深林の奥秩父、笠取山から飛竜まで 

(1995/5/3,4、山梨県塩山市、北都留郡)


昨年の甲武信岳から雁坂峠を歩いた山行以来奥秩父の魅力に魅せられてしまったようだ。次に行く山は何処にしようか・・、奥秩父だ。又行ってみたい、そんな気持ちが大きい。といっても奥秩父には何があるわけでもない、ただの森があるだけだ。人気の甲武信岳とて特に展望が秀逸なわけでもなく、そこに派手さは全く無い。いやむしろ地味だ。しかしその森の魅力はどうしたものだろう。丹沢や奥多摩あたりの山を僅かにしか知らない自分にはそれはまさに淵のように深みのある森だった。苔むした地肌に鬱蒼とする黒い木々。それをとりまく空気は常にしっとりとして霧でも出ようものなら正直不気味なほどだった。とはいえ日本の山で開発に無関係の場所は無いだろう。奥秩父とてその例外ではあるまい。昔を知る人は今の奥秩父を見て山がすっかり薄くなった,というかもしれない。でも昔を知らない自分には畏怖の念を抱かせるには充分なほどの森の貫禄を奥秩父は未だ持っていると思う。24時間休みなくすべてが動き回る都会に住み会社まであてどもない往復を繰り返す身としては奥秩父はすべてがその対極と言えた。都会生活に慣れきったこんな自分だからこそ奥秩父に深い憧れを抱くのかも しれない。

* * * *

塩山駅からタクシー相乗りを探してみる。多くは大菩薩が目当てのようだが戸渡尾根で甲武信岳を目指すという2人連れが見つかった。連休の稼ぎ時、タクシーは山あいの道をぐいぐい飛ばして行く。この道も数年先には埼玉県側と雁坂峠の下をくぐるトンネルでつながる予定でそうなると幹線道として賑わうのだろう。広瀬ダムのほとりの新地平でここまでの料金を折半してタクシーを下りる。昨秋、甲武信岳から下山して一服した懐かしの食料品店で缶ビールを買い、ザックを締めなおした。

今日の予定はしばらくはここから林道を歩く。そして雁峠に上がり、笠取山から唐松尾山へと甲武国境尾根尾を歩き、適当なところで幕営というものだ。林道歩きは斜度が緩い分距離は長かったりして良し悪しだがテントを背負った今日のような大荷物時のウォーミングアップにはもってこいだろう。
(笹の雁峠に出ると笠取山が出迎えてくれた。)

林道には時折工事用などで路肩に重機が置かれたりしているが五月連休ということもあってかひとけは無い。誰も居ない林道を独り歩いていく。緩い登り坂で振り返ると広瀬ダム湖が眼下に淀んでいる。長い林道歩きは頭の中を空白にしてただただ足任せに進むしかない。独り歩きというのは楽しいが妙に周囲の空気に鋭敏になるところもあって、さもない物音に反応したりする。ジャリッ、と物音がして慌てて振り返ってみるが誰も居ない。きっとなにかを踏んづけたのか・・。ドキドキドキと鼓動が高鳴っているのを感じる。

それでも時間は経つものでしばらく歩くとロボット水量計のある箇所に出た。この少し先から林道を離れ雁峠への登山道が分かれているはずだ。

分岐を見つけ右手に分け入っていく。登山道と言ってもここ迄の林道と大して差の無い緩い道でメリハリは無いが歩きやすい。ゆっくりと緩い道で確実に高度を稼いで行く。こういうアプローチも良い。

ここまでは特に深い林も無く、やがて林がまばらになり代わりに笹が目立つようになってきた。そろそろ稜線だろう。それにしても一貫して緩い道で、とても歩きやすい。昔からの道なのかもしれない。今朝からやや曇りがちの天候だったがここへきて更にどんよりとしてきた。ちょろちょろと流れる水場をすぎるとやがて前方が開けそこが笹原の広がる雁峠だった。

おー、やっと着いた。どんなアプローチにせよ稜線に出るととりあえずは山登りの行程の大方はこなしてしまったような気になる。ああ、前方には三角形の笠取山が写真で見知っていたそのままの姿で立っているではないか!頂上がわずかに雲に隠れてはいるものの、いいなぁ、可愛らしくていい山だ!

