題:もうひとつの「ある愛の詩」
平成21年度『随筆春秋31号』年度賞佳作作品

 従弟の素行君と、映画「ある愛の詩」を見に行ったのは、今から四十年ほど前のことである。私は当時従弟の家庭教師をしていた。ステーブマックイーン主演映画の「華麗なる賭け」とか「栄光のル・マン」ならともかくとして、大富豪の息子とイタリア移民の菓子屋の娘の悲恋物語などを何故選んだのだろうか。その理由は忘れてしまった。
 フランシス・レイの叙情豊かな哀しい調べとともに館内の明かりが徐々に消えていくと、スクリーンに、雪に覆われた誰もいない屋外スケート場の観客席に一人座って、物思いに耽る男の後ろ姿が映し出された。そして、「二十五歳で亡くなった女、美しく聡明で、モーツアルト、バッハそしてビートルズと私を愛した女」の字幕。
 裕福な家庭に育ったハーバードの学生オリバーが、音楽を専攻するジェニファーと図書館で出会い恋に落ちる。父親の反対を押し切って結婚。法科大学院に進学。経済的援助を打ち切られ困窮するオリバー。教師となって家計を支えるジェニファー。貧しくも幸せな新婚生活……。医者からジェニファーが白血病で余命わずかであることを知らされたのは、大学院を修了したオリバーが、弁護士となって法律事務所に勤め始めたやさきのことだった。
 二人の永久なる別れを、カメラがベットの真上から撮し続ける。オリバーにジェニファーが囁く。「元気に生きて!」。静まりかえった館内のそこここから、啜り泣きの声が聞こえてきた。涙に濡れた従弟の頬の上でも、スクリーンからの反射光が、きらきらと踊っていた。
 従弟が二十八歳になった年に、同じ職場で働く娘さんと恋をした。娘さんは高校を卒業したばかりだった。「早すぎる」と娘さんのご両親は結婚に反対したが、二人の熱意についに折れて、私たち夫婦が仲人を頼まれた。楚々とした娘さんで、立ち姿が美しく、従弟よりも少しばかり背が高かった。
 新婚旅行で二人は、三ヶ月間をかけて日本各地を自動車で巡った。旅行から戻って間もなく、「二人だけの時間をできるだけ多く持ちたい」と、それまで勤めていた徹夜仕事の多い会社に見切りをつけると、昼間仕事が中心だという訪問看護会社の送迎車運転手に転職した。二人の相性は良く、翌年長男、三年後に長女、それから五年して二男が誕生し、従弟が一人っ子だった叔父の家は、急に賑やかになった。
 同性を見る女性の目がなかなかに厳しいことを、亡きわが母から思い知らされていた妻は、
「和枝さんは心根がとても優しくて、家庭的でもあるし、慎み深く、本当にいいお嫁さんだし、叔母さんはとても賢い人だから、大丈夫とは思うけれど……」としきりに心配していたが、それは杞憂に過ぎなかった。「娘が欲しかったの。だから可愛くて、可愛くて」
 和枝さんの不自然な歩き方に気づいた従弟が、隣接する市の大学付属病院に連れていき検査を受けさせたのは、一昨年の暮れのことであった。脳腫瘍の疑いで入院することになった昨年正月三日の朝、和枝さんから電話があった。身じろぎもせず受話器を握る妻の目に、盛り上がる涙が見えた。
 腫瘍サンプル摘出の開頭手術後、担当助教授からの説明に、家族の全員が凍てついた。生命維持機能を管理する脳幹の真上に、四センチ大の腫瘍があって、それを摘出するのは現代の医学の水準では不可能。余命は三ヶ月、長くもって一年だというではないか。
 放射線治療で長い黒髪は抜け、抗ガン剤投与のたびに嘔吐。体力は瞬く間に消耗する。病状は急速に進行して、和枝さんの意識は日毎に薄れていった。ほんの僅かでも、無に向かって限りなく落下し続ける意識を覚醒させようとして、和枝さんの両親は昼間、勤めのある従弟は夕方から、叔父・叔母そして三人の子を連れて病院に駆けつけ、一日も欠かすことなく呼びかけ続けた。そんな家族全員の必死の思いに支えられて、告知された一年を乗り越えた。話しかけたり体に触れたりすると和枝さんが反応してくれる。家族のそんなささやかな喜びさえ、意識はもうないと医者から冷たく否定される。しかし、見舞った妻が呼びかけると、見る間に目尻から涙が流れ出て、頬をすーつと伝って落ちていくではないか。一年八ヶ月に及ぶ闘病生活の末、和枝さんは逝った。以下は、三人の子たちの弔辞。
「お母さんと一番長く一緒にいられたボクだけど、親孝行をひとつもできなかった。ごめんなさい」(高校三年 長男)
「これからはお母さんの代わりを私がしますから、安心してください」(中学三年 長女)
「ボクは、一年八ヶ月も病気に負けなかったお母さんの子だから、これからどんなに辛いことが起きてもガンバルよ!」(小学校四年 二男)
 子供たちの弔辞を項垂れて聴きながら、ただ涙するばかりの素行君に、着物姿の和枝さんの遺影が、「元気に生きて!」、と優しく語りかけていた。

題: 掃除
前書き:平成三年七月課題「掃除」
カテゴリ:四十代の文章修行
「掃除」(平成三年七月課題「掃除」)

  平成元年、七月二十五日に、二年間寝たきりだった母が七十四歳で亡くなった。葬式、その後始末、初七日、三十五日の法要と慌ただしい毎日を、私たちは父の家で過ごした。納骨を済ませてようやく我が家に戻れたのは、八月も末になってである。
 玄関を開いたとき、気分が悪くなるようなかびのにおいとともに、湿気と熱気がおそってきた。私は妻と手分けして、家の窓をすべて開けた。光とともに(削除)風が部屋に入る(さっと部屋に入った)。
 うっすらとホコリに覆われた廊下には、飛び(削除)虫の小さい死骸が点々と落ちている。居間の壁に掛けてあったバイオリンは畳の上で、弦が二本外れていた。食堂では、クリムトの複製画が極彩色からくすんだ灰色に変わり、食器棚のコーヒー缶はふたが外れて粉が白くなっていた。かびのためである。
 時計は六時をすでに回り、窓外を(の西空を)茜色に染めて、日は沈もうとしていた。これから掃除を始めては(たのでは)近所に迷惑をかける。が、おおざっぱにでもやっておきたかった。妻は掃除機をかける。雑巾掛けは私が受け持つ。(ことにして、)風呂場に行きポリバケツに水を入れた。真っ赤に(とたんに真っ赤に)濁った水道水が出てきて、透き通るまでに一、二分かかった。
 取りあえずざっとのつもりが、つい夢中になり、掃除を終えたのは十一時過ぎである。家の中はさっぱりとした。しかし、一ヶ月以上も干さなかった布団の中で、私たちは寝たくなかった。翌日、天日で乾かすことにして、百メートルほど離れた父の家に行く。明かりもつけず、しょんぼりと父は座っていた。
☆([一番大切なところですから、少しメリハリをつけましょう] これは、ショックであった。その日早速、)「お義父を一人にしておけないわ」と、妻は私たちの生活の本拠を父の家にその日(削除)移した。それから三年が経った。家財道具は移動しないで私たちの家に置いてある。私たちの結婚式でのスナップ、二人いる息子の幼いときの写真。*新婚から十年間の生活が、その家で化石化している。それが見たくて、月に一、二度二人で掃除に行く。

