2010年8月15日
2013年8月15日改訂
2015年8月15日追記
2018年8月15日追記
2019年8月15日追記
2020年8月15日追記
2020年9月 6日追記
2020年9月25日追記

    
父の太平洋戦争従軍と
  フィリピン北部ルソン島の悲劇
 
「太平洋戦争・フィリピン北部ルソン島の悲劇」             









追記(2019年8月15日)
8月4日NHKBS1スペシャルで「マンゴの樹の下でこうして私は地獄を生きた」が放送されたが、この放送内容は正に北ルソンで在留邦人が地獄のなかで生き延びた方の証言でした。
更に8月8日NHK放送の特集ドラマ「マンゴの樹の下で~ルソン島、戦火の約束」は生き延びた方々の記録を参考にドラマ化されました。
(2020年8月15日)(2021年8月15日)
NHKBS1で「マンゴの樹の下でこうして私は地獄を生きた」が再放送

2008年3月21日のお彼岸に東京の実家にある仏壇の中から大事に保管されていた父の「軍隊手帳」と「メモ手帳」を発見した。これを持って父のお墓参りをしました。
父は終戦後、フィリピン戦線での栄養失調と肺結核に冒されて復員後まもなく死亡。
私は当時3歳、父の記憶は殆んど無い、僅かに残された出征前の写真と入隊後の写真で面影を知るのみである。しかし、今回発見の「メモ手帳」に書かれた僅かな文章から改めて父の人柄を知る事が出来た。
ここで「軍隊手帳」と「メモ手帳」からフィリピンの地図と各種太平洋戦争記録図書から戦争末期のフィリピン-ルソン島の戦場と、父の従軍足跡を辿り、さらに我が家が被災した「東京大空襲」も併せて、あの忌まわしい太平洋戦争をもう一度想起してみたい。また貴重な父の遺品である「メモ手帳」の一部を公開して、絶対に忘れては成らない太平洋戦争の記憶を残すために、このページをアップしました。        
            
1)召集入隊ー朝鮮ー台湾ーフィリピンー復員迄の足跡


軍隊手帳」の記録
昭和19年1月 9日 臨時召集により輝第10629部隊田中隊に入隊 歩兵二等兵
      4月 9日 第12021部隊経理部として転属の為宿営地(茨城勝田)出発
      5月 2日 門司港出発
      5月 3日 釜山港上陸
      5月 5日 平壌着 第12021部隊(現地自決隊)に編入
      5月 7日 動員第二次完結
   自-6月19日 至-8月31日平帥参動第367号により平壌飛行場拡張工事に参加
    自-9月1日 至-9月10日平帥参動第504号により朝鮮軍司令部に派遣
      9月6日 平壌出発 9月18日釜山着
     9月19日 釜山出帆 同日下関港着 上陸
     9月23日 門司港出帆
     10月 5日 (台湾)高雄港着 上陸
  自- 10月12日 至-10月17日 高雄付近の防空戦闘に参加
    追記 「軍隊手帳の履歴」は此処まで、その後は「メモ手帳」による。

 「メモ手帳」の記録

  

