夢のような山旅へ - ツール・ド・モンブランを歩く 

 (2008/8/10-15、フランス、イタリア))


「来年の夏、アルプスに一緒に行きませんか?」 

それは、うまく行くかな?という自分の若干の迷いの末に出た質問だった。Sさんは自分が日本にいた頃から何度と無く山歩きをご一緒させていただいていた山の友人であるが、同時に世界を股にかけて歩く国際派の技術屋さんだ。海外転勤中とは言え一ケ所に留まっている自分とは違い、東アジアから北米大陸そして欧州へとまさにアクティブに動き回られている。そんなSさんだから当然のことながらエアラインのマイレージもたまり放題だろう。ならば欧州往復は苦になるまい、という勝手な推測を立てたからの誘いの一言であった。

「そうですね・・、考えてみます」という返事はその場限りの安請け合いな返事をしないSさんから考えて前向きな答えと理解してよかった。やはり果たしてマイルは潤沢に余っているらしい。心の中で小さく「快哉」を叫ぶ。これで自分も少し本格的なヨーロッパアルプスハイキングが出来るぞ・・。

年が明けて夏休みの日程をお互いに確認する。Sさんからは運よく最終的にはお盆の時期に一週間休暇がとれ便もとれた、との事。あとは具体的な行き先と行程について詰めるのみだ。ヨーロッパアルプスで代表的なトレッキングエリアと言えばグリンデルワルトをベースとしユングフラウ・メンヒ・アイガーを見るトレッキングか、ツェルマットをベースとして盟主マッターホルンを仰ぐか、シャモニーをベースとしてモンブラン周辺を歩くか。私もSさんもそれぞれすでにグリンデルワルト周辺の山は歩いていた。必然的にツェルマットかシャモニーか。

一箇所を拠点にしていくつもの小さなコースを歩くのではなくツール・ド・モンブランやオート・ルートなどの長く歩きつなぐコースが良い、というのがSさんの希望だった。改めてガイドブック(ヨーロッパアルプスハイキングガイド「シャモニ周辺を歩く」山と渓谷社)を繰るとツール・ド・モンブランの紹介がある。モンブランの周りをぐるりと一周するこのトレッキングルートは、コース取りにもよるが一周200kmを越すという。これを素直に歩きとおすと最低でも10日間はかかるというが、通常は車道歩き区間はバスで移動するとの由。それでも一回りに一週間はかかるという大規模なトレッキングルートである。頭文字をとって通称TMBと言われる、ヨーロッパのハイカーには屈指の人気ルートを歩くことに、二人とも全く異存はなかった。

シャモニーへのアプローチも考慮して我々の行程ではトレッキングに使える日程は5日までか。となると一周は厳しいだろう。コースガイドを見ていると、それはフランス・シャモニー側から入山し反時計回りに歩き国境を越えイタリアのクールマイユールへいたる前半部と、クールマイユールから更に反時計回りにスイスに入り再びフランスに戻る、という後半部に分けて考えることが出来そうだった。中間地点のクールマイユールは丁度モンブラン山群を挟んでシャモニーの南に位置しており時計の12時と6時の関係と言えば分かりやすい。しかもこの両者の間にはモンブラン・トンネルで車道が通じており、定期バスが運行されている。更にはロープウェーによる空中散歩でモンブラン山群を南北に横切ることも出来る、という観光インフラも整備されている。

ルートは決まった。TMBの前半部を歩くのだ。クールマイユールからはバスかロープウェーでシャモニーに戻ればよい。予備日や空中散歩の日程などを考えると丁度良いコースだろう。メールや、スカイプでのテレビ電話を介し装備やシャモニーへの具体的な移動予定、山小屋の予約など、更に詳細を詰めていく。ジュネーブまでのTGVのチケットも早めに買うと安上がりだ。後は8月を待つばかり、となった。


2008年8月9日

午後3時過ぎの便で予定通りSさんがパリ、シャルル・ド・ゴール空港に到着する。到着ゲートが開くのが待ち遠しい。8ヶ月ぶりの再会だが長旅の疲れも感じさせぬお元気な表情だ。明日からの山旅に二人とも高揚した気分を隠せないのだ。「ザックを買いたいので何処かスポーツショップに行けませんか?」との事で、パリ市内・カルチェ・ラタンの登山道具店へハンドルを向ける。今背負っているやや小さめのザックを指差して、「モンブランを歩くのにこのディスカウントショップで買ったザックでは山に失礼で・・」との事。確かに。山に失礼、か。なるほどな、その気持ち・その意気込み、良く分かります。

Sさんには自宅すぐ近くのホテルを予約していたのでチェックイン後中華料理店にて夕食をご一緒する。時差ぼけのことや明日からの行程を考え早めに切り上げる。


2008年8月10日

朝5時にSさんと合流。メトロの初電に乗りパリ・リヨン駅へ。パリの南西にあるブローニュ・ビアンクール市の自宅からパリの東端にあるリヨン駅までは乗り換えいれて約一時間。パリをほぼ横切る事になる。フランス南部やスイス方面に走るTGVはこの駅の発着である。7:10分、予定通りにジュネーブに向けてTGVは発車する。

葡萄畑の広がるブルゴーニュの田園地帯を疾走するTGVの車窓から興味深そうに風景を眺めるSさんを前にして自分は今ひとつ気分が優れなかった。というのもここ数日、どういうわけか暫くご無沙汰していた持病の喘息の具合が今ひとつで、朝晩にやや呼吸が重く感じられると言う状態が続いていたからだ。久々の本格的な山歩きを前にして、何らかのストレスを感じているのかもしれない。冗談ではなく喘息はそんなストレスを発端にすることもある、と聞く。好きなことがストレスになるとは皮肉ではあるが、それだけこれからの数日がいかに非日常的か、ということなのだろう。

案の定今朝も今ひとつの調子。そんな自分が情けなく今朝は気管支を拡張する錠剤をヒステリックにやや多めに服用してしまった。効果は悪方向にてきめんで拡張剤の副作用ともいえる心臓の動悸が感じられる。全身もけだるい。数時間で直ることは分かっている。Sさんには申し訳ないが、空いている席でゆっくりと足を伸ばし少し眠る。ジュネーブまでの3時間半で治まってくれるだろう・・。

ジュネーブ駅には入国管理ポイントがあり、スタンプ押印などはないもののこれを通過して正式にスイス入国だ。パスポートコントロールなしで国境を行き来できるEUの圏外に出た事を実感する。とはいえ同じ対EU圏でもドイツからスイスへの鉄道路入国のポイントであるバーゼル駅にはパスポートコントロールはないところがアバウトでもある。

ここから入山地点のレ・コンタミンヌまでの足が、今回の計画の中で今ひとつ不安を残していた箇所だった。というのもガイドブックやネットを見る限り、ジュネーブから国境を越えシャモニーに入り一泊、翌日レ・コンタミンヌまで電車とタクシーで移動するというパターンの紹介ばかりで、直接ジュネーブからレ・コンタミンヌへ移動するケースの紹介がなかったのだ。スイスのタクシーとはいえ国境を超えシャモニーまでは行ってくれると書かれている。であれば、レ・コンタミンヌへ行くのも距離は変わらないので行ってくれればよいのだが。