講評(斎藤信也先生)
 初の対面、といっても紙の上での話ですが。ときどき耳の痛いことをいうと思いますがあまり気になさらず、ナルホドと思ったところだけ、心のスミにとどめてください。
 何よりも、書くことを楽しむ心境、楽しく書く気持ちになって下さい。それが長続きする道であり、長続きすることこそ上達の道だと思うのです。まあ、楽しく書く、なんて口で言うのはやさしいけれど、実際は月々、「書くのがつらいネ」ということの方が多いかもしれませんね。でも、できるだけ「書くこと」を楽しもう、という心境になるよう、努めて下さい。一番大事なことと思うのです。
 さて第一回作品、拝見して、この人なかなか書ける、と感心しました。そして、何となく書くことを楽しんでいらっしゃる雰囲気が作品から伝わってきたのです。耳の痛いことなど言う必要もなさそう。文章もとても上手です。
 この文のいちばんすばらしいところ。後半☆のところです。「ひょうたんから駒」という言葉がある。まさしく、この文がそうでしたね。
 久々のわが家、埃いっぱい。ふとんも何やらじめっ、として気持ちが悪い。「仕方がない。今夜はトウさんの家で寝よう。ふとんは明日、干そう」。全く全く100%、自分たちの都合で、父の家へ舞い戻った。ところが……その家の中で、多分、ガランとした広い家の中で、肩を落とした父がしょんぼりと座っていた。多分テレビもつけず。その姿に孤影のさびしさが漂っていた。
 ハッとする。こりゃいかんと気付く。この「思いがけぬ結果」その面白さ。そこに持ってゆくまでの話の進め方(構成)も上手。
 そしてラスト*印の軽妙さ、面白さ。初回から、なかなかの秀作を届けてくださいました。
 (今回はとても長々と書きました。うんざりされたと思う。今日だけにします。次からはアッサリとやります。
 

題: 誤解
前書き:平成五年二月課題「誤解」
カテゴリ:四十代の文章修行
「誤解」(平成五年二月課題「誤解」)

 山陰地方の私立大学で助教授をしている友人から一昨日、電話があった。パリに留学する前に会いたい、という。指定された待ち合わせ場所、東京駅銀の鈴ひろばに行く。約束の正午には、まだ二十分もあった。
 ひろばは混雑していた。少し心配になる。なぜなら、友人と会うのは十四年ぶりである。互いに年を取った。分かるだろうか。改札口がよく見える場所を探す。
 と、背の高い、すらりとした男に目が止まった。円柱に寄りかかり、『みどりの窓口』の方を向いている。白髪は増えはしたけれど彫りの深い顔は、間違いなく友人である。しかし、(A)目つきが鋭すぎるような気もする。
 声をかけようかどうか迷っていたら、目が合い、途端に視線が緩んだ。やはり友人であった。あいさつもそこそこ。突然に問いかけてきた。(B)「おれ、泥棒に見えるかい」
 妙なことをいう、と思ったが、一歩下がって観察した。「和製アラン・ドロン」と女の子たちから騒がれていた院生時代よりも一層、容姿は洗練されていた。黒いシャツの襟からのぞいている渋いスカーフも、板に付いている。「女心の盗人」になら見えないことはないというと、友人は苦笑いを浮かべ、話し始めた。
 予定していた時間より一時間も早く、銀の鈴ひろばに着いた。喫煙コーナーでタバコを吹かしていたら、改札から私によく似た人が出てきた。慌てて飛び出した瞬間、床に落ちていた新聞紙を蹴飛ばした。新聞は、パアーッと広がった。誤解はそのときに生じた。
 どこから現れたのか、制服の公安官がそばに立っていた。そして、週刊誌に読みふけっている、ベンチの女性に声を掛けた。「カバンが隠されましたよ、お嬢さん」
 『みどりの窓口』の前、そこだけ大理石になっている円柱を友人は指さす。「ああして、ずっとおれを見張っているんだ」。確かに、柱の陰から冷たく光る目が、私たちの方をうかがっていた。

講評(斎藤信也先生)
 たくさんの誤解、いろいろのエピソードが届きましたが、「犯罪者に誤解された話」はなかった。なんともユニークでブラックユーモアのような、ちょっと怖さもある作品でした。
 いつもながら見事な展開。
 フィクションが書けるのでは?と感じています。(すでに手を染められたことがあるのかもしれませんが)
 この文にも巧妙に伏線が張ってある。A、Bのところ。
 それはまた、サスペンスを生む。
 何だろう?と読者はひきよせられてしまう。そして、いつものごとく終わり近くにパッと意表をつく結末が飛び出す。結びの一行には、構成とは別の「内容的な」サスペンスがありました。
 推薦文に採りたいところ。でも貴方なら、いつでも登場できる。
 今回は、めったにチャンスのこない方に席をゆずっていただきます。でも、推薦に匹敵する佳品。  
題: レストランで
前書き:平成四年九月課題「レストランで」
カテゴリ:四十代の文章修行


「レストランで」(平成四年九月課題「レストランで」)

 女の人たち数人が会食している。年齢はいずれも三十代の後半。どの人も小綺麗に身を飾っていた。話がはずんでいる。内容からすると、どうもゴルフスクールの仲間らしい。
 その人たちのテーブルの斜め奥に、シュロの木に似た六尺ほどの高さの観葉植物が置いてある。その陰に二人連れが向かい合って座っていた。
 男は、目を閉じて少しそっぽを向き、しきりにタバコをふかしている。四十年配でグレーの、多少くたびれた背広を身につけていた。
 女の方は髪が長く、ちょっときゃしゃな感じで、二十歳を二つ三つ出たくらいだ。黄色いハンケチを両手で握りしめ、男の顔を食い入るような目つきで見ていた。
 「悪い男だね」
 私は小声で妻にささやく。妻もゴルフの話に興じている女たちも時折、二人連れに目を走らせる。
 「あの娘、カッ子と同じくらいの歳よ」
 妻の従妹カッ子ちゃんはいま大学の四年生である。妻と同じ女子校,そして女子大へと進学した。だから話題には事欠かない。よく二人で長電話をしている。
 きのうも妻が買い物に出ているとき、カッ子ちゃんから電話があった。いつもの彼女らしくなく、ひどく暗い声だった。
 「カッ子に好きな人ができたらしいわ。それにパパもママも大反対。親子ほど歳が離れているんだって」
 運ばれてきたヒラメにナイフを入れながら、斜め奥の男に妻はちらっと目をやった。
 「初めての恋愛だろう。さんざん苦しめばいいのさ。人は年齢を重ねるごとに、自分の人生の料理の仕方だんだん分かってくるから。そこの奥さん方だって、同じような経験を積んで鍛えられ、あんな風にたくましくなれた。君だってそうだ」
 「まあ!」

講評
 レストランの一隅の情景を、これだけのスペースにこれだけ書き込むのは、なかなかのものです。レストランの様子、人の観察がきいていて、それをうまく表現しています。文章の間の取り方、場面の転換(段落の付け方)もよく、会話体も手慣れています。一遍の短編小説といってよいでしょう。間然するところがありません。達者な文章です。

