……この頁に掲載した作品には、書き進むうちにいつの間にか主題からずれていってしまったとか肝心なことを書き漏らしてしまった等などの瑕疵があります。ご参考までに、反面教師として載せてみました……


題:白炭を焼く
カテゴリ:四十代の作文修業

 神流川がつくる河岸段丘が浸食されて山腹に残った四、五十坪の平坦地の隅に、太さが二十五センチ以上はあるナラの木が積み重ねてある。高橋さんは古希を過ぎでもなお矍鑠としていて、チェーンソーを巧に操り、その太いナラの木を瞬く間に切りそろえた。
 一メートルの長さに切りそろえた太い木にオノを入れると、メリメリと一直線に割れた。木地からは甘い匂いが漂ってくる。
「乾燥の具合がちょうどいい」
 その道一筋の人はすごい。木が割れる音とにおいで、乾燥具合が分かる。木は四つに割る。太さにバラツキがあってはならない。細いのが混じっていたりすると、燃えて灰になり、出来上がる木炭の量が少なくなってしまう。
「こりゃ、ずいぶん性が悪い木だね」と高橋さん。
 木の中には表面からは見えない筋があって、割れにくいものもある。この木にひびが入らないように割るのは、至難の業である。高橋さんは玄人だから、こんなときくさびを使う。つちでくさびを打ち込まれ割り広げられると、木が悲鳴を上げる。
 割った木が、ある量にたまると窯に入れる。
「根元を上にして、立てて並べていきます。『木元竹裏』と覚えてください」
 並べているうちに元と裏の区別がつかなくなってきて、しばしば直された。それにしても窯の中は広い。割った木を全部入れても、五分の一までこないのだ。再び外に出る。雲間からの強い日差しに、頭がクラッとした。
 朝八時前から始まった窯入れの作業は、十一時過ぎにやっと終わった。太陽は南中に近い。絶え間なく額から垂れてくる汗が目に入り、開けていられない。息も荒い。四つに割ったといっても木は重い。窯まで五メートル余りの距離を、十本も運ばないうちにもう持ち上がらなくなってくる。
 なのに、高橋さんは汗ひとつかかず、呼吸にも乱れがない。七十を過ぎているとはとても見えない。初対面のときには、頭にわずかに残っている白髪と顔の深いしわに、えらいお年寄りだなと思った。
 昼食後。窯に火を入れる。その前に、炎が窯口から逆流するのを防ぐために釣りをつくる。窯の入口の上半分を石と粘土で塞ぐのである。窯入口両側の縁、中程よりもちょっと上のあたりにつくられたくさび形の小さなくぼみに、細長い三十センチほどの石二個のそれぞれ端っこを入れ、落ちないように組み合わせる。こうしてできあがった釣りの上に小石を載せて積み重ね、その上にこねた粘土をたたきつけ小石の間の穴をつめていく。
 釣りができあがれば、いよいよ火入れだ。
「初窯だから、火がつくまでが大変だ。あと半日はかかると見ていい。ともかく、たきつけをどんどんもやし、おきをつくることだ」
 たきつけには、細すぎたり軽すぎて木炭にはならない木々を使う。パチ、パチ、ゴーッと燃え盛る窯の入口に、ころあいをみて新しいたきつけをたてかける。木の切り口からシューシューと湯気が上がる。燃え崩れて塞がった空気の通り道を、長い棒を使ってこじあける。おきがだいぶ増えてきた。
 くど(窯奥の煙突)から白い煙が上り始める。
「ポッ、ポッと切れているあの煙が、つながって出るようになれば、火がついたことになる」。ツンと刺激のある甘い匂いが辺りに漂ってきた。高橋さんは農作業のため帰る。
 太陽は傾き、山の端に沈もうとしていた。九月だというのにウグイスが鳴いた。アカネがたくさん空を飛んでいる。火の番をするために、これから一人で漆黒の夜を迎える。
 自分で焼いた木炭を使って鉄鉱石から鉄を取りだし、その鉄を鍛えてカマやスキをつくる。神流川のカンナの由来は、鉄鉱石から鉄を取り出す技術集団が、帰化した後にこの地に移り住んだことからきている。その古代人の苦労と喜びを、これから実体験するのだ。
「一文の得にもならないことを。数奇は身を滅ぼす元だよ」と、友人たちはしきりに心配してくれる。
 でも、炭窯の背後は急な崖が聳えていて、繁る木々の上をクズの葉が覆っている。朝方になると、その崖から落石がある。イノシシが好物のクズの根を掘りに来ているのである。 実に楽しい。

講評:斎藤信也先生
今月の文も、また、ひときわ
別世界。見当もつきませ
ん。まあ木炭つくりが中心
のお話しのようで、一応のところ
はイメージが湧きます。
が、文中、一ヵ所添えてある
カマやスキの話、途方もなさ
すぎて……
私は新聞記者時代、八幡製鉄
を取材したことがある。
一万d溶鉱炉はまさしく灼熱の
白光をあげてもえていた。
鉄鉱石を投げ込み、溶けた
鉄が流出する。この炉なら
分かるんですが。古風な釜で
木炭の火力で…いったい
何時間かかるか。どの程度の
粗鉄が流出するのか。まるで
雲をつかむようです。
とはいうものの
ほのぼのとした原始の味、
自然の中の姿、まことに
羨ましいようなお話しでした。その
舞台を考えると、この「雲をつかむような
途方もなさ」が、かえって似つかわしい。
「古代人の苦と喜び」とありますが、まさ
しく言い得て妙でした。でも、ちょっと
心配。熊井さん、短いお付き合いですが
どどっ、とのめりこみそうなタイプの方では?
とお察ししています。ほどほどになさいますよう
(と、私もお友だちと同じことを言う)
ラスト、突然イノシシが出る。面白かった。
毎回感じるのですが、上手な文章です。
センテンスの短い、キビキビとした運び。
朱が少ないのは手抜きにあらず。直す
ところがなくなってきたためです。
注文をひとつ。いつ、どこで、どういういきさつで、
この文にあるようなことを始められたのか。それを
簡単でいいから冒頭に解説しておくべきでしょうね。
エッセイであっても、やはり必要な基本だと思う。
高橋さんという人物についてもよく分からないし。
そういうデータがひとことあると、
もう言うことはありません。
何しろ内容は面白いので。




