年の瀬の茨城へ 忘年低山紀行 

(2007年12月29日、30日 茨城県つくば市、笠間市)


前回の帰国から丁度一年、久々の帰国となった。今回は長めの休みなので昔ながらの山と無線仲間と出来れば一泊程度の山に行きたいものだ。そう思い今まで何度も山をご一緒させていただいたJK1RGAさん、JI1TLLさん、JL1BWGさんに声をかけると快諾を得た。何度も山を共に歩いた仲間との山行は心躍る物がある。久しく山を歩いていないためすっかり脚に自信のないこともあり茨城県の低山を行き先としてもらう。民宿泊まりで600、700m級の山歩きである。この程度であれば怠けている自分にもなんとかなろう。

早朝の上野駅で待ち合わせ常磐線の客となる。土浦駅で予約していたレンタカーをピックアップして北上する。かつてそこに研究のために長逗留していたというTLLさんは筑波学園都市にも詳しい。的確な道案内で学園都市の目抜き通りを抜ける。計画では加波山が初日の山だったが生憎と天気が悪い。正午前には上がるという雨も未だ霧のように降っており急遽行先を変更する。歩かずに山頂に立てる山として筑波山が代役となった。ケーブルカーで上まで行ってしまうのだから楽勝である。

ひと気のない駐車場に駐車してケーブルの駅までは僅かながらも登らなくては行けない。ところがこれが苦しかった。脚が思ったように前に出ずに息も苦しい。ローギアで軽トラックが登って行けるような簡易舗装の急坂がとんでもなく高い障壁に思われる。随分と御無沙汰していたザックの重み?革の登山靴?久々の帰国で味わう日本の食べ物が美味くて集中的に食べまくった数日間のつけ? そうかもしれないがつまりは山を歩いていない、さぼっていたということ、単にそれに尽きるだろう。日頃の怠慢。山は例え月一回でもやはり歩いているといないでは体調が全く変わってくる。

先行する三人にようやく追いつきケーブルカーにのりこんだ。ケーブルカーは随分な斜度をぐいぐいと登って行くがこの横に登山道がつかず離れずついている。自分としてはこれを辿らずして何の筑波山か、と思うが、肩で大きく息をし波打つ出っ腹をみれば理想を語ることは出来まい。とにかく、出直しが必要だろう。

ケーブル山頂駅は全面霧の中だった。ひと気もなく閑散としている。風もありまさに物好き以外はこんな日にこんなところには来るまい。筑波山は男体山と女体山の2ピークからなり両者を踏んでの筑波山ということだ。もっともケーブルで登ってきた自分にはそんなことも語れない。

(沈下橋の作る風景は
日本の田園風景だ)
(袋田の滝。氷結したら
さぞ見事だろう)

男体山には短いながらも岩まじりの急登だった。来る初詣客のために電球が随所についている。雨まじりで滑り易い岩を登るのは気を使う。登りついた男体山には神社と社務所があった。おみくじも売るという社務所のシャッターは閉じていたがひさしがあり雨宿りが出来る。BWGさんが50メガのヘンテナをセットする合間に430のハンディ機で「ヤマランメンバー」をコールして見ると、なんと一発で返答があった。大宮のYL局でヤマランメンバーの山頂からのCQを追いかけているという。山岳移動局にはありがたい存在だ。続いて読んでくれたのはヤマランの主催者のJA1JCA局だった。JCAさんと無線で交信するのは初めてのことでこんなところで出会えるとも思っていなかった。力強く張りのある変調音に、不眠不休で難航苦行の困難なピークハントを続ける伝説のOMの片鱗を充分に感じることが出来た。

BWGさんに代わり50のSSBを運用する。ノイズ交じりのSSBの変調音は懐かしみがある。CQを出しPTTを離す瞬間に感じる期待と興奮は自分が頻繁に山岳移動運用をしていた当時と変わらず、自分はこれがあるから無線から離れることがなかったのだろう、と感じる。数局からコールされ、以前と変わらずに呼んでくれたJA1FEI局との交信に満足してマイクをTLLさんに譲った。

女体山にはいったんケーブルの駅の建つ鞍部に戻り反対側に進むことになる。といっても高低差は数十メートルだろう。筑波山の三角点も最高峰もこちら女体山にある。岩がちの山頂にはこちらにも神社と三角点、そして日本百名山と明記された立派な山頂標識が立っていた。街着の一組の若い男女が登ってきた。ハイヒールで登れる山なのだ。僅かながらに晴れた山岳展望に満足してRGAさんとの奥の手交信をして下山の途についた。

再び霧のように降る雨の中を今宵の宿に向けてハンドルを向けた。明日は久慈郡の男体山(奥久慈男体山)に登る予定で宿はその山麓の民宿をTLLさんが予約しておいてくれた。久慈川の谷に開けたのどかな山麓。大部屋で取る食事、大きな湯船、コップ酒片手に山仲間との尽きぬ話。山も無線も楽しいがアフターの部も楽しいのが仲間との山だ。独りでたんたんと歩くよりも仲間と歩くことを、そして実際の山歩きよりも自分の知らぬ田園部に赴きそして下山後の楽しみ、それは温泉であったり地元の料理であったりするのだが、にもウェイトを置いた計画に魅力を感じるようになったのは一体いつのころからだろうか。もともと本格的な山歩きには無縁な山を歩いていた自分ではあったが、安きに流れる志向がますます高まってきたようにも思える。それが体力的な面からくるのは明白ではあるが、自分の知らぬ地に行き仲間との交流を楽しむ、そんなことに抗いがたい魅力があるのも事実で、画一化されてきたとは言え何よりも日本の田園風景はやはり自分にとっては素晴らしく、そんな田園に限って魅力的な低山に溢れているのだから仕方ない。自分の嗜好も年齢と共に変わって行くのも当然であり恥ずる事もないのかもしれない。酔った頭でそんな自分に都合のよいことを考えながら布団にもぐりこんだ。