添削の先生が替わったので、同じ文章を試しに提出してみました。
講評(斉藤信也先生:鍔氏の文章の師)
 はてさて、今日の作品、何と申しましょうか。うっかりした評をすると、あちこちから矢が飛んできそうです。
 よほどの変人でない限り男は女が好き、女は男が好き。これはもう、どうにもならぬ真実。それをどう処理するか、となるとまさに百人百様となる。何よりも「好き」の度合い(エネルギー)にも百様あるのだから当然である。
 年齢差とか、社会的な釣り合いとか、そちらに比重が傾いてくる人は、この「好き」の度合いが比較的うすい人と思えます。学者たちは「知的理性の働きが、本能を抑制する」「社会的存在としての、動物とは異質の、人間にのみあるすぐれた資質」などとコメントしますが、それだけではなさそう。
 さて、このレストランの中の若い女性、また同じ年頃のカッ子ちゃんが、「好き」という本能そのままに男性に恋をした。相手が同じように本能そのままに応じてくれればOK。でも社会常識などにより、あるいは、もともと「好き」本能が希薄だったなどの原因で100%に受けて立たなかったとき、いわゆる悲劇がおきる。その際、私の、先に書いた前提にてらすと、どちらが悪い、などとは言えないと思う。これは「悲しき食い違い」なのです。ラストのコメントも、そのへんの悟りをいった、と私は見ました。とてもおもしろく楽しい作品です。


 題: 顔
前書き:平成元年九月課題「顔」
カテゴリ:四十代の文章修行
「顔」(平成元年九月課題「顔」)

 母は古希を過ぎても(、)かくしゃくとし、(ていた。)年に一、二度は父と外国旅行をしていたくらいだから、寝たきり老人にはならないと思っていた。ところが……。(……を削除し、ところが、を次の段落の文頭に置く)
 昨年の元旦のことだ。(元旦、)初詣に出かけた母が、背と足を傷とあざだらけにして戻ってきた。参道で倒れ、踏みつけられたという。
 正月早々、不運に見舞われたことがよほどこたえたのだろう。以来、外出を嫌い、家に引きこもりがちになった。
 (急速に)元気がなくなった(り、)母は老いを早めた(が進んだ)。一年もしないうちに、同じこと(話)を何度も繰り返して言ったり聞い(尋ね)たりするようになり、(ことが増えた。)床に伏している時間が長くなった。
 八月二十三日に、やっと休暇の取れた弟が外の空気を吸わそ(せてあげよ)うと、ドライブに連れ出した。母は喜んでついて行ったが、その日の夜になって右手足の自由(削除)がきかなくなった。長い時間、自動車に座っていたからしびれたのだ、と本人も弟も思っていた。
 「お義母さんの顔色がとっても悪いわ。身動きも不自由みたい。昨夜、床につくとき、まるで崩れるように倒れるのだもの。おもらしもしたし……、変よ」
 妻と私は母を掛かり付けの医者に診せた。状態の説明に耳を傾けていた医者は机の上に置いてあった金属の棒を取ると、母の右足の裏をなでた。親指がピクッと反る。
 「脳血栓のようです。大病院に入れて精密検査をしても結果は同じでしょう。お母さんを痛い目に遭わせるだけかわいそうです。ご家族の精神的なご負担を考えますと、老人病院への入院をお勧めします」
 紹介状を手に病院を妻とたずねた。自宅から自動車で十五分ほどの所だった。母と同じような症状の老人が多勢いた。
 父と弟の了解を得て、八月三十一日に入院させた。病室を出ようとした私たちを呼び止めた母の顔は駄々っ子のそれであった。
 「わたくしも家に帰る」

講評
 たいへん端正な筆致で、一家にとっての重大な出来事が淡々と語られています。そこに、抑制された悲哀の思いがそくそくと感じられて、胸を打たれました。ほとんど添削する余地とてありません。
 しかし、せっかくですから、あえて私見を述べます。
 まず、冒頭のセンテンスが長すぎます。あとは短く、きびきびした筆の運びになっているだけに、大事な書き出しでもたつく印象なのが惜しまれます。
 「ところが……」という、気をもたせる感じの言葉で行を変えている部分も、やや技巧的に過ぎるかと思います。素直に、次の行に移って「ところが、昨年の」と続けるのが自然です。このような「……」の多用は文章を品のないものにする恐れがありますので、なるべく避けてほしいものです。
「なった」「なり」「なった」と、同じ語尾が連続して出てくるところ、ちょっと気になります。うっかりすると文章を単調なものにしてしまいかねません。


題: みだしなみ
前書き:昭和六十年九月課題「みだしなみ」
カテゴリ:四十代の文章修行
私はは四十歳から、朝日カルチャー通信講座・文章教室に入門しました。与えられたテーマに全力で挑戦し、添削を受ける。そんな繰り返しのうちに筆力が磨かれていく。そんなことを痛感しています。まさに「継続は力なり」ですね。


「みだしなみ」(昭和六十年九月課題「みだしなみ」)

 十五年前、私は慶応の大学院生だった。同じ研究室のMが私を彼のアパートへ連れていった。そこには全共闘系の院生が七人集まり、激しい理論闘争を行っていた(口から泡をとばしていた)。議論は徹夜で続けられた。ヒューマニズムを繰り返し口にしていた彼らが、「静かにして下さい」という隣人の声を無視した。
 十一年前、父が狭心症で倒れ、私は大学院を中退した。アルバイトをしたこともない学者崩れの二世社長と運送会社の従業員とでは、水と油であった。私は相手を自分以下の人間と見た。それまで学んできたマルクス経済学は(人間開放を解いたマルクス経済学は)、結局、頭の中の理解(机の上の学問)でしかなかった。
 昨年の十二月二十八日、箱根で同業者の集会があった。「サービスは相手の立場に立つことです。(かぎかっこのおしまいの読点は省くのが普通です)」(。)そう言った講師が、いやがる芸者の胸へ、手をねじ込んだ。
 院生たちは生まれ育ちの良さを感じさせたし、おしゃれでもあった。見たところ、講師も上品な紳士であった。外面からは、私も彼らのように見えるかも知れない。その人間が、無意識のうちに、自らを特殊な人間と錯覚し、他人にもそうみることを強いてしまう。
 人間は常に過ちを犯す。その過ちを過ちとして受けとめ、それを矯めようとする感受性と勇気が人間には必要だ。みだしなみはその積み重ねの上にある。
 人の痛みを理解しようとしない人間が、いくら美しい言葉を使い、綺麗に着飾って、立派な立ち居振る舞いをしても、それは戯画であり、嫌みでしかない。

講評
 言いたいことを具体的な事件や現象でわかりやすく説明しています。立派な論説文であり、注文するところはほとんどありません。
添削(表現)
激しい理論闘争を行っていた→口から泡をとばしていた
マルクス経済学→人間開放を説いたマルクス経済学
かぎかっこのおしまいの読点は省くのが普通


題: 星
前書き:昭和六十一年三月課題「星」
カテゴリ:四十代の文章修行
「星」(昭和六十一年三月課題「星」)

 五歳になる長男が、散歩の途中で、夜空を見上げて叫んだ。
 「お星さまがいっぱいだ」
 眼鏡をかけている私の目に写る星は、数えるほどしかない。
 私の両親は近眼のために眼鏡をつけている。眼鏡は目を疲れさせる。すぐ近くに時計があるのに、針仕事をするのに眼鏡を外していた母が、「いま何時?」と、私によく聞いたものだ。
 近眼になりたくなかった私は、受験勉強に飽きてくると庭に出て、星を眺めては目を休めていた。
 大学一年の夏、私はヨーロッパに旅行した。イタリアとの国境近くのスイス領ゴットハルト峠で、深夜バスが故障した。八月だというのに、外は霜で真っ白だ。バスを降りて私は目を疑った。満天の星空……。その星明かりを、私は霜と錯覚したのだ。
 大学院入試が近づいてくると、休む時間さえ惜しくなった。いつしか私は猫背になり、視力も1.2あったものが0.01まで落ちてしまった。
 合格と引き替(換)えに、私は視力を弱めてしまった。あのゴットハルト峠の、ただすごいとしか言いようのない星空を、いまの私はもう見ることはできない。
 四十一歳になったいまでも、私は現実の生きた社会からではなく、本から学ぼうとする。失った物を取り戻すことは困難だ。せめて心だけは(中年になって、いよいよ広い視野と長い将来を見通す目が必要になってきた。目は治らないが、現実の生きた社会を見る目だけは)近視眼にならぬよう注意しよう。

