斎藤信也先生「土羊会」講義録

 土羊会のメンバーは朝日カルチャーセンター通信文章教室「斎藤信也先生」の門下生24人(受講生・OB)で構成され、勉強会は年4回(3月・6月・9月・12月)。銀座東京羊羹(現在は喫茶店ルノアール・マイスペース銀座六丁目店)において開催。文集『土羊』は、今年で10号を迎えました。
 なお、講義録の掲載は、斎藤信也先生の許諾・了解・了承を得ていることを付言しておきます。
(平成18年度退会)



(会員 辻市衛氏による作画) 

会員のエッセイ集

趙栄順さん 『鳳仙花、咲いた』 (新幹社 定価¥1600+税)

(自費出版)

日本の友への手紙』(趙栄順著 朝日新聞出版サービス)・『彩雲』(山極ゆり子著 朝日新聞出版サービス)
スイートピーの花束』(相原百合子著 鶴書院)『めぐりあい』(渡邊恒男著 東洋工業写真社)
経営錬金術』(大津秀夫著 文芸社)


「盛り上げ」と「省略」(1)              

皆さんが苦手の「メリハリ作り」

(例文)
 
きょうは遠足です。ぼくはうれしくて、いつもより早く目が覚めました。それからかおを洗って、はをみがいて、おべんとうを持って家をでました。そしてこうばんの前を通って学校につきました。みんなでわいわい遊んでいたらピーとふえがなったので、せいれつしました。それから校長先生のお話がありました。さあ出発だ。校門をでて、商店がいを通って、たんぼのなかを通って、どんどん歩いて山につきました。ぼくはいっしょうけんめい山にのぼりました。苦しかったけれどがんばりました。そして頂上につきました。それからおべんとうを食べて、すこし遊んでから、ごご四じごろ家に帰りました。

 
この文の問題点は、無用の途中経過に力が注がれ、肝心のところの盛り上げがお粗末なのです。「山のぼり」の話を書くのに「顔を洗ったり歯を磨く」必要があるでしょうか。いつも通る交番のこと、出発前に遊んだこと、商店街や田畑の中を通ったこと、すべて、どうでもいい途中経過です。一方、肝心の「登山描写」は「一生懸命登った」「苦しかったが頑張った」とあるだけです。道は険しかったか。岩や木の根が横たわっていなかったか。汗は出なかったか。ライバルの一郎くんと競争しなかったか。仲良しの春子ちゃんに手を貸してあげなかったか。それらを書いてこそ「登山の文」になるのです。
 子供たちのことは笑えません。皆さんの文にも似た欠点が出てくることがある。
 長く行方知らずだった親友が突然現れる。再会の場面が作品のヤマ場、というとき。


原文

 
夜の十一時ごろ、玄関の呼び鈴が鳴ったので、こんな遅い時間にいったい誰だろうと思いながら私は掘炬燵で読んでいた本を伏せて立ち上がり、表の戸を開けると、A子が立っていた。あまりのことに私は本当に驚いてしまった。A子は三年前の師走に突然姿を消してしまったのである。私は「あんた一体どこにいたの」と大声で叫んでいた。

 
原文は子供の文に似ています。炬燵や本が必要でしょうか。玄関に行くには「立ち上がる」に決まっています。全体的に説明調で「驚いた」といいながら驚きが響いてきません。
 ヤマ場は感情を込めて盛り上げる。当然字数が増える。そこで、どうでもいい途中経過をどんどん省いてゆく。この強弱のメリハリにより文は生き生きとしてくるのです。


添削文

 十一時を回っていただろうか。玄関の呼び鈴が鳴った。こんな夜更けに誰かしらといぶかりながら戸を開け、私は声を呑んだ。目の前にA子がいる。街灯灯りを背に、黒い影法師となって表情は定かではないが、間違いもなく三年前の師走、忽然と姿を消したA子がぼんやりと立っている。「あんた…一体、どこで…」思わず声が高くなり、安堵とも疑惑とも腹立ちともつかぬ思いが一気にこみあげてきた。


「盛り上げ」と「省略」(2)              

エピソードを生き生きとしたものにするに「ヤマ場を盛り上げること」が肝心です。ヤマ場は精一杯力を込めて具体的に描きましょう。逆に重要でない所は軽く流す。時には省いてもいい。この強弱の呼吸が作品を活力あるものにするのです。

原文

 二年間シベリアに抑留された夫が帰ってくるという連絡があってから五日が経って、いよいよその当日がやってきた。大阪の義母から前日「体調が悪くて行けない」との電話で少し淋しかったが、とにかく駅に行こうと思い、駅まで二十分もかからないのに汽車の到着予定時間よりも一時間近くも早く家を出た。幸い快晴で明るい日射しが」いっぱいだ。西川べりの柳はもう芽吹いていて、萌葱色の枝が優しく風に揺れている。天気がいいから街の人出も多い。急いだから十五分ほどで着き、予定の時刻まで、まだ四十分もあった。
 駅の側の喫茶店に入る。コーヒーは苦手なので紅茶を注文して時間を稼ぐ。また駅に戻る。ホームに出ることも考えたが、長いホームの人混みで見落とすと大変と思い、我が家のある側の南口の改札が一番確実と思い、そこでじっと待っていると、いよいよ汽車が着いた。次々と人が出てくる。私はもう目を皿のようにして見つめたが、夫は出てこないのだ。「どうしたんだろう。何かあったのか」と不安に包まれた。それでも耐えて待っていたら、最後の人から何分か遅れてふらっと出てきた。後で解ったのだが、ホームで転んだのだという。「お帰りなさい」と叫んだ途端涙が溢れて、何も言えなくなった。



 
この文のヤマ場は、夫の姿が見えぬ不安と、その直後の再会の歓喜です。その盛り上げが不十分です。一方、天気とか柳とか街の人出は無用。義母や喫茶店も削っていいのです。

添削文

 二年間シベリアに抑留された夫が帰ってくる。その日私は朝から何も手につかない。ともかく鏡に向かう。工場で働きづめの乾いた肌に念入りに化粧を施し、貧しい衣類の中から精一杯装って、到着時刻の一時間も前に家を出た。駅に駆け込み、大時計を見上げて、思わず苦笑する。まだ四十分もある。でも「過酷な重労働で、やつれ果てているかも」などと思いめぐらせていると刻を忘れた。気がつくと五分前。心臓が早鐘を打ち始める。
 汽車が停まる。人々がホームから駅舎の中に入ってくる。駅員に切符を渡し改札口を出る一人一人を、私は目を皿のようにして見つめ続けた。居ない。夫は居ない。最後にお婆さんが一人よたよたと改札を出た後は、駅舎の中はガランとして人影一つ無い。見落とし? まさか…毎晩夢に見た人だ、見落とすはずがない。落胆より先に不安が広がった。不吉な連想が後から後から湧いてくる。実は二、三分だったのだが、私には十数分にも思えた。
 と、ひょろり、人影が駅舎の戸口に…逆光線の中にその黒い影が視野に入った瞬間、私は夢中で叫んでいた。「あなた、お帰りーっ」改札の柵から身を乗り出した私の頬を涙がとめどなく伝い続けた。後で笑ったことだが、遅れたのはホームで転んだためだった。


「盛り上げ」と「」省略」(3)             