 昭和19年1月9日~昭和20月12月1日フィリッピン-終戦ーマニラ出航まで
                     (赤字)は補足追記

昭和19年1月 9日 入隊
      3月 7日 勝田
      4月30日 勝田発
      5月 7日 朝鮮平壌着
       9月 1日 京城着
       9月10日 平壌着
      10月 5日 台湾着
     12月29日 高雄出航
昭和20年1月 1日 (フィリピンールソン島)サンフレナンド着(リンガエン湾)
      1月 7日 バーン
      1月 8日 ナギリアン
      1月13日 トリンダット着(バギオの北方)
      2月16日 カバンガン
      3月 3日 タケアン
      3月20日 ビネン
      3月21日 トリンダッ
      4月15日 トリンダット出発
      4月22日 九十キロ着
      5月 4日 七十六キロ
      5月23日 ブキヤス
      6月 5日 マンガエン
      6月 6日 九十キロ
      6月15日 マンガエン
      7月 7日 トッカン(この地で終戦を迎えた)
      8月29日 七勤(動?)家
      9月 5日 塩川
      9月14日 トッカン出発
      9月19日 九十キロ出発
      9月20日 マニラ着
     10月 7日 本収容所着
     11月12日 138中隊移動
     11月15日 137中隊移動
     11月26日 第一収容所出発
     12月 1日 仮収容所出発 
     同日 マニラ港ヨリ第四十四海防艇にて一路呉へ向かって出帆ス
    追記 以上記録は此処まで、その後呉から東京へ行き。此処から私達家族の疎開先の新潟県(現在)上越市柿崎区上下浜に辿り着き即入院。昭和21年1月21日没。享年35歳(公式に「戦病死」扱い)
好きだった歌謡曲の歌詞 (二番までの歌詞が記されている) 
「花摘む野辺に日は落ちて--」この歌は筆者がとても好き歌である、題名は「誰か故郷を想わざる」確か「霧島昇」が歌ってたように記憶している。父も大好きだったのかー
きっと戦場で口づさんでいたのだろう

追記(2019年8月15日)
(アジヤ歴史資料センタ)WEBページから、やや日にちが異なるがこの第19師団の一部と思われる。
19師団の詳細はこちら。


参考 ウイキペディア「ルソン島の戦い」から
「ルソン島の戦い」(ウイキペディアより)抜粋
北部の戦闘

日本軍主力の尚武集団は、方面軍司令部のあるバギオを中心に北部山地で防衛戦を展開した。沿岸部での戦闘から後退した戦車第2師団・第23師団・独混第58旅団のほか、第10師団・第19師団第103師団第105師団(振武集団から抽出)・独混第61旅団などを有し、総兵力は約15万人であった。このうち第103師団は北岸のアパリと北東部のツゲガラオ、独混第61旅団は台湾との間のバブヤン諸島に配置されたほか、第19師団は北部山中でゲリラ掃討戦を実施中、1個連隊が北西岸のビガンラオアグに展開し、残りの諸部隊が北上するアメリカ軍を迎撃することになった。尚武集団は、穀倉地帯であるカガヤン渓谷をバギオと並んで重視していたため、南部のサンホセからサンタフェ経由カガヤン渓谷へ続く5号国道のバレテ峠が焦点となった。

2月下旬、アメリカ軍第1軍団は山岳地帯へ進入した。バギオに対してはアメリカ軍第33師団が国道11号などから北進し、日本軍の第23師団と独混第58旅団と激突した。キャンプ3地点で日本軍に阻止され、国道11号からの突破に失敗したアメリカ軍は、西海岸からバギオへ続くいくつかの道から迂回攻撃を試みた。これも日本軍に次々と阻止されたが、最終的に新手の第37師団がナギリアンを通る国道9号からの迂回突破に成功し、4月には北西からバギオに迫った。4月16日には、山下大将は、ホセ・ラウレル大統領らを日本本土へ脱出させた。日本軍はイリサン付近で戦車による特攻作戦など最後の抵抗を試みたが突破され、4月26日にバギオは陥落した。第14方面軍司令部はカガヤン渓谷へ転進した。

一方、カガヤン渓谷方面では、アメリカ軍第25師団が国道5号伝いに進み、3月上旬にバレテ峠で第10師団と戦闘状態に入っていた。また、その西方ではアメリカ軍第32師団が、国道277号線が国道5号へ合流するサンタフェ手前のサラクサク峠で、戦車第2師団(歩兵部隊に再編)と戦闘状態に入った。日本軍は、南部から転進してきた第105師団のほか兵站部隊までもバレテ峠・サラクサク峠前線へ投入した。両軍は山岳地帯で一進一退の激戦を繰り広げた。アメリカ軍は5月中旬にようやくサンタフェを占領したが、それまでに第25師団は戦死685人と戦傷2090人、第32師団は戦死825人と戦傷2160人を受け、さらに第32師団だけで6000人の戦病者が生じる大損害を受けた[1]。他方、日本軍も膨大な人的損害を受け、重火器や機関銃の大半を喪失した。5月下旬の戦車第2師団の保有重火器は、戦車12両と火砲7門のみであった[1]。6月1日に、日本軍残存部隊は退却に移った。