駅前のタクシーを捕まえ聞いてみる。行き先を伝えても運転手は首を振るが、5万分の1地図を見せると理解したようだ。いくら位かかるか、と聞いてみるが要領を得ない返事だった。とにかく後には引けず彼に任せるしかない。メーターを押してから走り出したので安心する。

レマン湖の大噴水を左手にしてハイウェイに乗り込んだタクシーはすぐにフランス国境のパスポートコントロールゲートに入った。ジュネーブはまさに国境の町といえる。とはいえ手続きに下りたのは運転手だけで、数分で戻ってくる。確かに、スイスのタクシーがその大半をフランスで走り金を稼ぐのだから、彼の稼ぎはどの国の課税になるのか、など考えるだけでも面倒くさそうでもある。

ハイウェイは思ったよりも広い高原を突っ切るように走っている。ぐんぐん上がる料金メーターが不安ではあるがスイスフランの表示なのでユーロへの換算が今ひとつピンと来ない。

流れる車窓の風景を見て、自分もようやく体の調子が戻ってきたようで安心する。今日はせいぜい歩行は3時間程度なのだ。何とか歩ければ良いだろう・・・そう自分に言い聞かせる。とにかく足の達者なSさんに足手まといにだけはなるまいと、山行が決まってからは週末毎に近所の森をウォーキングしてきたのだ。それまでの山行を通じ、Sさんも自分の山歩きペースについては熟知されているとはいえ、迷惑をかけるのは避けられないにせよ最低限にしたい・・・。最初の迷惑に、ならなければ良いのだが。

前方に真っ白な山が現れた。モン・ブランだ。初めて見るその山はマッターホルンのような爽快な分かりやすさはないが、重厚で嵩のある姿はいかにもヨーロッパ最高峰に相応しい。今からあの山麓を回る旅が始まる・・。

心配をよそにタクシーはどんどん谷に分け入りレ・コンタミンヌまで無事に入ってくれる。集落の先のノートルダム・ドゥ・ラ・ゴルジュという小さな村が車道の終点だ。タクシーは300ユーロかからなかった。想定範囲内でほっとする。

運転手氏に見せていた手持ちの5万分の1図を助手席に乗せたままタクシーは去ってしまった。すぐに気づいたが後の祭り。まぁ実際の歩きは2.5万分の1図があるので問題はないだろうが。

沢沿いの浅い谷に位置するノートルダム・ドゥ・ラ・ゴルジュは小さな花々に囲まれた静かで絵のような山里で、村の名前にもなっているだろう小さなノートルダム教会が林に溶け込むように建っている。降り注ぐ夏の太陽がまぶしく目を開けていられない。小奇麗な公衆トイレで用を足して靴紐をしめる。愛用してきた革の軽登山靴は日本においてあるので今履いているのはカットはやや浅いものの皮の重登山靴だ。ナイロンのトレッキングシューズにするか最後まで迷ったのだが天候や未知の路面を考え、結局これにしてしまった。Sさんは軽そうなローバーのナイロンシューズを履いている。失敗したかな、と思う。がとにかくこの重い靴が原因で迷惑をかけてはいけないと再度心にする。

ゆっくりとウォーミングアップがてら歩きはじめる。13:20だ。今日の行程は海抜1210mのここから3時間先のバルム小屋(海抜1706m)まで。ノートルダム・ドゥ・ラ・ゴルジュが海抜1210mなので標高差約500mか。だったら高尾山に登るようなものだ、行けるよ。と不安を打ち消す。

流石に人気のコースなのか行き交うハイカーも多い。道は針葉樹林の谷の斜面をトラバース気味にいきなりの直登でぐいぐいと高度が上がっていく。右手にノートルダム教会が豆粒のようになっていく。馬にザックを満載し軽そうに歩くパーティもいる。

道はよく踏まれており幅も広く歩きやすい。右手から沢音が近づいてきた。覗いて見ると深くえぐられた谷底を真っ白く滝のように沢が流れて行く。沢水がにごっているのは氷河から流れるからだ、とSさん。沢の用語で馴染みあるゴルジュという単語はこの沢から取った、という解説をガイドブックがネットで読んだように思うが、まさにゴルジュそのものだ。

薄暗い森の中に沢を望む展望台のような箇所がある。もう半分くらい登っただろうか。地図を見るともう急登箇所は越えたようである。少し進むと森を抜け出して小広い台地の上に飛び出した。狭い沢と暗い森の中を歩いてきただけにそのコントラストが余りにも鮮やかである。

大きく広がった視界に気分も良い。何処からか車道が迂回してきているようで草原のかたわらにジムニーが停まっている。その先に小さな山小屋があり食事も出来そうだった。地形図上はNante Borrantと書かれている箇所だ。小屋の壁に架かった手書きのレストランメニューが可愛らしい。こんな小屋で一本立てるのも悪くないだろう。先も見えたのでここでしばらく休憩する。

小屋の前にすばしっこい小さな流れがありその音が耳に心地よい。Sさんも沢で顔を洗い気持ち良さそうだ。ヨーロッパに住んで三年を越えたがこうして昔ながらの山の友人とアルプスをトレッキング出来るなんて考えもしなかった。地球も狭くなったと実感せざるを得ない。

この先は大きなV字谷の左岸をトラバース気味にゆったりと登って行くだけだ。谷とは言えその規模は大きく実に広い眺めであたりは豊かな一面のアルプが広がる。その広い谷のどん詰まりが今日の宿、バルム小屋だろう。

ところどころ広がるお花畑も目に優しい。ただもう足任せに歩くだけだ。ヤナギランが風にゆれ、そのピンク色が真っ青な空に鮮やかに浮かび上がる。ピンク色のその風の向こうにバルム小屋が見えた。

(静かな村が山旅の始まり
だった。)
(馬に荷を預けるパーティもいる。
ロングルートのTMBならではだろう。)
(花に飾られたバルム小屋
で初日の荷を解いた。)
(登ってきた谷を遥かに遠望するのは良い気分
だった。バルム小屋にて。)

15:40、バルム小屋。心配していた初日の行程も無事に終えることが出来た。Sさんにも迷惑を書ける事なく歩けたのが嬉しい。電話で予約したのだが自分の名前がきちんと伝わっていなかった。英語の出来ない小屋番にフランス語の出来ない自分が電話するのだからこんなものだろう。幸い小屋は開いており、案内された部屋は大部屋にベッドが並ぶスタイルで、奥の二つを確保する。二階には少し小さめの部屋もいくつかあるようだ。まずは小屋の裏手のシャワー室で体を洗いさっぱりする。ややぬるいがありがたい設備だ。そしてビールを注文。さんさんと降り注ぐ太陽の下、ほてった体を伸ばし日光浴しながら飲むビールは最高だ。来し方を見ればV字谷の先に下界が見える。周辺のアルプには牛が寝そべり、その広い風景に贅沢な気分を味わえた。

夕食は食堂に呼ばれ指定されたテーブルに着座する。食事のメニューはカボチャのポタージュにメインはミートボールとポレンタのつけあわせ。パンがバゲットでないのが残念だがこんな山の中でしっかりとしたメニューには驚いてしまう。どれも素朴ながら美味しいし量も多い。アルプスの山小屋はコースでディナーが出るとは本当だった。