講評
 きちんとした文章、用語に感心しました。お人柄が分かります。その点で申し上げることはありません。結構です。
 最後の結びの文章は、ちょっと唐突に感じました。ご工夫ください。(例えば、中年になって、いよいよ広い視野と長い将来を見通す目が必要になってきた。目は治らないが、現実の生きた社会を見る目だけは近視眼にならぬよう注意しよう)
 「変」「換」「替」「代」の使い方については、「用語の手引き」で、ご研究下さい。


題: 草取り
前書き:昭和六十二年十月課題「随筆」
カテゴリ:四十代の文章修行
「草取り」(昭和六十二年十月課題「随筆」)

 私の家の庭は広さが二十坪ほどで、木は一本もない。芝生だけである。その芝生に生えてくる雑草は、驚くほど伸びが早い。放って置くと、一週間で、ゴミ袋にいっぱいの量になる。特に夏草は生長が著しい。二、三日もすると、夏草の方が芝よりも目立ってしまう。
 帰省先の金沢から八月十七日に戻り、庭を見ると、たったの四日間家を留守にしただけなのに、芝生には夏草がはびこっていた。
 すぐに草いきれのする庭に出た私は、蚊に刺されるのもかまわずに、夏草を抜いていった。いくら生えても、あきらめずに次々にとり続けていくと、長い間には芝の目が込んできて、草は地面まで根をおろせなくなる。少しも抜くのに力がいらない。(そうなれば、抜くのに少しも力はいらない。)
 夢中になっていた私は、私を呼んだ(削除)妻の声に気付かなかった。肩をたたかれて顔を上げると、妻が立っていた。「大きな声で何度も呼んだのよ。お茶が入りました。あなたに集中力がないなんて、信じられないわ」
 教育ママの走りであった母が妻に言う(いうのである)。私に集中力があったらどんな名門の大学にでもはいれた(入れたろう)、と。要らざるお世話だが、高校時代、勉強をしようとするといろいろな思いがブクブクと浮かんできて、じっと机に向かっていられなかったのは確かである。
 大学生になってからは、(そんなとき、浮かんできた思いを)いったん書いてしまうと、その思いに捕らわれずにすむ(なくなる)ことを知り、原稿用紙にそれを書き記すようにした。一晩に八十枚の原稿用紙を費やしたこともあった。
 激しく、また煩わしくもあった思いを書き記すことで頭の中から取り去ることを覚えて二十年がたった。十代から二十代にかけてあれほど願いながらかなわなかった心の安らぎを、中年になってやっと得ることができた。
 縁側に座ってお茶を飲み、ゴミ袋からあふれ出た夏草を眺めつつ、私は人生の夏が過ぎてしまったことを知った。机の上の原稿用紙の束は(近年、)少しも減らず、ほこりをかぶったままだ。

講評
 初めて拝見するのですが、とてもしっかりした文章力と同時に、物の見方の新鮮さ、面白さというような才能を感じます。「あなたに集中力がないなんて……」と唐突に妻にいわせ、その意味をときほぐしながら「人生の夏が過ぎた」と結語へつなぐあたり、単なるうまさというより、一つの才能でしょう。随筆とは何か、随筆と普通の文章はどこが違うのかと問われても、私には明確に答える自信はありませんが、こうした味わい、面白さは随筆の一つの特徴だろうと思います。
 ただ「大学生になってから……」以降が、字数が足りなくなったせいかも知りませんが、いかにも舌足らずです。何か思い浮かんできて集中できないとき、その思いを原稿用紙に書くことで解消するというのは、かなり特殊なことのように思えます。それだけに十分に説明し、書き込まないとわかりにくいところです。「思い」がいかにも漠然としているので、「雑念」としようか「想念」としようか考えましたが、結局本当のところが分からず、そのままにしました。中年になってなぜ安らぎを得られたのかも不明のまま終わりました。


題: 剥き枯らし
前書き:平成五年十月課題「窓」
カテゴリ:四十代の文章修行
「剥き枯らし」(平成五年十月課題「窓」)

 都内に出る時は、交通渋滞を避けて電車を利用する。高架鉄道である埼京線は、見晴らしが利くから好きだ。天気さえよければ西の方に、富士山や秩父山脈がはっきり見える。
 沿線には、新興住宅地が果てしなく続いている。その住宅地の中に点々と、まるで瀬戸内海の小島のように小さな森が浮かんでいる。この地が約六千年前には、東京湾の入り江だったことをほうふつさせるかのように。
 「スギのこずえが枯れているわ」
 吊革につかまって景色を見ていた大学生らしき二人連れの、女の方が目を細めて言った。体格のいい、頭一つだけ女よりもノッポの男が身を少しかがめた。
 「先週、ツーリングで秩父に行ったんだ。山のところどころに、立ち枯れた木があったよ。あれも公害のせいかな」
 武蔵浦和で、たくさんの男女の高校生が乗り込んできた。私は押されて二人連れから離れ、周りは、詰襟の学生たちばかりになった。息子と同じ年頃である。たわいのないことを話しては、ゲラゲラと笑っている。
 学生たちの頭の上にのぞく、二人連れの男の方の横顔を見ながら、(山中で立ち枯れた木を見れば、知らない人はどれもこれも酸性雨によるものと早合点してしまうかも知れないな)、と私は思った。
 植林した苗木を風雨から守るために、広葉樹の大木をわざと山に残しておく。苗木が根を張って、今度は日光を必要とするようになったとき、大木は皮を剥かれる。これを「剥き枯らし」という。立ち枯れた木はやがて朽ちてボロボロになり、苗木の栄養になる。
 埼京線は北赤羽を過ぎてトンネルに入った。窓ガラスに映った顔を見て私はハッとした。六年前に亡くなった母に生き写しだった。
 母にだって、してみたいことがきっとたくさんあったのに違いない。しかし、剥き枯らしの木となって私を育ててくれた。今度は私の番だ。が、それは真っ平御免である。

講評(斎藤信也先生)
 今日の文、結びにすばらしい決着がありました。これは第一級の結び。なんとみごとな連想であり着眼であろう、と脱帽しました。
 まさしく人間の子供たちのために人間の親たちは、そのほとんどが剥き枯らしとなる。
 なんとも言いようのない現実。
 さびしい、悲しい、つまらない、きびしい、なさけない、すばらしい、涙が出る、ありがたい、たのもしい、自然の理だ。それらが一切、ミキサーにかけて一緒にされたような「人の世の光景」
 いつもながら貴方の作品にはオッ!!と叫ばせるものがある。
 エッセイの名人です。
 ひとつだけ。「窓」は、ほんのほんの小道具でしたね。「窓の作品」とは、やはり言いにくい。だから推薦作にはくやしいが採れませんでした。(これ、一つのお手本、という形で、活字にして配布すると、「あら、これ、どうして窓の文なの」とケチをつける方がきっと出る。外野席けっこうやかましいのです)。   


題: ネコ踊り
前書き:平成四年十二月自由課題
カテゴリ:四十代の文章修行
「ネコ踊り」(平成四年十二月自由課題)