ルソン島北端のアパリにも6月23日に連合軍が空挺降下し、カガヤン渓谷防衛のため南進中の日本軍第103師団を撃破した。

南北から挟撃を受けた尚武集団は山中へと追い詰められていった。バギオ方面から撤退した第23師団などと、バレテ方面から撤退した第10師団などは、合流して複郭陣地で最後の抵抗を試みていたが、すでに実働兵力は約20%に低下していた。

末期の戦闘状況

大半がジャングルのルソン島の日本軍は、食糧の補給は完全に途絶えて餓死者が続出し、マラリア赤痢にかかる者が続出した。部隊としての統制は乱れ、小部隊ごとに山中に散開して生活していた。降伏は固く禁じられていたため、伝染病にかかった者はそのまま死ぬか自決し、衰弱した日本兵は抗日ゲリラや現地民族に襲撃され消耗していった。飢えた兵士は食糧を求めて村や現地人を襲い、戦争どころではなくなった。兵士の間で台湾までたどり着けば助かると信じられていたために、を作ったり泳いで台湾まで行こうとするものまでいた。

終戦の4日後、8月19日に山下大将は停戦命令を受容した。しかし分散した各部隊への連絡は困難で、半年かけてようやく全軍が降伏した。降伏までに日本軍は20万人が戦死あるいは戦病死した。アメリカ軍に収容されたが、力尽きて輸送船の甲板への梯子が登れず死ぬ者までいたという。

参考文献②「検証-大東亜戦争史 下巻」の一節から。
 「やむなく方面軍主力は、最後の複郭陣地に籠もる事となる。標高2,900mのプログ山一帯の奥深い谷地で、搬入した食料も次第に減り、この6月から終戦までの三ヶ月は、飢餓と病いと敵との苦痛に満ちた戦いの日々となった。各師団の兵員は、概ね5分の一程度となり、病人多く、装備も第十九師団を除いては劣弱なものになっていた。」

フィリピンの全戦場で将兵51万名中、37万名が戦死病死した。その内ルソン島では22万名戦死病死した。 


2)北部ルソンの悲劇

父の「メモ手帳」にはルソン島北部での移動が事細かく地名が記録されている。そこで早速フィリピン地図を購入して足取りを辿ったが、大きな街名は分るがその他は地図に地名が無い、現在国内で入手出来る地図では分らない。
ところがインターネット「Google Map」で見たら市販の地図より少し詳しかった。それでも終戦前の最後に駐屯していた「トッカン」の所在地が分らない。世界遺産指定の棚田で有名な「イフガオ州」の山地である事まで突き止めた。

ウエブサイトで「北部ルソンでの悲劇」を検索していたら次のサイトが有りました。
高知市の松井浩一氏(ファームスクールで戦死された方の息子さん)が纏め作成された北部ルソンでの悲惨です。
内容は北部ルソンーイフガオ州「ファムスクール」で高知県で編成された大隊の壊滅記録やその他壮絶悲惨な敗走記事などでした。この「ファームスクール」から街道一本西に「トッカン」の地名が掲載地図に有りました。
又、この纏められた記事の中に多く「トッカン」の地名がでています。
参考に地図を掲載させて頂きました。
  
                                 詳細図 左上に「至トッカン」

追記(2020年8月GoogleMapで「トッカン」の位置判明しました。(TUKUCAN)「トウクカン」の地名で見つかりました。
  

この記事を読むと、北部ルソンの戦いと言うか。壮絶悲惨な敗走記録です。殆んどの日本兵は飢えと病気で亡くなられている。このウエブサイトを纏められた松井浩一氏に改めて御礼申し上げます。