相席はオランダのデンハーグから来たという60歳くらいの夫婦だ。テーブルごとに大皿で食事が出てきてそれぞれが取り分けるので必然的に会話も弾む。彼らは自国オランダから休暇の度にトレッキングルートを南下して最終的には地中海はコートダジュールがゴールだという。今回はジュラ山脈からスタートしているとのことで、まだまだ先が長いんだ、と嬉しそうに笑っている。既にリタイアしている年齢だろうがこうして老いても夫婦で同じ楽しみを分かつとは羨ましい。

部屋に戻ると同室のベルリンから来たというドイツ人の四人家族は早々と就寝していた。外が明るいことをいいことに未だに賑やかな戸外のフランス人パーティの笑い声をバックに、自分たちも心地よい眠りについた。


2008年8月11日

まだ暗いうちから目が覚める。隣のドイツ人パーティもすでにゴソゴソと行動を開始しており、行動パターンが似ているのでほっとする。「モーゲン」と短く挨拶をして外に出るとこわばった空気に思わず体が縮こまる。満点の星空で今日もすばらしい天気だろう。あれほど気になっていた喘息もまったくその兆候はなく、好きなことをしていれば病気など忘れてしまうという良い例だろう。

小屋の朝食が6時半なので出発は8時前となってしまった。今日は標高1706mのこの小屋からモンブランから南西に伸びる主尾根を海抜2665mのフールのコルで乗っ越し、南側のグラシエの谷に下りるという峠越えコースだ。フールのコルまでの標高差900mに不安を感じないといえば嘘になる。とにかくゆっくりと行けばなんとかなるだろう。

道は谷のどんずまりをぐんぐん登って行く。前方に山肌が近づくと大きく左手に進路を変えて行く。と驚いたことに少し登ると再び大きな谷に入った。カールの底に飛び出たのだ。小屋の裏手に流れていた沢がここでは本当に細い水流となって小さなせせらぎの音を奏でている。小さな湿原のようになったそのさきに池が見えた。海抜2200mのジュベ湖だ。全くその規模の大きさは日本の山からだと想像できない、時間はぐんぐん経過して行くが風景が大きいのでなかなか距離を稼いだという実感がない。早くも小腹が空いて来たので小休止。Sさんに無理を言い日本で調達して頂いて来た「薄皮つぶあんぱん5個入り」をひとつ口にする。かねてからSさんが行動食としてチョイスしているこの5個入りの小さなアンパンを見て、自分もいつしかこれを行動食に取り入れてたのだ。懐かしい日本の味に元気づけられて再びザックを背負う。

湿原地帯を越えるとガラ場の急登に転じる。カールを南側に乗っ越すようにその縁をこえるとまた新たなカールの底のような地形に出た。このあたりの氷河地形の複雑さは日本の低山歩きを中心としてきた自分には想像もつかない。これをひたすらボンノムのコルまで南へ登る続けるのだ。

素晴らしい好天だが空気がからりとしているので苦痛に感じない。足元にはイワギキョウが咲き乱れ朝露が小さな光を放っている。素晴らしいお花畑でもある。先行するSさんは何処まで行かれたのかその先が見えないが、見上げる目の上には空が広がり峠(コル)が近いことが分かる。峠の向こうから吹いてくる風が徐々に強烈になってくるととうとう登りきり、そこがボンノムのコル(2329m)だった。9時55分。小屋を出てから2時間のアルバイトであった。

(氷河が作り上げた複雑な地形の中を、
たんたんと登っていく。)
(深々とした青空、見上げる山肌に
岩峰群が白く天を突いていた。)
(あの窪みが目指すコルだろうか・・。
ボンノムのコルまであと少しだ。)

目の前には谷が広く、そして深く広がってた。呆れるほどの山脈が目の前には連なっておりアルプスの懐の深さを感じさせる。眺めが良い事もありここはパーティの絶好の休憩ポイントのようで多くの人たちがザックをおろしくつろいでいた。風がうなるように強くたまらないので風よけに石造りの小さな避難小屋に入った。歌を歌いながら歩いてきた明るく賑やかなパーティが荷を降ろした。リーダーと思しき男性に「何処から来たのか」と聞くと「バスク」だという。そんな国は当然なく、スペイン・フランス国境のピレネー山脈付近に多く住む少数民族だった。「フランス?スペイン?」と更に聞くとやはり「バスク」との返事で彼らにとって所属する国はあまり重要ではない、とでも言いたそうだった。屈強で強い意志を感じさせる彼のまなじりには愛国心ならぬ自民族へ対する強いナショナリズムがひしひしと感じられ、日本人である自分はどう反応してよいかわからなかった。

TMBはここでコルから素直に南に下がることなく、更にコルで乗っ越したモンブランからの派生する枝稜線の南側斜面を引き続きトラバース気味に登っていく。左がガレておちた登山道はこれまでのカールの底を歩くコースとは異なり風景に爽快感がある。狭まった登山道を注意しながら巻き気味に高度を稼いでいく。コルほどではないが適度に風も吹き歩くのにはもってこいだ。

じりじりと巻いていくと前方の稜線にケルンが立っているのが展望できた。本日2つ目のコルである、クロア・デュ・ボンノムのコル(2479m)だ。11時5分。ボンノムのコルから50分かかった事になる。丁度昼食前というせいか、朝から歩いてきた疲労からか、コルが見えたら途端に脚に力が入らなくなってきた。頑張って登り切ると先行していたSさんがすぐ眼下の小屋を指差した。ボンノム小屋である。ヤマケイのガイドブックでは初日の早朝から登りはじめ一日でこの小屋まで登ってくる、とあるがそれは初日にしてはかなり長いコースではないか、というのが実感だ。

行動食はあるものの計画通り昼食はボンノム小屋でとる事にした。小屋は稜線上にあるにしては4階建て程度のとても立派なもので、小屋裏の小さな平地から察して荷揚げの一部はヘリに頼っているのではないだろうか。入った食堂は宿泊客も出払った時間帯で、丁度掃除が済んだばかりなのだろうか、がらんとして清潔だ。テラスからは眼下のシャピューの谷が深く落ち込んでいるのが見え、展望抜群だ。ランチを頼むと立派なメニューを持ってきた。スープにカルボナーラを選ぶ。座った座席から見えるキッチンにはまるで麻布や六本木にあるビストロにいるのかと錯覚しそうなほどピカピカに磨かれた幾つもの鍋や調理器具が壁からかかっており、ここが海抜2400メートルを超える山の上とはとても思えない。昨冬に行ったサヴォアのスキー場にも3000m近い標高のゲレンデに薪で調理する本格的なレストランがある事に驚き、かつそこでワインとフルコースランチをゆっくりと楽しむフランス人に羨ましいほどの精神的なゆとりを感じたが、この山小屋も同様といえよう。しっかりと食事が出来るというのがヨーロッパの人たち、ことフランス人には重要で、山歩きは食事をスポイルするものではあってはならないというのが前提なのだ。

出てきた料理はキッチンどおりに素晴らしいもので、スープはジャガイモをすりつぶして煮込んだ濃厚な物で疲れた体には持って来いだ。カルボナーラは調理したホーロびきの深鍋ごと出てきて、出来立てを二人で分けろ、という気の利いた物だった。

