★ネコ論文★


寝転んぶん(1993年3月30日)

0.ひんしゅくものの、長い前書き。
 学生時代、私が親しくしていた同志の中に、「ネコ」というニックネ−ムの女の子がいた。わが大学では、学年を越えて信頼関係を深めるため(体育会系のような、封建的な体制を避けるため)、また防衛上の配慮から、仲間をすべてニックネ−ムで呼ぶ習慣があったのだ。ニックネ−ムのつけ方は、本人の趣味などを聞き出し、それに関連するニックネ−ムをブレインスト−ミングで出し合い、そのなかで、本人がもっとも嫌うものを多数決で決めるという、考えてみれば恐ろしい方法を採用していた。だから男のニックネ−ムは、ろくなものがない。「ボッキ−」と呼ばれていた奴は、最初は「インポ」に決まったらしい。ただ、民主的学生運動の中で使われるには、あまりにふさわしくないものだったので、正反対のものにしたのだそうだ。しかし残念なことに、そもそもなんで「インポ」などとつけられたのかを、私は知らない。
 その「ネコ」という女の子は、とても可愛らしく、かつ戦闘的で、最高に頭の切れる同志だった。他のすべての女性の同志がそうだったように、彼女も最初は私を避けていた。が、一度信頼関係ができてからは、お互いに最大限の敬意を持ち、励ましあい、競いあって成長する仲であった。彼女は教育学部であったが、私たちは共通一次第一期生であり、彼女は教育学部の2次募集で合格したから、本来ならもっといい大学に行っていたはずである。彼女はほっそりしていて、長い髪がとても綺麗で、妙になまめかしかった。大学4年になる時、バレンタインデ−のチョコレ−トを、自転車で一緒に買いに行った時のことを、私はいまでもよく覚えている。私が学生時代の夢をいっぺんに実現した1981年5月13日、教育学部の才色兼備たちが皆わがアパ−トに集まり(もちろん男もいた)、はでな酒盛りをやったが、私は調子に乗り過ぎて、ネコひっかきの目測をあやまり、ネコの目を引っ掻いてしまったこともあった。
 閑話休題、その「ネコ」同志が、一度学生新聞に、論文を投稿したことがあった。その論文は、ついに掲載                   されることなく終わってしまったが、「ネコ論文=寝転んぶん」の語呂だけが印象に残ってしまった。

 1.わが家族とネコたち
 私のネコに対する独特な感情を説明するには、例によって私の生い立ちから触れなければならないだろう。このワンパタ−ンのイントロは、とかく御批判をいただくところではあるが、これは私の家族に対する深い愛情の裏返しの表現であり、私自身の感情をぶちまけることを最大の目的として書き続ける限り、どうしても避けて通ることはできないのである。

1)父
 特にネコが好きでも嫌いでもない。まあ強いて言えば、(ネコに関してだけは)世間一般の人である。しかし姉が引き起こすネコ騒動によって、いつもネコとの関わりを余儀なくされる。つまり、ある時は庭に「ネコ寄らず」をまき、ある時はネコにちょっかいを出してひっかかれ、ある時は姉が餌づけたネコを捨てに行き、またある時はうちに遊びにくるネコに餌をやっている。現在は、最後の場合の典型であり、ネコをまるで我が孫のように可愛がっている。たまに母がネコのエサを買い忘れたりすると、大変な勢いで怒ったりする。

