熊井家の由来をより良く知るための補助線として、同じ更級地方の名家、丸山家(仁科一族)の由来を一度探ってみることにしましょう。

同じ熊井姓を名のりながらお互いに家系が異なってしまった歴史的背景を丸山家(仁科氏)との比較から類推してみました)



 『私の八十八年』(熊井邦隆氏(熊井恒次氏父君)著)掲載の熊井きいの面差しは、なんと、かって芥川賞を最年少受賞した丸山健二に酷似!!  

丸山健二(新潮文庫『安曇野の白い庭』掲載写真) 熊井きい(熊井邦隆『私の八十八年』掲載写真)

熊井邦隆氏著 『私の八十八年』(「本家のこと」24頁)には、次の記述がありました。
「養母のきいは、当村芦ノ尻の丸山浅右衛門の次女に生まれ、温順な良妻賢母型の人であり人の出入りの多い熊井家で、よく夫を助けまた子供の養育に当たりました。晩年は病弱で、夫熊吉より早く、六十四歳でこの世を去りました。きいの生家丸山家は、当村内で最も旧い旧家といわれ、先祖は武田信玄公の家臣で帰農した者といわれています。またある時代には大岡村一番の財産家でもあった由で、院号居士、大姉の戒名を刻み、三段組みの台石、塔身、笠、相輪と、身の丈の倍もある石塔群が整然と並ぶ丸山家の墓地は、部落西端の小丸山地籍にあり、往時の権勢を偲ぶことができます」
「曾祖父の池内惣右衛門は、妻に当村根越の旧家「向村」丸山三左衛門(現当主、丸山公一氏。父は丸山万寿治氏)の姉を娶り、…中略…、丸山三左衛門は、合併前の根越村の名主であり、当時地域一円の信望を集めた有力者で、手習の師匠でもあったと聞いています」『私の八十八年』(「生家のこと」33頁) 

同じく 『私の八十八年』(「角界で活躍した村出身者のこと」82頁)に掲載の丸山氏関連記事
丸山寅之助(根越生まれ、朝鮮忠清南道道会議員)
丸山巌(花尾に生まれ、千葉医専卒、中野市にて丸山医院開業)
丸山栄一(巌氏甥、陸軍軍医大尉、サイパン島にて戦死)
丸山遑(巌氏弟、海軍中佐、湯田中にて丸山医院院長)
丸山督憲(医師)

大岡村名主(熊井邦隆『私の八十八年』154頁〜155頁)

(明治5年)
副戸長丸山太兵衛
宮平名主丸山与右衛門
川口名主丸山甚左衛門
根越名主丸山三左衛門

(明治6年)
副区長丸山太兵衛
宮平戸長丸山謙造
根越戸長丸山三左衛門

(明治7年)
副戸長丸山助太郎

(明治9年)
戸長丸山助太郎


大岡村村長(1999大岡村勢要覧『別冊データーファイル』行政11頁)
 2代 丸山功男(明治24年3月26日〜明治26年10月15日)
 3代 丸山栄左衛門(明治26年10月27日〜明治27年7月15日)
10代 丸山勝之助(大正6年11月1日〜大正8年3月17日)
21代 丸山基宣(昭和26年4月5日〜昭和38年5月5日)

大岡村助役(1999大岡村勢要覧『別冊データーファイル』行政11頁)
13代 丸山基宣(昭和22年6月1日〜昭和23年10月15日)
22代 丸山一夫(平成4年4月1日〜平成8年3月31日)


『更級群誌』(地理部415〜418頁)
「上古更級郡は聖山を中心としてその四周の地を占めたるものの如く延喜式神明帳に日置神社を列せり、日置、方今(現在)は日岐と改記せられ北安曇郡陸郷村の一部たり、其地の人の口碑に、往古の日置は同村の中村、小泉、日岐(共に犀川沿岸)と東筑摩郡生坂村の小立野、生野、生坊としてこれを六郷と呼びたりと、東筑摩郡生坂村の人も同様の説をなし、且つ曰く、足利時代に此地の領主丸山氏の要塞日岐城遺跡、今、生坂に在りと、而して二群共に上古更級郡なりしことを伝え日岐、生坂に日置神社あり、和名類聚硝抄更級郡に九郷を列記す、其中に麻績及東信あり、麻績は東筑摩郡麻績村、日向村、坂井村、坂北村、本城及び前期生坂村地方にして、坂北村の外は皆更級郡に接壌し、往古更級郡たりしことを伝う。東信郷も今の大岡、牧郷、日原、信級地方のみならず、前記北安曇郡の陸郷村、広津村、八坂村の犀川沿岸を含みたるものの如し」
 