要塞のような建物のこの小屋ですっかりリラックスするが、今日の泊まりはここでもなく、今からシャピューの谷まで下りたグラシエ村はモッテ小屋なのだ。そこまでのコースはこのまま小屋からシャピューの村までまっすぐ下りた後にグラシエ村へ、その奥のモッテ小屋まで車道を緩く登るか、あるいはここから更にフールのコルまで標高を上げ一気にグラシエ村へ下りてモッテ小屋まで行くかの2通りに分かれる。後者のほうが行程は短いがフールのコルから先の下りが急で、残雪期の困難さなどを考慮してだろう、バリエーションルートの扱いになっている。ノーマルルートの前者は下界の車道歩きの単調さと1時間半近く余分にかかる行程から予定から外していた。8月の中旬の今、残雪は心配ないだろうという判断だった。

12時25分、ボンノム小屋を出てボンノムのコルまで緩く登り返すと今まで南下していたコースから進行方向は北東に変わる。ガレて荒涼とした斜面を高みに向けてひたすら登っていくコースだった。先ほどまでの青空が転じて暗い雲が前方にある。嫌な気配だ。先行するSさんに遅れを取るまいと頑張るが意に反して歩みのペースは下がるばかりだ。

果たして斜面に雪田が現れた。これでコルの反対側は大丈夫だろうか。コルが目の前になったころ等々ポツリと雨粒が落ちてきた。すぐに止んでくれることを祈りながら登りつめる。13時丁度、フールのコルに到着。海抜2665mは今回の行程の最高地点でもある。コルには残雪が数メートルの高さで堤防のように残っており、登りつめたその先にはなるほどバリエーションルートになるのがわかるほどの急斜面の下りが続いていた。幸いな事に雪はここだけで、この先注意して下りれば問題ない道だろう。下りに入り歩き始めるが雨粒がますます激しくなったのでレインウェアを羽織る事にした。

道はカールの底に向け一気に下りていく雷光型のルートだ。確かに雪がついていたら難儀するだろう。静岡・安倍奥の山、山伏から八紘嶺の間に大谷崩れという大きなガレ場があるが、下まで一気に見下ろせるその高度感が大谷崩れのそれに近い。遥かに下、登ってくるパーティが豆粒のように見える。スリップでもしたならと思うとあのパーティまで滑っていかぬか、と足の裏に力が不必要に入ってしまう。ただ斜面は滑り安い道ではなく、登山靴のビブラムがしっかりと地面を捉えてくれている。皮の重登山靴で来て良かったとこの時ばかりは感じた。

(ボンノムのコルからはトラバースでクロア・
デュ・ボンノムのコルへと登って行く。)
(ボンノム小屋は立派な建物だった。) (見事な滑滝が流れる。) (皆で歌声があがった。
モッテ小屋の夕べ。)


カールの底まで下りると雨も本降りでその音が左手を流れる沢音に混じるようになる。いく筋にか分かれたトレールをSさんが注意深く選びながら進んでいく。沢を右岸から高巻いて足を進めると目の前には次なるスプーンカットされた地形が待っていた。カールが二重になっているのだ。雨に濡れる花々が咲き乱れるカールの底を更に進む。振りかえると沢が見事に褶曲したスラブにそって美しい滑滝を作っている。

滝の下でにわかに増えてきた水量の沢を飛び石伝いに渡ると道は平坦となり、同時にガスの中に入ったのか視界も延びなくなった。ミルク色の霧の中を、先を行くSさんの青いレインウェアを目印にひたすら歩く行程となった。高度がぐんぐん下がっているようで耳の空気が抜ける。横着してレインウェアを上しか着なかったせいかズボンもいつのまにかぐっしょりだ。

ガスが薄くなると目の下すぐにグラシエの村が現れた。標高差900mを一気に下りてきたのだ。道はいつしか牧場の中を歩く農道になり木陰に黒い牛が親子で雨宿りしている。我々に「雨はもう沢山だよ」とでも言いたげなつぶらな目でこちらを見ている。体がでかいので隠れているのが頭だけなのだがそれが妙にユーモラスで可愛らしい。グラシエの村は集落が数軒しか見あたらない。この村は下界からの車道のどんずまりにあることからTMBのエスケープポイントでもある。集落から目をやや左上に転じたその広い谷の奥に今日の小屋、モッテ小屋が建っているのが見えた。近そうに見えてもガイドブックでは更に40分はかかるという。今の自分では1時間は掛かるだろう。アルプスは距離感がつかめない。

グラシエ村到着15時20分。ここからモッテ小屋までは緩いながらも登りが延々と続きなかなか距離が縮まらない。歩き疲れた上に雨に濡れたこの身にはずいぶんと堪える。

滝のような沢を渡りようやく着いたモッテ小屋。海抜1858m。15時50分だった。食堂に名前を告げると果たして予約は無事に入っていた。寝る場所は?と聞くと別棟の開いているところで何処でも良いと言う。ザックを下ろしレインウェアを脱ぎ雨を落としてかつては牛小屋だったというその別棟小屋の戸を開けると、何処でも良いという理由が分かった。ベッドではなく雑魚寝スタイルだった。もちろん日本の山小屋を知る我々には何等問題のない小屋だ。周りが外国人、というのは初めての経験ではあるが。

牛小屋だっただけに小屋は細長く、その一番奥になんとかふたつの開きスペースをみつけた。突然の雨だったせいではないだろうが、小屋はほぼ満員に近くかった。Sさんが100円ショップで調達したという洗濯ロープを手早く梁に渡して我々二人分の濡れたものを干すスペースを作り上げる。こういう行動は雨のトレッキングで鍛えられる日本人のトレッカーにしか出来ないだろう。土間の向こうにはドイツ人ファミリー、隣は鼻につくクイーンズイングリッシュの英国人パーティ。そして暫くして濡れ鼠の単独行が我々の向かい側にやってきた。「空いているか」と綺麗な英語で聞いてきた彼は聞けばドイツ人だった。今日も様々な国籍の人たちに囲まれる。

混雑しないうちにシャワーを浴びて同時に下着を手洗いする。一晩経てば乾くだろう。夕食は受付をかねた食堂の建屋。予め座る場所が指定されるのもバルム小屋と同様だ。夕食のメニューは豆のスープに続いてメインは煮込んだソーセージ。これにカレー仕立ての野菜の煮込と長粒米がつく。どちらも田舎料理だがこれがなかなか美味しい。薄くて美味いとはいえないフランスのビールもこういう食事とシチュエーションに囲まれると美味だ。デザートの後は小屋の女主人によるアコーデオン演奏が始まった。酒に酔ったパーティがこれにあわせ、食堂が歌声に包まれる。皆楽しそうで歌を知らない我々もその気分だけは味わえる。あぁ。これがヨーロッパの文化なのか。ヨーロッパの山ってこういう世界なのか。気負らず、明るく陽気に、前向きに。。そんな文化の中、異文化を背景に持つ自分達も違和感なく加わっている。あぁ。いいなぁ。嬉しいなぁ。…生きてて良かった、なんて気恥ずかしい事を台詞を中年の自分が口にすることなど考えた事もないが、今日は何故かそんな事を素直に感じてしまう。そんな思いを新たにさせてくれたモッテ小屋の一夜だった。