「北部ルソンでの悲惨」から抜粋記事

11号線バギオ~ボントック道からアシン河谷へ 
              
バギオから16キロにヴィクウィッチ鉱山がある。ここに坑道を利用して74兵站病院がバギオから移動していた。
この病院も、やがてアシン河谷へ逃げ込んでゆくことになる。

Gパン主計 ルソン戦記 金井英一郎氏 文芸春秋より
・・・トロッコに手術用材料を積み、一台ずつ彼女たちが押す。トロッコの前にカンテラを一個取り付けている。入り口付近に二段ベットが並んでいる。ここは特等室で下級将校や下士官、兵には縁がない。

トロッコのレールは奥に向かって、どこまでも続いている。狭い坑道を300メートルほど進むと三叉路になっていて、坑道は急に広くなる。一番右の坑道が最も広い。ここを患者収容に使っている。

坑道内に幅2メートルもの川があり、湧出する水が、音をたてて流れている。その急流に足場をかけて、ずらりと戸板のベットが並べられている。その夥しい数のベットに、あき間もなく負傷者が詰まり、押し殺したように唸っている。

その凄惨な光景は、闇の果てまで続き、進めど、進めど尽きることはない。「看護婦さーん。いま朝ですか夕方ですか」
「看護婦さーん。痛いよう。足が痛いよう」

彼女はトロッコを止めて、患者に近寄り、毛布をめくる。患者のつめ先は白い骨が、露出していて、骨と肉の間に一面にゴキブリがたかっている。
彼女はゴキブリを払い落として、洗いざらしの包帯をだして、ギッチリと巻きつけてやる。その患者の藁ブトンは、天井からの雫で濡れ、三分の一ほどは腐っている。
おそらく毛布も衣服もシラミでいっぱいなのであろう。駆除する薬も方法も持たぬ。患者たちは、一日中何も見えない漆黒の闇の中に寝かされている。湿気が多く腐ったような坑内は、ゴキブリとシラミの天下。そこに患者たちも一緒に棲んでいる。
薬品が極度に底をついている。戦線復帰の見込みのない患者には、絶対に薬を使うな、と命令されているという。500、600、700戸板ベットは延々と続く。延長700メートルもの間に、幽鬼のような患者が呻吟している。

坑道はその先で二つに分かれ、一方は重症患者が収容され、もう一方は手術室が設けられていると説明される。その手術室の方向から灯りが一つやってくる。トロッコのゴロゴロという響きと共に、光が近づいてくる。・・・

トロッコの荷物を見て、アッと息を呑む。切断された人間の手や足なのだ。毎日十人くらいの手や足が、麻酔なしで切断されていると言う。生き地獄だ。  これが地獄でなくて、何だろう。・・・

・・・手術といっても、麻酔薬など、とっくに無い。

泣き泣き、念仏を唱える兵隊の手足を切断する。毎日十人、二十人と死ぬ。負傷兵はここよりほかに、いくところがない。ひとたび坑内に運び込まれたら、二度と太陽を見ることは出来ない。この真っ暗闇の生き地獄に、何日生きているか、だけのことだ。・・・昼も夜もない漆黒の闇の坑道で、傷の苦痛に呻吟する負傷兵の、たった一つの
喜びは、目の前をカンテラの灯と、トロッコと、看護婦が通り過ぎる、そのときなのだ、
その光明の瞬間に、もう一度会いたいために、生きている。 負傷兵たちは、灯りがやってくると、ざわざわと、ざわめき、起き上がって、一斉に
灯りを見る。髭ぼうぼうの、痩せこけて幽鬼の姿の傷病兵たちは、この一瞬の光を見落とすまいと、潤むように、食い入るようにカンテラを見る。・・・「看護婦さーん、とまって下さい」「看護婦さーん、もっと居て下さい」 坑道の、あち、こちから、悲痛な声がかかる。この真っ暗闇の坑内には、ただ死を
待つだけの千人近い負傷者たちが居る。