 祖父の三十三回忌の法要が終わった。僧からそとばを受け取った父の後ろについて、廊下に出る。冬の日差しが、本堂から流れ出る香の煙を切り(削除)、明と暗に分けていた(切り分けている)。目を境内に移す。桜の枝ではすっかりさびしくなった、穴のあいた葉が赤城おろしにふるえていた。(赤城おろしがひゅうと吹きつけてきて、私は思わず首を縮めた。)(と、)どこからか、テンツクテン、テンツクツク、と太鼓の音が聞こえてくる(きた)。
 先祖が祭られている墓は、寺から五百メートルほど離れた、カシ、クヌギ、ナラなどの木々に覆われた小高い丘の上にある。太い根が露出して大蛇のように地面をはい、自然の階段を作っている坂道を登っていく。(省略してもよい)太鼓は、雑木林の中で鳴っていた。登るに連れて、音は次第に大きくなり、木霊して、四方八方から聞こえてくる(押し寄せる感じになってきた)。
 ガサ、ガサ。地面をふかぶかと覆った落ち葉を踏んで男が二人、林の中から現れた。二人とも、ところどころ擦り切れて白くなった、黒いジャンパーを着ている。
 ほおがゲソッとこけた、背の高い方の男が言った。
 「せっかく芸を仕込んだってのによお、死んじまいやがった。惜しいことをしたよな。秩父の夜祭りまで、あと十日しかねえぜ」
 「いいじゃねえか。ネコなんて、マタタビがありや、いくらでも捕まえられらあな」
 血色の悪い顔をした小太りの男は、そう言いながらポケットから一握りの小枝を取り出した。
 急な坂道を慌ただしく、半長靴を履いた二人は下って行った。二人の後ろ姿を振り返って、私は以前、従妹から聞いた話を思い出した。
 焼けた鉄板の上にネコを入れた鉄製のかごを置くのだ、という。暑さで我慢できなくなったネコは、立ち上がってスキップをする。それに合わせて太鼓をたたく。数日で、火がなくても、ネコは踊るようになる。

講評(斎藤信也先生)
 新年おめでとう!
 今年もよいとしでありますように。
 新年一回目に拝見する作品、迫力十分でした。
 最後のところにきて、がくぜんとし、「その光景」を想像して背筋が寒くなる。どんな曲馬団やサーカスでも、こんな非情な調教はしないだろう、と思う。
 サーカスではたいてい「餌」で釣って仕込む。動物の「飢え」を手段に使う発想も、ちょっと許せない。が、このネコのように、ひとつ間違うと焼け死に通じるような「痛み」を手段にする発想、耐え難く「人間の傲慢さ」を覚えます。
 ここにもってゆく構成もうまい。書き出し、まるで無関心なスタート。法事の話か、とおもいつつ悠々と読んでいくと、太鼓の音、サスペンスが盛り上がり、パタッと止み、二人の男が登場。あとは一気。そして、意外性のある結末。なかなかにおみごと。
 ただ、前半を悠々たるペースで書くのも一つの方法ですが、余りに風景描写などで悠々としすぎると、テーマがそっちの方に移りかねません。(このテーマ、あくまでラストの数行だから)
 今月の推薦文にしたいと思います。ご異存あれば、至急ご連絡ください。  

題: 郷土料理くるみ
前書き:平成五年二月課題「裏表」
カテゴリ:四十代の文章修行
「郷土料理くるみ」(平成五年二月課題「裏表」)

 江戸城の北の守りとして譜代大名が配置されていた十七万石の城下町川越は、江戸市民の台所、武州の商取引の中心地でもあった。間口三〜五間の二階建ての土蔵造りの商家が、目抜き通りには今でも軒を連ねている。
 町のほぼ中央、表通りからちょっと東へ横町を入った左手に、時の鐘がそばたつ。郷土料理の店『くるみ』は、この鐘楼の四、五軒先、江戸時代から続いているというそば屋の裏通りにある。
 格子戸のガラスはほこりで曇り、中は薄暗い。商い中の札が下がってはいても一見、つぶれた店のようだ。だから昼食時でも、ほとんど人が入らない。時たま足を止める人も、店構えを見て首を傾げ、立ち去ってしまう。
 妻と私はそばが食べたくて、その日が休業だとも知らないで、川越の町を訪ねたのだった。仕方なく蔵造りの町をひとまわりしてみた。しかし食べてみたいと思う店をみつけられないまま、再び『くるみ』のまえまで来た。
 『かぼちゃぜんざい』と書かれた張り紙が、格子戸で北風にはためいている。妻は、ぜんざいが好物である。一瞬ためらっていたが、私の手を引き、中に入った。
 正面には三畳の和室があって、右手のたたきに、触れるとガタガタする古びたテーブルが三つ。その一つに座って、壁に張り付けられたメニューを見ていたら、白髪ぼうぼうのおばさんが左手のノレンの奥から出てきて、湯飲みを置いた。くすんだ黄緑のセーターに汚れたエプロンをつけている。すすくさいおばさんだ。
 「ぜんざいは売り切れました。本日のおすすめ品は、くるみごはんです」。半ば強制的に、川越の近郊で採った山菜二十八種を使って料理したという、すいとんのついたくるみごはんを注文させられた。かぼちゃぜんざいを食べそこねた妻は、ベソをかきながら縁の欠けた湯飲みに口を付けた。そして叫んだ。「まあ、おいしい」。
 入るのにも、入ってからも勇気のいる店だが、くるみごはんもすいとんも、とにかくうまかった。


講評(斎藤信也先生)
 お元気のことと拝察いたします。前回の「テンテケテン テケテケテン」傑作でした。印刷された六っの推薦文の中で断然迫力があった、と思っています。
 さて今日の文も、味があった。
 何よりも文章のよさ。書き出しのあたり、地形や歴史の説明のあたり、みごとです。
 プロの時代小説のはじまりのよう。書き出しだけでなく、全体に表現が細やかで的確で、目に浮かぶように描けています。センテンスの長と短の呼吸もいい。
 内容も楽しい。ほのぼのと素朴で、「食べもの雑誌」などのエッセイ欄にのせてもいいような……。
 ただ「表と裏」という課題の作品としては、これだけではムリな気もします。
 蛇足になる危険もありますが、☆のところにホンの一、二行コメントをつけて、それで「表と裏」が完成するのでは。
   

題: 迷う
前書き:平成元年十二月課題「迷う」
カテゴリ:四十代の文章修行
「迷う」(平成元年十二月課題「迷う」)

 今日は色々なことがあった。雪が降った。来春、茨城県の歯科医師と結婚する義妹が、衣装合わせを兼ねて、金沢から遊びに来た。次男が通う幼稚園へ、家族揃って、展覧会を見に行った。粘土で作った怪獣は上手に出来ていた。帰りに「アショカ」でカレーを食べた。
 今夜はこれから、長男が七歳になったお祝いをする。妻は台所に居て、義妹が子供たちを風呂に入れてくれている。時間が空いたので本を読んでいた。電話が鳴る。茅ヶ崎に住む叔父からだった。
 母のすぐ下の弟で、一歳違いの七十一歳だ。二年ほど前に一度、軽い脳溢血を起こしたが、今は元気にしている。頭もはっきりしている。
 「お母さんの具合はどう?」
 穏やかな口調だった。心配を掛けていることをわび、私の知るかぎり詳しく、母の病状について話した。
 「一進一退が、長くかかりそうだね。病院では細かいところまで患者に手が行き届かないだろう」
 「沢山の寝たきり老人がいるし、その面倒を見る人の数が少ないのだから、仕方がないです。下の世話だって決められた時間にするしか……」
 いきなり叔父が怒鳴った。
 「病人だって人間だ。たとえどんなに忙しかろうと、物のように扱うのは許せない。決められた時間にだと、あんまりだ」
 一瞬の間、言葉が途切れて、そのまま電話は切れた。窓の外を屋根から雪が、ドサッと崩れ落ちた。
 昨年の今日、まだ元気だった母は、長男の誕生日を一緒に祝ってくれた。今日も母のことを忘れたわけではない。妻は祝いの料理を真っ先に病院まで運んだ。
 一体全体、叔父は私にどうしろというのだ。「病人も人間だ」。分かっている。

