアップを兼ねる。大樺沢の雪渓が見えてくると二股は近い。が、見えてから着くまでになかなか時間がかかる。このあたり、風景からの距離感と実際の距離がなかなか一致しない。雪渓の端に腰掛けてポタポタ垂れてくる冷たい雪解け水で喉を潤す。しかし、ここから見上げるバトレスの威容はなんとも形容しがたい。地面から生えたような大岸壁が一気に北だけの山頂まで突き上げているのだ・・。

ここからは昨年歩いた右又コースを右手に分けるとほぼ一直線に目の前のはるか頭上に聳えている八本歯のコルを目指す。歩くにつれ傾斜が強くなる。気づけば高度を稼いでいくという歩きやすい右又コースに比べて八本歯コースは容赦がない。コルが頭上に近くなってくるとハシゴなども出てくる。がんばってコルに立つ。とうとう北岳の稜線上だ。山頂まで、あとわずか。ふたたびハシゴの急登だ。北岳山荘へのトラバース道を左手に分けると山頂は近い。
(颯爽とした北岳。3000mの尾根で天気がよければ
他に何を望むのだろう・・。)
(柔らかな仙丈岳。又いつか・・)

着いた・・・。今年もやってきたぞ、北岳!この標高日本第2の絶頂で待っていたものは言葉にならない展望だった。奥秩父、八ケ岳、北・中央アルプス、そして塩見、荒川、といった南ア中・南部の雄たちまでが勢揃いしていた。2年続けて登れるなんてなんて幸せなことだろう。仙丈岳もよく見える。昨年はガスの中だったが・・。こうして見ると柔らかく優美な山だろう。

そして目の前、正確には眼下とも言うべきだろう、野呂川の深い谷の向こうにかなり低く牛の背のように長い尾根に目が行く。あれが、明日の行程として考えていた仙塩尾根だ・・。長い。あんな尾根を歩けるのだろうか・・。それに一旦深く標高を下げてからジリジリと仙丈岳まで高度を稼いでいくその様が見て取れる。あの重厚さが南アルプスの真骨頂なのかもしれないが、真骨頂の持つ本当の苦しみは見るだけと味わうのでは大違いだろう。この疲れ具合で行けるのだろうかかな、と危惧する。何か自分が大きな勘違いをしていたことをうすうすと感じ出してきた・・。

北岳山荘のテント場では無線を心ゆくまで楽しみ、至上の一時。しかし、明日はどうしよう・・。あんな長大な尾根を自分で歩けるものか、どう考えても自信がわいて来なかった。山頂からあの眺めに触れたとたんに言い訳だけが頭の中にめぐっている。それに家族に心配かけるわけにも行かない。自分にとっての危険領域に行こうとするとまるでやじろべえの反対側の錘のように家族の顔が浮かぶものだ。これもなにかの警鐘だろううか・・。やはり、やめよう。出来ない。あんな尾根を歩く自信はない。仙丈岳はまたいつか登ればいいさ・・。明日は間の岳往復で下山することに変更だ。

そう考えると随分と気が軽くなり、小さなテントの中で眠りに着いた。

翌日も快晴で海抜3000メートルの稜線が待っている。ザックは北岳山荘にデポしてきたので身軽だ。雷鳥がいる。展望も素晴らしい。しかしどこか空虚で心の中にぽっかり空いた穴はつぐないようもない。この非日常的な山岳展望がすんなりと心の中には入ってこない。これで良かったんだよ、所詮、計画が無理だったんだよ・・。あの長い尾根を見ろよ、あれを歩けるのか・・・?

間ノ岳で無線運用をすると少し気が休まった。とにかく、マイペースで歩けば良いさ。無理なくいけるところに行くのだ・・。焦っても仕方がない。山なんて、誰のために登るのでもないのだ・・。

北岳山荘に戻る。このまま広河原まで下山だ。しかし間の岳往復からの下山は結構きつい行程だった。二俣に下りつくまでにすでに足が棒になっていたが、そこから先も長かった。家族の顔と芦安温泉での入浴の事だけを考えながらただ歩いた。谷あいに夕闇が迫る頃、広河原に着いた。

今年の夏山はこれで終わった。計画の変更・・・展望に満足した事と、仙塩尾根に対する畏れ、家族に会いたい気持ちなどが複雑にからみあったのだ。予定を大幅に変更した山行は初めての事だった。敗北感がなかったか、といえば嘘になるだろう。失意がないか、といえば嘘だろう。勇気のない自分が悔しくも恨めしくもあったが、ここに安全圏に逃れてほっとしている自分が居るのも事実だった。

山は自分の為のもの。無事に戻ってこそ、のもの。こんな時もあるよ。そう無理やり考えながら帰途に着いた。


1995/8/3 : 広河原7:00−二俣9:25/9:45−八本歯のコル12:30/12:50−北岳・アマ無線14:20/14:50−北岳山荘・アマ無線(テント泊)16:00
1995/8/4 : 北岳山荘−間の岳・アマ無線8:30/11:40−中白根・アマ無線−北岳山荘−八本歯のコル13:40/13:50−二俣15:30/15:45−広河原17:05


アマチュア無線運用の記録

北岳 3192m 山梨県中巨摩郡芦安村 50MHzSSB 2局交信 ピコ6+ホイップ
間ノ岳 3189m 静岡県静岡市 50MHzSSB 9局交信 ピコ6+ダイポール
中白根 3055m 山梨県中巨摩郡芦安村 50MHzSSB 1局交信 ピコ6+ダイポール


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