熊井郷 くまいのごう (塩尻市)

『長野県地名大辞典』(角川書店)

[中世]鎌倉期〜戦国期に見える郷名。筑摩郡のうち、「吾妻鏡」文治2年(1186)3月12日条に引用する関東知行国(管理者注:源頼朝知行国)乃年貢未済荘々注文に、信濃国のうちに「小俣郷・熊井郷」と見える。鎌倉期の「沙石集」に載る説話中に「更科の地頭」の女婿という「熊井の地頭」が登場するが、もし史実だとすると、かなり広範囲にわたる地頭間の通婚圏がうかがわれて興味深い。
 南北朝末期の嘉慶元年(1387)と推定される10月10日の斯波義将書状写に、「府中熊井原合戦」「熊井合戦」などが見え、反守護方に立った小笠原長基と守護方の諏訪頼寛とが戦い、小笠原方が勝利をおさめている(守矢文書/信叢7)。
 室町期に入って、宝徳3年(1451)10月5日小笠原持長は諏訪大祝に所領を安堵しているが、そのうちに「筑摩郡熊井郷南北」とあり(諏訪大社下社文書/信史8)、この頃までに熊井郷は南北に二分されることが生じたらしい。その後の史料にも熊井郷を南北に分けた記載が見える。長享2年(1488)の春秋宮造宮次第によれば、諏訪下社の若宮造宮を担当した22郷の中に「熊井南北」が見え、春宮御宝殿と御柱3本、秋宮宝殿と御柱4本を造立してきたという(信叢2)。また永禄9年(1566)9月晦日の諏訪下社造宮改帳によれば、筑摩郡の中の16郷役として春秋両社の若宮宝殿2社・舞殿2社・御柱7本が造立されてきたが、当時造営銭の無沙汰によって造宮ができないと竹居祝が訴え、そのときの造宮銭42貫900文のうちに、熊井北方が800文、熊井南方の900文が見える(諏訪大社文書/信史12)。さらに天正6年(1578)の諏訪下社春秋両宮造宮帳の「若宮造宮相勤候郷之次第」にも同様に22郷のなかの一つとして「熊井南北」と見える(信叢2)。天正7年(1579)の下宮春宮には春秋宮若宮造宮分のひとつとして熊井北方・熊井南方が見え、それぞれ正物(しょうぶつ:「現金」の意か‥管理者注)2貫文、同1貫文を分担している(信叢2)。
 熊井郷の南北は、江戸期には北熊井村・南熊井村になったと推定される。
 なお北熊井には熊井城(北熊井城)があり、小笠原氏の拠点林城(現松本市)を中心とした城砦郡のひとつであった。熊井城は筑摩山地から突出する舌状台地上にあり、大きな空堀が台地を横断し、4〜5の郭を擁しているが、本城といわれる主郭は東側と南側が土塁で囲まれている。城の西方に館・侍屋敷を配したとみられる町割があり、大規模で典型的な平山城である。南熊井にも台地の西端に南熊井城がある。郷域は現在の塩尻市片丘のうちに比定される。

(管理者注 塩尻‥塩が運ばれる道には、日本海側からと太平洋側からの二つのルートがあって、その道の終焉の地を意味している)


『日本歴史地名大系・長野県』(平凡社)

 縄文・弥生時代からの遺跡が多いが、郷としては平安時代に国衙領の一部として成立したと思われる。
 塩尻市の東北にある高ボッチ高原(管理者注 ボッチの由来は「法師」。巨人伝説あり。諏訪湖はその法師の足跡の名残とか)の西側山麓を西流する小河川の扇状地の上にあり、現在の北熊井及び南熊井地区がそれにあたる。
 文献上の初出は「吾妻鏡」文治2年(1186)3月条の年貢未済庄々注文にある熊井郷で、領主名や庄名がないのは国衙領であったことを物語る。
 室町時代の宝徳3年(1451)10月5日府中の小笠原長持は熊井郷等10数か郷の安堵状を諏訪社下社あてに出している。熊井郷が南北に分かれる初出である(諏訪大社下社文書)。更に武田氏の支配下に入った天正7年(1579)には若宮二の御柱造営分として熊井北方は正物2貫文と400文、南方は正物1貫文と300文を寄進している(下諏訪春宮造営帳)。
 天正18年(1590)松本に入部した石川氏の天正の差出検地の寄帳、筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附(百瀬文書)には、北熊井村は399石余、南熊井村は248石で、これが元禄まで基礎村高となった。
 なお嘉慶元年(1387)諏訪社上社の大祝諏訪頼継の兵と府中小笠原長基の軍が熊井原で戦っている(守矢文書)。
 また小笠原氏が南の押さえとして築いた北熊井城は、甲斐武田晴信との戦いに使用された。