2008年8月12日

一晩中小屋のトタン屋根を打つ雨音は続いていた。気になっていた喘息の調子も全く問題なく、そんな事あったっけ?といった具合だ。現金なものだ。外に出ると雨は止んだもののガスは重く、暗い朝だ。今日はいよいよフランスからイタリアへの国境の峠越えの予定で、モンブランの姿も一番良く見える行程なのだがこの天気では期待できまい。Sさんと相談するが、雨も止みそうなのでとりあえず行きましょうか、と話を決める。横にいた英国人パーティは毛布もそのままに出発してしまった。それを見て我々と向かいのドイツ人の単独行が思わず顔を見合わせて期せずして「これだもんね」と呆れ顔を共有できたのが妙に可笑しかった。外に出てザックを背負う。あれほどいた小屋のパーティも出払っておりしんがりだった。8時30分、出発だ。昨日の教訓からカッパのズボンも履いて行く。

滝のように流れる沢を右手にしながら、一気に九十九折れの道を登り始める。モッテ小屋がみるみる小さくなっていく。大きなV字谷の底にあるモッテ小屋から、TMBのルートはその南西側の斜面を攀じるように登っていき高度を稼いでから北東に転じ、一直線に国境のセーニュのコル(2516m)まで登りながら東進するのだ。3つのコルを越えた昨日に引き続き今日もスケールの大きなルートが待っている。

「ボンジュール」、フランス人の集団パーティと挨拶をする。彼らと抜きつ抜かれつつ登っていくと九十九折れから斜面をトラバースするコースに転じた。眼下のモッテ小屋はもはや谷底に見えない。1時間も歩いてもなかなか風景に展開がなく、早くも歩みが遅れてきたのでザックを下ろし一本立てさせていただく。まだ残っている秘密兵器・「薄皮つぶあんぱん」が元気の素だ。再びトラバース気味に登っていき緩くなった斜面の雄大なアルプを北から東へ向きを変えると右の台地には羊の群がいる。牧用犬が偉そうに一歩離れて群を監視しているのが面白い。

このあたりから再びペースが遅れ、気づけばSさんは遥か先に豆粒のようになっていた。高度が上がったからかヒュルヒュルと吹きすさぶ風が自分を取り囲むといつしか風景の大きな風呂敷の中に一人ぽつんと置いていかれたような気がする。しかしこの雄大な風景はなんだろう。左右遥かに尾根が広がりV字谷とも言えるこの場所は谷と言うには広すぎる。左右を囲まれたその静かな場所は、かつて独りで歩いた南アルプスの亀甲状土に雰囲気が似ているとも言える。誰も居なかったその場所で自分は耐えられないほどの濃密な静寂さを感じ、自然の持つ静けさに畏れがこみ上げて来たのだった。それと同じ、焦りとも思える孤独感が一気に自分を襲ってきた。「先に、急がなくては」・・・。やや焦り気味に足を速めていくと伸びていた視界が前方から急速に流れてきた白いガスに隠されてしまった。高まる不安。とその淡い粒子の中から人の話し声が流れてきてケルンと思しき影がボーっと立っているのが見えた。

10時50分。セーニュのコルに到着。フランスとイタリアを分かつ国境だ。国境を示す小さな標石があり敬意を持ってタッチする。歩いて国境を超えるという行為は日本人にはなかなか馴染みがない。嬉しくて何度か国境線と思われる箇所を行き来する。自分もドイツ・オランダ国境を自転車で越えたことはあったが歩いての国境越えはこれが初めてかもしれない。

コルには大きな山名標識版があったがこういう天気では役に立たない。もちろん晴れていればモンブランの絶好の展望台なのだろう。しきりに流れるガスで体があっという間に冷えてくる。11時。Sさんと記念撮影をして先へ進む。

ここからイタリア側のヴェニの谷に向けて標高差約300mを降りていく。が、ガスの中に浮かび上がる肝心の踏み跡が錯綜しており正規のルートがなかなか見つからない。地形図を見直して真南に一旦向かうことが分かりSさんがあたりをつけるとそれらしき道があった。

しばらくガスの中を降りていく。行き交うトレッカーと交わす言葉も「ボンジョルノ」に変わった。イタリアにいることが実感される。無人と見受けられた立派な山小屋を通り過ぎるとそのすぐ下は広い牧場となっており、TMBのルートはその中をお邪魔していく。大きな茶色い牛が、「なにしに来たの」と言わんばかりにこちらを見ているが自分のピンク色のザックカバーに反応するのではないか、と気が気ではない。が幸いきわめておとなしい彼らはガランガランと大きな音を立てて道から去ってしまった。更に進む。路肩の石には思い出したように黄色くひし形に黒くTMBと書かれたTMBルートを示すマークが書かれている。このあたりから道が随分としっかりしたものになってきてしばらく進むとジムニーが停まっていた。なるほどこのくらいの道ならば登ってこれよう。更に進むとガスの中から廃墟のような建物が現れた。この廃村のすぐ北に目をやると本日の宿であるエリザベッタ小屋が建っていた。

小屋はすぐそこに見えるのだがこの本日最後の登りがえらく堪えた。とてもではないが登ることが出来ず、一歩一歩膝に手をつきながら登ることしばし。Sさんに遥かに遅れてようやくエリザベッタ小屋に到着。時刻は12時50分だ。庭には荷揚げに使っているのだろうランドローバーが荷車を牽引して駐車してあった。

(雨上がりの朝だった。
モッテ小屋を出発する。)
(高度を稼ぐと対面に氷河が
見えてきた)
(国境のコルへ。先行者がポツンと
豆粒になる。登り続けるのみだ・・。)
(ガスの中からカウベルの音
が流れてきた)

小屋は立派で、玄関で靴を脱ぐところが日本の山小屋の様でもある。ドアを開けた食堂には何パーティもがワインを片手に談笑をしている。奥に受付がありきっぷのよさそうな如何にもイタリアのお母さんとでも思える小母さんに名前を告げると大きく頷いて受け付けてくれた。しかも個室が空いていると言う。もちろんそれをお願いすると娘さんと思える気立ての良さそうなお姉さんが案内してくれる。二階にあがり磨き上げられた板張りの廊下のその一番奥が指定された部屋だった。ベット1台に二段ベッド1台。どちらも清潔でいささか疲れた今日今晩、こんな個室に我々二人で泊まれるとは最高である。二人して思わず会心の笑みを交わした。

さぁ我々もあの中に加わらせていただこう。昼食をこの小屋でとるのも楽しみの一つだった。階下に下りて食堂に入ると暖かい空気が包みこみ、スキー小屋のような暖炉の匂いがする。まずはビール、そして昼食のメインにはポレンタとソーセージを選ぶ。ポレンタはツブツブ感が強くとても美味しい。上にトッピングされたソーセージも美味で、山歩きの後だから何を食べても美味しいのは当たり前だ。何気なく使われているその皿にはイタリア山岳会の印が描かれている。周りのテーブルには楽しそうに談笑するパーティ。客の冗談に笑っている山小屋のお母さん。あぁ、ヨーロッパの山岳文化、ここにあり。そんな事を感じてしまう温かみのある小屋だった。

この小屋には宿帳があり、ためしに繰って見ると日本人のパーティもちらほら散見されるがここ数週間はないようだった。ここにSさんと自分の名前、そしてパーティ名ととして「山岳移動通信・山と無線」と大きく書いておいた。

