南アルプスへの誘い - 鳳凰三山独り歩き

(1993/7/29,30、山梨県中巨摩郡)


1・南アルプスへの誘い :

自分の今までの山行を振り返ってみる。妻との数度の高尾山などへのワンデイ・ハイクからスタートし、春の雪に驚いた丹沢縦走、霧に酔った雲取山、と、行く山も確実にその標高を上げてきている。よし、山に行きたい動機づけなどはこの際どうでもいい、夏も近いし、もう少し高い山に行ってみるか、そんな気分に駆られる。

行き先は? 南アルプスはどうだろう? 穂高や槍、剣、といった著名で、しかも威圧的な山々が揃い踏みをする人気の北アルプスに較べ、南アルプスはどこか控えめで目だたず、奥ゆかしい感じがする。地味だ。静かな山旅が出来そうではないか。しかも北に較べて全体的に山容がなだらかで危険な場所は少ない、と聞く。もう私も立派な(?)家族持ち、あの二人に悲しい思いだけはさせたくない、最近特にそう思い始めているのだ。 

以前会社の山好きな人が鳳凰三山はいいよ、と言っていたのを思い出す。鳳凰三山か、早速ガイドを購入。危険箇所はなさそうだ、なんとか行けるかな。よし、プランニングだ。会社への行き帰りの電車の時間を利用して計画を練る。空想の中で尾根を歩く自分が見える。おかげで数週間通勤が苦にならずにすんだ。

ルートは夜叉神峠まで車で入り、峠から縦走路に入り途中キャンプ泊。翌日鳳凰三山を縦走し広河原に下山。広河原から甲府行きのバスで夜叉神峠まで戻り、駐車しておいた車に乗り換える。1泊2日の行程だ。1日目は5時間半、2日目は7時間半程の行程になりそうだ。車を利用することにしたのは下山後に周辺に点在する温泉に入ろう、と思ったから。縦走後に温泉とは、完璧な計画だ、電車の中で一人ほくそ笑む。

待ちに待った梅雨明けが宣言される。早速休日を申請し7月29、30日と行く事にする。天気が悪けりゃ出発を延ばすだけ。その点は単独行は気楽だ。

おいおい、初心者のくせして南アルプスかよ、鳳凰三山はいくら入門コース、といっても3000メートルに近いんだぜ。三度目の山でそんな高い山、大丈夫かよ・・。いや、ゆっくりいけば何とかなるよ。大丈夫。自問自答を繰り返す。アルプス、と名のつく山域に行くのは初めての事。そんな場所には無縁だと思っていた自分だったが・・・わずか数ケ月間での自分の変わりように少しあきれた。


2・長いだらだら登り - 南御室小屋への路 :

午前10:15、夜叉神峠登山口。駐車場に車をとめ入山する。早朝に家を出たのだが相模原手前で案の定渋滞に遭遇し結構時間がかかってしまった。

なかなか急な小道がジグザグに続く。高度も確実に上がっていき、同時に車道から漏れてくる人や車の音も遠ざかっていく。待ってました、とばかり汗がポトポト滴り落ちてくる。相変わらず苦しいのだ。夜叉神小屋までは丁度1時間か、早く体を慣らす為に休憩なしで登りきろう。そう考え緑の小道をただただ登る。深い森の中、木漏れ日も余り届かない。汗をぬぐうタオルがすぐにグッショリとなった。

ぱっ、と視界が広がるとそこは夜叉神峠であった。夜叉神小屋で小休止だ。顔をあげると圧倒された。目の前に白峰三山の姿が飛び込んできたのだ。北岳、間ノ岳、農鳥岳、という3000メートルを越す山々だ。北岳、これが標高日本第2位の山か・・。尖った頂上が引き締まっている。間ノ岳、デカイ山だ。そしてやや控えめに農鳥岳。尾根続きの三山は圧倒的な存在感で君臨している。まさに威風堂々、周囲の空気を蹴散らしている。あぁ、これが南アルプスか・・・。初めて見る山々だ。体がぶるっと震えた。真夏だというのに雪渓が残っている。彼らの放つすさまじい迫力に私は我を忘れてたたずんだ。

