大岡村芦ノ尻熊井家と川口熊井家は、本当に家系が違うのでしょうか?

 熊井恒次氏の書かれた「熊井城と熊井姓」を読むと、芦ノ尻の熊井家は「源義家の弟義綱の末裔」、川口熊井家は「始祖熊井太郎源忠基」とあり、いずれも「塩尻熊井庄には、関係なきもののごとく」との報告が記載されています。また熊井恒次氏の御尊父邦隆氏の書、『私の八十八年』の抜き刷り「熊井の苗字のこと」にも、「大岡の熊井も数部落に分かれていて、お互いに家系が同じという話も聞いていません」との記述があります。
「源平籐橘」の古い時代は無視して、記録が残る江戸時代中期以降の、川口熊井家家系図と、邦隆氏の『私の八十八年』記載の芦之尻熊井家系譜、そして両熊井家と関係が深い池内家を仲立ちとして、両熊井家の関わりをみてみました。

『私の八十八年』には「熊井の苗字のこと」以外にも、芦ノ尻熊井家に関わる興味深い資料がたくさん掲載されています。
川口熊井家とのかかわりで特に関心をもった記述は以下の四点です。
@『私の八十八年』発刊を祝しての池内清一郎氏の言葉
A「わが家のこと」(花尾池内家と芦ノ尻熊井家との関係)
B「本家のこと」(芦ノ尻熊井家について。ここに芦ノ尻熊井家の初代からの系譜が記載されています)
C「生家のこと」(邦隆氏の生家、花尾池内家について。ここには花尾池内家初代からの系譜が記載)

 池内清一郎氏によると、清一郎氏の祖である池内庄八は、元文5年に大岡村上栗尾池内総本家から分家して、花尾新田に移った
この庄八から数えて八代目にあたるのが清一郎氏で、その弟邦隆氏が芦ノ尻(花尾隣村)熊井家に養子に入った。

 芦ノ尻熊井家初代は熊井太兵衛といい、邦隆氏は、六代熊吉氏の婿養子となり後に分家した。芦ノ尻熊井家「二代目の宇左衛門は、手習師匠として、近在近郷の子弟を教育した人といわれていますが、熊井家はある時代には部落でも数少ない庄屋を勤めた家だと聞いています」(「本家のこと」26頁)

「川口熊井家家系図付書」によると、川口熊井家では、宝暦8年3月3日に24代杢右衛門が52歳で亡くなり、杢右衛門長女婿養子茂右衛門と杢右衛門嫡子竹松(当時二歳、後別家して安右衛門)のいずれに家督を継がせるかで、親族会議が開かれています。この親族会議を「肝煎」太兵衛がまとめています。

また川口熊井家第25代茂右衛門の娘が「根越村神主吉田丹波正春盛」に嫁しています。吉田家は村社「正大岡神社(祭神健御名方命・八坂斗売命)」の神主です。吉田家はもともと熊井家で、神官を襲名してはじめて吉田姓(京都吉田神社に由来)を名乗り、神官から外れると熊井姓に戻る(川口熊井家惣一郎氏談)のだそうです。正大岡神社のある根越は芦ノ尻・花尾にほど近く、芦ノ尻熊井家は吉田家分家で熊井姓に戻った家の裔のひとつと考えれば、川口熊井家とは同根ということになりますね。

川口熊井家は上栗尾池内総本家と結びつきが濃く、25代茂右衛門の娘二人が、そして26代伊右衛門の娘と次男が、それぞれ上栗尾池内家へ嫁入りまたは嫁をもらっています。

川口熊井家の家督を決める親族会議を芦之尻熊井家初代太兵衛がまとめ、川口熊井家が上栗尾池内本家と縁を結び、芦之尻熊井家は花尾新田の池内別家と縁が深い。そして正大岡神社神官吉田家という補助線を引くと、川口熊井家と芦ノ尻熊井家とは、もともとは一つの家系だったのではないかという可能性が大になります。能力ある者が本家だけから出るとは限りません。別家からだって優秀な者が出て、そして本家を超える力を持ったとき、自分こそが本家だと名乗りをあげたくなることだってあります。そのあたりのことを質すことになったやも知れない川口、芦ノ尻 両家に残っていたという古文書が、幾たびかの火事で失われてしまったことが惜しまれてなりません。

