全国の熊井様からいただいた情報 

○広島市にお住まいの塚脇様   「祖父の旧姓が熊井でした」

はじめまして。
私は、福岡県福岡市で育ち、現在は広島に住んでおります。
私の母の実家は福岡県飯塚市にあります。幼少の頃は直方市で育ったと聞いております。
母は、昭和7年11月生まれで、旧姓は梅野といいます。
飯塚では、梅野の殿様の末裔として、かなり有名な一族だったようです。
祖父は梅野家に養子にきました。旧姓は熊井で、古月村(現在の鞍手町)出身だったと聞いています。
分家とはいえ、梅野家に養子に来ており、結婚もおそらく大正の頃で、家のつりあいを重視する時代ですから
同等かそれに近い家柄の出だったのでは、と思われます。
曽祖父は大きな料亭をやっていたそうで、祖父も魚を捌くのが大変上手だったそうです。
残念ながら、祖父は昭和17年か18年に外地で戦死しました。
母の記憶によれば、小学校の頃(戦前か戦時中になりますね)に父の実家の古月村に行く機会があり、
その墓が十字架だったというのです。初めは柵かと思い、間が空いてつながってないのを不思議に思い、
なんで柵に花を置くのだろうか、などと思ったそうです。
家の前に、広い畑があり、大きなスイカがいっぱい転がっていて、持って帰れと勧められたことが
印象に残っているとのことでした。
母の家は禅宗でしたが、家には分厚い聖書や賛美歌があり、なんでこんなものがあるのかと不思議だったそうです。
譜を読みながら歌っていると、祖父が「そこ、ちょっと違う」などといって教えてくれたそうです。
多分、祖父が婿入りの際に持ってきたものだろうということでした。
それを聞いて、ひょっとしたら祖父の家は隠れキリシタンだったのではないかと思い、
墓地くらい残っているんじゃないかと思って検索していて、貴方のページを見つけました。
祖父は養子だったので、家紋などは伝わっていないと思いますが、今度母に聞いてみます。
新たな情報がありましたら、また連絡いたします。

このホームページに情報をお寄せいたいた熊井様同士の中で新たな縁戚関係が判明しました!

○小金井市にお住まいの熊井様
はじめまして先日、貴殿より熊井姓のルーツについて調査していらっしゃる旨のはがきを頂戴しました。ありがとうございます。
早速、書かれていた「熊井家のホームページ」を開いたら、小生の出身である福岡県大川市のことも、話の中で多く出でくる事に多少なりとも驚いています。
確かに熊井姓は、大川では、多くみられる姓ですがその中には親戚も多く存在します。
高校まで実家で生活しており、そのせいか、特に姓を意識した事はなかったのですが、24年前に上京してからは、自分の姓対しての稀有な存在を感じておりました。
家の敷地内にあるお墓の裏には、家系図が彫られていたような気がします。
いつも帰れる訳ではありませんが、大川の実家には、まだ両親も健在ですので実家に戻った際に少しでもお役に立てるような情報をご提供できればと思っています。
(注)
 小金井市にお住まいの熊井様と埼玉県東松山市の熊井様が、この度、遠戚関係であることが分かりました。おめでとうございます。 

○大分県豊後高田市ご出身の熊井様

大分県豊後高田市(旧 西国東郡香々地町)出身の熊井と申します。
熊井姓について読ませて頂きました。私の知っている地元の熊井についてと
言い伝えを紹介いたします。

まず書かれていた通り香々地の夷の奥地に狩場という地域があります。
山を挟んで西狩場と東狩場に別れます。西狩場には熊井姓、東狩場には
隈井姓が多いです。私の父親は西狩場の出身です。

また、東狩場より手前(下流側)の東夷 に六所神社という神社があります。
言い伝えでは戦で敗れた足利尊氏が逃れて来た際、必勝祈願をして6本の杉を
植えたといわれています。
30年くらい前までは大きな杉がありましたが、枯れてしまう前に順次
伐採されてしまいました。

その六所神社から川を挟んだ向かい側に大きな岩が窪んだ洞穴みたいなのが
あり、゛平家の隠れみの゛と呼ばれています。檀ノ浦で敗れて落ちてきた
人達が隠れていたと伝えられています。
これまでこれらの伝説はあまり信用していなかったのですが、
今回読ませて頂いた内容から関係性があれば面白そうな気がしましたので
情報として活用して頂ければと思います。


