我が家の東京大空襲被災記録  2010年8月15日記

 父が出征した後は、母が一人で東京巣鴨(JR大塚駅の近く)で生花店を切り回していた。しかし戦局はますます悪化してきた。サイパン、テニアン、ガアムが玉砕すると、米軍はここからB29爆撃機を東京に向けて発進した。昭和19年11月から5月25日まで計7回の焼夷弾投下で東京市街地の50%以上が焦土化した。特に3月10日未明の江東、墨田の下町を中心とた空襲は最も被害が大きく、この空襲だけで約10万人が死亡した。
我が家のあった豊島区、巣鴨、池袋方面は4月13日夜から14日未明にかけての空襲であった。
 飛来するB29爆撃機          焼夷弾の雨               焦土となった東京
  

以下その日の母の記憶から
 4月13日の夜、空襲警報の中、母は何時ものように真っ暗の中で赤ん坊の私に防空ズキンをかぶせて背負い、いざ立ち上がったら脇の下に出るはずの二本の足がない、慌てて背負ったので足が折れてしまったかと振り返ったら、私の顔が見当たらない、またまたびっくり、何と反対に背負っていたのだ。
 早く避難しないと、背負い直ししないで私は後ろ向きのまま、今日は何時もの防空壕では危険と判断した母は、兄の手を引き近くの省電(現在の山の手線)大塚駅のガード下に避難した。その時近所の同じ避難する人から「ガード下は炎が吹き抜けるから危険だ」と言われたが、母はそれでも空から降ってくる焼い弾や炎にガード下のほうが安全と判断し、夜中じゅう何人かの避難者と耐えていた。
 翌14日朝、見ると何と周りは焼い弾で焼かれた人のくろごげ死体だらけ、その中に昨夜親切に注意してくれた近所の人も混じっていたそうだ。家の方角を見ると一面の焼け野原で我が家は跡形もなかった。東京大空襲の一夜であった。
 家を失った私達親子三人、仮住まいで母の実家新潟へ疎開すべく準備している頃、またまた空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響く、親子三人は近所の人と近くの防空壕に避難した。外の焼い弾の音を聞きながら暗い防空壕でじっと耐えていた。ところがこの防空壕の扉が多分外の火災の熱で中からどうしても開かない。
 近所の人と一緒に開けようとしてもびくともしない。せっかく大空襲のなか生きのびたのにここで親子三人死を迎えるのかと、母は真剣に考えたそうだ。扉を叩き続けた結果偶然通りかかった人が気が付き、扉があけられた。(昔し母から聞かされた当時の話しを思い出して)
その母は波乱万丈の人生を送り94才で他界しました。
追記 2020年6月に13回忌を行ないました。

昭和19年11月24日に始まった空襲は20年2月25日、3月4日、10日、4月13日、15日、5月24日、26日の計7回の大空襲で死者11万5000人、負傷者15万人.......
東京空襲の後は日本全国の都市に焼夷弾爆撃が拡大。そして広島、長崎の原爆投下で終戦を迎えた。全国の空襲による死者は約55万人と言われている。(調査機関により差がある)

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[参考文献]と「写真」
@「図説-太平洋戦争」
A「一億人の昭和史」No4空襲・敗戦・引揚--毎日新聞社編1975年

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私たち親子が疎開したのは昭和20年5月末疎開先は新潟県現在の上越市柿崎区上下浜、母の実家の近くの叔母の家であった。
まもなく8月15日に終戦を迎えたが、筆者3才の時でほとんど記憶はないが、その日親子三人で母親の実家(又は叔母の家か?)に行き、ピーピーガーガー言うラジオの前に親戚一同集まってラジオから流れる「玉音放送」を聞いた。
「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の処置を以って時局を収拾せむと欲し玄に忠良なる臣民に告く、朕は帝国政府をして米英文蘇四国に対し其の共同宣言を受託する旨通告せしめたり、.....」何がなんだか分からなく放送は終わった、しばらくして叔父さんが「戦争が終ったんだよ」と言った。

追記(2020年8月)リンク
父の太平洋戦争従軍とフィリピン北部ルソン島の悲劇 

戦後75年を迎え戦争の悲惨を忘れない様に語り続けよう
                                2020年8月15日 管理者 小川久雄