2)母
 ネコは嫌いである。ネコに限らず、毛がむくむくしている動物は、全般的に嫌いである。私が中学2年の                    時、飼っていたハムスタ−(高校に入学してから知ったのであるが、横須賀の人間は、この小動物の存在を、まったく知らないらしい。これだから田舎者はいやだ!)が逃げ出して、その第一発見者が母であった時は、                    それこそ大変な騒ぎになったものだ。ただ、犬はわりと平気だ。順序でいえば、1番がネズミ、2番がネコの順で嫌いらしい。面白いのは、嫌いだと相手が寄ってくるところで、母に関しても、その例は枚挙に暇が無い。
 とは言っても、それをいちいち報告するのが、私のしつこいところである。まずネズミであるが、ネズミとりをしかけると、かかったネズミを必ず母が最初に見つけることになる。古典的なネズミばさみをしかけた時は、翌朝子ネズミが3匹、仲良く枕を並べてはさまれていたそうだ。またこれはわざとではないが、バケツに水を張っておけば、翌朝ネズミがしっかり溺死している。それから終戦まもなくの頃、家の中に、開かなくなった引き出しがあったそうだ。中に何かつまって開かなくなってしまったのだろう。そこで母が何とかしようと、わずかな隙間から手を入れ、引き出しの中をまさぐってみると、何かあったかくてやわらかいものが手に触れた。どうにかして隙間をひろげ、その「あったかくてやわらかいもの」をつまみだしてみたら、なんとまだ目の開かない子ネズミだった。20代だった母の、絹を引き裂くような絶叫が、聞こえてくるようだ。引き出しの中にあったヘアネットで、ネズミが巣をつくっていたのだ。引き出しが開かなかったのも、そのせいらしい。
 次にネコである。母が子供の頃だから、戦争前で、日本がまだ貧しかった頃のことである。どの家庭でも、子供のおもちゃなど買う余裕は全くなかったが、そのかわり、逗子の町にも雄大な自然が残されていた。逗子全体が、今の池子の森のような状態だったのである。そこで母は、トンボやセミとりで夢中になって遊んだ。                      トンボを捕まえると、それがメスの場合、オスのトンボを釣ることができる。そこで私の祖父は、竹の棒に糸をつけ、その先にトンボをゆわえて、幼い長女に持たせた。母は喜び、家の裏を、この竹ザオを持って走り回っていたところ、竿先が急に重くなった。驚いて振り向いてみると、そこには大きなネコがひっかかっていた! トンボをえさに、ネコが釣れてしまったのである。母はびっくりして、竿を放り出して逃げ出したそうだ。それから当時は、セミとりをするのに、トリモチを利用していた。何事にもマメなたちである祖父は、店の仕事の合い間にトリモチをつくり、長い竹ザオの先につけ、母に持たせた。母はこの時も有頂天になり、くだんの竿を持って、近くの亀ケ岡八幡宮(誰かが鎌倉に対抗してこんな名前をつけたのだろうか? ちなみに私も、鎌倉に対する対抗意識は非常に強い)に出掛けた。母はセミを捕ることよりも、長いサオを振り回すことに満悦し、はでに振り回していたのだろう。竿先がくさむらを掠めた時、またしても竿先が急に重くなり、 次の瞬間、「ギャ−」とすごい声がして竿が軽くなり、ネコが目にもとまらぬ速さで逃げて行くのが見えた。竿先をよく見てみると、ネコの毛がポシャポシャとついていた! 時代はだいぶ後のことになり、私が物心ついた頃だから、1960年代のことであろう。古い建物である我が家(現在は店だけで、住んではいないが)では、アニメ「おもひでぽろぽろ」に出てくるような生活が営まれていた。高度経済成長時代の恩恵は、まだ我が家には縁遠いことだったのだ。我が家の前近代的な構造の中で、幼い私が特に解せなかったのは、物干し台へ出るところにはめこむ網戸だった。これは、たてつけがすでにガタガタで、ただでさえ隙間だらけなのに、肝心なアミの部分にも大きな穴が2つ3つ開いているというシロモノだった。だから私と姉の2人は、いつも蚊にさされて痒い思いをさせられた。血液型がO型の姉は、特に蚊にさされやすかった。そんなわけで、                ある日その網戸のいわれを、母にたずねてみたのだ。母は涼しい顔をしてこう答えた。「あれはネコよけの網戸なんだよ」と。その網戸を入れないと、2軒となりの魚やで飼っているネコが家の中に入ってきて、悪さをするのだそうだ。私と姉は、その話しを聞いて、腹を抱えて笑いころげた。私は事の真偽を確かめようとして、網戸を外して様子を見ていたこともあったのではなかろうか? そんなある日のこと、私が小学校から帰ってくると、母はこんな話しをした。当時うちの店は、10のつく日だけ休んでいたのだが、その日もそんな定休日だったのだろう。父は釣りに出掛け、祖父母は山ノ根の家におり、姉と私は学校で、家には母一人しかいなかった。母が縫い物をしていると、二階から誰かが降りてくる。コトリ、コトリ、と、たいそう上品な足音だ。母は、「はて、今家には誰もいないはずだが...」といぶかしんで、ひょいと階段の方をのぞいてみたら、不法侵入をはたらいたネコと鉢合わせしそうになった! 相手は「ギャッ」と声をあげて、すっとんで逃げて行ったそうだ。多分網戸の穴をすりぬけて侵入したのだろうが、あの日、私に嫌疑がかれられたことは言うまでもない。そんなネコぎらいの母であるが、姉と私がかわりばんこに拾ってくる子ネコに対しては、時々情が移ったりもする。