(美味しい水の
南御室小屋)
今日の目的地は鳳凰三山の手前、南御室小屋だ。夜叉神小屋から4時間か。地形図を見る限り下りは僅かしかない。あとはだらだら登りのようだ。うんざりする。歩かなきゃ着かない、そう唱えつつ登る。前を見ても登りだけ、気が遠い。足元をみながらゆっくり進む。口の中がすぐにからっからになる。

さっきから左足のかかとが靴づれっぽいのが気になる。ペースが乱れるのがいやで無視していたが、靴ずれになってしまったらもう遅い。そう思いザックをおろす。原因は靴下の毛玉のようだ。よれた毛玉がかかとにこすれて痛かったのだ。靴下を履き代える。しばらく歩いたがまだ具合が悪く、昼食をとるついでに靴ずれ防止テープなる絆創膏をはる。ようやく落ちついたようだ。

路はじきに濃い林を抜けて尾根のすぐ西側にとっつく。東側を見上げると疎林越しに真っ青な夏空が見えかくれする。もう標高2000メートルは越えただろうか、木立を抜けて素晴らしい涼風が吹いてくる。この涼風と、凍らせて持ってきたポリタンのお茶が苦しい登りに対する救いか。フーッとため息をつく。

途中から九州からの3人パーティとほぼ同じペースで進む。つかず、離れずだ。自分のペースは人一倍遅い、と思っていたが3人連れも苦しそう。すこしホッとした。

夜叉神小屋から4時間40分、なだらかな下りを降りていくと林の中に素朴な造りの南御室小屋が現れた。

手続きを済ませテントを張る。冷たい缶ビールを買う。湧き水で冷やした贅沢なビールだ。グッと飲む。流し込む。体の中に旨さがしみわたる。炊きあがったメシを食べる。長い一日だった。


3・森林限界を越え鳳凰三山へ :

昨夜は隣の学生のテントがうるさくてなかなか寝つかれなかったが、4:00前には眼がさめる。夜露でビッショリ濡れたテントから首だけ出す。星が降ってきそうな夜空だ。じきに東の空がぼんやりと赤くなってきた。今日はいよいよ縦走の核心、鳳凰三山を行くのだ。テントを撤収し北へ向かう。5:25、出発だ。

鳳凰三山は名のとおり、薬師岳、観音岳、地蔵岳の尾根続きの3つの峰から成る。最高峰は観音岳の2840.4メートル、他の2峰もいずれも2700メートルを越える。はやる心を抑え登る。しばらく急登だがじき林の中のなだらかな路となる。雲海の中から日が登ってきた。真横から日が射す。太陽が自分と同じ高さにいるのだ。

西から素晴らしい風が吹いてくる。ほてった体が立ち止まるとあっという間に冷えてくる。風に誘われて西を見ると深い谷をはさんで北岳がすごいボリュームで迫ってくる。朝日を浴びた真っ黒い山塊は神々しいばかり。日本第2位の高峰だ。畏れを持って眺める。手を延ばせば届きそうな距離だ。

(森林限界を超えた。
北岳が飛び込んできた)
林がまばらになったかな、と思えばすぐに一面砂の斜面に出た。えっ?と思いガイドを見る。やった! 森林限界を越えたのだ。その標高故に樹木の生息が出来なくなる高さだ。自分の足でここまで来たのだ。自分にまさか森林限界を超せるとは!やったヤッタ、小さくつぶやく。いいようもない満足感だ。薬師岳は眼と鼻の距離だ。ザレ場をゆっくり登る。

薬師岳を踏み観音岳へ、ハイマツの中の雲上のスカイラインを歩く。親子の2人連れパーティと前後する。父と娘だ。自分の娘が大きくなったら一緒に登ってみたいな、などと生まれたばかりの娘の事を考える。

細い尾根だが稜線漫歩、東側の甲府盆地は一面雲。雲海だ。これじゃ今日の甲府の天気は曇かな、ふふっ、ここはこんなに晴天なのに、いい気分。西の野呂川の谷は雲一つなく、まさに自分の立っているこの尾根が天気を分かつているのだ、とそう思った。


4・展望に酔う - 観音岳 :