○北海道にお住まいの熊井様

偶然見つけました。こんなに研究されてる方がおられることと、こんなに多くの熊井さんがいることで驚いております。
早速ですが、
主人も熊井です。
5代ほど前に、屯田兵として札幌琴似に長野県安曇郡豊科
から移住。
現在の山手地区に広く子孫が居住し、本家長男である夫は旭川において医院を開院、札幌には姉と母がおります。  
近くに、叔父のほか、新家(しんや)、新宅(しんたく)と呼ばれる分家があり、山の手では町内会、民生委員等の重職を熊井一族でさせていただいておるようです。
私が結婚した時は、家前の道路が「熊井通り」と呼ばれておりました。
長野では紺屋(染物や)をしていたときいておりますが、宮大工についても聞いたことがあります。
義父は長野の豊科とも往来があり、私共は年賀状程度のお付き合いです。
札幌琴似の熊井は総勢数十名と思います。

家紋は桔梗です。
多分札幌に来てからと存じますが、神道です。
義父は神社や冠婚葬祭で直垂を着て笛を吹いておりました。
蛇足ながら、義父は岳心流の詩吟で北海道支部長を務め、コロンビアレコードから何枚か出しておりました。


○大阪府にお住まいの熊井様

パソコンで遊んでおりましたら このホームページに辿り着きました。非常に楽しませて頂きました。
同じ熊井姓ですので、どこかではつながるかも知れませんね。
私の祖父は 四国の高松出身です。父からは四国の遠い親戚に家系図が有り、一度見た事も有ると言っておりました。しかし、今では家系図の所在をたどる事は難しいと思います。
私の祖父や父より 先祖が義経と共に一ノ谷鵯越をした事を何度か聞かされた事が有ります。また義経と共に四国に渡り、四国で義経と別れ身を置いたとも言っておりました。
時間が出来ましたら、またホームページにアクセスさせて頂きます。


○さいたま市にお住まいの小林様

 熊井理左衛門という人物の能力には、驚かされること、しきりです。商業統制から戸籍改正、土木事業などなど、都市行政のありとあらゆる分野で、彼を中心とする名主組織が大活躍します。残念ながら、安政年間、熊井理左衛門ほか2名の指導的名主は、収賄の罪で投獄されます。ただし、これは、彼らの活躍や発言力の増大を快く思わなかった町奉行所関係者の陰謀によるぬれぎぬであったことが、関係史料によってほぼ確実です。投獄された理左衛門以外の2名は牢死しますが、理左衛門は生き抜きます。彼の強い信念が厳しい入牢生活を克服したように思えます。追放刑を受けた理左衛門の行方は史料からは分かりません。今夏中に、理左衛門たちの投獄事件にも言及した論文を発表します。

(管理者 注)
 熊井理左衛門に関する論文を発表されておられる小林先生から直々メールをいただけるとは……、思いもしませんでした。ただただ感激しています。
 小林先生、有り難うございました。
 今夏発表されるという先生の新たな研究の成果が、いまから楽しみでなりません。


○千葉県にお住まいの青柳様
 
 初めまして。祖父(青柳源之丞)の名前を検索したらこのサイトにいきあたりました。自分は、片丘南内田に高校までいまして、現在は千葉にすんでおります。熊井教授は隣家の熊井さんでは無いかと思います。片丘には北熊井・南熊井とあり、また熊井姓も多かったのを憶えています。時々実家に帰るのですが、あまり変化は無いようです。熊井姓のことをここまで調べ上げたのはすばらしいですね。すべては読んでいないのですこしづつ読まさせていただきたいと思います。それでは、また。

(管理者 注)
 熊井姓の調査については、熊井恒次氏の父上であられる熊井邦隆氏の書かれた『私の八十八年』が最初です。その本の52頁「熊井の苗字のこと」に次の記述があります。「昭和三十七、八年のことです、(中略)突然来訪した老人が、(中略)熊井の苗字を誉めて何処の熊井かと尋ねました。私は熊井の苗字のいわれなどは全然知らない、と答えたところ、…熊井という苗字は、昔さる殿様が帰農したときに用いた苗字で大変由緒がある。(そこで邦隆氏が)お宅も熊井と何か縁のある方か、と尋ねると、(その老人は)何の関係もないが苗字の研究をしているものだ、ということでした」。
青柳様の御尊祖父であられる青柳源之丞氏が「熊井城調査報告」をされたのは昭和45年頃とお聞きしています。大岡村の熊井邦隆氏を訪ねた「老人」とは、おそらく青柳源之丞氏その人のことではなかったか、と私は考えています。熊井恒次氏の地方史『長野』掲載の「熊井城と熊井姓」は青柳源之丞氏の御研究を基に書かれており、そしてこの「熊井家のホームページ」も御尊祖父様の調査がなければ、存在していないでしょう。熊井姓調査の端緒を切り開いてくださいっ御尊祖父様には心から感謝しています。
 