重要でない箇所を省き、ヤマ場を盛り上げると、作品は一変する。

原文

 
私の村は北海道○○郡○○村の貧しい開拓地で、私が小学校の頃、まだ電灯がなかった。が、隣の市や町に電灯が引かれた話を聞くうち住民の間に「俺たちの村にも灯りを」という声が高まり、その陳情団が組織され、父が副団長に推された。
(A)ただ引き受けるに当たっては、かなり曲折があった。都合の悪いことに家業の工場に色々と問題が起きていたうえに、仕事の繁忙期で手が放せない。陳情の方に打ち込むと家業に支障が出る恐れがあったのだ。父母と工場の幹部の間で何日も相談が続いた。でも村人たちに強く説得され、家業は母と工場の古参達に任せ、父は陳情に力を注ぐことになった。
 それからは父は毎日家を留守にした。夜も帰りが遅い。沢山の会合、札幌にも何度も出掛けていた。署名集めにも走り回った。が、陳情はなかなか捗らぬ。でも陳情団の粘りが結実、遂に昭和三十六年二月、待望の電灯が引かれることになる。村人は驚喜した。
 電灯が初めてついた日、盛大な祝宴が公民館で開催、父も出席し祝い酒を飲んだ。父は五年前高血圧で倒れてから酒は禁じられていたがこの日は特別で、したたか飲んだらしい。
(B)真っ赤な顔で帰宅し、上機嫌で雑談していたが、「疲れた」といって奥の部屋に横になるといびきをかき始めた。いびきの大きさに母が心配し部屋を覗き異常を発見し、兄が馬ゾリで医師を呼びに走ったが、医師が駆け付けた時はもう手遅れだった。私と妹に手首を握りしめられたままで、余りにも早い五十五歳の生涯を終えた。
 あの夜のことは、電灯のことと合わせて今も私の脳裏に焼き付いて忘れることはない。


添削文

 昭和三六年二月のその夜、父は酒呑童子のような顔で帰ってきた。五年前高血圧で倒れてからは酒は禁じられていたのだが、今夜は特別だった。村に念願の電灯が点ったのである。
 私の村は北海道○○原野の真ん中にある貧しい開拓地で、小学生の頃、まだ電灯がなかった。「明るい灯の下で飯を食いたい」それが人々の悲願だった。そのための陳情団ができ父も副団長となり、(A)繁忙の工場を母や部下に任せて東奔西走する。夜毎の会議、札幌への出張、署名運動…。そして遂に電灯が点る。その祝宴が公民館であったのである。
(B)父は上機嫌だった。「ご苦労様でした」と家族に労れると、細い目を一層細くして「明るいのう、嬉しいのう」と繰り返した。そのうち「疲れた」といって隣室で横になった。気付くと襖ごしに聞こえてくるいびきが異常に大きい。弾かれたように母が隣室に立った。と思うと、とうちゃん! 悲鳴に近い叫びだった。父はすでに意識がなかった。食べたばかりの蜜柑を吐き出していた。兄が馬ソリを飛ばし吹雪の中、四キロの道を医師宅に走った。が、駆け付けた医師は、一目見て黙って首を振った。五十五歳の、あっけない旅立ちだった。
 その間一時間以上も、私と妹は父の手首を握り続けていた。指先に父の鼓動が響いてくる。乱れはあっても、しっかりとした響きが続いていた。この音が消えませんように…神様。私は祈り続けた。が、鼓動は次第に弱く、不規則になっていった。コト、コト、コ…トどう握りしめても響きがしなくなった時、私の頬を涙が川のように流れた。血の気がない疲れた顔を煌々と照らす電灯の明るさが、私には無性に恨めしかった。



「私のエッセイ」10ヵ条

 ここに掲げてある「私」とは「講師の私」のことではありません。生徒の皆さん、一人一人の皆さんのことです。これは「皆さんの10ヵ条」のことです。この10ヵ条を守れば必ず上達します。この道二〇年の体験的信念です。

(1)好きになろう
 これこそ第一歩です。「好きこそものの上手なれ」という言葉は古今の真理です。
 「あーあ嫌だ、嫌だ、大嫌いだ」と思っていたら、どれほど努力しても上達するはずが ありません。好きになってこそやる気も起きるというもの。まずは「エッセイを好きに なる」ことです


(2)書くことを楽しもう
 エッセイを書くことを楽しみましょう。貴方は誰のために書くのでしょう。夫(妻)の ためか、子供のためか、友人のためか、それとも先生のため? 違う違う、自分のため のはずです。自分のために書くのに楽しくないなんて、悲しすぎます。ペンを手に原稿 用紙の上で、伸び伸びと、書きたいことを書いて、楽しみましょう。
 苦しくなる原因は「…し過ぎ」です。満点を狙いすぎる。早く上手にと焦りすぎる、先 生の評を気にしすぎる


(3)続けよう
 もともと筆力のあったAさんは、さらに上達しようと、大学入試の受験生みたいに、ね じり鉢巻き、目をつり上げて取り組んだあげく、心身共に疲れ果て半年で挫折しました。 あまり筆力ないBさんは、悠々と、チンタラと、楽しみながら丸三年。気が付くと『ベ ストエッセイ集』に載るほどの書き手になっていました。まさしく「継続は力」、それ も、楽しいから続いたんです。

(4)的を絞ろう
 教室の宿題は800〜1200字です。「雨」という題が出ました。春雨の夕暮れのデ ート、俄雨で妻が傘を手に駅頭へ、台風で帰省列車不通で青くなる。童謡「雨降りお月 さん」、欲張ってみんな書きました。どれもが五、六行ずつの要約ばかり。散漫で訴え る力の乏しいものになりました。一番書きたいこと一つ二つに絞って、その代わり細か く具体的に、登場人物の心理や「会話」も交えて書き込みましょう。これぞ成功のコツ です

(5)自分の土俵で相撲を取ろう
 自分の職業、先祖代々の家業、趣味の世界、密かに研究している分野…等々、自分がよ く知っている領域から材料を探すことです。そのエピソードを書くことです。自分にし か書けない異色作が生まれます。詳しい世界だから材料は次々見つかるし、筆もスイスイと走ります。なによりも間違いが起きません。

(6)考えよう 想像しよう
 考えることで一見書けそうもない材料が思わぬ秀作に繋がります。「人間にとって、幸 せとは何か?」何でもいいわけですが、思いついたことをじっくりと考えもせずに書い てしまうと、つまらないものになる。考えて、出来るだけ「人の思いつかない話を捻り 出す」ことでユニークな作品が生まれます。「人間は期限付きの苦痛には耐えられる」 極寒の冬も猛暑の夏もやがて終わって、その後に快い春、爽やかな秋が来ると思うから 我慢できる。見事な着想で、ある教室の推薦文になりました。
想像力も大事です。就職直前に一人娘を亡くした母。その病気か事故の概略を書いただ けでは、いまいちです。刻々と死期迫る娘、顔中を涙でぬらして見守る母。それぞれの 胸中の悔しさを、二人の身になって想像してみましょう。作品の情感は一気に倍増する だけでなく、思いがけない別の作品に発展することもあります。


(7)泣かせよう 笑わせよう
 読んだ人が泣いてくれるか(感動)笑ってくれるか(ユーモア)、どちらか一つが欲しいね。号泣でなくてもいいんです。大爆笑でなくてもいいんです。ふと、涙ぐむような…思わずニヤリとするような…そんな材料を見つけたらバンザイしましょう。成功の確率が一番高いんです。特に日本人はユーモアが苦手です。

(8)ファンを作ろう 批評家を作ろう
 先生の他に自分だけのファン、または評論家を作りましょう。「今度の課題作品、出来 たわ」「わー、待ってました!」、こういう読者がいると張り合いが出て、長く続ける ことが可能になります。「今日も辛口評、お願いね」と、気安く頼める読者も嬉しい。 ヅケヅケと欠点を指摘してくれる点で、妻(夫)や娘(息子)など、身内の方がよさそ うです。