困った事にこの小屋についてから足の膝上の筋肉痛が激しく階段を下りるのにひどく苦労するようになった。セーニュのコルからの下りでは何でもなかったので小屋に入る前に柔軟体操を良くしておくべきだった。クールダウンが充分であればあるいは避けられたかもしれない。空いている時間にシャワーを浴びておこう。筋肉も少しは温まってくれるかもしれない。シャワー後夕食までベッドに横になるとうとうとと昼寝をしてしまう。二重窓の外に出しておいたペリエが丁度良い温度に冷えていた。下界はなかなか涼しいようだ。冷たい炭酸が喉を癒してくれる

待ちに待った夕食は豆と野菜のスープに始まりメインはサラダとマッシュポテトをつけあわせたポークソテー、という充実し切ったメニュー。もちろんパンはとり放題。パン切れでソテーのソースを余すことなくふき取って口に入れる。「お前たちは山にディナーを食べに来たのか」と問われれば「はいそうです」と答えてしまいたい、そんな日々が続いている。

信じられないことだが、三日間があっという間に過ぎてしまったのだ。


2008年8月14日

終始ガスに包まれた昨日から一転して、再び素晴らしい好天が期待できる朝だった。部屋の窓から眼下に望むコンバル湿原に朝日が差して、水面がキラキラ輝いているのが見える。小屋の裏手を覗くと朝の風にはためくイタリア国旗の奥にブランシュ氷河が流れ出し、その奥にトレラテート針峰が白く尖っている。空は青いと言うより偏光フィルターを回しきったようなどす黒い感じだ。

相変わらず膝上の筋肉痛は激しく小屋の階段をまっすぐに下りる事が出来ない。「これは、参ったな・・・」と内心思う。手摺につかまって蟹のように下りていく。情けない。今日もそれなりに歩く行程なのだ。

朝食はスペイン人パーティと同席だった。お手製だろうか、お揃いのTシャツにはひし形のTMBマークをプリントしている。TMBのTシャツなんてなかなか良いではないか!ラテン人らしく朝から賑やかな彼らだ。声高でまくしたてるように話すスペイン語はまるで怒っているかのようなテンションがある。一方隣のテーブルから流れてくるドイツ語はまるで説教しているようでもある。更に向こうからはフランス語が歌のように聞こえ、巻き舌のイタリア語も弾む音階のように耳に届く。多言語が飛び交う食堂に我々の日本語も一枚加わらせて頂こう。彼らにはどう聞こえるのだろうか。

外は雲ひとつ無い晴天で冷涼な風が心地よい。素晴らしい天気の中出発する。8時25分。まずは坂の下のTMBルートまで下りていくがこれがすでにとんでもない苦痛だった。足が全く言う事を聞かず伸縮トレッキングポールにすがりながらよろよろと下りていく。Sさんが時々振り返りこちらを待っている。全く、申し訳ない。

(朝日がさす。そして山と氷河が
目覚めたようだ)
(エリザベッタ小屋を後にする) (ヤナギランが氷河を背に
寂しそうに立っていた)
(緑の湿原にモレ−ンが
溶け、水面に影が広がった


コンパル湿原まではしばらく九十九折れの下り坂で、サンダーバードのあやつり人形のようにギクシャクしながら降りて行く。滑稽極まりない姿でもある。湿原に降り立ち平地になるとホッとした。ここからはまぁ普通に歩ける。左手にはブンランシュ氷河が大きく、モンブランの主稜線が白銀に気高い。雪煙が上がっているのが下界のここからもよく視認出来る。更に歩くと前方に広大な土砂の堆積が見られた。一見人工のロックフィルダムのようにも思えるが、自然の作り上げた地形である。「モレーンですね」とSさん。あれだけの容量の岩屑を運ぶのに一体どのくらいの時間がかかったのだろう。桁違いの広大な氷河地形に言葉を失う。

対岸のモレーンの末端付近まで近づいてくると広いこの湿原も終わりになる。ここからTMBの正規コースは再び南面の谷をよじ登っていき海抜2200-2400m付近をトラバースするルートに変わるのだ。モンブランとグランドジョラスを眺める絶好の展望コースとガイドにはある。一方エスケープもここからは可能で、このまま前進しラ・ヴィザイユの村からはクールマイユールにバスが出ているという。足は痛いがもちろん正規ルートを進む。

9時55分、左手にある看板に従い急な登りに取り付いた。歩みのペースは普段よりやや遅いので影響ゼロとは言えないが登りと平坦路ではさほど筋肉痛は問題ない。雷光方にジグを切って登っていく。眼下の谷が見る見る小さくなっていくと共にモレーンがいよいよその全容を現してきた。とんでもない土砂の堆積だ。

倒壊した廃屋を越えて更に登ると石室のような小屋がある。黒い犬がつながれているところから、中で住んでいる人がいるのだろう。これをすぎるとじきにカールの底に導かれる。ここでTMBは高度を稼ぐのを止め、カールの基部を北西に向けてトラバースしていくようになった。

谷を挟んだモンブランが圧巻だった。今回ここへきて初めてモンブランのその全容を望む事が出来た。黒い岩の前衛峰が立っている分だけ純白のその山頂が際立っている。雪煙をしきりに上げるその姿には近寄りがたいものを感じさせる。標高2440mで顕著な尾根を乗っ越すとその先で先行するSさんに追いついた。しきりにシャッターを切っていたがこちらを見て「グランドジョラスですね」と前方の岸壁を指している。岳人であるSさんにはどれも長く憧れのピークだったのだろう。それぞれの山にまつわる歴史や登攀記録などを説明してくれる。名前だけしか知らなかった自分でさえもその非日常的な姿には目をみはるばかりだった。

この先TMBはいくつかのカールの底を横切るように北西に向けて伸びていく。羊が放牧されている広大なカールで一本立てる。素晴らしい好天で、筋肉痛をのぞけば言う事がない。休憩しているとその横を軽装のトレッカーが行きかう。彼らは概ねダブルストックで歩いている。TMBも今日のルートに限ればクールマイユールからコンバル湿原まで歩きバスで下山が出来よう、格好の日帰りコースだ。モンブランを仰ぐとても贅沢な日帰りハイキングだ。

道はゆるやかなアップダウンを持ち下りになるたびに蟹歩きを強いられる。Sさんには全く申し訳ない。やがてルートはゆっくりと下り基調に転じた。足がカクカクして非常に苦戦する。高度はますます下がり岩稜からアルプへ、そして樹林帯へと降りて行く。乾いた空気が生暖かくなってくるのに下界近しを感じる。Sさんは遥かに先で林の中に消えてしまった。スキー場のリフトの鉄塔をくぐるとめざすシュクルイのコルまでは近かった。林が切れ視界が広がるとそこがシュクルイのコルで今宵の宿、メイゾン・ビエレ小屋が立っている。コルは稜線の小広い肩のようだ地形だった。

「あぁ、やっと着いた・・・」崩れ落ちるようにザックをおろして座り込んだ。しばらくは動く気もしなかった。小屋はTMBトレッカーとばかりでなく下界から登ってきたハイキング客などでにぎわっている。これまでの山小屋然とした小屋から一転して、ピクニック感覚でもある。下界に下りてきたという安堵感が高まってきた。芝生の端のレンガで、おじさんがバーベキューを焼いているが好い匂いだ。小屋はコルの中間地点に立っていてクールマイユールのスキー場のリフトの終点のまん前。冬はスキーで、夏はTMBでハイキングで、と一年中客の絶えない小屋のようだ。

