大川市向島を元禄時代に開拓者した熊井家

大川市にお住まいの石橋様(大川市文化財専門委員)
大川市向島(むかいじま)の姓で最も多いのが石橋で次に熊井。
江戸初期まで向島は榎津島(えのきずじま)と呼称され葭が生い茂る広大な湿地帯であった。
その榎津島を元禄時代に開拓して新田に変えたのが石橋・熊井両家であった。
そのときに勧請した厳島神社の奉納者に石橋・熊井両家の名前がある。
久留米藩分限帳に石橋姓は6名あるが、熊井姓はない。
江戸末期熊井家は廻船問屋を営んでいた。
屋号は「武駒屋(たけこまや)」といった



元禄年中大川市向島の神社を創建した人五名の中に隈井の名があります。
しかし、この隈井の姓は、その後向島には該当せず、「熊井」です。
当て字を使用したのかとも考えられます。
お知らせまで


○府中市にお住まいの熊井様
 
  熊井は長野県と大分県の二系列と父より聞いておりました。
 当方は大分県下毛郡三光村がルーツで、大分県中津市、福岡県北九州市にも親族がおります。
 家系は清和源氏の流れと聞いております。
 家紋は三階菱で豊前中津藩小笠原藩主より家紋として受けたと聞き、以前は異なっていたようです。
 恒次氏の資料を希望します。
 末筆ながら益々のご活躍を祈念致しております。   敬具

(注)
豊前国小倉藩は播磨国明石藩から移封されました。しかし、それ以前は信濃国松本藩で、当時の藩主は、武田信玄に敗れ信濃から追われた信濃守護小笠原長時の孫小笠原秀政でした。小笠原藩が移封されたその先々に熊井姓が多いのは興味がひかれるところです。


岩石城熊井一族(福岡県鞍手郡鞍手町の熊井家)の御子孫

熊井様からの情報 

福岡県の熊井家の歴史に強く関心を持つようになったのは10年前のことです。
きっかけは、一つは新聞記者で考古学者の知り合いの影響(彼は九州王朝説)ともう一つは精神科医からもらった本です。
 
今日は2つめのことを少しお話しさせてもらいます。
 
それは確か病蹟学(歴史上の人物を精神医学的な解釈から歴史を見る)の本だったと思います。
興味はなかったのですが、たまたま開いたページに秀吉の岩石城攻めのことが書いてありました。
 
それは貴もしくは他のホームページで書かれていた物とは少し違っていたと思います。
 
1日で岩石城は落ちたと書いてありますが、秀吉はかなり攻めあぐねていたようです。
時々城から出てくる黄色い布をまとった騎馬軍団に蹴散らされていたようです。
水道を発見してやっと城を攻略した秀吉はビックリ、あの勇猛果敢な岩石城の兵士は皆
キリシタンだったのです。こんな兵士が自分の敵になったら大変だということで、
秀吉はあわてて博多からキリシタン禁止令を発令したと書いてありました。
 
岩石城の熊井一族の一部は恐らく大分のキリシタン大名の大友の庇護下へ、一部は私の故郷の鞍手町へ逃れました。
私の父と祖父母はクリスチャンで、子供ながらに村の皆は神社やお寺に行くのに、日曜に牧師が我が家に来てお祈りをすることに対して
不思議に思っていました。また私の知人が私の田舎の山奥(歩いて一時間)の所に、
隠れキリシタンが拝んだと思われる大きな石に刻んだ十字架を3個発見しています。
私は自分の家が代々隠れキリシタンであったと確信しています。
 
鞍手に逃れた王子の名前は熊井熊王丸と叔母(生存)から聞いています。
個人的に大変興味があるのは鞍手町に逃れた熊井家がどうして無事であったかとのことです。
もとより博多までは車で40分のところで、北九州近郊で山奥でもなくむしろ海に近く秀吉の目から逃れられるはずがありません。
豊前の大友に逃げかくまわれた人たちは無事でしょうが、すでに近隣の人が貴ページに投稿しているように鞍手町も結構多く熊井人はおります。

勝手な想像でしか有りませんが、
鞍手に逃げた熊井の一族は宗像大社に保護されたと思っています。
宗像大社は源頼朝の時代にその社領が平清盛の時代の千分の一になりました。
そして残った社領が宗像大社周辺と鞍手町なのです(鞍手町は人口の割には神社が多い)。
そして岩石城を作ったのが平清盛です。
岩石城と熊井と宗像大社の結びつきは容易に想像できる物と思います。
 