昭和20年2月末のこと・・・                                   
この74兵站病院の、最後はアシン河谷のトッカンに逃げ込むことになる。

                              
Gパン主計 ルソン戦記 金井英一郎氏 文芸春秋より

米軍のバギオへの進攻が始まり、この坑道病院は三月末アシン河谷へ逃避行する。このころの病院の勤務者は過労と食糧不足でフラフラで足が腫れ上がっていた。それなのに、これから100キロも歩いて山の中に入るという。 

夜半午前一時、坑道口前広場集合。どこへ行くのかこれからどうなるのか、すべて軍の機密。ただ100キロ北に歩いて山の中に入るということだけ。坑道内に残した数百人の患者をどうするのか、いっさい話しがなかった。         
衛生兵が昇汞を用意していた。バケツの水に溶いて、患者に静脈注射する。患者が生きて捕虜になることを禁じた非常きわまる軍命令なのだ。

トリニダットの橋は砲撃で落とされていた。真っ暗な坂道を下って、河原におりるとトラックやたくさんの兵隊、在留邦人で、ごったがえしていた。照明弾が飛んできて、昼間のように明るくなった。連続して砲弾が飛んできて、人間や板や、いろんなものが夜空に吹き飛んだ。・・・それから国道11号線を夜どうし歩いた。小休止では道端に倒れるように寝た。
地面に倒れて寝ると、霜が降りてくるような寒さだった。この国道は(ボントック道)海抜2000メートル以上の山の稜線に作られている。
十日間、こうして歩いた。そして90キロ地点まできた。ここから国道と分かれ、右側の谷の細い道を降りた。急に道が悪くなったので、みんな何度もつまずいた。パクロガンの部落についた。それから行軍は更に続いた。
トッカンまで24キロの厳しい山道。

下を見れば千尋の谷、見上げると首が痛くなるような高い山。これからが本当の地獄だった。食べ物が無い、助けてくれない。誰一人まともに動ける看護婦はいなかった自分の一寸先がどうなるやら、どうして生きてこれたかわからない。
中条婦長殿もこの山の中で亡くなった。・・・

回想の比島戦 アシン 一木千秋氏早稲田速記より

・・・フンドアンの北側の四週、棚田に囲まれた小高い岡の、森林に幅300メートル長さ2キロたらずの台地がある。北に500メートルいけば地獄街道、地獄谷と呼ばれた390号線が通っている。(道端に行き倒れた死体がゴロゴロと転がっている状態)
ここに第12陸軍病院や各兵站病院が逃げ込んで、群集していた。8月に近いころは、患者は治療手段もなく、次々と亡くなり、埋葬する場所もなく、重ねて弔うほかなかった。                                         そこも迫撃砲やナパーム弾の攻撃の目標となったので、390号線を3RH方面に移動し、患者たちは行き倒れて死んでいった。
看護婦も同様であった。治療手段もなく元気を取り戻す食料もなく、負傷兵を助ける手段を絶たれた看護婦は使命感も消え博愛心や母性愛を支える力は、もう誰にも残っていなかった。
4RH方面から「看護婦さーん、看護婦さーん」と呼ぶ声を聞いても、答える力もなかった。自らも死を待つのみであった。集まった十四、五人が各人、手に家族の写真を持ったまま、腕に空気の注射をし合って、集団自決して旅立っていった。