 丸山氏は仁科一族
で、仁科氏(インターネット播磨屋『家紋World』「武将の家紋(甲信越/北陸))による)は、「大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字としたものと考えられている。 『信濃史源考』によれば、国造の一家金刺舎人某、穂高地方に在って矢原殿と崇敬されて、郡治を行い開拓に従事し、その子孫に至ってさらに奥仁科に入り、室津屋殿と崇敬されてその地方を開拓したという。そして、子孫は兵士となり健児となって、奥羽の戦役に従軍し、源氏が東国に力を蓄えるとその家人になった。かくして、郷村の名主職、下司職、公文職などに任じられ、あるいは一村一郷を賜る者、荘園の荘官になる者などに分かれ、戦に際しては武士として出陣するようになったという。そのなかの安曇郡の大町および森に在る者は仁科を称し、大町仁科・森仁科と呼ばれるようになった」。
 
 丸山家は概ね、犀川、千曲川、信濃川の各水系にそって分布し、熊井家の分布ともほぼ重なっております。
丸山家は長野守護職小笠原氏の家臣小笠原氏が武田信玄に負けてから、あるものは上杉謙信を頼り、そしてあるものは武田信玄の軍門にくだりましたから現在も丸山家は、新潟県と長野県に多く分布しております。

 以下は、江戸時代長野・新潟の丸山家で主だった家々です。
@須坂藩国許家老
A江戸時代中期『越後名寄』31巻(越後についての百科全書)を著した丸山元純之直。その子孫で安政4年(1857)から長岡藩医
B中山道塩名田宿本陣当主