3)姉
 こいつは正真正銘のネコ好きだ。だいたい性格からしてネコ的なのだから始末が悪い。あれは確か姉が30くらいの頃だったと思うが、姉が暇をもてあまして、ニャアニャア言いながら私にすりよってくるから、「なんでそんなことをするんだ?」と聞くと、「ネコはじゃれるのが好きなんだよぉ〜」と、のたまわった。また、あれは私が学生時代だから、姉は23〜4だったと思うが、その頃姉は一人で店の2階に住んでいた。物干し台は崩壊寸前だったが、まだどうにか原形をとどめていた。台風の直後で、物干し台はいたみがひどくなっており、それがネコの格好のすみかになっていたのだ。ある晩、例によって物干し台の方から子ネコの声がするので、姉が外に出てみると、物干し台の下に、親にはぐれたらしい子ネコが、うずくまって弱々しく鳴いていたのだそうだ。姉がそっと屋根に降りて、「にゃあ」と声をかけると、相手は親がきたと思ったらしく、うれしそうに「にゃあ!」と強く応えた。姉が面白がって、しばらく鳴きあっていると、父が仕事をおえて帰るらしく、勝手口から出てきた。ちょうどそこに、お隣りのおばさんが出くわし、二人は「今日はずいぶんネコがうるさいですねえ」と声を掛け合っていたそうだ。姉は、(ここでやめたら人間だとばれてしまう)と思い、しばらくそのまま鳴きあっていた。そんな話しを、さも手柄ばなしのようにする姉を、隣で笑い転げる私を横目で見ながら、ニヤニヤするだけで叱ろうともしなかった父が不憫でならない。
 そもそも私が下宿生活を送るようになり、祖母が入院するようになってから、山ノ根の家の庭がネコ屋敷へと変貌を遂げていったように覚えている。ネコのような気紛れから、突然仕事を放り出す姉が、親からの干渉を避けるために山ノ根の家にこもりがちになり、それに拍車をかけたのだ。父がだんだん庭仕事をやらなくなり(姉が仕事をやらないので、やれなくなった側面もある)、草ぼうぼうとなった庭を、近所のネコが跳梁するようになるのには、それほど時間はかからなかった。初めのうち、父はそのことをとても嫌がり、「猫寄らず」なるものを買ってきて庭に撒いたりした。これが思ったほど効果を上げなかったため、次に、姉が餌づけに成功したノラネコを車に乗せ、小坪の漁港まで捨てに行った。これも結局、すぐに後がまのネコが居着いて、骨折り損の結果となった。それでもまだ懲りないらしく、縁の下に金網を張り巡らしたりして、無駄な努力を繰り返していたが、いつもネコと姉の方が一枚上手で、新たな困難を難なく乗り越えて、我が家の庭にはびこり続けた。そんなイタチゴッコを繰り返していたある日、姉は段ボ−ルの箱を縁の下に持ち込み、これをネコのすみかと定めた。父は帰宅すると、習慣から、懐中電灯で縁の下を照らしてのぞき込んだが、くだんの段ボ−ルと、そこにうずくまった2匹のネコを発見し、「あ−っ、あ−っ。」と叫んだ。息を殺して事の成り行きを見詰めていた母と姉と私は、堪えきれずに吹き出した。しかし父は、あまりのことに逆にサトリを開いたのか、それ以降、何も言わなくなった。いやそれどころか、先にも述べたとおり、最近ではむしろ父が一番ネコをかわいがっている。
 さてここで、姉の性格について、少し考察を加えよう。姉は乙女座で、しかも中秋の名月の晩に生まれたものだから、自分のことを「かぐや姫」だと高言してはばからない。昔からむらっ気が強く、たいていの相手は、辟易して姉に1歩譲らざるを得ない。頭はパ−で、とてつもない方向音痴のクセに、直感が異常に強く、クジ運がやたらとある。私は小学校2年の時から、4歳年上の姉の宿題をやらされてきたが、姉が高校1年のある日、地図帳を見ながら、私に「アフリカってどこだ?」と聞くので、私が姉の地図帳をのぞきこむと、そこには全ペ−ジにでかでかとアフリカ大陸が載っていた。しかしとんでもない文才があり、21〜2の時、読売新聞に姉の川柳が掲載されたりもした。川柳といえば、あいつが高校の頃、元旦にお雑煮を食べながら、ゲロを吐いたことがあった。私はあわてて、「やった、やった」を連呼した。逆上した母は、「何をやったのか、はっきり言いなさい!」と言って、私を叱った。その時詠んだ、姉の俳句はこうである。『正月に、雑煮を食って、ゲロを吐く』。
 さて、クジ運であるが、商店街の福引きなど引こうものなら、たいてい1等か2等を当ててしまう。うちの店でも当然福引きを扱うことになるので、私も小学校低学年の時、100回引かせてもらったことがある。結果は当然、全部はずれ! タマを100発数える箱があり、それに一杯の赤いタマを見せられた時、私は悔しくてナミダがちょちょびれた。きっと姉の奴は、私の分までクジ運を持って行ってしまったのだろう。そうそう、商店街の福引きで、姉が1泊旅行を当てた時のことである。姉と私が伊豆に行くことになり、私は姉の希望を取り入れながら、すべての手筈をととのえた。姉が一番楽しみにしていた、熱川の「バナナワニ園」は、2日目に観光バスで行くことになっていた。しかし、真冬の平日のことなので、そのコ−スを希望した客は、我々2人しかいなかった。観光会社としては、当然のことながら、「他のコ−スに変更してはいただけないでしょうか」とお伺いを立ててきたのだが、そちらのコ−スには、肝心の「バナナワニ園」が入っていなかった。姉がつむじを曲げるのを恐れて私が躊躇していると、姉はきっぱりと「困ります!」と言い放ってしまった。かくして我々2人は、55人乗りのバスにたった2人で乗り込み、運転手とバスガイドまでつけられて、大名旅行とあいなった。私はといえば、観光会社の人に悪くて悪くて、全然楽しむ余裕が持てなかった。姉はすべてがこんな調子だから、36歳の今になっても独身でいることに、全然注意をはらう気配もない。姉が信じている星占いによると、必ずや、大富豪のところにお嫁に行き、左うちわの生活を送ることになるのだそうだ。普通なら噴飯もののこんな話しも、あいつがいうと妙に説得力を持つのだからやりきれない。そうそう、こんな話しもある。我々姉弟は、シャックリが止まらなくなる体質があるのだが、姉が高校生だったある夏の午後、姉は店の2階で、一人マンガの本を読んでいた。そのうちシャックリが出始めたが、めんどくさいので、止める努力もせず、そのまま放っておいた。すると突然、「ギャッホ!」と、大きなシャックリが出てしまい、しばらく気持ち悪くて寝ていたそうだ。

