塩尻市片丘南内田熊井亮司氏(熊井英水氏御本家)頒布資料である南内田青柳源之丞氏の「熊井城調査報告」(昭和45年頃)に、熊井姓に関して看過しえない記述がありました。


 エッセイ「山を背負う」で私は熊井姓の誕生について次のように考えました。即ち「鎌倉幕府を支えた東国御家人の本拠地は、十一世紀から十二世紀ごろその一族が開発したとされる地であり、名字の地として、その地名を名乗っている」。また「開発地主には国司としての任期を終えてからもそのまま土着して豪族となったものが多い」。先頃、国文学者にして文芸評論家、島内景二氏の「歴史を動かした日本語100」を読んでいたところ66頁「源顕基」の項で、さすが島内景二氏で経済史にも造詣が深く、次のように書いておられました。ちょっと長くなりますがそのまま引用させていただきます。「平安時代の貴族たちは、『流転と交替の日々』を生きたとされる。自分たちの実力のみでは立身出世がおぼつかない彼らは、摂関家の大貴族(複数の派閥がある)のいずれかに臣従した。そして、自分たちのボスが政権を取ったならば、そのコネで栄達のおこぼれにあずかろうとする。地方の国司に任命されて赴任できれば、わずか数年で巨万の富を手にできる。ただし、天皇の交替などで、頼りのボスが失脚したら、どうなるか。平安時代の政治は、一度失脚したら復活はまずありえなかった。…(省略)…ボスの失脚は、それにすがる無数の弱小貴族の失脚である」。失脚した弱小貴族の行き先を島内氏は明示されていませんが、赴任地で土着して豪族となっていったものが多かった。熊井姓のおこりについても、もちろん当時の政治史を克明に調べてからでなければ確かなことは言えませんが、おそらくそうだったのではないでしょうか。このことを念頭において青柳源之丞氏の「熊井城調査報告」を読み返してみましょう。
 新たに開拓された土地には、その土地を鎮めるために、開拓者の手によって神社が勧請されます。青柳報告にある小野神社大祝小野そして佑祝熊井の両氏とも、おそらく小野郷の開拓者だったのでしょう。ちなみに、国司の一等官は「守」、二等官は「介」、三等官が「掾」です。小野神社では三等官である「掾」が長官に、一等官である「守」が次官になっていますが、さてどんなわけなのでしょう。興味つきないところです。神様の末裔という話は、とりあえず読み飛ばしてください。


江戸時代の小野神社神官表に、大祝(長官)小野信濃大掾、佑祝(次官)熊井備中守の名あり。小野神社神官佑祝熊井氏は、建御名方命の子彦守別命の子武彦根の子孫にて、小野神社の神官をなせり。小野郷に住む。
 主計正照彦剛勇にて武を好む。奥羽の戦後三年の役に功あり、熊井荘及び片丘付近六ヶ荘を賜り、熊井の里に館を建つ。荘司たり、熊井姓を名のる
 熊井照彦の子直彦は子なく、井上源氏(信濃国高井郡井上村発祥の清和源氏頼季流)顕季の二男を養子、熊井康秀と称す。康秀は小笠原長時の属將たり。
 天文(1532〜1555)年中は武田の幕下にて、永禄年中の川中島合戦に功あり



「康秀は小笠原長時の属將たり」以下を、掲載資料の順番を変えて、次のようにを書き改めてみましたが、さてどうでしょう。


「『桔梗ヶ原の対陣』(小笠原長時と武田信玄との戦)に「小笠原旗本槍備衆熊井治郎右衛門十騎」そして「熊井城は熊井角兵衛」の名あり、また小笠原長時の軍に従う「熊の井山城主熊野井軍兵衛」落城とともに戦死する。」
「大永年間(1521〜1528)に熊井城主熊井又太郎盛清、享禄(1528〜1532)の頃に熊井城主熊井五朗清久がいて桔梗ヶ原に戦い戦死」
 
 乱世の時代の常として熊井家一党も、後の時代に真田信之が徳川方につき真田家の存続をはかったように、武田家に味方した一族がいたようです。
 塩尻市堅石郷原某氏から聞き取りした南内田村上鼎氏談による伝説「熊井城が陥落したとき、闇にまぎれて、お姫様が家来に付き添われて北方へ落ちのびた。山清路付近に辿りついたときは薄暮でもあり小雨が降っていた。そこには丁度に渡船場があり、家来は事情をあかして船頭に頼んで川東へ渡った。お姫様と家来は大岡村へと渡って山の中にかくれた」の他に、小野神社佑祝のように「天文年中は武田の幕下にて、永禄年中の川中島合戦に功あり」との口伝が残ってもいます。
 また大岡村小学校調査によるところでは、「本村芦之尻居住の熊井氏(本家熊井義近、熊井慶吉、熊井康義)何れも熊井庄には関係なきものの如く、真偽のほどは別だが、
1 源氏義家の弟義綱の後裔といっている
2 仁科氏と共に北条氏と戦った
3 新田義貞に属せしため足利氏を憚り勤王家なる熊井姓に改めた
4 武田氏の臣となり馬場信房牧郷琵琶城を築城するやこれに仕えた
5 武田勝頼生母天宗寺に来るや供奉して大岡に来たり、武田氏亡ぶや帰農土着せり」と伝えており、やはり武田家との繋がりが暗示されています。

