片岡源五右衛門(熊井美江子様からの情報)

『埼玉風景』第十七巻第六号:通巻第百八十九号(埼玉風景同人会発行 昭和五十七年六月一日発行)
 浅野 春一
 

 NHKが、毎週日曜日の夜、放映(土曜日の昼再放送)している大河ドラマ「峠の群像」は、四月十八日内匠頭長矩の切腹まで進行したが、これまで常に長矩の側近として、まめまめしく仕えているのが、内証用人兼小姓頭の片岡源五右衛門である。
 伝奏屋敷の畳替えに奔走して急場を切り抜けたり、内匠頭が吉良義央に刃傷して切腹を命せられ、田村邸で切腹する直前に、許されて長矩に会い、万感の思いを込めて主君長矩に最後の決別をしたのは、源五右衛門である。源五右衛門に扮したタレント(歌手)の郷ひろみが、死に就く主君の後ろ姿を見送り、桜吹雪の庭にうづくまって嗚咽するシーンは、胸打つものがあった。
 ところで、この片岡源五右衛門が、尾張名古屋の出身であることは、あまりよく知られていない。源五右衛門はもと熊井氏で、名を高房と称し、父を重次郎と言った。祖父は浅野幸長の家臣であったが、幸長の娘が尾張藩主徳川義直に縁づいた際、これに従って名古屋へ移り、尾張徳川家に仕える身となった。源五右衛門は赤穂藩士である叔父の片岡源右衛門の養子となり、藩主浅野長矩に仕えた。
 源五右衛門は誠実な人柄で、武勇にも勝れていたので、初めは低い勤めであったが、長矩に認められて次第に重用せられ、内証用心兼小姓頭に擢んでられ、長矩の側近として忠誠を尽くし、累進して三百五十石を給せられる身となった。長矩が勅使接待役となり、指図役吉良義央との間柄が円滑を欠くと、源五右衛門は百方奔走して、接待役が無事終わるようにと配慮した。この場面は「峠の群像」に度々撮られていた。
 源五右衛門らの苦労も空しく、元禄十四年三月、長矩は吉良義央に刃傷した。その結果将軍綱吉の裁断に依って、長矩は即日切腹を仰せつけられ、赤穂藩の封土は没収せられた。このとき源五右衛門は、長矩の遺骸を受け取って泉岳寺に葬り、後任接待役へ引継ぎ、浅野家江戸屋敷の引渡などの処理を差配し、吉良義央が存命していることを確かめて赤穂へ降った。
 浅野家筆頭家老大石内蔵助良雄が、藩士の開城説(再興懇願説)・籠城説・殉死説などの議論を統括して、浅野家再興を懇願し不能の場合には、義央への復讐と決したことは、世間に知られている通りである。源五右衛門はこの盟約に加わり、尾張浪人吉岡勝兵衛と名のって江戸へ出、吉良義央の動静を探って、大石へ報告しその指図を江戸の同志に伝えていた。江戸在住の同志が、ともすれば血気に逸って暴発しそうになるのを抑えて、大石の指示に従うように努力したのは源五右衛門であった。
 ところで、いわゆる赤穂浪士は、悉くが赤穂の世臣である中に、源五右衛門はひとり他国生まれの一代出仕の身でありながら、艱苦を忍んで仇を討ち、一死以て君公に報いたことは壮と言わなければならぬ。おそらく源五右衛門の胸中には、主君長矩生前の恩寵が忘れられないものとして宿り、特には長矩切腹の直前に、田村邸で視聞きした主君の姿と声が、焼き付いていたのではあるまいか。
 本望を達した後、源五右衛門は大石良雄と共に、細川越中守邸に預けられ、元禄十六年二月四日、切腹仰せつけられ、従容として死に就いた。時に三十七歳であった。いま東京都の泉岳寺に義士の墓があり、香煙の耐えないことは各位のよく知らるる所である。

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