北熊井村(塩尻市大字片丘)
  

『日本歴史地名大系・長野県』(平凡社)

 東は筑摩山地の高ボッチ高原で岡谷市と接し、南は南熊井。西は田川を境に高出、北は南内田の村々に隣接する。丘の上に人家や耕地が散在する。
 文献上の初出は「吾妻鏡」文治2年(1186)3月条の年貢未済庄々注文にある熊井郷である。長享2年(1488)・天正6年(1578)の下諏訪春秋両宮御造宮帳(諏訪大社上社文書)には「熊井北南」となっている。天文17年(1548)甲斐武田晴信と松本の小笠原長時とが塩尻峠で戦い、小笠原軍の大敗により、北熊井城は武田氏に領有された。
 元和3年(1617)から幕末まで諏訪領東5000石に属した。寛文9年(1669)の検地で村高550石余となり、戸口は寛文11年に86軒446人であった。刈敷山の入会地をめぐる主な争論は貞享4年(1687)の千本原、元禄元年(1688)の四沢山、享保5年(1720)の内田村との山争などがあり、諏訪の横川村との争いも長く続いた。
 明治7年(1874)に中挟・南熊井・北熊井・南内田・北内田が合併して片丘村となり、昭和34年に塩尻市となった(この行は片丘地区からの抜粋)。
 第二次世界大戦前から毎年8月高ボッチ高原で北熊井の馬持ちによる草競馬大会が催されていたが、塩尻市が主催して県下各地へ呼びかけが行われ、夏の風物詩となっている。 


南熊井村(塩尻市大字片丘 南熊井)

『日本歴史地名大系・長野県』(平凡社)

 東は筑摩山地の峰通りをもって岡谷市と境し、南は中挟、北は北熊井、西は田川を境に高出に隣接する。
 往古は熊井郷として南北熊井が一つであった。文献上の初出は「吾妻鏡」文治2年(1186)3月条の、年貢未済庄々注文の中の「熊井郷」である。
 戦国期には小笠原氏た武田氏の支配下に入った。松林寺東の南熊井城跡は北熊井城の出城としての遺構であろうが、犬っ原には近年まで旗立ての松などが残っていた。 
 元和3年(1617)から諏訪領東5000石になった。元禄元年(1688)には中挟村などと四沢山山論があった(大和家文書)。正徳元年(1711)地押検地があり村高334石余となった。戸口は寛文11年(1671)に33軒231人、明治2年(1865)には78軒444人である(上条家文書)。
 幕末に入道地区の田中五左衛門は窯を築き入道焼として日用雑器などを焼いた。

(管理者:田中五左衛門  


北熊井城跡(塩尻市大字片丘北熊井)

『日本歴史地名大系・長野県』(平凡社)

 高ボッチ高原の西麓北熊井地区にあり、城(じょう)とよばれている。東西に舌状に長く延びた台地を深い空堀で6の郭に仕切った平山城。(南は塩尻の西条城、北は赤木から遠く松本を望む位置にある‥『東筑摩・松本市・塩尻市誌』957頁「小笠原氏の没落と武田氏の統治」から:管理者注) 約2キロ西方に出城と思われる南熊井城があり、約4キロ離れた東北に後詰めの城と思われる山城がある。
 初め深志(現松本市)の小笠原氏が林城(大城および(同じく金華山、南の尾根上の)小城からなる連立した城:管理者注)に対する南の押さえとして築城したものであろうが、武田晴信の占領後は鍬立てを行って武田氏の松本地方攻略のための一拠点となった。
 文献上の初出は「高白斎記」天文14年(1545)6月14日条に「14日林近所迄放火、桔梗原御陣所、熊野井城自落、子刻15打立、小笠原ノ館放火」とある。
 東西45間・南北40間の広さの本郭は東側に高い土塁を盛り、東側に三重の空堀、西側に深さ10間以上の深い空堀をひかえ、南側も高い土塁の間に大手の門や馬出しを備えている。本郭の東に空堀に仕切られた3の郭があり西に2の郭をもつが、石垣は1カ所もない。城の鬼門に、東山の蓬堂から薬師堂を移して祈願所とした雨宝山常光寺とし、北を流れる沢をいまも山寺沢とよんでいる。城の西南裏鬼門には山王権現日枝神社を祀った。城の西側五竜の地は城主の館跡と想定され、その西に東西に横町まで約200メートルの道が走り、その両側が屋敷割りされており、現在も町村という集落がある。当時の侍町と思われる。その他周辺には中屋敷・中島・堀田などの集落があり、竹の花・俎原・松葉・南の久保・北久保・前田・石田・代官林など城に関係深いと思われる地名がある。
 城主は、初期は小笠原氏が南の押さえとして有力な家臣を置いたと推定されるが、「高白斎記」天文19年7月10日の条に「(武田晴信)村井へ御着城、3日(中略)駒井(熊井)へ着、15日御備場へスグニ参ル、西ノ刻乾ノ城ヲ攻敗り、勝鬨御執行」とあり、北熊井城へ武田軍が入った。また同21年6月8日の条には「8日未巳節、熊野井城鍬立」とあり、武田軍が城の改造を行って自己の拠点としている。
 北熊井城の後詰の城は乙女崖(大遠見か)の近くにある本城とよばれる山城かと推考される。小屋畑・小屋久保などの地名もあり、構造は北熊井城に似ているが合戦その他についての記録を欠く。 
 