 それにしても青柳源之丞氏は何故「熊井」のことを調べられたのでしょうか。私にはこのことが長い間疑問でならなかったのですが、そういえば聖山の南裾には青柳城址があった、と遅まきながら気づいたのです。……東信濃・北信濃・西上野に栄えた豪族に滋野一族がいました。
 青柳氏はこの滋野一族麻績氏の一族
で、伊勢神宮の御厨預職として、大岡村聖高原南裾の麻績村・坂北村に城館(麻績城址・青柳城址)を構え、守護大名小笠原氏に仕えていました。後に武田勝頼の母諏訪御料を生んだのが、この麻績城の麻績氏(青柳氏は麻績に移り麻績氏を名乗りました)の娘(諏訪氏と麻績氏との同盟の証に差し出された)でした。青柳源之丞氏はその調査資料の中で「本村(大岡村)の所謂旧家と称するもの皆勝頼の生母に従いて天宗寺に来たり、天正十年(1582)に武田氏亡びるや帰農した」とも書いています。ここでの詳細な検討ははぶきますが、青柳氏と熊井氏との間には、小笠原氏、大岡村(大岡城北小松尾城)、諏訪氏、真田家(真田家もまたこの麻績一族)…といった、まさに歴史的に重なり合うような接点があった
 青柳源之丞氏は、遠い遠い昔に青柳氏と熊井氏との間には何か深いつながりがあったことを知っておられて、ご自分の姓である青柳氏の調査と「重ね」合わせるようにして、「熊井」のことも調べられた。「熊井城調査報告」はその成果のひとつであった、とは考えられないでしょうか。


東京にお住まいの熊井様

小生は、出身が長野県岡谷市、現在東京暮らしで、家内も同郷で同年齢です。
登山が趣味で、山に向かう時に途中に熊井という道路の住居標識があれば、記念写真を撮っています。
塩尻市と埼玉鳩山市に○○熊井があった記憶があります。
家の紋章はです。父の出身は、佐久市長久保、母は伊那と聞いています。


○長野市にお住まいの熊井様

先祖からのことについては何もにも聞いてません。
出身は長野県牟礼村で現在は、長野市に在住しています。
家紋は「丸に沢潟(おもだか)」です。
熊井家が、塩尻の小野神社の神官を幕末までやっていたと拝見しました。
今年は御柱の年です。新聞に氏子達が「丸に沢潟」の家紋をつけたハッピをつけた写真がのっていました。
調べた所、小野神社は江戸時代に類焼し、松本藩主水野忠直が再建したそうです。
水野家の家紋は「丸に沢潟」で、本殿にも同家紋が刻まれているそうです。
はっきりした事はわかりませんが、何か繋がりがあるような気がしてなりません。

(管理者 注1)
長野県内の熊井姓のお宅については、熊井恒次氏が調査研究されておられますので、私は手を染めておりません。長野県以外のお宅については、図書館備え付けの電話帳により、掲載されているお宅についてはすべてのお名前と住所、電話番号を存じ上げておりますが、長野県については、いわばブラックボックス。それだけに長野市の熊井様からの情報を有り難く思いました。私はまだ現業についており、調査に専念できませんが、おいおいにその穴をうめていくつもりです。行き届かない点が多々あると思います。時間をください。
長野県の熊井様からの情報をお待ちしています。


(管理者 注2)
 塩尻市内を北上する河川に奈良井川と田川があり、この二つの河川は松本市街を過ぎたあたりで薄川、女鳥羽川と合流し犀川となり、この犀川に上高地を源流とする梓川が、明科町で北から流れ下ってきた高瀬川が流れ込み、犀川は長野市落合で千曲川と合流し、やがて信濃川と名前がかわります。不思議なことに長野県内の熊井姓のお宅の分布は、ほとんどがこの犀川水系と千曲川水系の中に集中しています(253世帯のうち220世帯)。
○高瀬川水系…松川村(10)・穂高町(14)・明科町(14)
○奈良井川・田川水系…塩尻市(27)・岡谷市(8)
○犀川水系…松本市(20)・豊科町(19)・大岡村(12)・長野市(50)
○千曲川水系…上田市(11)・更埴市(7)・須坂市(11)・山ノ内町(7)・牟礼村(10)
 犀川の支流のひとつ田川が、塩尻市片丘熊井を北上していることから、塩尻熊井を本願とする熊井一族に何らかの大事件が起こった結果、ばらばらになって川沿いに逃れ、それぞれの地に落ち延びていった。その大事件とは、天文14年(1545)6月14日の熊井城落城であった……。