翌朝は我々の期待とそれに天気予報にも反してしっとりとした霧が谷全体を覆っていた。川霧だろうと思っていたが雨粒も交じり始めた。期待が空回りのみ、焦っても仕方ない。天候の回復まで軸足を観光に移す。まずは沈下橋。宿の広間に張ってあった沈下橋の写真の地を宿の主人に確認する。水位が上がれば川の中に沈んでしまい流出することもないというその生活の知恵に溢れる構造の橋は自分は写真でしか見たことがない。四万十川のそれがつとに有名であるが、ここ久慈川にもあったとはラッキーだった。霧のかかった川に架かるその橋の風景はたしかに一服の絵になる。原始的な橋が生活の風景に溶け込んでおり、久慈川まで遠征してきた甲斐もあった。

続いて袋田の滝。日本三大名漠と書かれている。TLLさんは以前から氷結したこの滝を見たいと言われていたが季節的にはまだのようだ。間近に見るその滝はなるほど数段に及ぶ立派なものであった。

さてこうして数時間費やしても天気は未だ快方に向かわない。まだ一応登頂を考えているので登山口まで行ってみることにする。男体山への一般的な登山口としては久慈川から谷を分け入り大円地集落から登って行くものだが雨粒の激しい現状からはまずは最短コースを目指すべきだろう。男体山へは円地集落から大円地越えの稜線を越えた反対側の持方集落の先まで道が延びておりこれが最短コースと言う事になる。

持方集落は峠を一つ越えた谷あいにあり、人家は10軒にも満たないような静かな農村だった。その先まで進むと再び民家数件の小さな集落となりその前の杉林の中で道は終わっていた。道の終点で待機。雨は止んでいるが霧が濃い。何とか、行きますか。靴紐を締めスパッツを履く。今から登るぞ、というやる気と、寒そうだなぁ、登れるかなぁ、それにもう12時だし、ちょっと面倒だなぁ、という気の進まなさが自分の中に同居していると、何を察したか急に氷の粒が降り出した。雹だ。途端にあたり一面真っ白になってしまう。これは無理だね、と4人とも納得。のんびりと土浦へ戻ることにする。

帰路の途中、道端は白く茨城県一体に広範囲に降雪があったことが伺われる。天気予報になかった強い寒気でも入り込んだのだろう。

(筑波山・男体山
山頂にて。)
(吾国山から筑波山
方面。天候に恵まれ
ない二日間だった)

遅まきながら西の方角に青空が覗き始めると、帰りがてらに一山稼げぬか、という話になってくる。TLLさんが茨城県の山のガイドブックを忙しく繰り、笠間市の吾国山に立ち寄ろうと言う事に決定。ハンドルを切り返す。笠間市・来栖から山道に入っていく。道祖神峠まで車であがると左手に吾国山への林道が分岐する。これをたどれば山頂までは一投足でもある。

路肩に駐車して歩き始める。滑りやすい土の上に雪がついた、とんでもない急坂をトラロープを頼りに登っていくのはやや難儀する。普段歩いていればどうと言う事もないであろうこの程度の道でも心の中に冷や汗が流れる。やはり歩いていないと山に対するカンがなくなってしまうのだ。急登を終え肩まで登ってしまうとあとは雑木林の中の快適な尾根で、三人に大きく遅れ神社の建つ山頂へ。一等三角点にタッチする。吾国山は平野に位置する事もあり標高の割には展望は良いようだ。雲がしきりに流れる山頂からは一瞬関東平野を眺める事ができてラッキーだった。BWGさんが苦労してヘンテナを設営して50MHzでオンエア。自分も一局とのみ交信させていただく。

上野に戻る常磐線は土浦始発ということもありガラガラだった。12月30日の夕方、こんな日のこんな時間に都心に出る人も居ないだろう。ボックス席を占有し缶ビールとつまみを片手にリラックスをする。目標としていた加波山も奥久慈男体山も何故か全く違う山に変わってしまい、しかもその行程は大幅に縮小したものとなってしまった。もっとも当初のとおりであったとしたら二山とも果たして自分に歩ける事ができたのかは今思えば大きな疑問でもあり結果的には正解だっただろう。また行き先を色々柔軟に変えられたのは低山の宝庫ともいえる茨城を目的地として選んだ事によるもので、TLLさんの計画のなせる技でもあった。特に奥久慈男体山は自分にとって以前からの宿題の山であり、距離的にもなかなか行きがたい場所でもあったので残念ではあるが、これはまた帰国後の宿題としておいておこう。。

一年ぶりの山歩きは大きな課題を自分に残しはしたが、久方ぶりの山仲間との楽しい時間を過ごせた事には変わりない。また師走の茨城の田園風景も満喫することができた。次回またこの愛すべき日本の低山を歩けるのはいつか分からないが、少なくとも山から見放されないように足腰・持久力の鍛錬をしておかなくてはいけないだろう。自動車通勤によるヨーロッパの生活ですっかり足腰の衰えた自分にとっては大きな難関とも言えるのだが。

上野駅で、ここから渋谷に出ると言うBWGさんと別れ、京浜東北線に乗り換える。鶴見駅で自分も下車。走り去る車内の二人の山仲間に手を振りながら、年の瀬の茨城への山旅を終えるのであった。


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