講評
 今回も、手を入れるところなしでした。平和で幸福に見える家庭の内側にずっしりと重くのしかかっている老人問題。そこには、ゆたかな未来に向けて生き始めようとしている若い世代と、生の時間の大半をすでに終え、死を待つだけの残り時間をベッドで過ごす老いの世代の、残酷なまでに対照的な光景がある。両者のはざまにいて、なすすべもなく立ちすくむ筆者のつらさが、乾いた筆致で表白されています。これまでの中でも、一番完成度の高い作品のように感じます。
 短いセンテンスを畳み込む語り口も好調で、文章に緊迫感を醸し出しています。いつもこのような出来を維持されたら、もう私どもの出る幕はありません。
 ただ、前にも申し上げましたが、題材がお母様のことにかなり偏っているようです。もちろん、ご一家にとって最大の問題であり、常にそこに思いが行くのは当然でしょう。この問題を一貫したテーマとして、その種々相を書き続けるのも、一つのやり方のようにも思われます。しかし、さらにご自分の文章世界を広げて行かれるためには、もっと多様な題材、角度、手法を手がけてみるのもいいのではないか、という気がします。

(平成三年度は家庭事情で、文章教室を休む)  

題: 靴
前書き:平成四年十二月課題「靴」
カテゴリ:四十代の文章修行
「靴」(平成四年十二月課題「靴」)

 「ああ、もうこんなに傷をつけて。下ろしたばかりなのに」。私の靴を磨いていた妻はそういって、ため息をついた。
 手に取ってみると、つま先とかかとのところに擦り傷があって、皮が細かくささくれている。つま先の傷は昨日、駅の階段を上るときにぶつけてできたのだ。かかとの方は、自動車のアクセルの下にたまっている小さな、石のかけらでついたものだと思う。
 「高いのよ、あなたの靴は。注意して歩いてくださいね」
 言われるまでもない。新しい靴を履いたときには、私だって、いつもよりは慎重に歩いている。だが、男には考えなければならないことがたくさんある。靴ばかりに神経を使ってはいられない。階段につまずくことだって、たまにはあるさ。
 自動車の中でも、普段はなるべく靴を履き替えている。しかし、そのつど履き替えるのは体面上、困ることもあるのだ。
 「今日はこちらの新しい方にしましょう。傷がついた靴を履かせているのを見られたら、妻としての私の立場がありません」
 これから私たちは日本橋の百貨店に出かける。十三年前に仲人をしてくれた金沢の陶芸家が、そこで個展を開いている。
 都内に出るときは、交通が渋滞しているから、いつも電車を利用する。頻尿の気がある妻と一緒のときはとくにそうだ。
 駅の近くの駐車場まで、妻が運転することになった。新しい靴を履いた私が助手席に座る。家を出るとき、小雨が降り始めたが、それがだんだん激しくなった。駐車場から駅へ歩いていると、しの突く雨に変わった。ビルの雨どい水が歩道にあふれて瞬く間に川のようになっていく。
 「気持ちが悪いよ。水がジクジク靴の中まで入ってきて」
 わたくしの言葉に妻は黙っていたが、その顔は見なくても分かるような気がした。

講評
 靴というちょっとしたものを小道具にして、男女、とくに妻と夫の心理の違いや、妻特有の細かさを、上手にまとめあげたと思います。短編小説か映画の一場面のような思いがしました。文章にもリズムがあって結構です。
 

執筆日:1986/06
題: 私の楽しみ
前書き:昭和六十一年六月課題「趣味」
カテゴリ:四十代の文章修行
「私の楽しみ」(昭和六十一年六月課題「趣味」)

 私の家では、テレビのある居間で食事をし、食堂を(は)めったに利用しない。夕食を済ますと、家族から離れた私は(私は家族から離れて)一人食堂にこもる。
 六人がゆったりとすわれる食卓に、英語とドイツ語の本、そしてその翻訳本、辞書をならべ、十一時までの三時間、読書をする。
 日本語の本を読むのと同じ速度で外国語の本を読む、ただそれだけが最初の目的だった。
 外国語で書かれた本は、途中でまるで(*)濃霧に閉ざされでもしたかのように、さっぱり(*)意味が分からなくなることがある。片っ端から(*)辞書を引く。知らない単語や言い回しならともかく、何度も調べたはずの単語まで……。
 突然、霧が散る。文章の意味がつかめる。その表現のあまりの(*)美しさに、思わず(*)涙までにじむ。翻訳本でもこんなに(*)綺麗だったのだろうかとページをめくる。書いてある。ずーっと読み過ごしていたのだ。
 私のいまの職業では、語学など不必要だ。でも、「お前さんがうらやましい。商売で本を読んでも少しもおもしろくない」、と友人が言う。彼は大学でフランス語を教えている。
 これまでの四十二年間に読んだ外国の小説のすべてを、英語とドイツ語で、もう一度読み直してみたい。いま、エーリヒ・マリア・レマルクの「西部戦線異状なし」を読んでいる。次は「凱旋門」を読む。

講評
 いつもきちんとした文章に感銘を受けます。第一作の「星」に比べると、うんと整理されてきました。「家族から離れた私は」を「私は家族から離れて」を比較してみて下さい。私は主語が前にあった方がよいと思います。
 *調子でしょうが、「まるで」「片っ端から」「さっぱり」「あまり」「思わず」「こんなに」といったこの種の形容句は削っても殺風景にはなりません。わたくしなら使いません。  


題: 趣味
前書き:昭和六十年十二月課題「趣味」
カテゴリ:四十代の文章修行
「趣味」(昭和六十年十二月課題「趣味」)

 中学一年の夏休みに、絵の宿題が出た。画題として(は)、かって武蔵一宮と呼ばれていた大宮氷川神社を与えられた(だった)。
 小学校入学以来、展覧会では金賞をとることの多かった私は、絵に自信を持っていた。三日間かけて仕上げた絵を見て、従姉が言った。「これではまるで下書きね。絵はここから始まるのよ」。
 従姉はパレットを手にすると、私の絵に筆を入れていった。毎日それが続いた。夏休みが終わる日になって、やっと絵が完成した。
 その絵は秋の展覧会で特選となり、校長室に飾られることになった。「この絵からは時間の重みが感じられる。完成度が非常に高く、中学生の水準をはるかに超えた作品といえる」。全校生徒を前にして語る校長の言葉は、私にとって苦痛であった。私はうしろめたかった。
 私の絵を見て、だれかが手を加えたことを校長は見抜いていたのに違いない。だが、たとえ中学生であっても、焦点をしぼり、時間さえかければ、きっとすぐれた作品を生みだし得る、と言いたかったのであろう。しかし、当時の私には、そのことをくみ取れるだけの理解力がなかった。
 私は従姉のような水準の絵を描くことはできない。そのことを人に知られるのを恐れるようになった。私の心にひそむずるさが、私から絵を遠ざけてしまった。二十七年たったいまでは(さえ)、絵が描きたくてもかくことができない。

講評
 趣味を具体的にとらえ、しかも、自分の心の動きを深くとらえた秀作です。表現も的確で、分かりやすく力強い。この調子です。
 「画題として……与えられた」は、専門的で固苦し過ぎます。普通にすんなりと表現した方がよい。
 最後の行で、いまではとすると、年と共に描けなくなっていくわけですが、普通は時間が経つにつれて記憶はうすれるものです。一応二十七年たったのにという直し方にしましたが、さてどちらでしょう?  