(管理者 注3)
『吾妻鏡』の記載によると、平安末期の信濃国の荘園において筑摩郡の小俣郷・熊井郷が併記されています。「開拓者が同じだったのでは、しかし熊井郷と小俣郷とは2キロばかり離れているのが疑問でならない」。この疑問を解くカギは、小俣郷が奈良井川沿岸にある、このことにあるのではないでしょうか。開拓には水利技術が不可欠です。熊井郷を開拓した熊井氏は水利技術集団で、その技術をもって小俣氏が小俣郷を開発するのを請け負った。だから熊井郷と小俣郷は併記されることになったというわけです(あるいは、小俣氏が熊井郷の開拓を手伝ったのかも知れませんが)。
 熊井氏は水利技術をとおして河川のことを熟知していた。だから、犀川水系に熊井姓が多い、というのも捨てがたい。しかし、(注2)の解釈・ドラマ性の方に、HP管理者としては関心が惹かれてなりません。

○高崎市にお住まいの熊井様

比企郡の小川町、鳩山町熊井の地を訪れたとき、以前見たことのある風景だ、と感じました。記憶の遺伝があると読んだことを思い出しました。本当でしょうか?


○宇土市にお住まいの熊井様

家紋は「陰酢漿草」です。
馬刺しを食うのは熊本と長野です。生活慣習は同族を示すのでは、前から調べてみたいと考えていました。


○神奈川県にお住まいの熊井様

当家の家紋は○に井桁に根笹です。
祖父は、慶応元年群馬県高崎市の近郊に生まれました。
同市の呉服商で修業の後、独立して市内田町に呉服店「うろころ」を開業。
数度の盗難や火災にあいながらも、努力を続け、大正から昭和初期にかけては県下屈指の豪商となりました。
渋沢栄一氏にも目をかけられ、最盛期には多額納税者として貴族院議員にも立候補するまでになりました。
昭和16年77歳で没。
呉服店も戦後の混乱で倒産、廃業しました。
現在、子孫は高崎市ほか関東一円に多数居住しております。


○東京都にお住まいの熊井様

当熊井家の由緒についてご連絡させていただきます。

深川熊井町縁起:

江戸開府当時の400年前、江戸の町作りが盛んになり寛永6年(1629年)
老中酒井雅楽守忠世の浜屋敷に住んでいた摂津出身の猟師8人衆が大川
(現隅田川)河口の干拓を行い現永代橋から富岡八幡宮辺りの湿地帯を町
並地とし、俗称深川猟師町とする。その猟師8人衆の中に「熊井理左衛門」
という人物がいた。後に8人衆の名前をとり「理左衛門町」等の町名で呼ばれた
が後に苗字をとり「熊井町」後に「深川熊井町」として昭和の初期の町名変更まで
残っていた。現在の江東区永代1,2丁目辺り。(江東区深川江戸資料館調べ)

当熊井家の縁起:
奥州白河藩の御典医「石塚玄碩」が松平越中守定信が田沼意次失脚により
老中首座となり江戸詰めのとき一緒に江戸に出、松平越中守の屋敷近くの
熊井町に屋敷と熊井姓を賜り「熊井玄碩」を名のる。
後、定信の隠居に伴い
出身地の白河藩に戻り、現福島県西白河郡泉崎村で開業医となる。
以後宗家は三代医者が続き、後は農業を営んで居ります。私は6代目です。
家紋は「丸に桔梗」で、石塚家のものです。
石塚姓は中世の岩瀬風土記(福島県須賀川市辺り)に登場する土着の姓です。

参考:JR東京駅地下待ち合わせ場所「銀の鈴」の床面に東京の古地図
    焼付けタイルが貼ってあります。隅田川永代橋の下側に熊井町
    記載されております。機会の折にご覧ください。

注(HP管理者:『江戸古地図散歩』 平凡社 40頁4行目)
深川の地の開拓者
深川八郎右衛門(摂津の出身)
熊井理左衛門紀州出身)

嘉永3年(1848)〜5年(1853)と時代は下りますが、『大日本近世史料』(『東京大学史料編纂所報』第27号p.75)に、「苗字御免の堀江町(現在は日本橋小舟町)名主熊井理左衛門」の記載がありますよ。