               終戦 まじかの あまりにも悲惨なできごとでした・・・ 

戦争を始めた人はこのようなことを知っているのて゜しょうか

神様どうか、このホームページが遺族の方の目に、とまりますように心よりお願いいたします。

未帰還兵..........いまだに遺骨収容されていません。 ファームスクールでの戦死者松井栄喜の息子です



「続 イフガオの墓標」から抜粋記事

「バギオの北ルソン日本人会」のウエブサイトに、続 イフガオの墓標」(宍倉公郎著 昭和55年育英印刷興業発行)からの抜書きがご紹介されており。この中に終戦直前からの「トッカン」の様子が詳しく記載されていました。ウエブサイトページの「バギオの歴史コーナー戦時編」です。その内「続 イフガオの墓標」の抜粋はその五」「その六」その七」「その八」。
この「続 イフガオの墓標」の著者である宍倉公郎氏は、第七十四兵站病院編成要員で、「トッカン」で終戦を迎え、昭和21年6月に復員、帰国。丁度私の父が「トッカン」に到着して終戦を迎えるまで同じ場所に居た事になる。
内容は前記
北部ルソンでの悲惨 と同様に壮絶悲惨な地獄絵図のような戦争末期の様子が記されています。
この記事を読むと益々地獄の「トッカン」で生きて終戦を迎えた私の父は奇跡としか言いようが無い。
 

バギオの歴史コーナー戦時編その五
 
その五からの抜粋記事
p213
バギオ、ボントック間を結ぶこの本道は山岳地帯の山の尾根を通るもので、道端に夏草が生い茂る静かな田舎のジャリ道を思わせた。 しかし、いま見るこの道路は、つい一か月バギオから先遣隊として北上したときとはその様相を一変していた。
道路の両側には雨に打たれて夜目にもそれとわかる行倒れの屍体がごろごろと転がっていた。 水を飲みにきて、こと切れたものか、渓流の水溜り付近には必ず五、六体かそれ以上の死体がうつ伏せになっていた。

p219
五 十六キロ地点、四十キロ地点、三十一キロ地点の宿営地はバギオからの撤退部隊や邦人達が宿営したため、籔かげなどは荒らされており、草むらも、丸はだかと なってしまっていた。 (略) つい一か月前バギオからの先遣隊として北上したときは道路の両側は鬱蒼として潅木の茂みや深い籔陰などがあったが、今は見 るかげもなく・・・・

p236
九十キロ地点から、バクロガンを経てカガヤン平野の辺縁キャンガンに行くには、北部ルソンの山岳地帯を東西に縫って流れるアシン川の渓谷に沿った険しい土人道を行かねばならなかった。 ・・・・トッカンバクロガンから此の土人道を二十キロほど奥地に入ったジャングル地帯にあった。 

バギオの歴史コーナー戦時編その六」 
 その六からの抜粋記事
  p239
翌朝、九時、・・・トッカンに向って出発した。
(略)
道は次第に険しくなってきた。 天候の変化も急激となり、時おり横 なぐりの雨に交じって暗黒な雷雲が吾々を押し包んだ。 目のくらむような稲妻と同時に、山も裂けるばかりの轟音で右に左に落雷し、四囲の山々もまた無気味 に共鳴しとどろき吾々のどぎもを奪った。 それはあたかも、人跡未踏の聖地を血なまぐさい吾々の泥靴が犯すことを阻止するかのように思えた。
p240
午後二時頃、吾々はトッカンに到着した。 ここは別称二RH(第二レストハウス)ともいうべき地点で、道端の比較的広くなっていた所は休 憩所跡らしく、一坪ほどの土台跡らしいものがくずれ残っていた。 この道の四、五キロ先には三RH(この対岸が、後には山下軍司令部の終焉の地となっ た)、更に四RHを経てフンドアンからキャンガンに到るのである。
         
バギオの歴史コーナー戦時編その七」
 その七からの抜粋記事
p271
吾々は特に動物性蛋白質の欠乏に悩まされた。 トッカンへの道は太古さながらの道であったと記したが、トッカンの山奥は神々から見離された全くの不毛地帯であった。