(9)材料は身辺に
 旅に出ないとネタが無い、などとボヤいてはいけません。「材料に窮したら私は町に出 る」、今は亡き山口瞳さんの名言です。八百屋の店頭、店主とおばあさんの会話にもヒ ントがいろいろ。私はテレビを見ていて、ハッとさせる話題、エッと驚く数字に出会う とメモします。同様に新聞も材料の宝庫です。一言付記すると、その際、(6)で話し たように「考える」ことを忘れないことです。Aの記事を先日の数字の上に重ねて一捻 りするという具合。また「人間を書く」気持が肝心です。人間にとって一番興味がある のはやっぱり人間です。紀行文ではこのことが特に大事です。

(10)辞書と友達になろう

 男女間の艶ダネを書き続けた名コラムニスト青木雨彦さんの至言。「座右に置くべきも のが三つ。国語辞書・歳時記・落語の本」。特に辞書とは仲良くしましょう。思いつい たら即座に開きましょう。ボキャブラリーが豊かになるし、知識が増える。語源を知る プラスも大きい。読み物としても面白く、エッセイの材料も見つかります。



揚げ足取りの意地悪先生

 今日は一休みのティータイム。ですが楽しい歓談ではなくて、意地悪先生の嫌味一杯の皮肉です。決定的な間違いの話ではないので、耳の耳に念仏…と聞き流してもいいです。ただ「成程、その通りだ」と膝を叩く所もあるかも。ま、気楽に聞いて下さい。

◆「あれは」って、なに?何のこと?

 あれは遠い昔のことだった。当時一家は信州の田舎に住み、私は小学3年生だった。学校は峠を越えた向こうにあり、子供の足で三〇分もかかる。仲良しのK子ちゃんと…

「あれ」とは、この後に出てくる出来事、その思い出話のことですが、どの教室でも毎回この種の書き出しが二、三本、必ず飛び出します。何となく洒落ていて、カッコいいと思うのでしょうが、「あれ」の中身は筆者にだけ判っていて、読者には全く判らない。「読者に解りやすく」という理想からはほど遠い「不親切な文」の見本です。

◆「今日この頃」「昨日今日」

 メカ嫌いはどこへやら、デジカメに没頭している今日この頃である。
 母親をどうやって立ち直らせるか、その事で頭が一杯の昨日今日の私です。

 これがまた凄い生命力。「使い古された月並みの慣用句だから、止めよう」と言い続けているのですが効き目なく、直ぐに息を吹き返す。暫く見掛けないネと喜んでいたら、学期が変わった途端どどっと五本「…する今日この頃です」。確かにこの言葉、気がきいていて、結びとしても収まりが良く、使いたくなる気持も解るんですが、余りにも月並みで紋切り型です。付記すれば、昔からの慣用句に安易に飛びつかないことも大事です。

 ジャズコンサートはいつも「興奮の坩堝」雨はいつも「しとしと」春風は「そよそよ吹き」木の葉は「はらはらと散り」涙も「ハラハラ」庭はいつも「猫の額」。
 これらの言葉を使ってはいけないということではありません。安易にスイッと借用する姿勢がよくないということ。自分の目と耳と心でしっかりと観察し、適切な言葉を練り、工夫する。そのとき初めて自分の文が生まれ、筆力も伸びるのです。

◆最後は「個々の語句の紋切り型」ではなく、ずっと重大な紋切り型の話。

 思えば私たちは、大切なものを失っているような気がしてならない。
 私たちにとって、とても大事なものをなくしてゆく。そんな思いがしてならない。

 こんあ趣旨の結びが氾濫しています。三〇本の宿題中、時には数本も…。開発で失われる自然、汚染される海や川や大気。上から下まで欲望の塊となった世の中で薄れてゆく労りの心や優しさ。忙しく慌ただしい日々の中で忘れ去られる「ゆとり」の心…。そんな思いが皆の胸にこびりついていて、ペンを取ると最後はワンパターンの訴えになるのか。
 その結果、ちょっとした世相風刺の作品まで、取って付けたように「大切な物を失っている気が…」と結んである。「大切な物」の説明は一切ナシ。つまり観念的なのです。
 皆さん、これはもう「一つの紋切り型」と言えないか。「こう締めくくれば格好がつく」という発想が無意識のうちに働いていないか。言葉の中身の重さから遊離した「二一世紀風の結びの定型」の誕生。そう言えば学者の文章や講演にもしばしば出てきます。
 念のため。この結び、使っても構いません。ただ、使うときは真剣に、重い心で…。




平成18年9月2日講義録

◆テーマの選び方、決め方の要諦
「悪文シリーズ」を振返って見て気付いた。「テーマ作りの話」が不十分だったことに。
あれこれのアドバイスの中でチラリと触れた例は何度かありましたが、それを単独の主題にして、じっくりとお話しした事はなかったようです。どんなテーマにするか。それが作品作りの第一歩なのに!真に恥ずかしい。遅まきながら今日はその話。要点は三つ。

1 最初に初歩的な事を一言。テーマと課題は違うということ。
 私は毎回「課題」を出します。が、これはテーマではありません。「この事柄について書いて下さい」と大まかに方向を示したものです。それをヒントに皆さんが各自夫々に「自分の書きたい主題」を決める。その時初めて「貴方のテーマ」が誕生するのです。
 私が「花」という課題を出したとしましょう。これは貴方の作品のテーマではないんです。それをヒントに自分であれこれと考えて「よし、僕は高山植物の花にしよう」「俺は花札だ」「私は菊人形を書くわ」こうなって初めて「貴方のテーマ」となる。
 以下、留意すべきポイントをふたつ。

2 範囲が広すぎ、漠然としたテーマは失敗のもと。的を絞り、具体的に。
 
例えば「花」の課題で「桜」というテーマにしたとしましょう。原稿用紙の一行目に題として「桜」と書いた。とたんに無意識のうちに手を広げてしまい、桜についてのあれやこれやを並び始める。あげく散漫でとりとめのない作品になってしまう。
 逆に、同じ「桜」でも「桜のアレを書こう」と具体的に的を絞って、そういう題をつけると、ペンは自ずからその方向に集中して、シャープで迫力のある作品が出来上がる。おおまかな「桜」という題と、次のような題との差、皆さんにも一目瞭然の筈です。
 桜と日本人 桜と文芸 桜と工芸品 桜前線 桜の名所 桜と初恋…
 桜と○○(父・母・兄姉、英雄…)○○の桜(庭の・故郷の・学校の・外国の)…
 付記すれば具体的なテーマの場合、誰もが書きそうもない異色なもの、ユニークなものほど成功率が高いのです。このことはもう何度も話しましたね。つまり「的を絞ること」も「ユニークを心掛けること」も、実はテーマ選びの段階での要諦なのです。

3 材料(思い出・エピソード・知識等々)の多いものを選ぶこと。
 冒頭に「テーマの決定が作品作りの第一歩」と書きましたが、実際の手順としては実は「素材・材料の検討」こそ第一歩なんです。これまでの私のお説教で「まずテーマを決め、その後そのテーマにふさわしい材料・エピソードを探せばいい」と思っている人も多いと思います。これは私の説明不足でした。実際問題として、テーマを決めたものの、それに関する材料がまるで無かったら四苦八苦するだけです。ゴルフをしたことのない人がゴルフというテーマを選ぶなんて、有り得ません。
 そこで今、改めて解説します。まずはエピソードや思い出、知識…など「書けるネタがあるか無いか」を検討して、それがたっぷりあるものをテーマに選びましょう。「自分の土俵で相撲を取ろう」というアドバイスなど、テーマを決める時の金科玉条です。先に述べたユニークなテーマにしても、各ネタが無かったらナンセンスです。
 そこで結論。テーマの決定にあたっては「手持ちの材料の高をまず検討しよう」。



◆映画だってラストが決め手
 
今日は映画の話。それもラストシーンのお話し。ただ、古い人間(数え年八十歳の傘寿)なので古い作品ばかりで、若い方にはピンと来ないかもしれません。まあ、コーヒーでも飲みながら、記憶のある人は昔を思い出して下さいね。
◇まず洋画『ローマの休日』
 