宮大工をされていた熊井家

○札幌市にお住まいの熊井様
1.出身県  島根県松江市雑賀町
2.渡道の切っ掛け
   松江藩士であったが、廃藩置県により禄が貰えなくなり、困窮の末、祖父の熊井栄之助が20歳になった年の明治21年5月に屯田兵として、札幌郡新琴似村(現在の札幌市地下鉄南北線終点駅麻生)に入植した。屯田兵の資格は20歳以上のため、20歳になるやいなや父母、妹、親族郎党を引き連れて来道したらしい。
3.熊井姓の由来及び家系
   350年ほど前(現在の出雲大社本殿は延享元年:西暦1744年造営。禎臣調べ)に、宮大工の棟梁として、出雲大社を再建し苗字帯刀が許されたと聞いている。
   最初の姓は熊谷で5代目から熊井の姓に改姓されています。その理由は不明です。
   島根県の前は山口県が出身である聞かされています。
   松江藩における代々の襲名は熊井喜右衛門です。
   熊井家の代々は男子が生まれないため、婿養子が永く続き、祖父が初めて男子を授かったと言われています。そのため、現在は松江には熊井姓を持つ親族はいないと思います。私で熊井家14代目になります。
   歴代の中には、松尾芭蕉の弟子去来の弟子で、俳句を嗜み熊井庄人として100人の弟子を抱えていたと先祖もいました。俳句に関する秘事項が代々に伝えるという巻物がありましたが、残念ながら火災で焼失してしまいました。
4.家紋 「三つ巴」紋

(注1)
 現在東京都内にお住まいの方から、山口県出身でやはり代々宮大工をしてきた、との情報をいただいております。両家はおそらく縁戚関係にあるのでしょう。ホームページ管理者として嬉しい限りです。

(注2)
 「最初の姓は熊谷で5代目から熊井の姓に改姓」とのお知らせを頂きました。「熊井」と書いて「くまがい」と読まれるお宅のあることを、「須崎のホームページ」で知りましたので注記いたします。


○群馬県にお住まいの熊井様
 先祖は埼玉県の出身。家紋は「根笹」で源氏の裏紋と聞いています。上野風土記稿卷242碓氷之領5に、旧家の者で村の長にて熊井氏なり、先祖を重満という。出身地武蔵の国比企領鳩山とあり、上野国箕輪城主。落城後武田氏の捕虜となり長野に行き、後に服従を条件に群馬に帰った。菩提寺(曹洞宗)では、熊井は500年前ほど鎌倉から落ち延びた5軒のうちの1軒と聞きました。

(注)
 上野風土記について「群馬県立図書館調査相談室」に調査をお願いしたところ、「上野志料集成」第一巻に「上毛国風土記」(解題には「上野風土記」と表示されている)が収載されていますが、このなかには「卷242碓氷之領5」という部分はありません。「第一碓氷郡」という部分はありますが、このなかにお探しの記述は見つけることはできません。他に「上野風土記稿」という資料に該当すると思われるものは、当館では所蔵しておりません、との返事をいただいております。
 重満についても調査しました。熊井土対馬守重満と同人物と思われますが、この姓は群馬県甘楽郡小幡郷を本貫とする武士団の姓で、国峰城主小幡氏の重臣でした。今日でも甘楽町には熊井土姓のお宅が20軒あります。熊井土氏は熊井氏とは別の姓ではないでしょうか
 群馬県某市にお住まいの熊井さん、上野風土記稿の内容を確認するために時間を要し、HPへの掲載が遅れました。お送りいただいた資料は、武蔵風土記の記述をまねて意図的な修正の手が加えられた可能性が高いと思われます。でもこれは家にさらなる権威づけをするためによくおこなわれることなのです。せっかく資料をいただいておりながら、失礼千万なものの言い様。どうかお許しください。


○愛知県にお住まいの熊井様
こんばんは。はじめまして。愛知の熊井と申します。^^本日は、はがきをありがと
うございました。「親戚の方が 埼玉に引っ越したのかな〜」なんて思ったら・・・

ウチの主人は、三重県出身ですが主人の父が長野の出です。「長野の実家のお墓参り
にいくと、熊井家!熊井家!熊井家!だぞ〜」なんてよく主人がいっていました。長
野へ旅行へ行った時にも「くまい動物病院」をみつけ、妙に嬉しかったものです。
(笑)
主人に聞いた話によるとルーツは、もちろん「長野」。そして高校生のころよく言っ
ていたのが「家紋が葉っぱが9枚で「ク(9)マイ(枚)」なんだぜ〜!」なんて笑
い話でいっていましたが、ホントかなぁと思っていたのですが、『9枚笹』のことな
のかもしれませんね。なるほど〜!面白い!と HPを見せていただきました。^^
同じ「熊井さん」が このような活動をしているのを知りとっても嬉しいです。^^
これからも 時々HPに遊びに行かせて頂きますね。
ありがとうございました。