題:新緑
カテゴリ:四十代の作文修業


「四月の十日は鎮守の大祭だ。一見の価値があるから、是非いらっしゃい」と炭焼きの恩師である高橋徹さんから連絡があった。村営宿泊所も予約しておいた、というので家族を連れて訪ねた。
 群馬県多野郡中里村は県の南西部に位置し、利根川の支流、神流川渓谷に沿って細長く伸びている。村の大部分は山地で、総面積の九五パーセントを森林が占めるという。
 いまにも転がり落ちそうな山の急斜面を利用して切り開かれた農地からは、米は取れない。江戸時代は天領で、信州佐久地方から峠を越えて十石ずつ、米が毎日運ばれてきたそうだ。だから村の中央を走っている国道は、いまでも十石峠街道と呼ばれている。
 高橋さんの言っていた中山神社は、村の東側の集落にあり、この街道に面している。笛や太鼓のはやしにのって、神体を移されたミコシが担ぎあげられた。神官を先頭に神流川へと下りていく。浅瀬の中を若衆たちに担がれたミコシが走る。大きな傘矛の骨にくくられた紅白の花飾りに、子供たちが飛びついている。
 小学生の息子二人は祭りよりも、屋台のほうに関心があった。綿菓子をなめなめ河原の祭りを見下ろし、「こんな山奥にどうして人が住むようになったの」と私に尋ねてきた。
 神流川がつくる河岸段丘には縄文時代の遺跡がある。農業が発見される以前、人々が植物採集と狩猟とで生きていた頃、ここはきっと豊かな血であったに違いない。八百〜千五百メートル級の山々を覆う広葉樹の原生林はまだ芽吹いたばかりだが、秋にはクルミ、トチ、シイ、クリなどが枝もたわわにみのる。イノシイ、シカ、ウサギなどもたくさん生息し、神流川には魚が群れをなす。
 わたしたちの祖先は草木が芽を出したのを観て、ひもじかった冬がようやく去っていったことを知る。そして来るべき秋の豊かな収穫を暗示する新緑に、美を感じるようになった。その血を受け継いだわたくしたちも、新緑を見ると浮き浮きとしてきて、ミコシをかついで浅瀬をはしる若衆たちのように、走り回りたくなるのである。

講評(斎藤信也先生)
今日の文も歴史と探訪をミック
スしたような作品でしたね。
熊井さんのお仕事、あるいは志向
は何なのだろう、とときどき思います。
初回、猫の踊り(傑作でした)の
あとはいつも歴史ふうの作品が届
きます。どれも「なまはんか」の知
識ではなく、しっかりとした学習
の裏付けがうかがわれ、ユニークな
生徒さん、と感服していました。
今日の文もそう。筆力も実に確か
です。書き出しに地理地形の説明
がでてくる。実にうまい。作家の笹
沢佐保さんの作品をふと思わせる。
ただ、今日の文は、少々とらえどころ
がない、という印象でした。
何を、この一作で訴えようとしたか。
山間の里の祭り風景か。
その昔のイメージか。
結びの、新緑と人間、なのか。
多分最後のケースなのでしょうが
全体から見るとこの結び、とって
つけたような調子でもある。
私は気付く。もし自由題だったら
貴方の結びはもっともっと別の
「とってつけた形」でない洒落たもの
になっていたはずだ、と。
「今日の題は新緑。何とか新緑
の文にしなければならぬ」という
気持にとらわれて、こころならずも
”新緑めいた結び”を添えたの
ではないか、と。
(マト外れでしたか?)




