信濃小掾美努包光
 
 任期を終えた前任国司の子弟はそのまま任国に土着して介や掾という国衙の官人となり、古来から在地に基盤を持つ土豪たちとも手を結んで、都からくる受領国司(守)のもとで実権を握っていた。
 永久4年(1116)信濃小掾に任ぜられた美努包光(みぬのかねみつ)の一族もそのひとつであったのだろう。……もっとも美努包光については、長野郷土史研究会機関誌『長野』第113号’84の1信濃史必携「信濃の統治」信濃国司一覧61頁下欄最後の行に、任少掾とあり、備考欄に源基綱年給とかかれ、58頁に「年給とは、国司の地位が公卿等の給与として支給され、その公卿の推薦により国司が任命されたことを示し、その場合、国司が架空の人物であることもある」と但し書きが付されています。また当時の郡司の中にも「美努包光」の名は見あたらない(県立長野図書館資料情報課)ということですから、「美努包光」は源基綱が考えた「架空の人物」である可能性もあるわけです(『信濃史料補遺卷上』(102頁・104頁 県立長野図書館蔵)。
 包光が小掾に任ぜられる134年前の天元5年(982)には、現任の掾として美努秀則の名が残っています。「正倉院文書」のなかに、宝亀3年(772)美努石成(みぬのいわなり)の「氏神を奉したいから休みが欲しい」という請暇解(願)が残っているそうです。(美努氏も氏神を祀っていたのですね。)

『吾妻鏡』に記録が残る信濃国筑摩郡の荘園熊井郷の地頭は諏訪神社下社で、主祭神は八坂刀売命(やさかとめのみこと)です。諏訪神社上社の主祭神は、八坂刀売命の夫である建御名方命(たてみなかたのみこと)。そして熊井神社(塩尻市片丘熊井)の祭神は、建御名方命の兄事代主命(ことしろぬしのみこと、またの名は、えびすさま)です。熊井氏が佑祝を任じていたという信濃二宮小野神社(塩尻市北小野)の主祭神もまた建御名方命です。天孫降臨により国譲りした大国主命は、御子神建御名方命その妃神八坂刀売命、そして事代主命らとともに信濃の国に退かれ、この地に農耕・機織をすすめ、農耕神となりました。

 信濃一宮諏訪神社そして二宮小野神社の主祭神社である建御名方命ですが、「みなかた」とは「水方・水潟」の意味ですから、もともと水の神様だったわけです。 ここで美努包光に話を戻します。「美努」は「みぬ」と読みます。もともとは古代の河内豪族三野県主(あがたぬし)の裔で、天武13年(685)に連(むらじ)の姓を賜り、美努連(みぬのむらじ)となりました。 美努連一族は、岡麻呂が遣唐使、浄麻呂が遣隋使、同じく浄麻呂が『懐風藻』に、石守(いわもり)が『万葉集』に歌をのこすほど、外交・文学におおきく貢献しています。ご存じの菅原道真怨霊伝説ですが、『日本紀略』延長8年(930年)6月26日、「霹靂神火あり。…また紫宸殿にのぼるもの、美努忠包、髪焼け死亡す」なんて記事までありました。

 この美努「みぬ」と読み「水沼」につうじ、建御名方と同じく、やはり「水」に深い関わりがある姓でした。美努連とは関係ありませんが、美努王との間に橘諸兄を生んだ県宿禰犬養三千代の犬養氏は「井戸掘」の技術者集団でした。犬養の名は、「水を探し当てる犬を養う」からきているのだそうです。

 高ボッチ山からわきでる豊富な水を利用して、大地に溝をうがち、山や野を拓いて畑や田をつくって荘園熊井郷を開いたのは、犬養氏と同様「井戸掘」の土木技術を有し、「みず」とも深い関わりのある姓をもつ、信濃小掾美努包光(包光が仮名だとすれば源基綱)の一族?のような気がしてならないのです。 現在世帯数でみたとき、熊井姓がしめる比率がもっとも高い市町村は更級郡大岡村ですが、「標高1447メートルの聖山からの豊富なわき水を利し、山や原野を切り開いて畑をつくり田を耕して村を築いてきた」(「私の八十八年」熊井邦隆著から)という記述と、不思議に符合しています。