「本村の所謂旧家と称するもの皆勝頼の生母に従いて天宗寺に来たり、天正十年(1582)に武田氏亡びるや帰農したと申するもの大部分。こんなにある訳もなし。勝頼の生母云々も一つの伝説にて歴史的根拠なし」と、青柳氏は断定されています。しかし、お姫様や勝頼生母の話はともかくとして、熊井城落城で大岡村へ逃れた一族、そして武田家滅亡の折りに、先に住み着いた大岡村熊井家を頼って逃れてきた一族がいた、といったように時系列で、重層的に考えたほうが納得しやすいように思うのですが。
 南内田熊井家(熊井英水氏先祖)は塩尻に残る数少ない熊井家です。
 英水氏のお話では、「熊井城落城のとき逃げ遅れ、小松家に匿われた」とのことです。
 時代は下りますが、青柳氏の調査でも「元和(1621)七酉年正月の野溝村新田写」に「熊井氏は同国熊ノ井村ノ人、東ノ小松氏取り持て当村百姓となりし」と小松家との関係を裏付ける記述が残っています。
 小笠原家中に「元和元年大阪陣後召し抱え26人の中に100石熊井六左衛門」、また「小笠原分限帳書留」に「100石熊井市左衛門」、そして元和三年小笠原家は明石に移封となりましたから、南内田熊井家はこのときに帰農したのでしょう。
 熊井一族にとっては、やはり塩尻市片丘熊井庄との関係は無視できないように思われてならないのですが。

(参考資料)
『長野県町村誌(北信編)』(長野県編集発行)の「大岡村の沿革」には、このような記述があります。
「牧之島(管理者注 現在の信州新町)城主香坂氏の領地たり。旧記に応仁香坂安房守あり、後香坂某村上氏の幕下となる。天文22年8月香坂安房守は村上義清に従い、武田晴信と上田原に戦い義清破れて越後に走る。後香坂氏武田氏に降る。永禄4年香坂氏陰謀あり、事発覚し信玄これを誅す」。
分かりやすくするためにこれを表記しておきます。

年号 備考欄 大岡村川口熊井家
年号 累代 備考欄
応仁 1467〜1468 大岡村領主香坂氏
(村上氏幕下)
天文十一年 1542 7 2 諏訪本流
滅亡
諏訪頼重 武田晴信
天文13年 7 13 13代基重没
天文十四年 1545 6 14 熊井城落城 小笠原長時 武田晴信
天文15年 8 4 14代基興没
天文十七年 1548 7 19 塩尻峠
の戦い
小笠原長時 武田晴信 小笠原長時
上杉謙信に身を寄せる
村上義清
仁科盛直
藤沢頼親
天文二十二年 1553 4 9 葛尾城落城 村上義清 武田晴信 村上義清上杉謙信に走り、復領を依頼川中島の戦いの因
香坂安房守 香坂氏武田に降りる
永禄四年 1561 香坂氏陰謀発覚し信玄に誅せらる
永禄7年 8 11 15代基近没
天正元年 1573 1 1 村上義清越後に死す
天正12年 6 28 16代基義没
17代基信 木曽義昌臣
元和4 4 18代基方没
19代基 後藤又兵衛属す


 小笠原長時に属して戦い、諏訪氏滅亡・熊井城落城・塩尻峠の敗戦・葛尾城落城のそれぞれの戦いで破れた熊井一族は、大岡村の香坂氏諏訪氏を頼って逃れたり、あるいは小笠原氏や村上氏とともに越後上杉氏に身を寄せ、ついには武田氏に降りて臣下した家まであった。
 しかし、武田氏の北信攻略とともに小笠原氏・村上氏は敗れて上杉謙信に身を寄せ、永禄4年の香坂氏同様、武田氏に降りた仁科氏藤沢氏も天正10年、武田氏が織田信長に破れると時を同じくして運命を共にした。
 武田氏が滅びると多くの信濃の武将たちは旧領の回復を目論んだが、秀吉・家康に背を向けたため、再び領地を失うものが多かった。熊井一族も、再興に成功した小笠原家・保科家そして会津に転封された上杉家等に従った一門をのぞいて、それぞれが落ち延びた土地(そこは見知らぬ土地などではなくて、以前からよく知る誰かが住んでいたのでしょうね)で帰農しするに至った。同じ熊井家一族でありながら、竹に雀(上杉)、あるいは武田菱、蝶(仁科氏)、梶の葉(諏訪氏)、橘(後藤氏)といったように、家紋が家紋が別々になっていった(もちろん分家に伴って家紋を変えたこともありますが)理由は、戦国の歴史がそれぞれの熊井家の来し方を投影していたという事実によるものと考えます。
 越後に死した村上義清の息国清は、家康に内通したかどで家中離散となったが、上杉家会津移封のとき、村上国清は家臣としてそれに従った。この村上氏の一門には、村上水軍の一族もあった。いつの頃からかこの村上氏についた熊井家もあったようで、彼等の中から海上豪族(のちには廻船問屋)が出現する。武人熊井玄蕃がいた伊予国も古くから熊井姓の残る周防国も村上氏の勢力下にあった。