題:トチモチ
カテゴリ:四十代の文章修行

 私がトチモチを初めて食べたのは、結婚した年の夏の、金沢の妻の実家でだった。首都圏の新興都市で生まれ育った私に珍しい食べ物をと、妻が白峰村まで出かけ手に入れてきた。焼き畑農業をつい最近まで伝えてきた白峰村は、金沢から自動車で一時間ほどの距離である。
 だが、折角のモチも、苦くて口に合わなかった。一切れ食べただけで手を控えてしまった私をみて、妻の顔が曇った。
 それから十四年が経過した。古代史に関心がある私は、砂鉄や鉄鉱石を溶かす炭が一体どのようにして焼かれるのか、強い好奇心を持っていた。昨年の五月、ついにその炭を焼く機会が巡ってきた。
 群馬県多野郡中里村の山の端に築かれた炭窯の前で、私は褐色のモチと再び出会う。炭焼きの恩師である、その年に森林組合を定年で辞められた高橋徹さんが、窯の煙突から立ち上がる煙の色に注意をはらいながら焼いてくれた。楢の木を割り窯に入れる作業でぺこぺこになった腹に、十四年ぶりに食べるトチモチは殊の外にうまかった。焼けるさきから口に運ぶ。
「トチモチは腐りが早いから、夏にはつかないのです」と高橋さん。
(そうか、そうだったのか。金沢で食べたあのときのモチは、妻が白峰村まで出かけていって、わざわざついてもらってきたものだったのだ……)
 高橋さんが話すトチの実のアク抜きは、根気と時間のかかる、気の遠くなるような作業だった。加熱、水さらし、灰を加えての再加熱。アク抜きに二、三時間も要するという。
「神流川の流れの谷向こうに、枝先に白い花の房を垂直に立てた木が見えるでしょう。あれがトチノキです」。高橋さんが指す方向に、天狗の団扇に似た葉を茂らせた高木があった。
 この時以来、トチノキは山にしか育たないと思い込んでしまった私に、高橋さんを紹介してくれた保険外交員のおばさんが、九月になってクリに似た実を五つほど、会社まで持ってきてくれた。小田急電鉄小田原線の向丘遊園の駅前で拾った、という。これは本当にうれしかった。偶然、その日の朝日新聞夕刊に「兵庫→都心 トチの実集め」と題された写真が載っていた。桜田門前の国道一号の両側に、七十八本ものトチノキがあるという。
私の住む大宮市にも生えているかも知れないと、公園や街路樹を注意して探してみたが、見あたらない。駅の西口北側の街路樹がどうもそれらしいのだが、初夏を過ぎても一向に花を咲かせる気配がない。雌雄の別はないはずである。
 探し続けてきたトチノキを、とうとう川口市安行植物園の歩道橋の脇で見つけた。今年の五月、通勤途中でのことだ。でも、花が赤い。確か植物図鑑にも、花は白いとあった。幹に下がっている札に、目を凝らず。黒い字で、トチノキと書いてある。私は、久しく忘れていた胸のときめきを感じた。
 実がなったら拾おう……、そう思って、毎日植物園の側を通った。ところがいくら経っても、結実しない。自動車を停めて、歩道橋の途中まで上ってみた。小さな実のついた柄が黒くひからびて、小枝にたくさんひっかかっていた。剪定された痕がある。
朝日新聞に、「路上に落ちるトチの実は、車を傷つけるために、自然に実が落ちる前に摘み取る」とあったのを思い出す。しかし、植物園のトチノキは、道路からだいぶ奥まったところに生えている。悔しくなって、管理事務所に電話した。
「残っているはずですよ。高いところまでは落とせませんから。実は、取ってもかまいません。でも、あれは西洋トチノキで、日本トチノキは園の最も奥にあります」。
 帰宅の途中に、歩道橋の一番上まで上った。あった! ついに見つけた。手が届く辺りに、まばらにトゲのついた丸い四、五センチの、まだイガの割れていない実がいくつもある。園の一番奥、崖のように落ちた斜面に生えた日本トチノキも見た。しかし、木が高すぎて、実を見ることはできなかった。
「あんなに不味いモチが、何で好きなんだ」と知人は訝しがるが……。冬がきたら白峰村にトチモチを注文して、妻と食べよう。

講評(斎藤信也先生)
 
さて今日の文は、トチの木さがしトチの木の実さがし、そんなお話でした。書かれてみると結構珍しくて意表をつき面白さがありましたが、私としてはトチの木を求めて回る話よりも、トチモチの方が、話として味があるように思えた。とくに☆のところ。思わず、うっ、と唸る。泣かせます。
 新婚間もない妻が、愛する夫のために、はるばると出かけ、多分、いろいろと頼んで、わざわざ焼いて貰ったトチモチ。
 その後、それをまた食べるチャンスがくる。ところが、それからあとは「木探がし」になってしまう。
 そこからあとも「トチモチの話」で押し通したかった。書き出しの一行からも、それがふさわしい。
「書く材料がありません」とおっしゃるかも。
 手は、ないこともない。
 いろいろの木の実入りのモチや、植物と結びつくマンジュウ、例えばサクラモチ、クズモチ、そんなモチのなかで、奥さまの好物はなかったか。名物のサクラモチでも求めて帰る。心の中で「あの日のお礼」「あの日のおわびだよ」と呟きつつ。


……私からのひと言……
 炭焼きを教えてもらいながら、高橋さんからお聞きした中里村大字神ガ原字間物に残る「将門妃」の伝説を、五十歳になってから『間物伝説』という小説にしました。
 オール讀物新人賞に応募したのは、炭焼き窯つくりに協力くださった中里村森林組合のみなさんへの恩返しのつもりでしたが、力及ばず落選しました。
 お役に立てなかったことを、本当に申し訳なく思っています。



題:”商品経済”って一体なんだ
カテゴリ:四十代の作文修業

 群馬県多野郡中里村森林組合の職員である高橋徹さんは古希をとっくに過ぎているが、達者で今も山に入る。物好きな私に、炭焼きを教えてくれる先生でもある。窯のそばで話してくれる村にまつわる沢山の話は、なかなか興味深い。
 山の端を伝うように上っていく窯の煙の色に注意をはらいながら、高橋さんが焼いてくれるモチをほおばる。ひとつ食べ終わると、七輪の網の上でプーッと膨らんだモチを素手でつかみ、次々と手のひらに載せてくれる。それをフウフウ冷ましながら、口にいれていく。
 褐色のトチモチも黄色いキビモチも、口にするのは初めてだ。しかし、何となく懐かしい味がする。高橋さんと同じ焼き畑農民の血が、私にも流れているのだろうか。
「そうですか。おいしいですか。たくさん食べてください。キビ飯に慣れていた祖父母は、コメの飯をウジムシのようだと言って嫌っていました」
 勧められるままに、十個のモチを私は平らげた。
「村人たちがおかねに目の色を変えるようになってしまったのは、戦争中に米が配給されてからのことです」
 そう言って高橋さんは、谷向こうに目をやった。スギの植林に覆われた山の急斜面に開かれた畑には、クワやコンニャクが栽培されている。
「米が配給される前は、あの畑では自給食料であるアワ、キビ、アズキなどがつくられていました。それが、かねを生む作物栽培にみんなが勢を出すようになった。スギが植わっていますが、あれももとは広葉樹林でした」
 高橋さんは復員してから、炭焼きを商売にした。昭和二十七、八年ごろが最盛期で、石炭や石油、プロパンが出回るようになって駄目になった。
「キビを食べていた頃は確かに貧しかったが、さほど不自由を感じなかった。貧しさを痛感したのは、キビを失った後です」