○京都市にお住まいの熊井様
はじめまして。さて、お手紙の件ですが祖父は父が幼少の頃に他界しており、祖母もすでに亡くなりましたので詳しくはわかりませんが、父や母に聞いたことだけですが報告します。曽々々祖父は丹波篠山の出身で二本差のお殿様だったと常々祖母が言っていたとの事です。その後、御所出入の薬商人になったとのことですが、正確で詳細なことは何一つわかりません。これ以上はわかりませんがご了承くださいませ。又わかったことがあれば、ご報告させていただきます。できれば恒次氏調査資料を頂けませんでしょうか。最後になりましたが家の家紋ですが大変珍しいものらしく京都の紋屋にはどこにもなくいつも特注です。紋は「雪輪に土佐柏」です。


深川は熊井町の開拓者、「熊井理左衛門」御子孫様からの情報

○千葉市若葉区にお住まいの熊井様
前略 貴簡について、記憶の範囲内でお答え致します。
関東大震災と太平洋戦争で当家の財産は全滅しました。
家紋は「丸に横木瓜」です。
曾祖父は下谷清島町で和菓子商を営み、幕府で用達となった「広木屋」の広木弥兵衛です。婿に迎えたのが、御家人熊井松之助でこれが祖父です。
彼の出自については、尾州徳川家家臣熊井理左衛門の血統ではないかと思います。理左衛門は江戸開府の折、江戸湾埋め立て工事を担当した土木技師で、その功績により熊井町という地名を残しました。
父は福島県浜通太家の血筋にて、代々太清左衛門を名乗り、現在のいわき市江名町周辺を支配し、熊井家に婿入りしました。 早々

(管理者注)
 熊井松之助を理左衛門の裔とし、理左右衛門を「尾州徳川家家臣」とされていますが、手元の資料では、理左衛門は紀州の出身となっています。尾州熊井家は元々紀州浅野幸長の家臣でしたが、幸長の娘が尾張藩主徳川義直に縁づいた際、これに従って名古屋へ移り、尾張徳川家に仕える身となっています。したがって尾張熊井家の祖は紀州浅野家家臣でしたが、幸長の娘が尾張藩主徳川義直に輿入れした際に、その紀州浅野家家臣であった熊井家一統すべてが幸長の娘に従ったわけではないでしょう。しかし、紀州熊井家(熊井理左衛門の系統)と尾州熊井家はおそらく同根と思われますので、千葉市の熊井様の情報は過ちとはいえないでしょう。
 現在も紀州には熊井姓のお宅が多く存在しています。おそらく江戸深川熊井町を開拓した理左衛門と先祖を同じくしているのでしょう。

秋月種長の「岩石城城代熊井越中守久重」御子孫様からの情報

○練馬区大泉学園にお住まいの熊井様

前略 熊井家の調査の件につき問い合わせいただきました熊井でございます。
 私も家系について興味があり、長野県に熊井姓のあるのはその源はどうしてだろうかと思っておりました。
 私の故郷は「福岡県鞍手郡鞍手町古門」でこの村には熊井姓が何軒かあり、熊井本家は「熊井◎◎」で私は分家ナンバーワンと自認しております。幼少の頃「古月村大字古門(当時の住所名)」の叔父宅におり、この叔父が熊井家本家であったので、先祖代々伝言の熊井家の由来を聞かせてくれました。
 熊井本家故プライドが高く娘◎◎の養子捜しは大変でした。私の亡き叔父、叔母も先祖に興味があり調べ、それが同封の岩石城の城主熊井です。
 確認のため私自身十年前田川郡添田町の役場や城跡調査にいきました。亡叔父の伝言では、熊井姓の小大名の親戚の女で、豊臣秀吉より滅ぼされ、子供をつれ逃げ延びてここに住むことに決めたのが本籍地です。
 その昔決めた地点に熊井家守り神の石の1メートル位の祠(キフネ様と呼びます)をたてました。私の幼い頃には毎年何回かご馳走を持ち寄り熊井姓の集まり(おこもり、と呼んでいました)をやっていました。
 岩石山には小さい城もたてられその碑文が同封のコピーです。秀吉の九州征伐では城主を「隈井」の名ででてきますが、私は役場資料の「熊井」が正しいと信じております。家紋は「まるもっこ」、キフネ様は京都の貴船神社のことと亡叔父は言っていました。
 ただ私は八十七歳の高齢で今から新たな調査の馬力はありませんが、関心興味は強いので熊井恒次氏調査資料の複写をお送りください。お願いします。敬具