左手には燕山へ登って行く主脈の銃走路がジグザグに山肌を切っているのが見える。5,6人連れのパーティーがそこを登って行くのが小さく見えた。右手に進むとカヤトの原の奥にこじんまりとした二階建ての小屋が立っていて雁峠山荘だ。一時期は小屋番も入っていたようだが今は避難小屋といった感じで雰囲気は悪くない。ただ建付けが古くて寒そうでもある。ホースから流れ出る水をポリタンにつめて先へ進む。笠取山はいよいよ近くそれに急に思える。

山腹を行く巻き道を分けると笠取山への急な登り坂に取り付いた。防火帯の切り開きなのか山肌のえぐれた滑りやすい道を1歩1歩高度を稼いで行くとみるみる視界が広がって行く。

いささか急な道に辟易しながら行くと斜度が緩んで頂上を思わせる場所に出た。がか細い尾根はまだ先に続き、幾つか似たような小ピークをこなすと本当の笠取山の山頂だった。狭い、本当に狭っ苦しい山頂だ。それに雁峠から見た笠取山の姿は三角錐の独立峰の様に思えるが実際は長く尾根道が奥のほうへ伸びている。少しいびつな形をしている山なのかもしれない。

とりあえず50MHzのアンテナをセットするが潅木にアンテナが引っかかりやりにくい。中途半な状態で数局交信するが東京方面からは余り声がかからない。代わりに愛知や岐阜辺りと交信できる。電波の抜け道というのが存在するのかもしれない。数局交信して満足したのでそのまま足を東に進ませる。

笠取山から唐松尾山までの間は今歩いている尾根伝いの道と先ほど分けた巻き道とが並行している。巻き道は東京都の水源監視路を兼ねており、読んで字のごとくこの辺り一帯は東京の水道を成す多摩川の水源で巻き道はそれを巡る様についている訳だ。水干(ミズヒ)神社という名の水源を祭った神社も巻き道沿いにあるらしいが自分の歩くコースは稜線なので興味深いそれらの場所はパスしていく。林相は時折苔むしていよいよここへきてやはりここが奥秩父であるという感が強くなってきた。時折残雪が現れるがそれが5月の2000m級の尾根道らしい雰囲気を漂わしている。

稜線道らしくアップダウンが続くので幕営装備でふくれたザックが肩に食い込む。今日は何処まで歩こうか、将監小屋か、あるいはその手前で適当にテントを張るか。当初の予定では唐松尾山の山頂がテントの候補地だった。海抜2109mの唐松尾山は多摩川水源地帯の中の最高峰で、そんなピークで幕営できれば、と漠然と思っていたのだ。山頂の雰囲気が良ければそこでテントを張らしてもらうか・・。

辿る尾根道はますます深い樹林帯へと誘われる。唐松尾山の山頂も樹木に囲まれたこんな雰囲気だったら周りの重厚で少し神がかったともいえる空気に圧倒されてそこにテントを張ることなど出来るのだろうか。
(誰も居ない山頂から電波を出せば
多くの仲間とつながる事が出来る。
自分は独りではない・・。)

いくつかの上下をこなし登りついた唐松尾山の山頂は細長い平地があるだけの、案じていたほどの暗い山頂ではないが開放的とは到底言えない山頂だった。さてここを今宵の宿とするか・・・、キャンプ指定地である訳でもなく回りに人は皆無。多分この先1時間の将監小屋迄人は誰も居ない事だろう。少し、いやかなり怖い。何が怖い?自然だ。自然の持つ圧倒的な静けさが、神々しいともいえるこの空気が自分の身にぐうっと押しかかってくる。それが怖い。こんな無言の存在感の前に自分はぺらぺらの、無に近い存在だ・・。