講評:斎藤信也先生
さて今日は、痛恨の昔語り。
よく、祖父母などが、いろりばた
でこういう話をする。この文は
いろりばたでなく、山の窯の
ほとり、トチモチをたべながら
のお話でした。目の前に実例の
山野があるから、話の迫力
はいやまさる。説得力十分。
今日の世相を鋭く突いた作品で
した。全く内容はちがいます
が、今ベストセラーになっている
「清貧の思想」と、根っこの所
で一脈通じるものを感じ
ます。カネ、カネ、カネ……
日本人はどうしてこうも
「カネの亡者」になったのでしょう。
あのカネマルから農村の一人一人まで…。




題:山繭
カテゴリ:四十代の作文修業

 埼玉県の東部、荒川と古利根川の低地に囲まれた大宮台地で私は育った。子供の頃は、二階建てより大きな建物は無かったから、晴天の日には町の何処からでも、西空に丹沢山系、富士山、秩父連峰、浅間山などが見渡せた。
 いまでも目を閉じると浮かんでくる。空を赤とんぼが群れをなして飛び、秩父の山並みが黄金色に夕日に燃えている。母の目を盗んで上った屋根の上で、カキの実をかじりながら、あの山には仙人が住む、と信じていた。
 私の遠い先祖は、長野県聖山の麓、水内郡大岡村の出である。村には熊井姓の家が多い。しかし、姓の由来を明確に知る人はいない。
 藤村の歌で知られる千曲川の支流に、犀川がある。聖山から湧き出る泉を源流としている。余談だが、古代朝鮮の神話では熊は聖なる動物だそうだ。二つを結びつけると、熊井の意味は聖なる泉となる。そういえば、辺りの地名には麻、牧の名がつくものが多い。養蚕も盛んである。私は、渡来人の末裔か……。
 それはともかくとして、私が山に憧れるのは、山の民の血が流れているためかも知れない。
 四十代を過ぎてから、歴史を紐解くもとが好きになった。いま古代の経済史に興味がある。当時のエネルギー源であった木炭への関心から、眺めるばかりであった山にも、直接出かける機会が多くなった。炭を焼きに入るのだ。
 その炭焼きを教えてくれた群馬県中里村の高橋徹さんは、知人の遠縁で、炭焼き以外にも沢山のことを教えてくれた。養蚕もそうだ。カイコが食べるのはクワの葉、私はそのように思い込んでいた。
 ところが昨年の十月のこと、高橋さんの家のガラス戸の桟に、大人の掌ほどもある茶色のガが停まっていた。両の掌をそっと差し出した高橋さんはそのガを捕え、土間の隅に置いてあった虫籠の中に大事そうに入れた。籠の中には、ガがもう一匹いた。二回りほど大きい。メスである。
 交尾してから一週間ほどで、籠の底に敷いてある新聞紙の上に、ガが卵を産みつける。その新聞紙を冷蔵庫に入れて翌春まで保管しておく。クヌギの葉が芽吹いたら、その紙をちぎって、枝に結わえ付けるのだと言う。
「山繭はブナ科の木にしか育ちません。クワの葉は食べないのです。えっ、見たいのですか。困りましたね。山繭は人を嫌うんです」
 決して声をたてないという約束で、山繭がいる木までつれていって、おらうことになった。
 先程までガが止まっていたガラス戸を、高橋さんが開く。ナスやトマトが植わった百坪ばかりの畑が見えた。サルビアの花が咲く畑中の道を過ぎる。突き当たりは広葉樹の雑木が覆う険しい崖で、下からは沢の音が聞こえてくる。深い下草が茂るばかりで、道などはどこにもない。
 高橋さんは腰につけたナタを抜き、バサッ、バサッと下草をはらいながら雑木林の中に分け入った。慌てて私も後を追う。
 息が上がり、私が一休みするたびに、高橋さんの白い頭が見る間に遠のいていく。七十歳にはとても思えない。「何時になったら終わるのだろう」。私は少し不安になった。☆足元の斜面が崩れて慌てて立木の幹に手を触れたとき、ハッと気付く。下枝が落とされた木々の間を、高橋さんは辿り続けていた。私は「道」を既に歩いていたのだった。
 突然、眺望がひらけた。深く落ちた谷の向こうには、山ひだが無数に重なりあって稜線を形作っている。それは息をのむような美しさだった。
 振り向いた高橋さんが、おいでおいでをした。近づいてみると、山野斜面から伸びたクヌギの大木が目の前にある。大きく広げた枝のそこここに、あら毛の節くれ立った幼虫が、あざやかな緑色の繭をつくっていた。大きさは、私たちが知っている繭の二倍はある。
*いとおしそうに山繭を見る高橋さんの横顔が、少年の頃に夢想した、仙人に見えてきた。