少し登ると鳳凰三山の最高ピーク、観音岳。登りつめる。うわーっ!何だこりゃ! 思わず歓声が上がった。素晴らしい展望なのだ。地蔵岳越しにまずは目の前に甲斐駒が飛び込んできた。

雄峰甲斐駒ケ岳。すごい岩肌だ。えっ、と思い左へ目を移す。仙丈だ。女王と呼ばれる仙丈岳。雄々しい甲斐駒に比べ悠々としている。北岳を始めとする白峰三山はいうまでもない。左へ向いた顔を右へ向ける。一面の雲海から選ばれた山々のみが突き出ている。甲斐駒の右奥、かなたに連なるのは乗鞍、穂高、といった北アルプスだ。そして右へ。ギザギザの八ヶ岳。主峰赤岳がはっきり分かる。八ヶ岳の奥に重なるのは秀麗な浅間だ。更に右へ。金峰、国師、甲武信といった奥秩父の連山。もしかしたら先月登った雲取山も見えているのかも知れない。忘れていた、恐る恐る後ろを振り向く。逆光の中に富士が雲海の上にすっくと立つ。裾野を大きく広げた真っ黒いシルエットは日本の山を統めているのはこの私、とでも言わんばかりの姿だ。しかも優しさも備えた大きさだ。

視界をさえぎる物は何もない。幸福感に酔った。余りの眺望に背筋がゾクゾクとしてくる。心のコントロールがきかず涙があふれた。自分の足で立った最高所だ。魂が抜かれたようにたちつくし、時の経過を忘れ、ただ風景を見入るのみだった。


5・体力が尽きたか、地蔵岳への路 :

寒さで我を取り戻す。まだ行程の半分も行ってないのだ。先は長い。行かなくては。

別れがたい観音岳のピークを離れ、地蔵岳へ向かう。路は白い砂(花崗岩が主体との事)とハイマツのなかにつけられているが樹木が無いため霧でも出たら路を見失いそうだ。両側はきつい谷だ。時折ルートを示す赤いペンキの丸印や矢印が岩に塗られておりそれに従う。路は一度グンと下がり、又登りだ。結構これがきつい。ハイマツにつかまりながら一歩一歩登る。段差に足をかけたまま上体をあずけ休む。遮る物のない尾根上に遠慮なく四方八方から風が吹きつけてくる。

(オベリスク。隣に雲海から八ケ岳が
顔を出している)
ここになって疲労が出てきたのか力が出なくなってきた。足が思うように進まない。気分が萎えてくる。カロリーメイト、チョコなどを片っ端から口に放り込みながら登る。でもダメだ。腹に力が入らない。歩みを止めると聞こえるのはゴァーッという風の音だけ。こんな処に独りでいる自分が少し物悲しくなってしまう。地蔵岳のすぐ手前のアカヌケ沢ノ頭まで登りつくと重いザックを放り出しその場にへたりこんだ。

何か食べなきゃ。メシにするか。その前に地蔵岳を往復してくる。頂上にはオベリスクなる奇岩がそびえる。ロッククライミングの心得でもない限りその上には立てないだろう。

強風下ストーブの火が消えないか心配しつつラーメンをつくる。ガスストーブの青い炎は風で吹き流しのように揺れコッヘルの中身は一向に沸騰しない。いらつく。待ちきれず半煮えのラーメンをすする。缶詰もあけて食べる。力になるものであれば何でもござれだ。あとは降りるだけなのに、ここでバテたら駄目だぞ。妻子を泣かすな。そう言い聞かせ歩き始める。少しだけ体力が回復したように思えた。


6・広河原への下山 :

広河原への下山路に入る為には高嶺というもう一つピークを越えなくてはいけない。岩を越える。絶壁の上を歩く。両側は谷だ。西から圧倒的な早さで音をたてずに雲が登ってくる。すごい速さだ。サーッと細い尾根を包み込む。風が生き物のように吹きつける。あんな速さで歩けたら、すぐに下山出来るのに。風が羨ましい。

高嶺を通過。お次はガレ場の降下だ。この下り、ひどく体力を消費させる。足元がふらついてくる。浮き石に足をのっけないように降りる。ここで転倒でもしたら捻挫は必至。骨折すら有り得る。それだけは避けねば。石がガレて遥か下まで転がっていく。その音と風の音のみが自分の耳に入るすべてだ。途中先ほどの2人の親子ずれパーティに追い越される。彼らは見る間に視界から遠ざかって行く。私のペースは相当落ちているに違いない。