まぁいいか。ものは試しだ。ここで寝てみるか・・。

半ばやけくそ気味にザックを広げテントを設営した。物音がしたので振り返ると二人連れの男性パーティが山頂に着いたところだった。ああ,人がきた。嬉しい・・。彼らもここに泊まってくれないかな・・。そんな思いをよそに一言二言言葉を交わしただけで彼らは慌てて山頂を去って行った。夕暮れ近いこの時刻、彼らも将監小屋まで急いでいる様だった。

またもやシーンとした山頂にぽつんと独り。これが好きとは言いながら寂しくなくて何であろう・・。それでもテントに入り服を着替えるとすこしほっとした。そうだ、煮てでも焼いてでも、食えるものなら食ってみろ。

そうだ、ここでアマチュア無線だ。手近の枝に50MHzのダイポールをセットしてCQを出してみるとさすがにゴールデンウィークの夕刻、呼ばれる呼ばれる。絶え間無い交信が出来る。そんな中に混じってローカル局からも呼ばれる。何だか励まされたような気がして嬉しかった。

暗くなりロウソクとヘッドランプの明かりで缶ビールをあけ夕食をすませるともう後は何もする事が無い。シュラフに横たわると全くの無音でキーンと重い音が耳の奥でなっているような気がする。心臓の音が耳に伝わってくるような気もする。これを静寂の音、とでも言うのかも知れない。日常の生活では決して味わう事の出来ない、静けさのもつ音。

少しは眠っているのか、夢とうつつの境を行ったり来たりしているのか。カサカサカサ・・誰も居ないはずの山頂に何かが動く気配がする。風が落ち葉を揺らすのか、何か野小動物がいるのか・・。怖い。全くのウィルダネス。耳が冴え鼓動が高鳴る。ここは独りっきりの2000メートル峰、自分はなんと小さいんだろう。シュラフにくるまるしかなかった・・・。

* * * *

朝、雲海上に顔を出した富士の山頂部が朝日をうけてほの赤く焼けていた。昨夜の圧倒するかのような静寂さから山も目覚めたようだ。彼らは決して言葉を発するわけではない。が周りに居る木々や苔や土が、そして空気さえも、差しこむ赤い光を前にして大きく深呼吸をしている。だから自分も大きく伸びをしてみる。空気を思いっきり吸い込んでみる。あーっと声を出してみる。自分も、今、目が覚めたぞ。みんな、おはよう。
(樹林帯を抜けるとカヤトの原に出た。
風景は絶え間無く変わる。
山は大きい・・。)

唐松尾から将監峠への1時間は樹林帯、草原、笹原と奥秩父の魅力が凝縮されている感がある。木々を抜けると小広い草の海が待っていてその奥には朝露を被った笹が待っていてくれた。そんなめくるめく風景の展開に鳥肌が立ってしまう。森林限界を越えた山々とは全く違う魅力を感じる。いいなぁ、これも山なのだ。

和名倉山へのか細い踏み跡を左手に分ける.。ここで昨日の水源監視路である巻き道が右手から合流してくるがどういうわけかこちらの入り口には木で大きくバッテンが組んである。途中道が悪いのか、桟道でも崩壊しているのか・・。

しばらく歩くと小広く開けた原でそこが将監峠だった。将監小屋は100mほどカヤトの原を下りたところにあった。豊富な水場でポリタンを満たす。小屋の中は飾り気がなく薄暗くいかにも奥秩父の山小屋といった感じで昨夕の2人連れパーティも丁度出発の準備をしているところだった。

再び登り、飛竜権現を目指す。路は山腹を巻いておりほぼ平坦でひたすら歩く。桟道が処々にあり滑りやすい。倒木を跨ぎ、くぐる。苔むした樹林帯を抜けるとヒュルヒュルと風が逆巻きガスが非常な早さで上がってきた。こんな時に独りでいることを強烈に意識するのだ。大きく,素晴らしい自然と、その中にポツンと居る自分。それが寂しくもあり楽しくもある・・。こんな時普段自分の周りにさりげなく居る大切な人・・家族の事を改めて思ったりもする。彼らとのつながりの大切さを感じさせられる。そしてそんな人々の居る自分の幸せについて思う・・。これこそが山歩きの素晴らしさなのかもしれない。