講評:斎藤信也先生
まことにふしぎな作品でした。
ちょっと例がない。
ふしぎな作品、というより
描かれたお話がふしぎで、
面白い、ということ。
生徒さんたくさんいますが
山まゆの実物や、まして、その
まゆを見た人なんて皆無
でしょうね。
もちろん私も知らない。
緑色の巨大なまゆ。
大人の掌ほどもある蛾、
どちらもなにやらSF小説
を思わせるような、少々不気味
さを感じさせます。
そんな、類のない素材の
面白さが作品を支えて
います。とてもユニーク
でした。
注文するとすれば。
作品は、山のこと、その様々の
神秘的趣を書こうとし
たのか(貴方の御先祖などと
結びつけながら、)また高橋さんのことか。
あるいは山まゆのことを描こう
としたのか。
タイトルから見ても、後者でしょうね。
してみると前者は
導入部でした。
私見からすると、前者にやや
傾斜しすぎた感がある。
もう少しおさえたい。
とくに先祖等々の来歴のこと、
簡単にしたい。
かわりに山まゆを詳しく
したい。
掌ほどの蛾、その色、形、紋様…
また「まゆ」の描写。
幼虫の描写。大きさ、色…
山の神秘や魅力に大きく
とらえられている兆候は、途中
にも出てくる。たとえは☆の四行。
これはなくてもいいのでは?
道の有無はテーマと関係
のないこと
ラスト*のところ。ここを読んで
「実は山の神秘と高橋さんのことこそテーマなのです」
と言われたような気がした。
山まゆが主役なら
*のところは、高橋さんの姿でなく、
緑色の、SFっぽい「まゆ」の
まことに浮世離れした
自然界の魅力でしめくくるべきでしょう。
 


題:早春の森の中で
カテゴリ:四十代の作文修業

エンジンをうならせて、四輪駆動の小型トラックが急な山道を上っていく。窓から吹き込んでくる風は、身を切るように冷たい。山々を覆う冬枯れの木々が日を浴びて、黄土色の斜面に影を落としていた。山肌のところどころには、まだ残雪がのぞいている。沢の音がする。
「この谷を包み込んでいる山々は、群馬、長野、山梨、埼玉の四県にまたがっています。葉が茂る季節になると、鬱蒼とした森に変わり、紛れ込んだら富士山の青木ヶ原と同じで、二度とは出てこれません」と、高橋さんが運転席で言う。
 櫛で丁寧に撫でつけてあった高橋さんの薄い白髪は、吹き込んでくる風ですでにぼさぼさである。七十歳を過ぎているが現役で、群馬県西部に広がる山々を管理している森林組合の「生き字引」と噂されている。私にヌタ場を案内してくれるという。
「ヌタ」とは湿地を意味する言葉である。語源はまだ調べていない。イノシシがノミなどが毛につくのを防ぐため、あるいは体温を冷やすために泥浴する場所のことだ。きょろきょろしている私に、高橋さんが笑って言った。「車の中からでは見ることはできません」。
 辺りには、一軒の家屋もない。ところがである。この山深い谷には、縄文時代の遺跡や前方後円墳がある。伝説では、平安の昔、今泉千家といわれるぐらいに栄えた村があった、とも言われている。
「森林は立体ですから、農耕以前には、食物の採れる量は、平らな野とは比較にならないほど多い」
 そう言う高橋さんは、何の仕掛けがなくても、鳥の卵や、ウサギ、イワナ、シネンジョ、ミズナ、ワサビ、キノコなどを探し出してくる。私が森の中で迷えば、餓死を待つより外はないのに。
「人間は森から生まれたのに、実の母を傷つけて平気です。こんなヤクザな子供なんか、滅びてしまえばいいのです」。思わず高橋さんの顔を見る。悲しい顔だ。エンジン音が遠のいていく。

講評:T・M先生
なかなかの筆力です。都会人には全く分からない森の生態が、作者の観察と、森を愛する高橋さんの口から生き生きと述べられています。とくに書き出しの四行が優れています。
しかし欠点もあります。
森に入ったのがいつか。日付がないので、現実感が」ありません。
五Wと一Hは作品に不可欠な要素です。
「森林は立体ですから、農耕以前には、……」の、”農耕以前には”は不要ではありませんか。すぐ次に、現在の問題として、たくさんの食物をとってくるのですから。
もし”農耕以前には”をどうしても入れるなら、食物量が多いというのは過去のことだから、「多い」ではなく「多かった」とすべきでしょう。
ラスト。エンジン音というのは二人が乗ってきた自動車の音ではありませんか。それが遠のいていくというのはどういうことでしょうか。最後が」何となく落ち着きません。
優れた表現力をお持ちですから、細かい点にも十分ご留意ください。




題:銭屋五兵衛になりそこねた
カテゴリ:四十代の作文修業

「あなたは、現代の銭屋五兵衛なのかも知れないわ」と、金沢出身の妻は眩しそうな視線を私に向けた。手にしている小皿の中には、ひとつまみの砂粒があった。蛍光灯の光を受けて、キラキラと黄金色に輝いている。
 日本三大名園のひとつと称されている兼六園には古井戸があって、昔砂金が湧き出ていたという。発見者の両替商銭屋五兵衛は巨万の富を得て、加賀随一の豪商になったそうだ。
 黄金色の小さな粒は、爪でこすると、伸びて箔になる。この粒は、茨城県沖で起きた地震の直後に、会社の深井戸から、三日間にわたって噴き出してきた大量の砂の中から採集したものである。
 北アメリカでとれる砂金は、沖積層砂泥中に存在している。関東平野を覆うローム層の下も、同じ沖積層である。砂金があっても不思議ではない。早速ロッカーに仕舞ってあった井戸の地層断面図と、各地層砂泥のサンプルを取り出す。地下百八十七〜二百メートルの標本砂が、こんど出てきた茶色い荒砂と酷似している。
「宝物はいつの時代にも、自分の足元に埋まっているものなのね」。うっとりとした顔でそんなことを言いながら、素早く妻は暗算をする。「会社の敷地九千九百平方メートルに砂の厚み十三メートルを掛けて、埋蔵量を三パーセントに見て、金一グラムを仮に千円とすれば、あなた! 三兆八千億円よ!」
 社員たちまでが騒ぎ始めたので、調べてもらうことにした。M金属鉱山に勤める友人が、「よくあるんだよな、そんな相談が。五万円以上かかるよ。いいんだね」といって、通産省鉱山部分析課を紹介してくれた。
 ひょっとしたら、我々は大金持ち、とはしゃぐ妻や社員たちの気持は分かるが、かりに砂金であっても、採算にのる商売として成立するかどうかは分からない。むしろ土地の評価額が変わり、固定資産税が高額になるだけかも知れぬ。
 一週間後に分析結果が出た。「純度九十八パーセントの銅」。銭屋五兵衛の妻になりそこねた彼女が「あーあ」。 