○秋田市にお住まいの石塚様

(1)  先日実家に遊びにいったとこ お宅様より おはがき頂戴しており、 住人は パソコンには無縁の生活をしておりますので 代理に旧姓熊井が何かお手伝いできたらと 思いメールしました。
 私も5代ほど 逆戻りルーツをチェックしたことがあり 興味ぶかいです。
 ぜひ 資料の複写を 送っていただけたらと存じます
(2) 早速たくさんの資料送っていただきありがとうございました。
 頂いた名簿を 拝見すると 半分は親戚筋のようです。
 先祖は秋田の殿様 佐竹氏(水戸から)についてきたと子供の頃 聞いた事がありました。
 家系図をお送りします。
 家紋は「丸に橘」です。
(注)
 石塚様のご実家の住所は「仁井田」という地名で、秋田市内の熊井様のほぼ全員がこの「仁井田」の地にお住まいです。「仁井田」は「新田」の意味ですから、秋田の熊井様もやはり、新田開拓者の末裔かも知れません。

○府中市にお住まいの熊井様
 
拝復梅雨の候益々御隆昌の由お慶び申し上げます。
 いろいろと御調査されておられるご様子。
 熊井は長野県と大分県の二系列と父より聞いておりました。
 当方は大分県下毛郡三光村がルーツで、大分県中津市、福岡県北九州市にも親族がおります。
 家系は清和源氏の流れと聞いております。
 家紋は三階菱で豊前中津藩小笠原藩主より家紋として受けたと聞き、以前は異なっていたようです。
 恒次氏の資料を希望します。
 末筆ながら益々のご活躍を祈念致しております。   敬具

(注)
豊前国小倉藩は播磨国明石藩から移封されました。しかし、それ以前は信濃国松本藩で、当時の藩主は、武田信玄に敗れ信濃から追われた信濃守護小笠原長時の孫小笠原秀政でした。小笠原藩が移封されたその先々に熊井姓が多いのは興味がひかれるところです。


○荒川区にお住まいの熊井様
 お返事大変遅れまして失礼致しました。
 同姓の由、親しく楽しく拝見致しました。
 私どもの祖父次郎右衛門が当地に居を構えましたのは大正五年と聞いておりますが、
 昭和九年生の私にも遠い昔のこととなり
 お尋ねの事につきましては、確かなお応えができませんのが残念です。
 私が知る限りの事のみ、お応え申し上げます。
(1)神田の古書店にて熊井姓を立ち読み致しました処に依りますと、
 源八幡太郎義家の裔となっておりました。
(2)私どもの祖父次郎右衛門は桂蔵の長男として明治六年十一月二十三日生、昭和二十四年二月三日没。
(3)祖父の出身地埼玉県鳩ヶ谷市三ツ和の熊井家は、祖父の次弟常吉が後継者となり現在に至っております。
(4)鳩ヶ谷在の熊井家の菩提寺源永寺の墓碑銘を見ますと、初代が寛文年間に没し、次郎右衛門となっていたと思います。
(5)常吉の長男伝三氏が在世中過去帳を拝見したことがありますが、(次郎)(治郎)(治良)の違いはありますが、ジローウエモンの名は六名おりました。
 更に遡りますと二十名と聞いております。
(6)伝三氏より聞き及びし事に依りますと、代々名主であったとの事です。
(7)私ども熊井家更なる本家は北区王子(注を参照)の地に在住と聞いております。
(8)家紋は違い鷹の羽です。
 以上お応え申し上げます。

(注…HP管理者による)
「王子権現・稲荷の両社は、すべて紀州熊野山の地勢を写し、前に音無川の流れをうけて風色真妙なり……」。王子権現1322(元享2)年、紀伊国の熊野権現をこの地に勧請したもので、王子の名(熊野古道九十九王子社:主神天照大神 配神は諏訪社と同じ事代主命・建御名方命)はここから出ている。
深川熊井町の開拓者熊井理左衛門も紀州の出身、この王子の地も紀州との関係が深い。偶然でしょうか、何やら因縁を感じてまいります。


○高崎市にお住まいの熊井様
(1) 差出人は○○○になっていますが、書いているのは息子の□□といいます。
   このたびは、興味深いお手紙をいただきありがとうございました。
   祖父の家にも同じ手紙が来たようで早速ホームページを拝見させていただきました。
   以前祖父が「この熊井家の祖先は熊井太郎というんだよ」ということを聞きました。
   そして我が家の家紋は「丸に根笹」です。今後もよろしくを願いします。
(2) 資料どうもありがとうございました。
   早速祖父に菩提の地のことを聞いてみました。
   群馬県富岡市にある得成寺(とくじょうじ)だそうです。
   しかし、お墓は本当に山の中にあり、広さは30坪ぐらいあるそうです。お寺はそこから数・先にあります。そのお墓の中には昔、奉公していた人のお墓もたくさんあり   ます。
   分家に呉服屋をしていた人がいるそうです。
   以前祖父が選挙に行ったとき係りの人に「家紋は?」と聞かれたそうです。実はその係りの人も熊井という姓で家紋は「丸に根笹」だったそうです。
   それともう一つ。昔、母がつとめていた所に熊井さんという人がいて、いろいろと話をしたらしく、やはり家紋は「丸に根笹」でその方の先祖は呉服屋をしていたと言    っていたそうです。
   その方々とは親戚ではありませんが、同じ高崎市内です