某国の王女(A・ヘップバーン)が諸国歴訪の旅に出るが、スケジュールのあまりの過酷さに我慢の糸が切れ、遂にローマで夜、宿舎の大使館を抜け出して町をさまよう。そして米人記者(G・ペック)との出会い。市内を観光したり酒場で飲んだり。姫君から只の女になった王女の夢のような数時間。そのうち二人の胸にも熱い思いが…でも宮廷人と市井の新聞記者です。所詮は叶わぬ恋。そしてラストシーン。
 元の身分に戻った王女の記者会見。ペックは部屋の片隅にひっそりと佇む。記者団から質問が飛ぶ。「王女様どの国がお気に召しましたか」。一瞬の沈黙の後、王女は彼方のペックにチラリ目を馳せ「もちろんローマ。最高でした」その微笑には哀歓の影が…

◇邦画では『幸福の黄色いハンカチ』
 夕張炭坑の鉱員(高倉健)は酒場でチンピラを殴り殺して網走刑務所に。炭坑住宅で夫を待つ妻(倍賞千恵子)に、詫び心から離婚を伝えるが、やはり妻が忘れられず「もし私を待っていてくれるなら家の表に黄色いハンカチを一枚下げてくれ」と葉書を出す。六年の刑期を終えて出所した夫は、偶然出会った若い男女(武田鉄矢・桃井かおり)の車に便乗して夕張へ。炭住街の手前で車を降りるが、その足取りは次第に重くなって…いよいよ最後の四つ角。そこを曲がったら我が家が見える。遂に足は止まってしまう。カメラは一転、住宅の入り口をアップで。そこには一枚どころか何十枚というハンカチが踊るように弾けるように風にはためいていた。観客席からは一斉にすすり泣きの声…
 他にも洋画『望郷』『太陽がいっぱい』『第三の男』『シェーン』。邦画でも『生きる』『王将』『二十四の瞳』『また逢う日まで』と見事なラストシーンが山のよう。


 さて乱暴な結論「ラストがキラリと光る作品はおしなべて名画である」。
これ当然です。最初のシーンや途中の場面よりも、最後の映像が一番強く印象に残るに決まっています。その最後の一コマで、強烈なパンチを食らって、また馥郁たる余情に包まれて、映画館を出る。いつまでも忘れがたいものになって当然です。
 実はエッセイも同じではないか。これまで繰り返し書き出しとか構成(ストーリー展開)とか盛り上げとか、あれこれアドバイスしてきましたが、一番てっとり早い「奥の手」は「上手な結びを決める」ことではないか…改めて気付いたのです。映画と同じでエッセイも最後に読む箇所が結びです。そこが感動的だったり、ニヤリ笑わせたり、思わず膝を叩くように洒落ていたりすると、読者は「うーん見事だ」とあっさり脱帽してしまう。
 今日は深淵で基本的な作品作りの講義でなく「労少なくして功多い」実利的・即効的な便法の話でした。皆さん、上手く書けずに困ったときは、とにかく「結び」だけでも全力を上げよう。そのうち「結び」の達人にでもなったら、もうバンザイです。



◆朗読しよう 読んで貰おう
 
斎藤孝『声に出して読みたい日本語』が発刊五年。今もなかなかの人気です。私と同姓だからと言うわけではありませんが、筆者の着想に私は100%共鳴しています。孝さんは「声に出して読むことで日本語のバリエーションの魅力を楽しもう」と言うのが推奨の弁ですが、信也の方は「文章上達のキメ手」としてのお勧め。名文・悪文を判別するには朗読が最高です。黙読は目と頭の二人が審査員ですが、朗読では耳と口という二人が更に加わるから、善し悪しがより鮮明になる。特に悪文の発見には効果抜群。例を二、三。

@私はすっかり考え込んだ。このままでは大変なことになる。三日ほども、あれこれ悩み続けた。そして決心した。彼に手紙を書きました。なんとか考え直してくれと訴えました。でも余り期待していませんでした。ところが効果があった。返事がきたのです。

A知人の家に座敷童子が出たそうだ。屋根裏を走り回る音がするらしい。霊媒師に相談したら「近所の霊が童子のところに集まり騒いでいる」と言われたそうだ。早速、祈祷をお願いしたそうだ。祈祷師は米と酒を家中に撒き身を震わせて祈祷したらしい。知人はよくぞ無事だったことよと震えたそうだ。ところが知人の母は祈祷師が急病だと思ったらしい。「救急車を呼びましょう」といったそうだ。

B私は、毎日、散歩する。今日も、出かけた。川沿いを、歩いた。木が茂っていた。昼で薄暗い。三十分歩いた。ベンチがあった。ひと休みした。汗を拭いた。また歩き出す。小学校があった。子供が遊んでいた。暫く眺めた。それから帰った。お茶を飲んだ


@は「である」と「です・ます」の混合。初歩的なミスですが、黙読だと意外に気付かずスーッとやり過ごしそう。でも大声で読むと「…書きました」「…効果があった」の箇所がドカンと鼓膜に響き、頭を叩かれ「ひやーしまった」と気付くのです。

Aも声に出すことで「そうだ」「らしい」の続出に、はっきり気付きますが、黙読だと内容に気をとられて、素通りしてしまう可能性も大いに起こりそう。

B声に出して読むと無意識のうちに「、と。」のところで一息入れますから「なんだ、これ!休んでばかりだ!」とセンテンスの短さ・句読点の多さに自分でびっくり。もっと重大な発見も。朗読した結果、内容のあまりのつまらなさ気付き、頭の中が白くなるはずです。
 
このように朗読により黙読の時は気付かなかったミスはかなり発見できますが、人間の悲しさというか、自分の欠点は自分では発見しがたいことも確かです。そこで提案。
 作品を書き上げたら、誰かに読んでもらいましょう。一番良いのはピシバシと遠慮無く文句を言ってくれる人。父か母か姉か弟か、気心の知れた親友で飛び切り口の悪い人か。


◇久しぶりに子供達にセーターをプレゼントしようと思い立ったのは、内職の仕事の報酬が思いのほか多かったからなのと、もうひとつ、子供達が大学生になって好みがやたらとうるさくなり、このところ物を買ってやることが久しく絶えていた。
 
 
これ、筆者は朗読しても多分解らない。でも弟は「おかしな文」と笑い、書くことが好きな友は「…絶えていたことに気付いたからだ、とすべきよ」と教えてくれるかも。
 先日の悪文列伝「それは言い様もないショックだった」。これ、何度朗読しても筆者には直せません。が、姉は「それって何のこと?」とズバリ指摘してくれるかも。