講評:斎藤信也先生
とても愉快な話でした。
テレビにも先日、出ていました。
武田勝頼の埋蔵金さがしに一生を
捧げている人のこと。また秀吉の
埋蔵金をさがす人。
こういうエピソード、周期的に一年に
何度かテレビや雑誌をにぎわす。
あの米国の西部劇、コトのおこり
は「西部に金が出た」(ゴールドラッシュ)
でした。洋の東西、問わぬ「人間の
根源的な欲望」ということらしい。
この作品もそのひとつ。
ACC(朝日カルチャーセンター)
で作文数あれど、この文ほど異色作は
ないでしょう。まことに楽しかった。
でも、銅だとしても、凄いことでは
ありませんか?住友金属あたり
から「土地買い取り交渉」でも
来るのでは?
やっぱり相当の資産?
 



題:二世
カデゴリ:四十代の作文修業

 夕方近くなって、何の前触れもなく大阪に住む知人が会社へ訪ねてきた。ソファーに凭れると、深いため息をついた。浅黒い顔に疲労の色が浮かんでいる。「会議、会議でやんなりまっせ、ほんまに」。彼は四十八歳。大学は出ていない。関西に本社がある上場企業で、営業本部長を勤めている。
「会社をここまでにしたんわなあ、わしらだっせ」。金縁眼鏡の奥の知人の目頭には、うっすらと涙が浮かんでいる。京大を出た三十八歳の二世が社長になって、会議の回数が増えた。「二十一世紀の当社」、がテーマだそうだ。弁が立つ新社長から会議の度に知人たちは、容赦なくやりこめられているという。
「くさりまっせ。あんたはんのように、わしらんとこの社長も、なにもせんでええんです。じっと観察してくれはったらそれでええんです。わしら働くのほんまに好きなんやから」
 私も二世経営者である。三十二歳のときに父から会社を引き継いだ。☆ 二世に対する周囲の期待は大きい。だから、何かをしなければと強迫観念に追いつめられる。しかし経験不足は否めない。その不足を埋めようと、高い金を払って勉強会に出たり、たくさんの本を読む。やがて、二世よりもはるかに経験を積み手練でもある社員が、”新知識”を持たないことから馬鹿に見えてくる。私もまた、屁理屈で社員たちを困らせた一人だった。
「会議で能書きばかりゆうとったかて、なーんももうからんがな。わしらに任しといて、なんぼでも自分のしたいことたらはったらええんです」
 まさか知人の話すとおりにもいかないが、あわてて何かをする必要はないと思った。学歴と経営手腕とは別だ。商売の結果である数字を解読する技術と、観察眼を養う訓練だけをしていれば、経営計画を立てることが社長のなすべき最も重要な仕事である、ということが見えてくる。
 話すだけ話して時計に目をやると、慌ただしく知人は立ち上がった。
「ほなら、またよらしてもらいますわ」
 得意先をこれから接待するのだ、と言う。自らを励ますような口調だった。

講評(斎藤信也先生)
今日の文、拝見して、熊井さん
社長でしたか。三十代そこそこ
で就任された。ご苦労なさったこと
と思います。十数年の年月を
経て、いま脂がのりきったところでしょうね。
それにしても、社長さんには惜しい筆力!
や、これは失礼、社長族でも筆の立つ人、
けっこういらっしゃる。
でも、でも…私の旧友たちの中にも
社長や専務けっこういますが、
おしなべて「仕事の世界にはくわしいが、
筆の方は…」という連中ばかり。
やはりそのタイプの方が、断然多い
ようです。
☆のところ、実によくわかる。
ナルホド、ナルホドと思う。二世という立場
ゆえの、ひとつの側面でしょうね。
これからもご本業に励まれつつ、
天与の「筆」のほうもがんばって
くださいますよう。