(略) 
たまたま蛇を見つけると、皮をむき正確に二センチくらいに切り刻んでカモテ(芋)に焚き込んで一切づつ食べた。 

(略)
比較的身近な動物質としては野鼠とかゴキブリがあった。
夜 間、野天便所に糞を食べにくる大きな野鼠を松明(たいまつ)をかざして棒で叩いて捕まえ、糞まみれになった奴を小川で洗って焼いて食べた、・・・・・ゴキ ブリは焼いて食べると、ほろ苦く香ばしかったが、・・・・捕獲数を制限して食い延ばしを計ったので、腹いっぱい食べるわけにはいかなかった。

p275
激闘一か月の後、六月一日遂にバレテ峠は陥落した。 余勢を駆る米軍は怒涛の勢いでバンバン平地に殺到したため、方面軍は実った稲穂を目前にしながら手をつかねて複廓陣地に立て籠もったのである。
北部ルソンの山岳地帯を東西に縫って流れるアシン渓谷を中核とし、南と北に峻険な山々を擁した東西四十キロ、南北八十キロのキャンガン複廓陣地は東に勤、南に旭、西に虎、盟、北に荒木の各兵団が布陣したが、それはまた、逆に米軍によって包囲された形となったのである。 

バギオの歴史コーナー戦時編その八
その八からの抜粋記事   
p308
終戦という言葉を聞いても、それで生きて無事に日本に帰れるという手離しの安堵感は少しも感じられなかったからである。 それは、家畜や田畑を奪われたイフガオ族が、いつ襲撃してくるかわからなかったし、・・・・
p309
「武器を処分し丸腰になって集結せよ」との指示を受け九月十七日朝、吾々は小銃、弾薬、手榴弾類をひとまとめにしてコーヒー園のはずれに筵に包んで埋め、おりからのしのつく雨の中を万感をこめて工作隊を後にしたのである。
しのつくあめの中をバクロガンの米軍キャンプに向いトッカンを発ったのである。
それは昭和二十年九月十八日の朝であった。
 

追記
(2020年9月6日)
念願だった「続イフガオの墓標」古書を9月5日に入手購入しました。
                
       この本の巻末記載のトッカン周辺の地図。
      
      
      本325ページ挿絵地図より
      

追記
(2020年8月)
       
 
         ブログ「高原バギオ。雲に乗って、心のままに」よりお借りしました。

 追記(2020年8月)
GoogleMapで上記に該当する衛星画像。
 
追記(2020年8月)
中央下🏁「トウクカン」。右上の🏁「ワンワン村」(大和基地の近く)。右端🏁は「キャンガン」
左端は「ブギアス」。「大和基地」とは山下奉文大将の最後の日本軍の基地があった場所.です。

トッカン街道周辺の3D地図
     
     


以上の記事から終戦直前に敗走して逃げ込んだ最後の場所が「トウクカン」こと「トッカン」でした。
奇跡的に生き延びた父はここで終戦を迎えて昭和20年12月復員。しかし栄養失調と肺結核に侵され、帰国後私たち家族の疎開先新潟県(現在)上越市柿崎区上下浜に漸く辿り着き即入院しましたが
昭和21年1月21日没享年35歳。


追記
(2020年8月15日)
関連参考記事リンク
●証言記録 兵士たちの戦争フィリピン・ルソン島 補給なき永久抗戦 
●ルソン島敗走と捕虜収容所生活
●赤紙で招集され、戦地に送り出された日本赤十字社の従軍看護婦
追記(2020年9月25日)
関連参考記事リンク
戦没者の過半数は餓死だった。「名誉の戦死の実相とは」 
バギオ周辺ボントック道周辺遺骨収集  ●「お前が証人だ」

太平洋戦争の犠牲者数(公称ー但し海外在留邦人の犠牲者数は正確な人数が把握されていない)
軍人軍属=230万人 民間人=80万人  合計=310万人

管理者の「東京空襲~終戦」記録はこちらリンクです。
 戦後76年を迎え戦争の悲惨を忘れない様に語り続けよう
                                2021年8月15日 管理者 小川久雄