平成17年9月3日講義録


題: あちら立てればこちらが立たず
『あちら立てれば、こちらが立たぬ』という名文句があります。この後に、確か落語家でしたが『両方立てれば、身が保たぬ』と付け加えた人がいて、脱帽した記憶があります。
「良い作品を書くのは本当に難しい」と、皆さん異口同音に嘆かれますが、その原因が実はこの台詞に集約されるのです。
(1)「的を絞る」と「バラエティ」との関
 失敗作の多くが「書きたいこと」を総動員して、思い付く限り並べた作品です。『夢』という題が出た。ある日見た怖い夢に始まり、嬉しい夢、楽しい夢。覚めた後の心境まで。一転して我が人生の夢。ああなりたい、こうしたいと願望を並べ、次に父の夢、母の夢、兄の夢。果ては歴史上の人物から映画や小説の話まで。教室では字数を制限しているから全てを詳しく書くことは不可能で、どの夢も要約になり作品は散漫なものになってしまう。
 これでは魅力がない。そこで私は「この中で是非書きたい話に的を絞り、それを詳しく情感込めて書こう」とお説教します。合点した筆者は「父の夢」と「兄の夢」に絞った。ところがその二つの夢がまるで月並みな立身出世物語だった。散漫さはなくなったけれどまるで単純で、バラエティが乏しいものになってしまった。的を絞るとバラエティが無くなり、バラエティを狙うと的が絞れず散漫になる。このケース、実に多いんです。
(2)「解りやすさ」と「退屈」との関係
 今度は構成の話。何処から書き出しどう続けどう結ぶか。ここでも同じ悩みが出てくる。
◇昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。お祖父さんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。おばあさんが洗濯をしていると、川上から大きな桃が、どんぶらこ、どんぶらこと流れてきました。おばあさんは桃を拾って家に帰りました。包丁で桃を斬ると男の子が出てきました。桃から生まれたので桃太郎と名づけました……。
 これほど解りやすい構成はありません。子供でもスラスラと頭に入ります。原因は出来事を起きた順に、時間の経過に従って組み立てているからです。
 と同時に、これほど退屈なパターンもありません。よほど興味ある話でないと、途中で読むのをやめてしまう人も出るでしょう。皆さんもそのことを知っているから、退屈防止策として「時間の逆転」を工夫します。例えば「今から書き出し過去に遡る手法です。
◇雨が降り出したのでタクシーを拾う。運転手と車の渋滞の話をしていて、十年前自分もマイカーを操っていた頃に体験した痛恨の事故のことを思い出した。
◇久しぶりに叔母が訪ねてきた。叔父の自慢の密柑山の話になる。途端、半世紀昔の小学生の頃のあ甘いエピソードが蘇ってきた。あれが私の初恋だったのかしら。
 こんな構成が三本に一本程も出てきます。ところがそれだけでは心配になり、途中でまた現在に戻ったり、更に百年前のご先祖のことを書いたり。そして再び五十年前…退屈は防げましたが、今度は読者が混乱して嫌になり、やっぱり読むのをやめてしまう。
解りやすさと退屈さの関係も(1)と似ているんです。そこでアドバイスを二つ。
@「時間の逆転」は精々二回まで。多すぎると「分かり難さ」のマイナスを生む。
A「現在から過去へ」が癖になると芸の行き止まり。新しい手法への意欲を忘れぬこと。

題: あちら立てればこちらが立たず…続
前回は「的を絞ると同時にバラエティが乏しくなる」と言う話でしたが、大事なことを忘れていました。「的を絞る」とは「エピソードは一つにせよ」と言うことではありません。そんな不自由な注文ではありません。「絞れ」というのはテーマのことです。
例えば。
「読書」という題が出た。Aさんはテーマを「父の読書」一本に絞り@子供の頃の童話A高校時代の哲学書B勤めて方は仕事関係の本C老境の今は時代小説D生涯通じて愛読した一冊。こんな内容でした。「エピソード多すぎですか」「No! 文句なし」。
 一方のBさん、「私の読書」九行「漱石の読書」七行、一転して「辞書の選択」六行。また一転して「本の洪水」八行。最後は「ひどい翻訳の話」十行…「先生、駄目ですか」「Yes! 散漫でバラバラ、悪文の見本です」
 みなさんにも解るはずです。エピソードは共に五つですがAさんのは「父の読書」という一本の糸(テーマ)で全体が束ねられ、纏まりがいい。Bさんの文はテーマそのものが五つもあるため束ねるどころか五分裂! 「絞る」とは「テーマを絞る」ことです。忘れないで。
 さて「あちら立てれば…」の実例に移りましょう。今日は「化粧」の話。
(3)「スッピンは魅力に乏しい」と「厚化粧はうんざり」の関係
「的を絞る」と「バラエティ」は作品の中身の話、「解りやすさ」と「退屈さ」は構成の問題でしたが、今回の「スッピン」と「厚化粧」は表現面の悩みです。まず実例。
「私は人間だ」「私と母は親子である」。一流大学の理系の学生に、こんな文章が目立ち始めました。0か1か、それ以外のケースは無いのがコンピュータの世界ですが、その影響を受けているの気がします。その世界のトリコになった人の文章例。
◇私はA子が好きだ。A子は私が好きだ。そのA子が「あんたなんか大嫌い」と言った。私は絶望した。A子の友人B子は「大嫌いは大好きの意味よ」と言った。私は理解できない。私は女は苦手だ。私は交際をやめた。パソコンで遊ぶことにした。
 四入代の独身男がゴマンと居る原因、解る気がしませんか。この文章、どの一行も主語と述語だけです。骨だけで肉も血もない。何となく潤いや情緒に欠け、魅力が乏しい。
 その反対が厚化粧の文です。例えばこんな調子。
◇おお何という豪華絢爛、何とも表現の言葉も喪うばかりの錦秋の嵐山の紅葉の、言語に絶する見事さであり、素晴らしい景観の一語に尽きる美麗さに私は圧倒され、ただ黙々と佇み、呆然と刮目して、しばし立ちすくむばかりの驚異と至福の数刻を過ごした。
 これでもか、と塗りまくっています。ダブリもある(傍線)。もうウンザリしてきます。
 厄介なことに「スッピンと厚化粧」は典型的な矛盾の関係になるんです。骨皮筋右衛門を防ごうと躍起になると、お化け顔になりかねない。お化けを防ごうと頑張ると骨皮なりかねない。もちろん例示したような極端な文ではないけれど「それに近いもの」になる恐れは十分にあります。まさに「あちら立てれば」の好例です。
 無くて七癖。情感を込めるのが苦手な人、無意識のうちに飾りたがる人、どちらも実に多い。自分の癖を見詰めて「正反対の人」の文を程ほどに真似ましょう。「程ほどに」

題: あちら立てればこちらが立たず…続々
作品作りの難しさの典型と言ってもいい「あちら…こちら…」の悩みをあと一回だけ。それは「書き出し」のことです。
(4)「さりげないスタート」と「独り合点の書き出し」との関係
 百聞は一見にしかず。まず実例。題は「権力」で「子供の世界の権力」つまり餓鬼大将の話を書いた作品でした。多くの人が政界や会社内部の権力争い、美術界の巨匠と弟子、教授の絶大な力…を欠いた中で、着眼は抜群でしたが、書き出しがひどい。こんな調子。
◇そもそも権力とは何か。我々は日常茶飯事、この語を軽々に使っているが、その正確なる意味に関して、深く探求し、かつ考察したことがあるであろうか。
 これはどう見ても論文です。せめて後に「白い巨塔」みたいな物語が続くならまだしも、中身はあどけない坊やたちの話。全く噛み合いません。
 作品の語り口は終始一貫同じでないといけません。途中から急に砕けた調子に変えると木に竹を継いだ形になる。この作品もそんな形になり、書き出しが浮いてしまいました。
 書き出しの雰囲気を最後まで続けたい以上、エッセイの書き出しは「さりげなく、サラリとしたものにしましょう」と何時も強調するのはそのためです。
 ところが私の薬が効きすぎて、どの教室でも、こんな書き出しのオンパレード。
◇それはいい様もないショックだった。私は呆然として、途方に暮れた。 
◇思えば「あの日」が六十年の私の人生の訣れ道だったのでした。
◇「アラ! そのやり方、全然間違っているわよ」。私は思わず大声で叫んでいた。
「さりげなくスタートしよう」という気持ちに加えて「ちょっぴり気取ってカッコよく」という誘惑に引っかかったケースですが、これ「独り合点」の見本です。
 筆者には何の話か解りきっていますが、読者には皆目解りません。しかも「ショックの内容」「あの日が何時で、その内容」「何を誰に言っているのか、やり方がどう違うのか」等々がすぐ後に出てくるのならまだ救われますが、「ショックを受けた我が姿の描写」「その日に至までの自分の歩み」「間違えた結果、どんな状況になったのか」などの説明が長々と続いている。その間、読者はツンボ桟敷に棚上げされたまま。
「さりげなく」書き出そうとする場合、油断すると「独り合点」になる。ご用心!
 因みにプロの「さりげなく」の実例を。
*生まれて初めて喪服を作った(向田邦子)
*中学生の頃、元日の鎌倉に雪が降ったことがあった(村松友視)
*私も文筆生活に入ってから、いつの間にか十七年の歳月が流れた(北杜夫)
 実によく解る。アマとの違い、解りますか。文章に不可欠の六要素…誰が・何時・何処で・何を・何故・どうやって…がちゃんと入っている点です。
 それに気付けば、今日の「あちら…こちら…」は実はそれ程難題ではないんです。
 ついでに「結び」のこと。「無駄なだめ押しをするな」「余韻を残そう」といつも言っていますが、油断すると「尻切れトンボ」になることがある。でも尻切れを恐れる余り無くものがなの一行を添える害の方が遙かに大きいので、触れないことにします。