題:いのち
カテゴリ:四十代の文章修行

 我が家の裏には、五百坪ほどの広さの雑木林がある。道路との境界線に沿って、切り倒されたクヌギが放置されている。ぼろぼろになった朽ち木の下に、アリの巣がある。
 大雨が降る前に、どうしてそのことが分かるのか知らないが、大量のアリが巣から出てくる。そしてぐるぐると群れをなし、大きな楕円を描きながら、アスファルトの道路を横断していく。目ざすのは、隣家の石垣だ。
 道路でサッカーボールを蹴っていた小学校六年生の二男が、道路を移動するアリの大軍を見つけた。ボールを腕に抱えてかけ出し、真剣な顔つきで踏みつぶし始める。
 つぶされても、胴体をもがれても、アリは頭の触角を動かし、仲間の後を追おうとしている。道路を渡っていく雲霞のような大軍は、確かに気色が悪い。だが殺されなければならないほどの悪さをしているわけではない。
 無暗に生きものを殺さないように、教えてはきた。が、私にもアリを踏み殺した経験がある。やはり小学生の頃だったと思う。何が原因だったかはもう忘れてしまったが、二歳年下の弟とつかみあいの喧嘩をしたときのことだった。私だけが母にひどく叱られ、その腹癒せに、かたっぱしから踏みつぶした。
 無意識のうちに、私はアリではなく、母を攻撃していたに違いない。子供だったから、自分の心の葛藤を、アリを殺すことでしか処理できなかったのだ。
 二男は一体誰を攻撃しているのだろう。気になって妻に聞いてみた。
「お兄ちゃん(長男)が公園にサッカーをしに、自分だけで、行ってしまったの」
 あれは「落ち葉公害」が原因で切り倒されたクヌギの実を拾い、庭に埋めたら、そのひとつから芽が出た時のことだった。それを見つけたときの二男の喜びようはなかった。「いのち」の大切さは分かっているのだ。
 アリたちに向かう二男の苛立ちは、やがて小説や映画などの虚構の世界で発散できるようになり、自他の「いのち」が守れる。
  
講評(斎藤信也先生)
とてもいい話、というだけでなく
ハッとさせる視点がありました。
アリを殺す。
それだけではない。似たケースはいろいろ
あるでしょうね、花をむしる、とか、
バッタをやっけるとか。
すべて、「いら立ちの吐け口」
子供にとって、そうする以外に知恵が浮かばない。
そういう視点。
いのちの大切さは、十分に知っている。
けれど、アリを殺す瞬間には、
「いのち」への認識などどこかに消えて、
ただ無性に「いら立ちの吐け口」を求めてしまう。
そういう内容。結びの三行、まことにうまい。
ただこの文、「いのち」が、もうひとつ
背景に埋没した気がする。
題をつけるとすれば、「いのち」というより
「幼い苛立ち」とか「アリ」とか、そんな
テーマになった気がします。




題:不味い
カテゴリ:四十代の文章修行

 四十年前のことだ。私が通う小学校は、一学年、十クラスもあった。スシ詰め教室で、同級生の数は五十人を超える。町には、国鉄の大きな工場があった。同級生の大半は国鉄職員の子弟、残りは八百屋、肉屋、大工、金物屋などの自営業、父親が私大教授の級友、会社を経営する私の家、そして母子家庭の少年が一人だった。
 少年は、名字をKといった。お母さんの体の具合が悪かった。病名は知らない。彼は、朝晩の新聞配達をして、家計を助けていた。私たちより二歳年上で、勉強がよく出来た。「Kがお前の家で生まれたなら、成績はお前より上だ」。私は同級生から、しばしば、そういびられたものだ。
 学校給食は、ある日とない日があった。給食のない日。ぽかぽかと暖かい昼のことだ。弁当を食べていると、席の後ろの方から、嗚咽が聞こえてきた。Kが泣いている。駆け寄った担任が、慌ててアルミのフタを閉じた。その瞬間、弁当からのぞく黄色い中身が、私には見えた。(お粥かな?) すえた臭いが辺りに漂う。「腹が減ったよう……」。お腹を両手で抱えて、Kが泣いている。先生は自分の弁当を、黙って二つに分けた。
 秩父に紅葉を見に行った昨年の秋、立ち寄った店先で、キビが入った袋を見つけた。両手で掬ったほどの量が、袋に入っている。一袋買い、その半分を使って、キビ粥をつくった。小さなキビの粒が水分を吸って、何倍にも膨れあがって、土鍋から溢れ出た。ブツブツと黄色い粥を見て、Kの弁当とだぶった。(あれは、キビ粥だった!)そして四十年ぶりに納得したことがある。
 私の誕生日だった。他の同級生と一緒に、母がKを招待した。松の内だから、最初に雑煮が出た。鶏肉のだし汁が、旨そうな湯気を立てている。いったん口にしたモチを、Kが吐き出した。「不味い!」
 あのとき、決して豊かな食生活ではなかったはずのKが、なぜ、美味しい雑煮のモチを吐き出したのか、私には長きにわたって疑問だったのだが、キビ粥を経験して謎がとけた。米は苦みがない。キビばかり食べてきたKには、米のモチはもの足りなかったのである。

講評(斎藤信也先生)
きらりと光るところのあるよい作品でした。読後に言い様のない悲しみ感におそわれてしまう。
母子家庭、しかも母は病身。
かわいそうなな少年でした。
細かいことを言えば。
少年が泣き出した。原因はキビのせいではなく、お腹がすいたたねらしい。
でも先生の動作などから見ると、原因はキビ弁当にあるような……そんな書き方になりました。蓋をしめ、中身を隠す行動と、そのあとの「おなかがすいた…」とが、いまいち、ぴったりと結びつかない。余りにみじめなキビ弁当に、ふと悲しくなって泣き出す、という方が自然だし、先生の行動ともつながり易い。


……書いた私からの弁解……
 給食が出なかった日は、小春日和の、とても暖かな日でした。その暖かさのせいで、Kが持ってきたキビ粥弁当が腐ってしまったのです。書いた本人は、「すえた臭いが辺りに漂う」という表現で、そのことをいったつもりでした。しかし、そのように読み取っていただけなかったのは、己の文章の未熟さのゆえです。深く反省しています。