○横浜市にお住まいの熊井様
(1)私どもは群馬県高崎市豊岡の出身です。高崎市では三代続いて呉服商として手広く仕事をしておりましたが、中心になるものが戦中、学徒出陣(特攻隊)で戦死   し、 戦後も大変な思いをしまして、昭和三十九年までで閉業し上京いたしました。家紋は「丸に根笹」です。
(2)熊井家の歴史ルーツをお送り下しまして有り難うございました。長野県の資料、素晴らしさと大きさに驚き、また興味を惹かれました。之をお調べになり多くの費用を    かけられた方々に頭が下がります。貴重な経歴を有り難うございました。


○三鷹市にお住まいの熊井様
(1) 本日は「熊井家のホームページ」の件でお手紙いただき誠に有り難う御座いました。
   私もかねてから関心をもっていますが、なかなか資料がなく困っていました。
   私の本籍は高知県土佐清水市布で、当地には熊井姓が10軒ほどあります。
   墓誌によれば江戸中興の時代から農林業をはじめ酒造業等各種事業を営むとなっています。
   家紋はクマイ笹です。
   私も農林省時代全国をよく廻りましたが、熊井姓は少なく、ルーツは一つではないかと先祖に関心を寄せています。
   全国大会もすばらしいことと思います。
   何かお役にたつことが御座いましたら連絡してください。
   よろしくお願いします。
(2) 本日は熊井家に係わる大変貴重な資料を送っていただき誠に有り難うございました。
   よく調査されていることに感銘しました。
   かねてから熊井姓は少ないと思っていましたが、長野県をはじめこんなに沢山いるのにもいささか驚きました。
   ルーツを辿れば一緒ではないかと考え大変親しみを抱き、あらためて佛と霊に手を合わせたことでした。
   大きな輪となって連帯の灯火が点火することを切望しています。
   私に何か役に立つことができましたらご連絡くださいませ。
   本日は取り敢えずお礼まで。 
(3)熊井家一統の連帯の輪の広がりを期待しています。

管理者注
  平成19年9月23日ご逝去されました。享年79歳。ご冥福をお祈りします。合掌


○横浜市にお住まいの熊井様
 拝啓
  始めてメールさせて頂きます。
 私は、ホームページの文中に出てくる熊井基の甥にあたります。
 小学生の時に田中五右衛門の墓を探しに父と都内のお寺に伺ったことを微かに記憶しています。
 叔父や父も祖父からは、あまり祖先のことは詳しくは聞いておらず、
曽祖父も祖父にしか詳しくは話していなかった様で、祖父の兄弟も祖父以 外に詳しく知っているものは、いなかったと聞いています。
(私の記憶も怪しいところですが。。。)
 残念ながら私の祖父は私が生まれる前に他界しており、父が調べ始
めたころ(多分私が小学生ぐらいの時と思いますが)には家系図など存在せ ず、父と父のいとこ達で親戚の名簿を作成しました。
 父と父のいとこ達の代は、戦前戦後の混乱期を肩を寄せ合って生きてきましたので非常に中がよく集まって酒をのむことが好きな様ですが、私 の代は大体兄弟二人でいとこ達ともあまり会わない生活をしています。
「時代の流れ」一言ですまされるかも知れませんが、非常に寂しいことだとふと思いました。
 最近になるまで、熊井姓で、親戚以外の人間とあったことがありませんでした。三文判などでは、結構熊井姓が手にはいるのに何故? と思って いましたが結構いるようですね。
 私は残念ながら親戚以外の熊井姓にあったのは一人だけです。
 お力になれず残念です。
 頑張ってください。      敬具


○富岡市にお住まいの熊井様 
  初めまして。前橋の熊井○○の長男の熊井□□です。
  私のところまでご案内状をいただきまして、本当にありがとうございました。
  今は群馬県富岡在住ですが、実家に帰ると親父が家系の話うれしそうにしているのが印象的です。
  さて、ホームページを拝見させて頂きました。興味深く読ませて頂きました。
  また、政明ちゃんの群馬便りも惹かれるものがありました。
  これからのますますの発展をお祈り致しております。まずはお礼まで。


新しい情報が届き次第、掲載いたします。
楽しみにしてお待ちください。


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