 戦乱の度に仁科氏(丸山氏は一族がバラバラに分裂してゆく紆余曲折の歴史を、『家紋World』の文脈にそって検討してみます。
 
 仁科氏は、大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字とした。その後、古代国造の末孫である仁科氏は桓武平氏、あるいは清和源氏などに系を繋げた系図を偽造した。
 『平家物語』に「義仲勢に仁科」。『源平盛衰記』に「信濃国住人に仁科太郎守弘」・「仁科次郎盛家」。…木曽義仲の軍勢に仁科二郎。
 寿永二年(1183)八月、京中の保々守護巡警人のなかに仁科二郎盛家の名。
 同年十月、水島において源平両軍による船戦のとき、仁科次郎盛宗、源氏方の大将。
 建久八年三月、源頼朝の随兵中に仁科太郎。
 承久の乱時、仁科次郎盛遠は京方。幕府軍に敗れて所領は没収。
 暦仁元年、将軍藤原頼経の随兵中に仁科次郎三郎の名。幕府に仕える。
 鎌倉幕府の滅亡とともに信濃守護北条氏の支配が崩壊。新守護小笠原氏。
 正平十年(1355)八月、宗良親王が小笠原氏と桔梗ケ原で戦う。仁科氏は諏訪上下の大祝とともに親王方として参陣
 信濃の地は守護小笠原氏の権力が確立。仁科の地は守護小笠原長基に掃討。追い落とさた仁科右馬助の跡は関孫三郎盛忠が擁立され仁科氏を継いだ。
 盛忠は元弘三年(1333)鎌倉幕府滅亡に殉じた関日向守盛長の子。仁科城主原信濃守源義隆の婿。文和二年(1353)仁科の領主。
 ここに至って、仁科氏が源平双方の氏を持つことになる。
 盛忠は早くに隠居し、家督を長男の盛国に譲り、盛国のあとは盛房が継いだ。盛房は、永享五年(1433)三月死去し、その跡は持盛が継いだ。
 文明十二年(1480)持盛が死去すると、小笠原長朝は兵を発して安曇郡に攻め込んできた。仁科盛直は防戦に努めた。
 翌十三年、諏訪上社大祝家が兵を起こし、仁科盛直は香坂氏とともに大祝に呼応し、長朝の軍と戦いこれを撃ち破る。
 長享元年(1487)将軍義尚が近江守護六角佐々木氏征伐の軍を起こし近江に陣を布いた。翌々年、仁科盛直も、村上・海野・伊奈の信濃武士たちと参陣し、戦功を挙げ、仁科氏は着実に勢力を広げ、盛国の代になると、安曇・筑摩郡の要所に一族を分居させ、城郭を構え領地守備体制の強化に努めた。
 盛康の代になると隣国甲斐の大名武田晴信が信濃侵攻を開始。武田氏の攻勢に対して、府中・松尾の両小笠原家、仁科氏、伊那の諸豪らは連合して福与城の後詰めに出陣した
 小笠原軍を破った晴信は、小笠原氏の本拠である府中に侵攻。小笠原氏は没落
 これより先の天文十六年、仁科盛康は晴信の麾下に属した。
 永禄十年(1567)八月、生島足島神社において、武田家に対する起請文を出した武士たちのなかに、仁科盛政の名
 盛政のあとの仁科氏家督は、信玄の子盛信が継いだ。以後、仁科氏一族のうち武田氏に帰属した者は、みな盛信の麾下に属した。
 信玄が死去し、盛信は高遠城主となった。しかし、織田勢の前に盛信らは防戦むなしく、ついに自害し高遠城は落城した。高遠城を落した織田信忠は甲府に軍を進め、武田勝頼は天目山において自害し武田氏は滅亡した。
 武田氏滅亡後、信長は木曽義昌に安曇・筑摩両郡を与えた。その六月、織田信長が本能寺において横死。越後から上杉勢が信濃に侵攻。義昌は木曽に退く。続いて小笠原貞慶が深志城に乗り込み、上杉氏と和談し深志城を手中に収めた
 貞慶は仁科一族に対して、父長時の受けた怨恨を晴らさんとした。
 深志入城後、軍を分けて木曽口、伊那・諏訪境に出し、上杉氏に備えるため更級境も固めた。そして、犬甘半左衛門を将として安曇郡の仁科一党の城を攻略させた。仁科一族の古厩因幡守、渋田見伊勢守らは貞慶軍に抗戦したが、結局、小笠原貞慶に降った。貞慶は古厩因幡守に逆心ありとして、これを誅伐し、塔原三河守も古厩氏と共にこれも誅した。
 安曇郡の諸士はみな貞慶に降り、降らない者は国外に逃亡していった。
 安曇郡は貞慶の支配するところとなった。
 貞慶はさらに、日岐大城を攻撃し、仁科一族は小笠原氏の前にそのほとんどが没落。
 そして、慶長年中の小笠原秀政家中に、穂高・沢渡・渋田見・古厩・日岐らの仁科一族諸士の名があり、仁科一族は小笠原氏の家臣となった者と、帰農した者とに分かれた。また、江戸時代の米沢藩士のなかにも仁科氏の名。「丸に対い蝶」の家紋を用いた。


丸山政知 (まるやままさとも)
小笠原氏家臣。丸山貞政の男。官途は丹後守。仁科一族で、平瀬氏に仕えた。1551年武田晴信に敗れ、のち信長の保護を受けた。この頃小笠原長時・貞慶も京都に逃れて信長の庇護下にあった。1577年頃には信濃安曇郡吉野郷に戻り、1582年武田攻めが開始され信濃における武田勢力が減退するとともに信長から吉野郷を安堵された。1590年正月に小笠原秀政から吉野郷・寺所郷において五十貫文の知行を与えられた。

日岐盛武(ひきもりたけ)
小笠原氏家臣。官途は丹波守。1582年、信濃筑摩郡下生坂日岐城主である兄日岐盛直とともに上杉景勝に属したが、南信から家康の援護を受けた小笠原貞慶が深志城に復帰し、このため盛武は川中島、盛直は更級郡八幡へ退去して両者は対峙した。1583年小笠原貞慶と日岐兄弟は和睦し、日岐本領及び信濃安曇郡のうちに併せて二百三十貫文の知行を宛行われ、以後貞慶に属した。1584年の貞慶の川中島進出の際も後詰をしている。

仁科盛明(にしなもりあき)
小笠原氏家臣。官途は安芸守。娘は小笠原長時の室。1548年の塩尻峠の戦いのとき下諏訪の拝領を願った。断られて戦線を離脱。以後武田氏に仕えた。

戦国武将列伝撰の中の林小笠原家から転記


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