題:貸ビデオ店で
カテゴリ:四十代の文章修行

 夜目に慣れていた私は、貸ビデオ店もあまりの明るさに目眩を感じた。中学生の息子は足早に、十代の客が集中するSFX(特殊撮影を多用した映画)の一角に向かう。手持ち無沙汰の私は、ぶらぶらと店内を散策する。奥の方に、古い映画の棚があった。貸し出し中の札が、ほとんど下がっていない。ふと手にした『西部戦線異状なし』は、原作がレマルクで、青年時代の愛読書のひとつだった。同じ作家の作品で同じ棚に並んでいる『凱旋門』とともに英語とドイツ語の外書と一緒に、私の書棚にもある。繰り返し読み、繰り返し観た。
 第一次世界大戦が勃発。先導的な教師により、教え子の二十人全員が志願兵として戦場に送られる。勇んで出かけた十六歳の少年たちだが、食料を欠く前線で空腹を抱えたまま、昼夜を問わず飛び交う砲弾の下で為す術もなく、ただ累々と屍を重ねていく。腹部を撃たれた主人公だけが九死に一生を得て、四年ぶりに賜暇で故郷へ帰る。訪ねた教室では、軍隊への志願を薦める教師の熱弁に、生徒たちが目を輝かせていた。話を求められて、主人公が言う。「戦場は、ただ生きるか死ぬかだけだ」。「臆病者」との罵りに、「戦場には、少なくとも嘘はない」との言葉を残して、戦線に戻る。羽を休めている蝶を見つけて、主人公が塹壕の外にてを伸ばす。銃声そして死。しかし、「西部戦線異状なし」が、その日の戦線報告だった。
 手にしたビデオを棚に戻すとき、学生時代に訪ねた、猛爆撃を受けて廃墟と化したドイツの古都ドレスデン、頭に浮かんだ。それはレマルクの作品を私により身近なものにした光景である。息子世代が熱中するSFX。マーケティングと膨大な資金、撮影技術を駆使して製作したSFXにも戦争場面はある。が、格好が良すぎる。『生きるときと死ぬとき』『黒いオベリスク』などの、いくら優れてはいても、レマルクのような配給収入が稼ぎ難い作品は、もう映画化されないだろう。『西部戦線異状なし』が何時までも棚に並び、ときどきは、貸し出し中の札が下がって欲しいと思う。

講評(斎藤信也先)
レマルクのこの名著は、あなたより約二十年近い先輩の私たちも、(恐らく同じ時期)四で、改めて反戦の思いを熱くしたはずです。十分に仲間内で話題になった記憶がありますから。主人公のポール、たしか、蝶をとろうとして、死ぬのですね。この蝶のことも忘れられないが、主人公が生まれて初めて、人(敵)を殺す。相手のポケットに妻子の写真、そのときの苦悩のシーンも忘れがたい。
そのストーリを軸に、世代の変化を描き、戦争の風化を描いた。材料のユニークさとともに、なかなかの好作品でした。
ふと思うのです。そのときどきの世間の評価はSFXのほうが大きいかもしれない。が、長い歳月を経たのち歴史に残るのは、明らかに「西部戦線異状なし」のほうです。SFXは多分、大半が泡と消えているでしょう。




題:小さな旅
カテゴリ:四十代の作文修業


 湯船の中で手足を伸ばすと、ふわっと体が浮いた。天井から落ちてきた水滴が、ぴしゃんと額にはねた。箱根に妻と来たのは、十年ぶりである。そのとき腹にいた二男は、この春に小学校五年生になった。頭の髪を妻に洗ってもらいながら、私に話しかけてきた。
「人が亡くなると、どうして昔の旅の格好をするの。おばあちゃんのときも、手や足に、手袋や靴下みたいな白い布を巻いていたし、わらじを履いていたよ」
 茅ヶ崎市に住んでいた叔父の葬儀を終えて、私たち家族はそのまま強羅温泉に来たのだった。1ヵ月前に旅館を予約しておいた日が、たまたま叔父の告別式の日と重なったのだ。
 母は五年前に、七十二歳で逝った。旅の嫌いな人だった。私たちが家族旅行を計画して誘ってみても、家を空けようとはしなかった。
「どーこへも行きたいとは思わん。家にいるのが一番や」
 そう言って、てこでも動こうとしないのだ。弟の説得で一度だけ、重い腰が動いたことがあった。どんな手を使ったのか、弟はニヤニヤするばかりで、教えてくれようとはしなかったが、とにかく家族のみんなは大喜びした。ところが当日の朝になって、母は行かないと言いだした。
「やっぱり、旅行なんぞしたくない」
 母のために金沢で一番知られた旅館の、それも最上の部屋を予約してあったのに……。
 母の実家は金沢でも旧家の方だったが、昭和の初めには既に零落して、せっかく合格した高等女学校も、入学をあきらめなければならないほど、貧しかった。父と結婚してからも、父の興した事業はどれもうまくいかず、せっかく手にした資産もすぐに人手に渡った。やっと現在の家に落ち着いたのは、母が五十歳を過ぎてからである。
 カーン、とプラスチックの洗い桶がタイルに当たった。
「おばあちゃん、旅行が嫌いなら、なにもあわててあの世に旅行しなくてもよかったのにね」
 子供の素朴な叫びが、ずんと胸にこたえた。

講評(斎藤信也先生)
お元気でしょうね。
なんとなくの推測ですが、
旅がお好き、とお見うけしました。旅した
ときは行く先々の歴史とか、
民話とかを知る。それもきっと
お好きなはず、と。
今日の旅は、そういう探求がテーマではなく、「小さな旅」に
心くつろぎつつも、実は”戻ること
なき大きな旅”に立ってしまっ
た人たちへの思い。ふと兆す
人のいのちのはかなさ……
それがテーマでした。小さな旅
のなかで大きな旅を思う。その工夫、
なかなかによくできていました。
皮肉にも、当の主人公
のお母さんは旅ぎらいの人だった……。
孫が出てくるのが、とてもいい。




しばらくお待ち下さい。

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