受付に行く。予約は無事に通っていた。彫りの深いいかにも北イタリア美人といった風の女主人だ。ブロンドの髪をそっけなく束ねたところに山小屋の女主人という飾り気のなさを感じさせて好感が持てた。イタリア訛が強烈な英語だが、向こうにも日本人の英語は訛って聞きづらいと思われていることだろう。受付をすますと小屋の裏手の大部屋に通された。2段ベッドが何列も置いてある部屋で我々が一番乗りだった。

小屋の表の食堂に向かう。まずは昼食だ。足は痛くても腹はしっかり減るのが情けない。さすがにイタリアだけあってパスタのメニューが充実していた。我々が日本人とわかると手書きの日本語メニューも出してきた。いつか訪れたゲストが請われて訳して書いたものだろうか、随分と使いまわされているようで年季の入ったメニューでもある。どれも美味しそうで迷ってしまうがジェノベーゼのタリアッテレとアマトリチャーナのタリアッテレを選ぶ。二人でシェアをするのだ。出てきたアマトリチャーナにはポルチーニ茸が乗っており本格的だ。ジェノベーゼもバジルの香りが強く、どちらもさすがに本場イタリアである。山の上だからといっても手抜きはゼロだ。こういうシンプルなパスタはごまかしが効かない。茹で加減もソースも何も言う事の無い美味しさだった。イタリア人が自分達の普通のレシピで気負いなく普通に作るだけでこんなに美味しいパスタが出来るのだろうか。であればしばらくイタリアに住んでみたい。イタリアに来た喜びをこんなところで味わってしまうのだから呆れてしまう。。

小屋の主人はひげ面で一見ヒッピーのようないでたちだ。そういえばこの小屋も外観のデコレーションがややメキシコ風で食堂にも小屋のメンバーの写真や山の写真、いくつもの絵などがところ狭しと貼られている。イタリアというよりは全体に70年代のヒッピー文化を感じさせる建物や内装にはオーナーの好みが反映されているのだった。彼は自分達に、「この小屋が日本のテレビで放映されたんだ」、と自慢そうにテレビにDVDをセットする。それは何年か前に報じられたと思えるNHKのTMB特集のようだった。「この案内人は女優なんだろう?なんと言ったかなー??」と首をかしげているので二人して「石田えり」と答えると、「あー、そうだそうだ」と嬉しそうだった。周辺のロケには彼も同行したそうである。

昼食後時間もあるので小屋の裏手に回ってみる。この小屋は位置的にはモンブランを真正面に見ているのだが、樹林帯のとの端境のために視界が限られた。予定であればここから往復1時間半程度のピーク、モン・チェティフ(2343m)に登ろうというのが当初の計画だったのだが、自分の今のこの足ではどう考えても無理だった。モン・チェティフまで行けばモンブランも文句なく見られよう。Sさんに何度も「自分をおいて行って下さい」とお願いする。でもSさんは、自分に遠慮してか「いやいいですよ」と断られる。自分がネックで登頂を諦められるのは如何にも申し訳なかった。

それでは、と小屋の裏山まで足を延ばしてみた。スキーリフトの降り場が小山になっているのだ。更にもう一つ奥の展望台のような箇所まで足をのばす。そこからのモンブランの眺めを堪能して小屋に戻るが下り坂はやはり難儀する。蟹歩きで苦戦しているとそこにメイゾン・ビエレと書かれた旧いおんぼろランドローバーが通りかかった。手をかざして停めると先ほどの女主人がハンドルを握っている。二人して車上の人になる。助手席で居眠りしている幼子は彼女の子供だろう。片手で幼児を押さえつけながらもう片方の手でオフロードを巧みにハンドリングしている。シートの上を滑りまくるお子さんを自分が支えると「グラッチェ」と礼を言われた。こちらこそ、タイミングよく拾ってもらえてグラッチェだった。

夕食まで、小屋の前の芝生のテーブルでビールを飲みながら二人してくつろぐ。長かったTMBの行程も歩行の部はこれで終わりだ。4日間の山旅は、本当にあっという間だった。最後に筋肉痛でご迷惑をおかけしたが、それでも自分にしてはよく歩いたものだった。自分の足でモンブランの麓を半周以下とは言え歩ききったのが嬉しい。2日目、3日目といくつものコルを越えて歩くあのダイナミックさは自分には初めてのスケールの山歩きだった。毎晩の小屋ではヨーロッパのトレッキング文化ここにあり、とでも言わぬばかりの充実した時間が待っていた。そして何よりも最終日にしてようやく拝む事が出来たモンブランの姿も素晴らしいものだった。

夕食はトマトソースのスパゲッティが前菜で、メインにポークソテーと豆の煮物、という田舎料理だがこれも気取らずに美味しいものだった。どれも二人分以上の量が大皿にドンと出てくる。イタリア飯は何を食べても美味い。別名をグルメ旅とでも言ってしまいたいTMBの最後の夕食に相応しい素晴らしいディナーであった。

(長いトレイルに、歩く二人の影が伸びた) (トレイルは高度を上げ対面にモンブラン
山群が競りあがってきた)
(広大なカールの裾を巻くように歩いた) (グランドジョラスが不意に、前方に
忽然と現れた)

2008年8月15日

今日はクールマイユールへの下山、そしてロープウェー・ゴンドラによる空中遊泳でモンブランの反対側、シャモニー(フランス)へ戻るだけだ。昨晩中に小屋のランドローバーを相乗りで下まで降りるように算段をつけていたので気が楽だ。

例の女主人がランドローバーのテールゲートについている梯子で身軽に屋根に登ると次々とザックをルーフに固定していく。実に手際がよく働き者でSさんと共に感心する。相乗りパーティはフランス人の一行で中の一人が自分と同様に筋肉痛でまともに歩けないようだ。彼は蟹歩きの自分を見て「俺と同じだ」と自分の足を指差してニコニコしている。車は山道を30分程度でクールマイユールの街まで下りてしまった。これで80ユーロだから高くは無い。ここで下りるフランス人パーティをおろすと彼女はそのまま自分達をロープウェー乗り場まで乗せてくれた。変に愛想が良いわけでもなくといって事務的でもない。気負いの無い、山に住む女性という感じで好感が持てる。朝晩満員電車に揺られて会社に向かい、週末は疲れきって寝て過ごしてしまう日々を送る人々が遠いアジアの島国に居るなんて、彼女には想像もつかないだろう。世界は広いのだ。ロープウェーの駅前で降ろしてもらう。Sさんが「これは日本のお土産です」と扇子を手渡している。広げて使う、とSさんが示すと彼女は目を大きく開けて喜んだ・・・・・。 「Sさん、なかなかやるじゃない!」

ここから先、ロープウェー、そしてゴンドラの空中遊泳によるシャモニーまでの旅はアルプスの観光ルートとしては間違えなく一級品だった。もっともそれもモンブランの姿に会えるかどうかで天と地の差がある。我々の場合は前者だった。相変わらず雪煙を上げ続けるモンブランが真っ青な空の下に見上げるように立っているその様は山に興味があろうとなかろうと誰の心も打つだろう。ヨーロッパ最高峰を一般人である自分がここまで眺められるとは思ってもいなかった。眼下の雪原は広くこれからモンブランのピークを目指すのであろうザイルアップしたパーティが豆粒のように見える。日本の山とは違いトレッキングとアルピニズムの世界が明確に分かれているのもヨーロッパアルプスなのだ。エギュー・ドゥ・ミディから急傾斜でおりるゴンドラでシャモニに下りた。