縦走路である尾根をはずれ、ようやく下山ルートに入る。森林限界に再び接する。今度は樹林帯の中に戻るのだ。下山路とはいえ気分は優れない。等高線がびっちりつまった急降下なのだ。広河原まで地図上の直線距離では2km程、しかし同時に標高差も1000メートルはある。経験したことのない急斜面に違いない。ガイドにもたったこれだけの距離を進むのに2時間半かかる、と記されている。覚悟の上だ。進む。途中昨日から何度か会う九州からの3人パーティに追い越される。彼らは明日は北岳へ、その後は甲斐駒へと登るという。私にはそんな体力も気力もはもう無いというのに。

樹林帯は不気味なまでの静寂といやな湿気が支配する。すごい急坂だ。露岩が、赤土が、木の根が、倒木が行く手をはばむ。一歩一歩確実に体力を消耗していく。ハシゴが、ロープが現れる。股が裂けるほど脚を広げて降りざるをえない箇所が連続する。両手をつく、腰をおろして脚を降ろす。木の根につかまり懸垂のように降りる。モーローとしてくる。サンダーバードの人形のようにフラフラと歩く。雨が降ってきた。林の中は余り濡れないがそれでも路は確実に状態が悪化していく。木の根がとても滑りやすくなる。アッ、と思った瞬間足が滑って転倒。尻もちをつく。

何なんだこの急坂は?本当に着くのか、広河原に?もうやめてくれ、わざわざ休日をとってまでして、俺は一体こんな処で何をしているんだ?

雨は土砂降りに近い。樹林越しに下に野呂川の瀬音が聞こえてきた。でもなかなか着かぬ。奈落の底まで行き着くのか、果てしない急降下だ。何度休んだかわからない。ふいに車道を行く車の音がした。フラフラと夢遊病者の如く林道におどり出た。

広河原に着いたのだ。土砂降りの中喜ぶ気力もなく登山センターにたどりつく。待つ間もなくワイパーをせわしく動かしながら甲府行きのバスがやってきた。


7・帰路 :

夜叉神までバスで戻る。2日間かけて歩いた行程をバスは1時間で戻ってしまう。あっけない。峠で自分の車に乗換る。芦安まで林道を下りるとそこは温泉。真新しい村営温泉に入る。泡風呂にうわーっと声が出た。ようやく緊張感がほぐされたのか。足の指の股に手の指を入れて広げる。酷使した足だ。ねぎらう。広い湯船。少し白く濁った湯だ。

広河原までは前回雲取山へ同行した頂いた会社の先輩Y氏と数年前にバイクで林道キャンプに行った事があったのだが、その時は随分山深い処だな、と思ったきりであった。が今回そこに登山者として降りたった事に対する喜びが、長い行程を歩ききって自分のプランを達成した事に対する充足感が、ようやくわいてきた。

もう一度考える。後半は明らかに体力が切れていた。どうやら実力以上の山にきてしまったようだ。反省。経験と体力がもっと必要かもしれない。しかしあの素晴らしい展望は一体何だったんだろう? 苦しい登りの代償にしても素晴らしすぎた。

湯船には同好の志、他の登山者も何人かくつろいでいる。自然とお互いに行ってきた山の話が交わされる。そんな話に参加できる自分が少し嬉しく、又、おかしかった。湯船で目をつぶれば自分がこの2日間歩いてきた風景が走馬灯のように脳裏に浮かぶ。妻に無事下山の旨電話。明るい声にホッとしハンドルを握った。
(終り)

コース : 夜叉神登山口10:15、夜叉神小屋11:15/11:30、南御室小屋16:10/5:25、薬師岳7:05、観音岳7:45/7:55、アカヌケ沢ノ頭9:00、地蔵岳往復10:00、白鳳峠11:35、広河原14:10/14:35、芦安温泉17:00   

各ピークの標高 : 薬師岳2780m、観音岳2840.4m、地蔵岳2764m、アカヌケ沢ノ頭2750m、高嶺2778.8m          

Copyright : 7M3LKF, 1997/10/15