何れにしても両家の御先祖様が代々通称として、「○○右衛門」「○○兵衛」「○○左衛門」(これを太夫入りといっていました)を称していたということは家柄・格式の高い家で、苗字帯刀を許され武士に準じる扱いを受けた大名主層(年貢納入責任を持ち、村の自治一般を司った、地方三役の最上位)であったことを現しています。
両家に家系図や家伝の文書があるのは、その家の履歴書である「家系図や文書を必要とする家(名主)だった証しだ、といえましょう。
(注)
明治以降、両家から「○○右衛門」「○○兵衛」「○○左衛門」等の通称が消えたのは、明治2年(1869)4月に、士分以上は衛門、兵衛などの通称を廃止し実名のみを用いることとされたからです。

大岡村川口熊井総本家家系図附書からの一部抜粋

17代熊井源五兵衛基信
木曽左馬頭義昌の臣なり、天正10年(管理者注 1582)3月鳥井峠において、武田左馬介神保治郎が3000余騎を、木曽方熊井源五兵衛・成瀬岩之進500余騎をもって破る。(管理者注 弟)義友は木曽方大庭杢之丞の養子」
19代熊井武兵衛基貴
「大阪一乱に後藤又兵衛に属し入城、後薩州に行」
 
(管理者注) 家系図附書きに「薩州に行」とありますが、何故薩州に行ったのか、私には長い間疑問でした。過日、川口熊井総本家第31代熊井貞勇氏を訪ねたときに、家系図の他に熊井家に伝わる兵法書を見せていただいたことを思い出し、撮らせていただいた写真を確認しました。その兵法書には神力坊という修験者によって授けられたと記されていた。神力坊が何者かを知らなかったものですから調べたところ、戦国時代、島津家15代当主島津貴久の父で伊作島津家10代忠良の命を受けて法華経を奉納する経塚を建てながら全国66か国を歴訪したという島津家家臣井尻宗憲がその人でした。その神力坊は島津忠良の死去を知って殉死、鹿児島県加世田市には現在も神力坊の墓が残っている。熊井家19代基貴は、神力坊の死を弔うために、薩州まで出かけたのかも知れません。
 これとは無関係ですが、埼玉県鳩山町熊井の地からほど近い都幾川村には『鬼を負かした神力坊』(新埼玉のむかし話 埼玉県国語教育研究会)という民話が伝わっています。不思議な因縁ですね。


 また大岡村川口熊井家松代別家(現 上田市)には次の言い伝えが残っています。「真田候(管理者注 真田信之)松代への移封(管理者注 元和8年(1622)10月真田伊豆守信之、上田城より松城(川中島松代)へ移りて之(大岡郷・牧郷)を領す。『長野県町村誌北信編』(編集・発行 長野県))にあたり、新領内の民情把握のため、大岡村川口の熊井茂兵衛(管理者注 武兵衛)を召して、士分出仕を求めたが『武を捨ててすでに久しお役に立てるとも思われず、是非の思し召しならば次男五右衛門を召し給え』と固辞、五右衛門また『いつにてもお召しに参ずる覚悟なれど、お城勤めはご容赦を』と、城下の商人を願い出たところ、紺屋町に家、屋敷を賜り、名字帯刀御免、町名主を命ぜられたり。主に薪炭、和紙など商いて、城中御用も勤め、幕末まで城下の富商だった」(「熊井城と熊井姓」熊井恒次 長野郷土史研究会機関誌『長野』)

(管理者注) 松代藩は松代城を居城とし川中島四郡(高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡)を領していた。

 

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