シャモニーは小奇麗な山のリゾートだった。が、何日か人里を離れていた自分達にはあまりピンと来なかった。土産物屋でTMBのルートがプリントされたTシャツがあったので二人して嬉々として買い込む。最後のディナーは街のレストランで。サヴォアの赤ワインは久々に美味しかったが、食事自体は充実していた山小屋の食事よりも劣るように思われたのは、やはりロケと空気と、山歩きの充実感に満たされなかったからだろうか。レストランには失礼な話かもしれない。

(朝日を浴びるメイゾン
ビエレ小屋。)
(幸運な事に、モンブランの勇姿を
至近距離で見ることが出来た。)
氷河とプラトーの上を空中遊泳しながら
シャモニーへ向かう。)
(シャモニーは瀟洒な
山のリゾート地だった。)


2008年8月16日

今日はジュネーブを16時過ぎに出るTGVでパリに戻るだけだ。それでもSさんはそんな中にも観光ポイントに寄る計画を提案してくれていた。一旦東へスイス側のマルティニに下りてレマン湖はモントレーにある世界遺産・シオン城を観光するというものだった。マルティニまでのラックレールを交えた登山鉄道に子供のように喜び(そのはしゃぎぶりに同席していた日本人の夫婦に呆れられた)、雨のシオン城を観光し、SBB(スイス国鉄)の旅を満喫してジュネーブに予定通り到着しTGVに搭乗。パリへ戻る。


2008年8月17日

やや寝坊した朝、Sさんの泊まるホテルへ向かう。山旅を経てすっかり貫禄の出たSさんのミレーのザックとトランクを自分の車に詰め込んでホテルを出た。今日の夕方の便でSさんは帰国するのだった。飛行機までの時間、ご希望もありヴェルサイユ宮殿へ立ち寄る。自宅から30分程度なのだが住んでいると滅多にいくこともない。一通り中を見終わるといい時間だ。そのままシャルル・ド・ゴール空港へ向かう。無理に山行にお誘いしてから空港での再開、そして見送りの今日まで、なんだかあっという間だった。Sさん、どうもありがとございました。と礼を心の中で述べる。時間が来て握手をして分かれる。一週間の山旅ですっかり日焼けしたSさんが人ごみの中に吸い込まれていった。


夢のようなTMBの一週間が過ぎた。濃密な山旅をしてしばらくは虚脱感につつまれたようだった。今こうして考えてみると山も食事もすばらしかったのだが、自分自身がヨーロッパに居るということを強く感じさせてくれたことこそが一番印象に残った山旅でもあった。転勤によるドイツとフランスでの滞在、それらを通じた自分のヨーロッパでの生活は計4年にも満たないが、会社と家とを往復している身にはおのずと接触する現地人も限られ、生活圏内での新鮮な発見も時を経れば薄れていくものだ。いつしか環境に馴染み自分が外国に住んでいると言う思いも意識しないものになっていくのだ。

しかし一歩自分が住む町を離れ、違う世界に足を踏み出すとそこには見知らぬ人との接触があり、それは何カ国、何地域のも人たちとの接触でもある。今回のTMBでも、地元フランス人に始まり何カ国ものヨーロッパの人たちに会うことになった。

日本から見たヨーロッパとは一体なんだろう? ヨーロッパは広くユーロという統一通貨を持ちEU連合という一枚岩組織がある。豊かな自然、旧い歴史、ブランドショップ。。ドイツは御伽噺のようなメルヘンの国?フランスはグルメとファッション?お洒落な国? そんな認識はあるが結局日本から見ればどこも十把ひとからげに同じく思えるではないだろうか。が当然の事ながら英・独・仏という大国に分けるという以外にも、少数民族や同一国内での南北格差など、様々な問題があるのも現実であろう。

この山旅を通じても自分達が出合ったパーティには、マイペースなオランダ人、真面目で内省的なドイツ人、集団で楽しそうなフランス人、団結しているスペイン人、明るいイタリア人などさまざまな国籍の人たちがいる。更には国籍を聞かれて「バスク」と答えたあの男性を忘れる事も出来ない。モッテ小屋で彼らが歌っていた自分達の民族の歌、そして物悲しそうに歌われた坂本九の「スキヤキ」(上を向いて歩こう)を忘れる事もできない (この歌がバスク人にも伝わっているのには驚いたが)。

ナショナリズムのナの字すら我々日本人には余りピンと来ないのではないだろうか。だが実際には様々な国様々な人種が集合し、それぞれの国に、人種に誇りを持ってすごしているのがヨーロッパなのだ。TMBのルートはそんないくつもの人たちの接点でもあり、複雑なヨーロッパの縮図のようにも思える。日本人はそんな彼らから見れば遠い東の異国人に過ぎないが、単一民族ゆえに普段は考える事も無い複雑さに、こうして思いを馳せる事が出来た。自分の知らないところに知らない世界はあるものだ。新たな世界観を自分に与えてくれたようにも思える。

多言語が飛び交った山小屋の食堂を見るまでもなく、地形的にも、そして文化・民族的にもまさにヨーロッパのひだの核心を歩いたともいえる5日間の山旅だった。

最後にペースの遅い自分に付き合っていただいたSさんには感謝あるのみだ。ありがとうございました。


参考資料

一口メモ

山小屋の連絡先、宿泊価格 (一泊二食付きの値段、2008年時点)


TMBルート概念図


おまけ  山小屋グルメシリーズ

スープ : 

どの小屋もディナーはスープから始まります。疲れた体に温かいスープは嬉しい。 左から : カボチャポタージュ(バルム小屋)、つぶしたジャガ芋と野菜を煮込んだスープ・・濃厚でとてもFBでした。(ボンノム小屋) 豆と野菜がたっぷり入ったコンソメ (モッテ小屋)。


山でパスタを : 

茹で汁が沢山必要なパスタは山には不向きに思えますが、どこも手抜きがありませんでした。 左から : 分厚いベーコンがゴロゴロのカルボナーラ。鍋ごと出てきて、これを二人で分けました。 (ボンノム小屋)、ディナーの前菜にはトマトソースのスパゲッティ。(メイゾン・ビエレ小屋)、タリアッテレ2題。ジェノベーゼとアマトリチャーナ。(メイゾン・ビエレ小屋) やはりイタリアの小屋のパスタは違います。

おまちどおさま、メインです。 : 

ヨーロッパの街のレストランと同様に、出てくるパンは取り放題です。フランスの小屋で、バゲットが出なかったのがちょっと残念。(贅沢か?)  上段左から ポレンタと肉団子(バルム小屋)、手作りソーセージとカレー野菜煮。ハイ、美味くって二本ペロリと食べたとは人には言えません。(モッテ小屋)、ポレンタは本場イタリアに軍配か?ソーセージも美味デス。皿にイタリア山岳会の紋章(エリザベッタ小屋)、下段左から ポークソテーに新鮮サラダ(エリザベッタ小屋)、これも美味いポークとグリンピース。(メイゾンビエレ小屋) デザートも毎回つくんです。


(戻る) (ホーム)