 『私の八十八年』(著 熊井邦隆)111頁には「足利時代にこの地の領主丸山氏」(『更級郡誌』415頁から引用)との記述があります。
 熊井邦隆氏の養母は「当村(大岡村)芦ノ尻の丸山浅右衛門の次女にうまれ、中略、生家の丸山家は、当村内で最も古い旧家といわれ、先祖は武田信玄公の家臣で帰農したものといわれています」(『私の八十八年』24頁)。
 また曹洞宗聖雲山天宗寺を永禄12(1569)年再興したのが武田勝頼母、曹洞宗枝桂山常蓮寺を文禄1(1592)開基したのが武田氏元家臣窪田監物とも書かれていますから、私は「落ちた地が見知らぬ土地ではなく、以前からよく知る誰かが住み、それを頼って帰農するに至った」と書きましたが、大岡村の熊井氏は、あるいはこれらの知人を頼ったのではないかと考えることができます。
 
 熊井恒次氏「熊井城と熊井姓」には、「熊井氏の多くに中世からの伝承、口碑伝わり、中世の古城址、館跡あるいはその近傍に住しているのは不思議である」とあり、「大岡村北小松尾城址直下の川口に、同地の熊井氏の墓地があって祖霊を祀る一碑ある。始祖熊井太郎源忠基以来二十七代の系譜、没年月日を刻す」とあります。大岡村には樺内(現曹洞宗天宗寺)に大岡城もありました。いずれも武田氏との関係が深い城址です。武田氏に敗れて大岡村に逃れた川口熊井氏でしたが、後に信玄の第三子勝頼(母は諏訪頼重の娘。1562年諏訪氏を継ぎ、1577年武田氏の頭領となる)の時代に、武田一族木曽義昌の臣となって活躍していたのですから、歴史とはやはり重層的なものであって、決して一筋縄では捕らえられないものです。

 熊井姓の調査については、熊井恒次氏の父上であられる熊井邦隆氏の書かれた『私の八十八年』が最初です。その本の52頁「熊井の苗字のこと」に次の記述があります。「昭和三十七、八年のことです、(中略)突然来訪した老人が、(中略)熊井の苗字を誉めて何処の熊井かと尋ねました。私は熊井の苗字のいわれなどは全然知らない、と答えたところ、…熊井という苗字は、昔さる殿様が帰農したときに用いた苗字で大変由緒がある。(そこで邦隆氏が)お宅も熊井と何か縁のある方か、と尋ねると、(その老人は)何の関係もないが苗字の研究をしているものだ、ということでした」。
 青柳源之丞氏が「熊井城調査報告」をされたのは昭和45年頃と聞いています。大岡村の熊井邦隆氏を訪ねた「老人」とは、おそらく青柳源之丞氏その人のことではなかったか、と私は考えます。熊井恒次氏の地方史『長野』掲載の「熊井城と熊井姓」は青柳源之丞氏の御研究を基に書かれており、そしてこの「熊井家のホームページ」も青柳源之丞氏の調査がなかったなら存在しなかったでしょう。熊井姓調査の端緒を切り開いてくださいっ青柳源之丞氏には心から感謝しています。
 
 それにしても青柳源之丞氏は何故「熊井」のことを調べられたのでしょうか。私にはこのことが長い間疑問でならなかったのですが、そういえば聖山の南裾には青柳城址があった、と遅まきながら気づいたのです。
 ……東信濃・北信濃・西上野に栄えた豪族に滋野一族がいました。
 青柳氏はこの滋野一族麻績氏の一族
で、伊勢神宮の御厨預職として、大岡村聖高原南裾の麻績村・坂北村に城館(麻績城址・青柳城址)を構え、守護大名小笠原氏に仕えていました。後に武田勝頼の母諏訪御料を生んだのが、この麻績城の麻績氏(青柳氏は麻績に移り麻績氏を名乗りました)の娘(諏訪氏と麻績氏との同盟の証に差し出された)でした。ここでの詳細な検討ははぶきますが、青柳氏と熊井氏との間には、小笠原氏、大岡村(大岡城)、諏訪氏、真田家(真田家もまたこの麻績一族)…といった、まさに歴史的に重なり合うような接点がありました
 遠い遠い昔、青柳氏と熊井氏には深いつながりでもあって、あるいは青柳源之丞氏はこのことを知っておられて、青柳氏の調査にあわせて「熊井」のことも調べられたのでは、そして「熊井城調査報告」はその成果のひとつだったのかも知れません。
 

戻る