過去の講義録

*的を絞ったら…書くことがなくなった!*
 ひとつの話に絞ると色々プラスはあるが、困った問題も起こる。八百字の用紙に半分も書いたら「もう書くことが無くなった!」この悩みです。そこで、その話について、あれこれと思い出を掘り起こしたり、連想を広げたり…つまり、深く深く突っ込んでみよう。すると作品は奥行きや厚みが出て、更によくなる。そんなことを前回話しましたね。
 でも、理屈では解っていても、実際にやるとなると結構むずかしい。掘っても掘っても思い出は出てこないし、連想しても何も浮かばない。用紙は相変わらず半分まっ白。苦し紛れに別の話を添える。せめて「水と油ほど違う話」でなく、精一杯似た話にした。
「先生、ひとつには絞れなかったけれど、これでご勘弁…」これが皆さんの現実では?
 いいですよ、それで立派に合格! ただし、二つの話が同じテーマなら、ね。
 ところが、自分では似たテーマのつもりで書いたのだが、実は違っていた。その結果、「作品の分裂」が起きてしまった! このケースが実に多いのです。実例をひとつ。
    課題「歯」 (作品の要旨)
 六十六になる義兄が歯痛を起こし虫歯を三本抜いた。ところがその夜から出血が続き、 止まらず、なんと翌々日、突然死してしまう。六十半ばになって、三本も抜くなんて… と姉は悔し涙にくれているが、話を聞いて私も歯科医に行くのが怖くなった(前半)
 話は変わるが友人が亡くなった。凄い美人だったが通夜の晩、棺の中の死顔を見、愕然 とする。そこには醜い顔の「見知らぬ老婆」がいた。入れ歯を外すと、死に顔はこんな にも醜くなるのか。「ああ神様、どうぞ入歯にならぬうちに天国に召して!」(後半)

 二つとも迫力十分で、結びもユーモラスで素敵ですが、実はこの二つ、テーマが違った。前半は「抜歯の怖さ」後半は「入歯と死顔」です。その結果、作品が分裂し、散漫な印象のものになってしまった。今更、他の話を捜す余裕もない…頭を抱える筆者。
 どうすればいいか。簡単な方法がある。二つの話に共通するキーワードを見つけ、それを「全体に統括するテーマ」にすればいいのです。一案をひとつ。『芸能人は歯が命』というCMがあります。これをヒントに「歯は命」というキーワードで統括するのです。
    題名「歯は命」 内容はこんな具合に。
『芸能人は歯が命』というCMが流行っている。何とオーバーなと思っていたが、それを地でゆくような話があった。…こう書き出す。そして、まず義兄の抜歯と突然死のエピソードを書き「まさしく歯が命取りになった、といっていい」と締めくくる。
 続いて友人の死顔のエピソードに移る。最後をすこし工夫する。「芸能人ではないが私も女の端くれ。老醜に満ちた死顔なんて、考えただけでゾッとする。死んでも死にきれない。そう考えると、人間、特に女にとって歯を失うことは、命を失うのと同じくらい哀しいことではないか。神様、どうぞ自前の歯のあるうちに天国にお召し下さい。」…こう結ぶ。
 いかがです? 二つの話は『歯は命』という新しいテーマにより一つになり、分裂感は消えました。的を絞り損ねて分裂しても慌てないこと。それぞれに共通する新テーマを探し、それを全体のテーマにすればよいのです。そして複数の物から共通点を模索する作業は、実は意外に楽しいものです。私はいつも、それを楽しんでいます。  

*文章の削り方のコツ*
 魅力ある作品作りのコツは「盛り上げと省略」だと話しました。重要なヤマ場は力を込めて盛り上げ、重要でない部分は適当に簡略化するということでした。その際、盛り上げの方は皆さん上手ですが、簡略化は不得手な人がとても多い。「具体的に何処をどう削ればいいのか見当がつかぬ」という質問がよく出ます。そこで今日は「削りのコツ」を。
 一言で言えば「キメの細かさよりも大胆さ」です。あちらを二字、こちらを三字…ばどと細かく削らず、不要箇所を探し「行単位で」バッサリ捨てる。前回の例文で説明します。   「電灯の点った日」
 私の村は北海道○○郡○○村の貧しい開拓地で、私が小学生の頃、まだ電灯がなかった。が、隣の市や町に電灯が引かれた話を聞くうち住民の間に「俺達の村にも灯りを」という声が高まるその陳情団が組織され、父が副団長に推された
★ただ引き受けるに当たっては、かなり曲折があった都合の悪いことに家業の工場に色々と問題が起きていたうえに、仕事の繁忙期で手が放せない。陳情の方に打ち込むと家業に支障が出る恐れがあったのだ。父母と工場の幹部の間で何日も相談が続いた。でも村人たちに強く説得され、家業は母と工場の古参達に任せ、父は陳情に力を注ぐことになった それから父は毎日家を留守にした。会合が続き、帰宅は夜更けになる。札幌にも何度も出掛けていた。署名集めにも走り回った。が、陳情はなかなか捗らぬ。でも陳情団の粘りが結実遂に昭和三十六年二月、待望の電灯が引かれる。村人は驚喜した。(以下略)

下手な削りの例
 …私の村は北海道○○郡○○村の貧しい開拓地で、私が小学生時代電灯がなかったが隣市町に電灯が引かれ出すと「我が村も」の声。陳情団を組織。父が副団長に。でもかなり曲折。家業の工場問題のうえに繁忙期で手放せず陳情に打ち込むと支障が出る恐れ。父母と工場幹部で相談何日も。村人説得の末家業は母と古参に一任。父は陳情に尽力。
 以来毎日父は留守。沢山の会合で帰宅は夜。何度も札幌出張。署名集めに奔走。が、捗らぬ交渉。が、団員粘りの末昭和三十六年二月待望の電灯点る。村人は驚喜。(以下略) 
 10行が6行に。凄い成果です。でもひどい悪文になりました。滑らかさが全く無い。原因は一字でも減らそうとして句読点を削ったことと、文末(傍線)を片端から省いたたためです。新聞記事によく見掛けます。「注目の○○委員会が○日に開催された。冒頭、野党の○○氏が質問に立ち」これを「注目の○○委は○日開会。冒頭○○氏が質問。」
 布が虫に食われたように、あっちもこっちも穴だらけ。「虫食い削り」と呼びました。虫食いは作品を「全面に渡って」駄目にします。全体を悪文にしてしまうのです。

上手な削りの例
 …私の村は北海道○○郡○○村の貧しい開拓地で、私が小学生の頃、まだ電灯がなかった。が、隣の市や町に電灯が引かれた話を聞くうち住民の間に「俺達の村にも灯りを」という声が高まる。その陳情団が組織され、父が副団長に推された。★父は繁忙期の工場を母や部下に任せて東奔西走した。毎日家を留守にし、夜も帰りが遅い。札幌にも何度も出張し、署名集めにも走り回った。そして遂に遂に昭和三十六年二月、待望の電灯が引かれる。村人は驚喜した。
 