熊井城城主(塩尻市片丘南内田 青柳源之丞 『熊井城調査報告』)

 「小笠原長時の軍に従いしもの、熊野井山城主熊野井軍兵衛、城陥に戦死す」‥(管理者注)「天文17年(1548)武田晴信と小笠原長時とが塩尻峠で戦い、小笠原軍の大敗により、北熊井城は武田氏に領有された」(『日本歴史地名大系・長野県・北熊井村』(平凡社)
 「小笠原旗本槍備衆に熊井治郎右衛門10騎。熊井城は熊井角兵衛
 「熊井城主、大永年間(1521〜1525)熊井又太郎盛清、享禄年間(1528〜1532)熊井五郎清久桔梗ヶ原の戦で戦死)」‥(管理者注)長野県塩尻市桔梗ヶ原地区 天文14年6月14日武田晴信は小笠原長時と合戦し、熊野井城自落、小笠原の館炎上。6月16日晴信帰陣。(管理者メモ書き…このころ真田幸隆父子、武田晴信の旗下に入る。)


吉野町館址

『豊科町誌・「戦国時代の村の姿 第4節 豊科町における城館址」』

 旧松本街道にそって吉野町に模式的な館址が構築されている。長さ2.5町にわたる町並みの両入口に鍵の手がつくられ、防御の役目をなしている。町割は大体30間に12間で、中世の屋敷取りの様式を踏襲している。町うらうらに堰が通っており、呑み堰の役目を果たしている。町並みのほぼ中央の小路(屋号)を東に約60間おいた堰の端に矢竹が群生している。この堰端の道がもとの馬踏道であった。更に、東へ30間ゆくと熊井好徳氏(管理者注:熊井啓監督一族)の屋敷の南角に出る。南側に土手を巡らし、ケヤキの古木がある。これは二の郭で、字、元屋敷(堀内)が本郭である。両屋敷とも馬踏道で囲まれている。元屋敷は東西35間、南北40間、面積5反28歩である。三方が堰で囲まれており、北側に帯状の細長い畑が内側に傾斜して続いている(2989番地)。更に内側に細長い短冊形の畑がめぐらされ、土塁を崩しきれないで饅頭型をなして続いている(3042,3045番地)。屋敷の南東の隅と西側中央に池が残っている。往事の壮大な土塁と満々と水をたたえた堀を彷彿たらしめるものがある。屋敷の中央は二枚の田になっている(3043,3044番地)。二の郭は2991〜2997番地にあたっている。
 屋敷の南東60間のところに熊野権現がまつられている。境内には樹齢600年を越える天然記念物のビャクシンがある。おそらくこの館址の鎮守の意味をなしたものだろう。元屋敷の南方70間のところに吉野神社の古宮がある。この城跡は何者が居館したものか明白でないが(熊井氏はもと熊野井から越してきたといわれている。また、東筑摩郡の片丘の熊井城は武田氏の構築にかかわるものである)、町並みに同心・被官といわれる主な家来を住まわせ、次に述べる成相の「構えの墓」「法蔵寺」両館址と高家村の真々部館址とともに、松本から安曇の平に入る旧松本街道に武田氏が構築したものと考える。
 


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