題: 胆のう摘出手術
前書き:昭和六十一年五月課題「記念日」
カテゴリ:四十代の文章修行
「胆のう摘出手術」(昭和六十一年五月課題「記念日」)

 五月八日の午後一時三十分、私は手術台の上にいた。執刀医に名前と身長、体重を確認された後、看護婦により点滴の針を打たれた。針が刺された右手の甲に、冷たい液がゆっくりと広がっていった。手術前のことで覚えているのは、そこまでである。
 ほおを続けざまに打たれ、大きな声で呼ばれて麻酔から覚めたとき、私は自分が病室に戻っているのを知った。が、同時に激しい痛みが腹部を襲ってきたため、意識のすべてはそれにとらえられてしまった。
 前日の外科回診のとき、睡眠薬を飲んででも十分に寝ておくこと、と医者に言われていた。(*)私は不安で眠れなかった。本を読むことで気を紛らわし、とうとう夜明かしをしてしまった。医者が言っていたことの意味は、手術を受けた日の夜に身にしみてわかった。耐え難い痛みのために眠ることができなかったのだ。
 内臓の活動を押さえるから痛み止めは打ちたくない、と看護婦が言う。私は我慢できなかった。男の人はどうして痛みに弱いのでしょうと、その看護婦はしかたなく肩に注射を打ってくれた。薬は一時間と効かず、観念した私は痛みを受け入れることにした。
 付き添う妻がいくらぬぐってくれても、顔からは絶え間なく脂汗がにじみ出てきた。鼻や尿道に差し込まれた管と、心臓のペースメーカーがとれる四日後まで、私は脂汗から逃れることができなかった。

講評
 きちんと整理された文章です。スイスの星空のものより自然でもあります。用語も的確で、誤字、当て字もありません(それが珍しいのです)。
 *薬は飲んだのでしょうか。一言必要です。  


題: 晩秋
前書き:平成元年十一月課題「晩秋」
カテゴリ:四十代の文章修行
「晩秋」(平成元年十一月課題「晩秋」)

 「ジャン・クリストフ」を有り難う。ロマン・ロランの作品のドイツ語訳は、手を尽くしてみたのですが、日本では見つけられなかったのです。銀行のフランクフルト駐在員として多忙なあなたに、お手数を掛けたこと、申し訳なく思っています。
 これまでに呼んだ小説の中で気に入ったものだけを選び、ドイツ語で読み直す。それは単なる趣味で、仕事とは何のかかわりもない。夜に本を読んでいると、もう一人の自分が、「四十二歳にもなって青臭いやつだ。商売だけに焦点をしぼり、それに人生をかけろよ」と、とがめるのです。
 本当に、書いてあることが分からなくて時間だけが過ぎてしまった晩などは、充実感がなくて、「今の自分に必要のないことなんか、もうやめてしまおう」と、何度思ったことでしょう。でもあきらめないで続けていると、文章の意味が突然つかめることがあります。そんな時はただうれしくて、涙さえ浮かんできます。それがたまらない。
 横文字の本は、文字を見ただけで即理解とはいかない。努力が必要です。なんだか人生を歩いているのににています。先が見えないからといってくさってやけを起こしていたら、進歩も望めないし、気分だって良くない。
 濃霧に閉ざされでもしたかのような文章を、知らない単語や言い回しならともかく、何度も調べたはずの単語まで辞書を引く。苦労のすえに霧が薄れて景色が見えてくる。その美しさは翻訳本では味わえない。
 だから、秋の夜長を本に向かっているのです。山茶花が咲くほどですから、空気も冷えてきました。もう虫も鳴かなくなりました。真剣に読んでいると寒くないのですが、分からなくなると、足元に暖が欲しくなります。
 今、あなたが昨年のクリスマスに贈ってくれた「罪と罰」を読んでいます。私の語学力では、一年でやっと一冊が限度。生きている間に、クリストフを読了できるだろうか。(だが、このクリストフは、なんとか生きている間に読了したいと思っています。)

講評
 前回、「別のスタイルの作品を書いてみせてほしい」と申し上げたのに対して、さっそく手紙文という新しい手法で応えて下さいました。そして、やはり多彩な文章力をお持ちでいらっしゃることを、証明なさいました。感服のいたりです。
 公正、表現面ともに、とくに付言することはありません。
 ただ最後の結び方ですが、本を送ってもらった相手への礼状の体裁をとっているのを考えると、「読了できるだろうか(ひょっとすると、できないかもしれない)」で終わるのは、ちょっと失礼な感じもします。例えば添削のように(だが、このクリストフは、なんとか生きている間に読了したいと思っています)と結ぶ方が、より印象がいいのではないでしょうか。
 

題: 他山の石
前書き:昭和六十三年七月課題「他山の石」
カテゴリ:四十代の文章修行
「他山の石」(昭和六十三年七月課題「他山の石」)

 私が経営する会社では、父の代から土曜日ごとに役員全員が会議室に集まり、社員食堂の昼食を取りながら意志の疎通を図る(話をする)。
 七月四日の土曜日は来客も一緒だった。ところがいつもと違って、運ばれてきた料理はまるで手がかかっていない。給仕していた女子事務員が、「食堂のおばさんがお休みなものですから代わりに私たちでつくりました」と申し訳なさそうに言う。「(おばさん、)ご不幸があったそうです」。(と言われて、)「また!?」。私たちは顔を見合わせた。
 おばさんの実家は日航機が墜落して有名になった群馬県多野郡上野村だ。つい五年ほど前までは六人の家族がいた。それが毎年葬式が出て、とうとうおばさんの五十九歳の長兄と、その末っ子で三十三歳になる総領息子の二人だけになってしまった。
 息子は働くことが嫌いだった。のらりくらりとして日を過ごしていたが、食べることだけは熱心で、父親の作る三度の飯を、食えないと不平をたらしながら残らず平らげていたそうだ。体は相撲取りと見まがうほどだった。(で、)高血圧と糖尿病が巣くっていた。
 昨年の二月におばさんの母親が亡くなった時に、私は式に出て彼に初めて会った。まるでアメーバのお化けだ。怠惰も極まると人間はあのようになるものなのか。あまりの醜さに思わず目をそらした。
 七月二日、彼の父親は東京労災病院で左半身のしびれを検査するために、おばさんの家に来て泊まった。その夜、息子から電話があった。「母ちゃんが化けて出た。怖い……。早く帰って」
 三日、急いで家に戻った父親は、血だらけの畳の上でうつ伏せに倒れ、事切れている息子を見つけた。警察は他殺を疑ったが、調べると脊髄液に濁りがあり、脳溢血と分かった。
 人は自分に似るもの、否、自分の欠点を写し出す他人を憎むと聞く。ひょっとすると、彼は私の分身だったのかも知れない。用心。(削除)