 重要でない「家業の処理」の ★ はバッサリと削られ僅か23字になりましたが、他の所は虫に食われていないから、作品の滑らかさは全く損なわれていません。何処もかしこも少しずつ削ると失敗する。一部分だけ集中的に削る。そんな箇所は必ずある筈です。

*泣かせる笑わせる考えさせる*
「よい作品とは、どんな作品ですか?」。そう正面きって質問されたとき、その答えは、プロも含めて間違いなく十人十色でしょう。作品の評価には主観性が強い以上、これは当然のこと。これから述べる話も、あくまで「私流の解釈」ですが…
 私にとって「よい作品」とは「泣かせる・笑わせる・考えさせる」のどれか一つがあることです。その文を読んだ読者が「泣いてくれるか」「笑ってくれるか」あるいは「考え込んでくれるか」、三つの要素のどれかが含まれている作品。それが「よい作品」だと思うのです。もとより三つとも完備なんて贅沢は言いません。
◆泣かせる…かしこまって言えば「感動」ということ。と言っても、一読、涙流れて止まず、などという大感動、大感激ではありません。行数の制約から実例を引用できないのが残念ですが、ふと胸がじんとするような、ほのぼのと心嬉しくなるようなもの。喜びだけとは限りません。切なさ、哀しさに思わず暗然となるような、また読者の心も怒りにカッカと燃えるような…そんな作品です。
◆笑わせる…いわゆる「ユーモア」です。涙路線に比べて皆さん苦手のようです。日本人そのものが苦手なのかも知れません。エピソードをひとつ。第二次世界大戦の英雄の一人、英国のチャーチル氏は老いてますます矍鑠。ある時記者団から「卿はいつまでもお元気だが、朝晩なにを召し上がっておられるのか」と問われ、間髪を入れず「私は人を食っとる」。この感覚、小渕内閣を見渡しても見あたりません。
 上質のユーモアが、いかに心を和ませることか。思わずニヤリとするような、思い出し笑いが浮かぶような、そんな作品は嬉しいものです。付記すれば、表現だけの駄洒落や悪ふざけにならぬこと。大事なのは内容のおかしさです。
◆考えさせる…「全く同感。軽視できぬ問題だ」と読者が共鳴するような、また、「そう言えば私だって五十歩百歩」と読者も考え込むような…。共感ばかりとは限りません。「オレは少々違うぞ」という形で話題を提供する場合もあるでしょう。要するに、読者に何か考えさせるような問題意識を含んだ作品です。
 こう書くと、直ぐに反戦とか核とか環境汚染を連想しがちですが、もっと幅広く考えましょう。高齢者のこと、学校のこと、地域のこと、親子関係、男女関係、我が身のエゴ…むしろ日常生活の中から拾い出すほうが、エッセイ向きです。
 書き終えたあと、さて我が作品に、どれかがあるかしら、と眺めてみましょう。もし三つとも、無かったら? 口惜しいけれど屑籠の中へ!
 いえいえ入社試験ではありません。今月はこれにて我慢、来月に期しましょう。

*カミさんの夫の妻@*
女性同士の会話をひとつ。
「あら、お久し振り! 貴方のご主人の奥さん、お元気? お幾つになられた?」
「もう還暦プラス二よ。貴方の息子さんの母さんは、まだ教職に就いているの?」
 一読、間髪を入れず解る方は、十分にカンが鋭くユーモアも豊かな方です。そうです、この禅問答、「貴方のご主人の奥さん」とはつまり「貴方」であり、「貴方の息子の母」もやはり「貴方」。「貴方、幾つになった?」「貴方まだ先生してるの?」というだけのこと。ご同様に、「キミの奥さんの旦那さん、ゴルフの腕は上がりましたか?」「私はカミさんの夫の妻と一緒に海外旅行をした」…なんて、一瞬考えてしまいそうです。
 こんな妙な話を始めたのは、皆さんの作品に「続柄関係がややこしく、読んでいて頭が痛くなるような文」がけっこう多いことを指摘したかったためです。例えばこんな文。

 この秋、夫の実家を訪ねたら、義母の弟の次男と妻と長男が来ていた。あれから三十年にもなるだろうか。私たちは戦時中そこに疎開していた。弟は妻を亡くして傷心していたが、義父の知人で町の顔役の人の紹介で後妻を娶り、次男三男と長女が生まれ、その娘と夫の長男が同い年ですっかり仲良くなって「ボク、アキちゃんをお嫁さんにするんだ」と言い出して聞かず、困らせたものだ。長女は大阪の繊維問屋の長男と結婚、一男一女に恵まれたが、頑固な舅と寝たきりの姑を抱え苦労しているという。弟の先妻との間の長男と次男はいまだに不仲で、義母の姉の長男の妻が病気がちなのと並んで喜寿を迎えた義母の悩みの種だという。この叔父は夫が子供の頃とても可愛がってくれた人物で…(以下略)

 冒頭の笑い話と同じ例がひとつ。三行目「夫の長男」。まるで筆者とは別家族みたいですが「夫の長男」は「筆者の長男」つまり「我が家の息子」です。そんなことを含めて、この一文、ややこしくて、うんざりします。作品の骨子は「夫が子供の頃慕っていた素敵な叔父さんの悲運の生涯」を綴ったものでした。つまり(以下省略)からあとが主眼であり、ここに記した箇所は導入部です。ところが長すぎるうえ、登場人物が多すぎました。
 …夫・義母・その弟・その次男夫婦と長男・弟の亡妻・義父・その知人・弟の後妻・三人の子・筆者の長男・繊維問屋の長男・その息子と娘・そこの舅・姑・弟の長男(先妻との間の子)・義母の姉・その長男夫婦…なんと二十二人! 混乱しない方が不思議です。しかも主題と関係のない人物や重要でない人物が続々と出てきます。読者は話の中身を味わう前に、続柄の理解に振り回され、疲れ果ててしまいます。そこで今日の教訓。
@一般に「登場人物は少なめのほうがいい」。中心となる話に関係のない人はもちろんのこと、作品の名かで重要な役割を担わぬ人物は、思いきって省こう。
A特に親類関係については数を絞り、簡明を心掛けよう。実父母一族と義父母一族が絡み合う場合は最も危険です。要注意の一例は「甥・姪や義父母側の叔父・叔母」の子や孫の話を書くときです。「これで解るかしら」と自問自答してみよう。