長い巻き道を歩く。といっても路はほぼ平坦で距離感のみを感じさせる道だ。たんたんと進むと少し道が登りとなり見覚えのある箇所に出た.あたり一帯の展望台となっているハゲ岩への分岐箇所だ。ここから先は一昨年雲取山から歩いてきたコースなので未知の区間ではない。自分の歩いてきた地図上の細切れの線が一本につながったのは嬉しい。飛竜権現の小さな社もあの時のままだった。

予定ではここから飛竜山への往復をこなす予定だったがなんとなく疲れてしまった。前回も飛竜山を諦めたが今回も諦めてしまおう・・。。こうなるとますます思いは募るもので、まぁ又再訪の機会を待つとしよう・・。

飛竜権現のわきの見晴らしの良い箇所に行き少しアマチュア無線を楽しんでみる。山頂でもないのに電波の飛びは悪くない。まぁ標高も2000m近いしそれに助けられているのだろう。

この先はミサカ尾根を辿り丹波へ下山する。再び未知のコースとなる。前飛竜を越える。ミサカ尾根は丹波の谷へまっすぐに向かってのんびりと下りていく尾根道で、実際の距離以上にやたらと長く感じられるのは疲労のせいか。ようやくサオラ峠に出て残りの行程の時間が読めたような気がして少し落ち着く。峠からは尾根道を外れ急な下り坂で丹波へ直接下りていく。下から三条の湯を目指すと言う西洋人の2人連れパーティが上がってきた。サオラ峠まではあと少しと告げると彼らも安心したふうだった。

ぐいぐい高度を下げ林を抜けるとだんだん畑の中に道は続いて人里らしくなった。程なく丹波へ下りついた。

バス停そばに湧き水が溢れており思わずそこに頭をさらした。きーんという冷たさが頭に広がり何か生き返ったような気がした。あとはバスをのんびり待つばかり・・。

心配していた独りきりの指定地以外での幕営山行も無事終了。晴れ晴れとした気分で缶ビールに酔っぱらった。50MHzアマチュア無線では知り合いの局と何局も交信出来、独りっきりの山でなにか元気ずけられた感じで開局してよかったと嬉しかった。又、これで奥多摩駅から雲取山を経て甲武信岳まで歩きつないだ事になったのは大満足だった。

が、なによりもあの無言の山の中の一泊が自分にはとても嬉しい。別に自分の中で何がおきたわけでもないのだが、孤独の山頂でのまさに自然に囲まれての一夜を過ごして、何か少しだけ、ほんの少しだけ、自分が偉くなったような気がしていた。世の中にはもっとワイルドな事をしている人は多いだろう。でも自分にとっては少しだけ未知のエリアに足を踏み入れた、そんな感じがする。

あぁ楽しかったなぁ。缶ビールで早くも酩酊だが頭の中では次に登る山を何処にしようか、そんな事を考えていた。

〈終わり)

(コースタイム :新地平8:30−雁峠11:15/11:25−笠取山・アマ無線12:05/13:25−唐松尾山・アマ無線(テント泊)15:30/5:30−将監小屋6:30/6:45−飛竜権現・アマ無線9:00/11:45−前飛竜12:00/12:15−サオラ峠13:45/14:00−丹波15:20


アマチュア無線運用の記録

笠取山 1953m
山梨県塩山市
50MHzSSB運用、7局交信、最長距離:岐阜県海津郡、新潟県三島郡
PICO6(1W)+ダイポールアンテナ
唐松尾山 2109m
山梨県塩山市
50MHzSSB運用、30局交信、最長距離:岐阜県海津郡
PICO6(1W)+ダイポールアンテナ

Copyright:7M3LKF,Y.Zushi,2000/6/11


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