2.私の歴史とネコたち

1)幼少のみぎり
 正直言って、私はネコが怖かった。気が小さかった私は、すべての生き物が怖かったが、なかでもネコは怖かった。それが成長するに従い、だんだん犬のほうが怖くなったのだが、それでもネコが怖いことに変わりはなかった。怖いながらも、ネコを見ると、必ず石をぶつけた。姉と従兄から、そうするものだと教わっていたからだ。だからふとんを干しておくと、必ず私と姉のふとんだけ、ネコのオシッコがひっかけられていた。小学校に上がると、友人(私は彼には一度も友情など感じなかったが)の家にネコがいて、いつも私をうらめしそうににらむので、ある日家の人の目を盗んで、そいつの背中につばを吐きかけてやった。ネコの奴は、例のうらめしそうな目で私をにらみ、私のつばをなめとってしまった。また、例の亀が岡八幡宮には、時々子ネコが捨てられていたが、私はそれらの子ネコにも石をぶつけた。姉を観察することによって、女のずるがしこさを8歳で見切った天才少年にとって、同じようにずるがしこいネコをいじめることは、天から授かった使命だと思われたからである。私はさまざまな大きさの石をとりそろえ、それぞれに「手榴弾」「ダイナマイト」などの名前をつけて、それを子ネコの上に投下した。しかし、「原子爆弾」と名付けた、一番大きい石だけは投下するのをためらった。無知な私にも、ネコが死んでしまうことがわかったからだ。ところがある日、その子ネコがいなくなった。近所の子の話しでは、悪ガキが、私の「原子爆弾」より巨大な石で、その子ネコをつぶしてしまったとのことだった。私の心には、言い様のない、いやな気持ちがつきささった。それからしばらくして、また神社に子ネコがすてられていた。その時は姉が一緒で、姉は子ネコをひざにだき抱え、半分いじめながら、可愛がっていた。私はその子ネコを、つねったりデコピンしたりしていじめたが、まるっきり無抵抗で、逃げようともしない相手をいじめることにイヤ気が差し、それ以降、ネコに石を投げるのもやめてしまった。ところが従兄は、それからも私を使ってネコいびりを続けた。ある日、うちの物置にネコが入り込み、従兄に閉じ込められた。従兄は、私に補虫網を持たせて入り口に立たせ、一人物置に入り込んで、殺虫剤でネコを追い出しにかかった、そのうち、あぶりだされたネコが飛び出してきたが、ネコはあわてすぎて私の足に激突し、反転して逃げ去った。反射神経の鈍い私が網をかぶせたのは、ネコが逃げ去った5メ−トルも後ろだった。しかし隣でながめていた姉は、ネコが逃げ去ったのすら目に止まらなかったらしい。それからも何度か彼は、私を引き連れて「ネコ狩り」に出掛けたが、一度も成功はしなかった。