講評(川村二郎先生)
 結びがとてもきいていますね。痛いところをつかれた気がしました。
 「他山の石」という難題の今回、貴方の作品が内容と表現の両方で、最も優れていたと思います。
 貴方はこれまでのどの作品でも、完成度がきわめて安定していましたが、今回のが第一だと思います。ほとんど間然(とやかく言う余地がないほど完璧だ)するところがありません。
 「意志の疎通……」もっとさり気ない表現の方がいいですね。
 「おばさん、ご不幸が……」と書いておく方が読者サービス、フールプルーフ
(foolproof・間違えようのない。馬鹿でも扱えるきわめて簡単な)になるでしょう。
 太っていたから高血圧と糖尿病だったわけですね。
 「用心」は書かない方が、読者に「気をつけなければいけないな」と思わせます。  


執筆日:1985/11
題: 入試と人生
前書き:昭和六十年十一月課題「勝負」
カテゴリ:四十代の文章修行
「入試と人生」(昭和六十年十一月課題「勝負」)

 私は大学入試に二年続けて失敗した。二軒となりに住む中学校での同級生は、早稲田大学に現役で入学をしていた。予備校生の私にとって、彼と顔を合わせることは苦痛であった。
 「他人をうらやむことはない。自分の個性を大切にし、それに磨きをかけなさい。他人の成功を喜ぶ謙虚な心も人間には必要です」。明るさを失ってしまった私を心配した叔父の言葉が、私を救ってくれた。
 やっと三年目に大学生となって間もなく、帰宅途中、(不要)小学校時代の担任(の先生)に出会った。私の胸の徽章をちらっと見た女先生は、「山村(Y)君も二浪したけれど、東大に入った。もう安心。出世は間違いなしね」と言った。
 大学名なんて関係はない。肝心なのは何をそこで学ぶかだ。出世とは別の問題なのだ。私は教師の顔を睨み付けた。
 私が大学院に進学した年、(の)十二月に(、)高校のクラス会があった。担任は浦和高等学校校長となり全国校長会会長でもあった。自己紹介で、(省略)慶応の名を省略して、経済学を学んでいるとのみ私は述べた。鼻先で笑った教師は、「どこの大学でだい」と言った。席を立った私は、以来、クラス会に出席していない。
 小さな勝負(入試なんて人生では小さな勝負)の結果に教育者までがとらわれている。人生は生涯をかけて充実させていくものだ(ものだと思う)。その結果は時間が決する。
 大学入試から、勝負に隠された人間社会の病を、私は知った。(削除)

講評
 自分の体験に即して、学歴社会の馬鹿ばかしさを、摘出したいい文章です。話が具体的で、主張点も明確なのが成功の理由でしょう。ただ最後の二行は、ない方がいいでしょう。
 昔の話ですから、帰宅途中と細かく必要はない。山村君という人物に全く説明がないので読み手はまごつく。第三者ならイニシャルぐらいでいいでしょう。  


執筆日:1988/04
題: 旧友への便り
前書き:昭和六十三年四月課題「旧友への便り」
カテゴリ:四十代の文章修行
「旧友への便り」(昭和六十三年四月課題「旧友への便り」)

 「昌さん元気になりました」。毛筆で元気よく書かれた一行の文面。そして「睦子」の署名と、赤くべったり押された大きな印影。奥さんからのはがきを見た妻は「おおらかな方のようね」とほほえんでいました。
 四十代の半ばまで独り身で通していた君が突然の結婚、それも二十三歳の人と。披露宴どころか式までも省略してしまうから、一体全体どんなお嫁さんをもらったのか、妻は気になっ(し)ていた。
 正月七日の、奥さんからの電話には驚かせられました。昌さんが半年以上も微熱がとれず、医者の診断では慢性肺炎かもしくは肺結核(というのですから)。
 君の実家は北海道、奥さんは沖縄。お二人が居を構える甲府市には頼れる知人のいるはずがない。かといって大宮市に住む私たちができることには限度がある。
 花粉は飲んでくれていますか。肉が嫌い、寿司屋へ連れていけば注文するのはかっぱ巻きばかり。身長は一メートル七十五あるのに体重といえば五十キロそこそこ。そんな君にふさわしい完全栄養食品が花粉であると作家Mの本から知った父が、沼田市の養蜂業者から取り寄せたものです。
 昌さんは女の子にもてた。「和製アラン・ドロン」と騒がれ、「男小町」を自認する僕でさえ顔色なかった。君がソルボンヌに留学したときにフランスまで追いかけた娘もいたっけ。
 七年前、まだ助教授だった時に確かアメリカへ行ったよね。だから僕はてっきり君が例のあれにかかったものと早合点をしてしまった。今でこそ言うが、電話の向こうで声を震わせていた奥さんには悪いが、「ざまあみろ、たたりじゃ」と溜飲を下げていたのだ。
 僕の部下に君と同じ時期に結婚した三十一歳の部下がいる。どうも最近さえない。だれでも新婚の時代は体調が崩れるようです。昌さんの場合はそれに多忙な四十代だものなおさらのこと……。でも元気になってよかった。
 蛇足―書道歴が二十年の妻は奥さんからのはがきを挑戦状とうけとりました。

講評(川村二郎先生:朝日新聞論説委員)
 大変なお友達がいらっしゃるのですね。
 僕は文章を書くポイントの第一番に「特ダネを」と書きましたが、貴方の今回の特ダネは「昌さん」というお友達ですね。失礼かも知れませんが、僕なら、どんなテーマが与えられてもこの「昌さん」をネタにしようとするでしょうね。
 貴方自身、大変に自信を持ってお書きになったと思いますが、いかがですか。
 しかしなんにしても、特ダネは強いですね。これに朱を入れるのはむずかしいです。
 

執筆日:1996/07
題: 文章教室で学んだこと
前書き:平成四年七月「朝日カルチャーセンター立川十周年記念募集感想文入選作品」
カテゴリ:四十代の文章修行
 私の机にはいつも一冊のファイルが載っている。B5の大きさで、厚みが三センチはある。とじてあるのは作文だ。朝日カルチャーセンター立川の通信講座・文章教室と、同センター新宿の文章添削通信講座の二つで学んだものである。一ページ目には昭和六十年九月の課題作文「みだしなみ」があり、今月九月の「レストランで」が最終ページになっている。
 受講した動機だが……。私は従業員が百人ほどの会社を経営している。入社希望者には履歴書の外に作文も出してもらっている。父の代からの習わしである。ところが人事の担当者は、その作文を目もとおさずに机の上に置いていく。筆無精の私に採点などできるはずがない。困っているときに、新聞で通信講座のあることを知った。
作文は雑草を除いて綺麗な芝生をつくる作業に似ている。次から次に粗が目立ち、課題を六百字なり八百字に過不足なくまとめるのは難しい。だがこうした学習を通じて、思ってもみなかった収穫が二つあった。ものを考えるときや話し合いのときに、肝心なこととそうでないことをえりわけられる能力を身につけたことがその一つ。
 二つ目は、はじめのころは常に第一人称でしか文章が書けなかったが、最近では第三人称で表現することができるようになったことである。
 私はこれまで平凡な人生を送ってきた。人さまに語れるほどのものはない。だから、やがて書くことがなくなってしまうのではないか、と作文を続けていて不安でならなかった。いまはもう題材に事欠くことがほとんどない。課題に合う材料を集めるだけ集め、冷静にそれを組み立てるだけだから。
 これからも通信講座は続ける。ちょっと欲張って、一輪挿しに似た完成度の高い世界を描けるようになるまで。この色あせたB5のファイルは私の、「宝島」に至る地図である。
 

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