 ここからは私の想像です。
 熊井郷をひらいた美努氏(「美努包光」が「架空の人物」であるときは、源基綱が推薦した縁につながる土着したもの)は、文治1年(1185)諏訪神社下社が地頭としておかれると、その大祝である金刺氏の家人となった。すいぶんと独断的にすぎるようですが、実は尾張藩家臣熊井重次郎(赤穂四十七士地片岡源五右衛門の実父)は近江源氏(宇多源氏)を名っておりますが、家紋は諏訪氏(金刺氏)関連をうかがわせる「梶の葉」なのです。近江源氏といえば、源基綱は歌人源経信の子であり、『金葉集』撰者源俊頼は弟で、近江源氏の祖である宇多天皇の玄孫(ひ孫の子)にあたっていて、偶然なのでしょうが興味ひかれるところです。話は飛びますが、大岡村川口熊井家もまた源家を名のってはいても、その家紋は、「美努王」と「県宿禰犬養三千代」との間の子「橘諸兄」を由来とする「橘」紋なのです。歴史の流れのなかで、「美努」と「美努王」とを取り違えてしまった可能性も考えられます。
 
 諏訪太郎太夫下社大祝金刺盛澄は鎌倉御家人となり(弟光盛は木曽義仲に従った)、後に守護小笠原氏に組した。これなら守護大名小笠原の支城のひとつに熊井城があったというのもうなずけますね。
 諏訪神社上社、下社の大祝・社人とも、前九年の役(1051)ごろから武士化するにつれて、著しく系図が混乱し、それぞれがべつべつに「源平藤橘」を名のり始め、やがてどれが正統であるのかが判別ができなくなってしまいました。熊井姓のさまざまな由来も、結局はこれと同じではないでしょうか
 しかし、これを仮説だてるには、信濃小掾美努包光のことをもっと詳しくしらべてみなければならないのですが、なにしろ『信濃史料補遺卷上』以外の資料がいまのところ見あたらないのが残念です。   

(管理者覚え書き)
 岩石城主熊井越中守久重の御子孫である練馬区大泉にお住まいの熊井家から、「守り神の石の1メートル位の祠(キフネ様と呼びます)をたてました。毎年何回かご馳走を持ち寄り熊井姓の集まり(おこもり、と呼んでいました)をやっていました。キフネ様は京都の貴船神社のことと亡叔父は言っていました」とのお便りをいただいております。貴船神社の祭神高おかみ(おかみは、靈の巫を龍に変えた字。龍もまた水の神様)も水を司る神様です。水の神様とは別ですが、私どもの熊井家でも代々熊井姓の集まりをやっていて、その集いの中で最も重要なのが正月11日集いで、前橋本家長男の長子(現在は次男の叔父が本家を継いでいます)である私は実際は前年の6月1日に生まれですが、熊井家の最大の集いである正月11日をもって誕生日とし、戸籍に登記されています。
 また大川市にお住まいの石橋様から、「大川市向島(むかいじま)は、江戸初期まで榎津島(えのきずじま)と呼称され葭が生い茂る広大な湿地帯であった。その榎津島を元禄時代に開拓して新田に変えたのが石橋・熊井両家であった。そのときに厳島神社を勧請した。厳島神社の奉納者に石橋・熊井両家の名前がある」、とのお便りもいただいております。厳島神社の祭神は、素戔鳴大神の御子神、市杵島姫命ですが、やはり水を司る神様です。
 それにしても深川熊井町を開拓した熊井理左衛門をはじめとして、全国各地の熊井家は、どうしてかくも大勢の開拓者がおられるのでしょうか。興味の尽きないところですね。

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