2)中学時代
 いつの頃かははっきり覚えていないが、少しづつネコが気になりはじめた。松本零士の「男おいどん」は、従兄の影響で小学校6年から読んでいたが、その中に、よくヨレヨレのネコが出てくる。おいどんはそれを、「非常食料」と称して飼育するのであるが、我々はこれを面白がり、例のハムスタ−も「非常食料」と呼称していた。中学2年のある日、私が帰ってくると、テレビの画面に信じられないものが写っていた。松本零士のアニメなのである。我が家では、それより6年も前にチャンネル争奪戦にケリがつけられ、私は一切自分の見たいテレビを見ていなかったが、彼のマンガがマイナ−であることくらいは知っていた。しかも戦艦ヤマトが宇宙に浮いている! 波動砲と称して、とんでもないエネルギ−を、艦首から放出する! 戦艦ヤマトと、電磁波に興味を抱いていた当時の私は、天地がひっくり返るほど驚いた。それはさておき、佐渡酒造の飼いネコ「ミ−くん」が現れると、今度は姉が狂喜した。「あ−っ、あのヨレヨレのネコが出ている。あ−っ、本当にナ〜オって鳴いた。」と。
 次に、これもその頃の話しであるが、ある日外に出ると、ネコが道を歩いていた。するとむこうから、現場労働者が歩いてきた。彼は、傍らを移動中の小動物の存在に気付き、顔を振り向けたが、それがネコであることを認識すると、何の反応も示さずに、そのまま歩いて行ってしまった。私は、「オトナになるってことは、きっとネコが気にならなくなる事なんだろう」と一人合点した。

3)高校時代
 どうも毎日、ネコのことばかり口にしていたらしい。というのは、人間ぎらいの私が、当時人間社会と唯一共有できる話題だったからである。ある日学校に行くと、来る奴来る奴、みんな真っ先に私のところへきて、「お−、あそこの公園によ、こ−んなちっちゃなネコがいたぞ」と言うのである。「オレはネコが嫌いなのに、なんでそんな事を言うんだ?」と聞くと、「おまえが喜ぶからだ」との答えだった。ある日、友人の一人が、ネコの折り紙を私に持ってきた。私がそれをみてケラケラ笑うと、「そ−ら見ろ喜んだじゃないか」と言った。私はこの折り紙を大事にしていたのだが、席変えの時、うっかり置き忘れてしまった。しかも私の以前の席には、クラスで一番可愛い女の子が座ってしまった。しかし彼女は折り紙に気付き、これも何故か、すぐに私のものと気付いて返してくれたのだが、私は恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。姉もこの頃、毎日ネコの話しばかりする私をつかまえて、「おまえはネコを飼って、それを見ながら一日中喜んでいればいいじゃないか」と、のたまわった。私は自分の姓が大嫌いなものだから、この頃、ネコに関連したニックネ−ムを自分につけて、むりやり普及させたが、今でもクラス会に顔を出すと、女の子たちはこのニックネ−ムで私を呼ぶので閉口する。最近、当時の友人の一人が衣笠の患者さんになったが、彼が一度、しつこく私のネコ論を説明させようとするので、しかたなく話した覚えがある。彼が納得したのは、私がネコの向こうに女を見ているということだった。




つづき