恐らく宗像大社が秀吉に熊井一族のキリスト教を元の神道に改宗させるという条件を付けることで、
鞍手町に幽閉された形になったのではないかと思います。
その結果、地元の貴船神社で行われる毎年一回のお籠もりを、
代々キリスト教一家である我が家も参加していたいう妙な状態が生じたのではないでしょうか。

ある年みんな酔っぱらって、回り持ちしていた大事な家系図をなくしています。
その家系図は開けると目がつぶれると言われていたので、現在内容を知る人はおりません。
それが有れば熊井家のかなり古いことが分かったでしょうが残念です。

管理者注
@「お籠もり」については、やはり熊井越中守久重の御子孫で練馬区大泉学園にお住まいの熊井様からも次のような情報をいただいております。
その昔決めた地点に熊井家守り神の石の1メートル位の祠(キフネ様と呼びます)をたてました。私の幼い頃には毎年何回かご馳走を持ち寄り熊井姓の集まり(おこもり、と呼んでいました)をやっていました

A貴船神社の祭神高おかみ(おかみは、靈の巫を龍に変えた字。龍もまた水の神様)は水を司る神様です。水の神様とは別ですが、私どもの熊井家でも代々熊井一族の集いがあり、中でも最も重要なのが正月11日集いでした。前橋本家長男の長子(現在は次男の叔父が本家を継いでいます)である私は実際は前年の6月1日に生まれですが、熊井家の最大の集いである正月11日をもって誕生日とされました。また大川市にお住まいの石橋様から、「大川市向島(むかいじま)は、江戸初期まで榎津島(えのきずじま)と呼称され葭が生い茂る広大な湿地帯であった。その榎津島を元禄時代に開拓して新田に変えたのが石橋・熊井両家であった。そのときに厳島神社を勧請した。厳島神社の奉納者に石橋・熊井両家の名前がある」、とのお便りもいただいております。厳島神社の祭神も、素戔鳴大神の御子神、市杵島姫命ですが、やはり水を司る神様です。
 貴船神社は義経が平氏の追討を祈願して詣でてもいます(『義経記』「牛若貴船詣の事」参照)

B時代からいって熊王丸違いであることは確かですが、神戸市にも「源義経の郎党、熊王丸(鷲尾三郎経春)」の伝説が残っています。

C義経の正妻・郷姫は川越上戸に館(現常楽寺)を構える豪族河越重頼の娘でした。
 この河越氏は鎌倉街道が通る入間郡葛貫(坂戸市)を開拓して馬牧を経営していて、河越別当葛貫別当と称していました。
 この河越氏は鎌倉時代に地頭として豊後国香々地(大分県香々地町)に移住しています。
 同じ頃、河越氏の馬牧があった坂戸市の北隣鳩山町熊井の地から、熊井党が忽然と姿を消しています。
 
河越氏が地頭として移住した大分県香々地町は熊井姓集中地区のひとつです。
 源氏の頭領である頼朝が亡くなり執権北条氏の時代になると、頼朝恩顧の御家人たちの多くが歴史の表舞台から消えていきました。
 熊井越中守久重の御先祖は、おそらく埼玉県鳩山町熊井出身の熊井党だったに違いなく、豊後の熊井氏もきっとこの熊井氏の末裔と思われます。

○福岡市にお住まいの小野様

はじめまして。
旧姓熊井で、結婚前の本籍は、福岡県大川市向島です。
郷土史家であった大伯父や実家の父から伝え聞いたことですが、
先祖は、かつて廻船問屋を営んでおり、藩御用商人だったそうです。

大川の大伯父宅(本家と言っていました)は、港から細い道を挟んで広い土間のある入口があり、
帳場のようなところを通って広間、敷地内の古い醤油樽跡や土蔵(中には入れてもらえませんでした)、
数々の陶磁器の入った箱の積んである2階の広い納戸、
昔の嫁入り道具の大きな箱(長持?)等で遊んだ覚えがあります。
向島には曽祖父が戦後呼び寄せた祖母の実家(佐賀諸富町の豪農)があり、
小さい頃はほとんどそちらに遊びに行っていましたので、他の熊井姓の方々は残念ながら知りません。


曽祖父は80年ほど前に佐世保に移住し、味噌醤油醸造業を営んでおりました。
屋号は『武駒』です。現在は、弟が跡をとっております。
ただ、HPにかかれていたこととは異なり、武駒を名乗ったのは、高祖父駒次郎からと聞いております。
また、元々は大阪近辺の『はやと(漢字不明』という商人で、豊臣の時代には、朱印状を持つ廻船問屋だったとか。
実家には、当時の高名な僧侶の手による直筆の書も伝わっています。
20
年近く前に、西日本新聞のお正月特集で、我が家(廻船問屋)のことが掲載された記憶があります。
尚、家紋は、丸に片喰(カタバミ)です。


久留米市の熊井様からの情報

 拝啓
 もっとはやくお返事をだそうと思っていましたが、つい遅くなりました。それというのも、私どもも実は、まったく同じ条件で、数年前より、家系が分かればと思いをめぐらせていた次第です。
 というのは、息子達が成人になり、質問されて、困ってしまう始末でした。私が若いうちは、父親は、まったく何も話さない人でしたので、過去のことは知り得ませんでした。
 それで、母親が、家紋は「輪違」といいますのでこれを使用しています。これが代々なものかどうかは定かではありません。
 それとお寺山は、母親の実家の久留米市草野町吉木の永善寺にお世話になっております。
 質問の答えになったかどうか分かりませんが、大阪で、美術品の店をやっている兄とも話しましたが、もし、熊井家の先祖代々の供養が、長野でされるような話にでもなれば、ぜひ出席したいと話しています。 敬具


久留米市の熊井様からの情報

 前略御免くださいませ。
 先日熊井家のことにつきお便りいただきましたけれど、主人は八十一歳で亡くなり、この三月に十三回忌を致しましたところです。
 朝鮮の京城より昭和20年に引き揚げて大川市にはあまり住んでいませんのでなにもよく分かりません。
 ちょうど熊井家の家紋「桝」がありましたのでお送りいたします。
 主人よりお話を何も聞いてませんのでお許しくださいませ。
 私どもの仏壇には文化2年7月30日熊井忠右衛門様それから寛政元年酉年八月九日熊井仁右衛門様より書いてあります。
 主人は久留米にて梅林寺の方へ入壇致しました。
 昭和55年3月17日逝去
 ただいまは護法院大道良観居士と申します。
 お役に立ちませず申し訳ございません。
      乱文乱筆お許しくださいませ。 

 ……後日お電話をいただき、大川市にお住まいのご親戚何軒かに聞き取りをしてくださった旨の、お話をいただきました。
 みなさん「なにぶん昔のことで」とのお返事だった、とのことですが、そのご親切には心から感謝いたしております。
 有り難うございました。


福岡県糟屋郡の熊井様からの情報

 前略
 貴重な情報を戴きありがとうございました。未知の分野が大きく開けた気がいたします。
 私は福岡県糟屋郡新宮町に在住する熊井○○61歳です。
 お尋ねの「名字の由来」「伝承」「家紋」については分かりませんが、「家系」は戸籍謄本で判明したことを記述しますと、次の通りです。
 
 祖父熊井文平(元治元年生 熊井弥平次二男)
 祖母   ユキ
 父 熊井鉄蔵(明治43年生)
 母    ハリエ
 
 なお、父母ともに他界しています。

 私は、熊本県宇土市に本籍がありますが、社会人としては、熊本市と福岡市での活動が主で、平成4年から現在の場所に住んでいます。
 熊井姓については、珍しい苗字として廻りからみられ、「出身はどこですか」と、よく聞かれますがそのたびに熊本県ですと答えています。
 つい最近もNHKテレビの「ひるどき日本列島」で、マグロの養殖に成功した、近大の熊井教授のインタビュウーが放送されたとき、一緒にみていた職場の仲間から、「あれ熊井さんがでているよ」と会話になるくらい、珍しい苗字という印象を与えているのが実情です。
 通常、珍しい苗字として廻りからは見られていますが、出身地の熊本県宇土市には他に3世帯位熊井姓が存在しているはずです。私とのつきあい、連絡等はありません。
 それともう一つ、昭和60年頃仕事で、福岡県大川市を訪れる機会がありましたが、そこには多数の熊井姓(10世帯程)が存在していたことを記憶しています。
 私現在、徳島県阿南市に単身赴任している関係で情報収集ができず、5月の連休に帰省した際調べた範囲で記述しています。 
 本来、お尋ねの趣旨とは、かけ離れたものになっていることと、ご連絡がおくれたことを、お詫びいたしますとともに、ご活躍をお祈りいたします。


○宇土市にお住まいの熊井様

家紋は「陰酢漿草」です。
宇土市の熊井家はみな親戚と聞いています。
馬刺しを食うのは熊本と長野です。生活慣習は同族を示すのでは、前から調べてみたいと考えていました。


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