*カミさんの夫の妻A* 
父と娘、義母と息子、または兄弟や義姉義妹といった続柄を示す語を使うとき、気をつけなければならないことがもう一つあります。それは「息子」とか「孫」とか言う場合、「誰を基準にしてそう呼ぶのか」「誰から見ての息子(孫)なのか」を考えよ、ということ。そして「その基準」は「作品の最初から最後まで変えてはいけない」ということです。
 例えば一人の男性について。妻から見れば「夫」妻の母から見れば「婿」妻の妹から見れば「義兄」、息子(娘)から見れば「父」、その息子が結婚して子供が出来たとき、その子から見れば「おじいちゃん」。一方、男性に母にとっては「大事な息子」です。誰を基準にするかで呼称がまるで違ってきます。そこで問題が出てくる。作品の中で「基準」がコロコロ変わったらどうなるでしょう。前半は「私」を基準にして書いたから「夫」「娘」「息子」、ところが後半「義母」を基準にしたため、今度は夫が「息子」に、息子と娘は「孫」になってしまう。これでは読者が頭が混乱してしまいます。実例をひとつ。
@母が喜寿を迎えた。若い頃は病弱だったが中年過ぎて方は病気一つせず、私より元気なくらいだ。私は結婚後も勤めを続け、仕事・家事・育児で働き続けたが、息子の誕生のあと年子で娘が生まれてから、お手上げになった。(中略)特に泣き虫の娘の保育に振り回され、体重は五キロも減り、頬はげっそりと痩せた。その危機を救ってくれたのが母であった。娘のことを案じて、三日と空けず駆け付けてくれた。
A義母は書道が趣味だ。(中略)書は集中力の訓練になるから孫たちにもやらせなさいというのが口癖。私も成る程と思い、小三の息子を習字の塾に通わせた。最近は学校の授業でいつも褒められると言う。義母は目を細めて聞く。あるとき来客と書の話になり、義母は息子の自慢を始めた。高校一年で県のコンクールで県知事賞を得たと話している。
 @Aともに問題があります。傍線の箇所です。@五行目「娘のことを案じて」の所。筆者は「母が私の健康を案じて…」のつもりだったのですが、ここだけ「母を基準にして」娘と書いてしまったため、この「娘」が「母の娘」つまり「私」なのか「二人目の女児」のことなのか紛らわしくなりました。ここは「私の身を案じて」と書くべきでした。
A一行目「孫たちに…」四行目「息子の自慢」がミスです。「私を基準」に書いた文なのに、ここだけ「義母が基準」になってしまった。「義母にとって」の孫が「義母にとって」の息子になってしまった。読者はアレッ、何時の間に小三の子が高校生になったんだ、と首を捻ります。一行目は「息子たちに…」四行目は「私の夫の自慢を…」とすべき
 一応原則論を話しましたが、原則で押し通すと、かえってしっくり来なかったり、混乱することがある。@の場合「娘を思う親心」を描きたいので「娘」の語を是非使いたい。こんなときは一案として「三足の草鞋で頑張る娘を案じて」とすればいい。Aの場合「孫」でも「息子」でもなく「子供たち」とするか、「書は」から「やらせなさい」までをカギカッコで括り、話し言葉にしてしまえば「孫」のままでいい。また四行目の所は「夫の自慢」とすると「義父」のことみたいになる。「私の」の一語が不可欠です。
 日本語は厄介です。要は「基準を変えないこと」。その上で臨機に工夫して下さい。

*「…と言った」しか無いの?*
 以前に「同じ言葉を繰り返さぬように」とアドバイスしました。その際「文末での繰り返し」の例として「であった」「のである」という言い方を例に挙げましたが、皆さんの文を読んでいて、もっと大きな問題に気づきました。「…と言った」という言い方です。これはもう筆力の巧拙に関係なく、大半の人の文にぞろぞろ出てくる。
◆「明日はいよいよ卒業式だね」と私は言った。娘は黙っている。私はもう一度「よく頑張ったね」と言った。それでも黙っている。怖いような目付きだ。出来るだけ優しい調子で「嬉しくないの?」と私は言った。娘は首を激しく振り、「違うよ! 嬉しいよ!」と言った。その目は心なしか潤んでいる。「とにかく良かった」傍らから夫が言った

「…と言った」がこの短文の中に五回も出てきます。癖になっている人、無意識のうちにそう書いてしまう人、会話の後の言葉はこれしか知らない人…原因は様々でしょう。
 いいえ皆さんだけではない。何年か前、超売れっ子の某推理作家の文章を、社会学者の鵜飼正樹さんが分析していました。会話文の後、改行して「と警部は言った」「と刑事が言った」このパターンがA作品では百七十七回、Bでは百六十八回、Cでは百六十回。三冊とも二百ページ前後の新書判です。ちなみに同じ著者のデビュー当時の本では、階数は十分の一以下。鵜飼さんは「作品を量産しすぎて、文の練り方がイージーになっている証拠」と手厳しい。プロでもいい加減に書き飛ばすとこうなる、という怖いお話です。
 会話文は大事です。会話を添えることで臨場感やリアリティが強まり、バラエティも生じます。大いに活用して欲しいのですが、問題は「会話文のあと」です。「母さん、体に気をつけてね」と書いたあと、いつもいつも判で捺したように「…と私は言った」。これでは困ります。言葉を発したときの表現の仕方には、その言葉を発した人のそのときの感情により様々な「書き方」があるはずです。例えば…
◆喜びの時…「ほんとうに、よかった」と母は潤んだ声を上げた。
◆怒りの時…「許せない!」と父は怒鳴った。「阿呆な奴」と兄は吐き捨てた。
◆悲しいとき…「何でこんな目に…」と姉はポッリ。「ひどい…」語尾はかすれて消えた。
◆楽しいとき…「極楽、極楽」と祖母は微笑した。「オモロイんだ」と孫は声を弾ませた。

 こんなに凝らなくても、少し長い話の時は「と語り終えた」でいいし、昔の思い出なら「と述懐した」がピタリ。もっと感嘆に「答えた」「応じた」「叫んだ」「呟いた」「伝えた」「資した」「訴えた」「愚痴った」「こぼした」…みんな発言を示す語です。
 また、いつも「会話文」の後に「…と」が来るのではなく、「…と」を先にしてもいい。
 ……友人は突き放すように一言。「いまさら何よ。後の祭りだわ」。
 ここまで書いて、あ、と思った。それらの言葉を知らなかったら、書こうにも書けません。文作りの第一歩はやっぱり「ボキャブラリーを増やすこと」これに尽きます。
 
*庭はいつも「猫の額」*
「猫の額ほどの庭に植木がひしめいている」。こんな文、よく見掛けます。
 この文の最初の所、「猫の額のどの庭」。見るたびに私は三嘆します。この名文句を創り出した人(多分名のある作家か。誰なのか教えて欲しい)は、私には天才に思える。
 日本語には無数の比喩がありますが、これは傑作中の傑作。昔々からの名比喩「井の中の蛙」「猫に小判」にも匹敵するでしょう。論より証拠、皆さんもその軽妙さを知っていて、ほんとに出てくる出てくる。ぢなたの文章でも「庭」と言えば「猫の額」でした。…なんて大きな口をきく私も、結構使ったものですが。
 さて今日は、比喩の品定めではありません。「大傑作の比喩ほど、出来るだけ使わないようにしましょう」という忠告です。傑作であればあるほど多くの人に使用されていて、月並みな物になってしまっているということと、怖い麻薬性があるからです。
 月並みな比喩の使用が何故よくないか。それは「その部分の描写」が借り物になり、自分の文章でなくなってしまうからです。貧しかった昔、私達は「あのう…お皿、貸して! 客が大勢来るんです」などと隣家に駆け込みましたね。でも豊かになった今、文章だって「自前」の言葉を使いましょう。それは私達のささやかなプライドでもある筈です。
 しかも月並みな言葉がぞろぞろ並ぶと、作品の中身までが何となく薄っぺらなものに思われてしまう。読者は「あ、ありふれているね」と思ってしまう。これは致命的です。
 その点で見事なのが向田邦子。斬新で光り輝く比喩が至る所に在って、しかも全て彼女の独創です。借り物なんか嫌よ、そんなプライドが垣間見えます。
 例えば「秋の日は釣瓶落としとなって、西の山に沈んでいった」。この「釣瓶落とし」、「猫の額」に劣らぬ傑作で、「猫も杓子も」愛用しました。秋の入り日の急速なさまを描いたものですが、向田邦子はこう書きます。「写真機のシャッターがおりるように、庭が急に暗くなった」。ただただ脱帽するばかり。
 こんな名人芸には叶わないけれど、皆さん、私達も自前の名文句を工夫しましょう。
 さらに、借り物になったり月並みになったりする以上に、怖いことがあります。それは「イージー(安易)な執筆態度が身に付く危険」です。
 文章上達のポイントは観察力を磨くことと、言葉を練る習慣の養成です。ところがよく出来た比喩はまことに適切で便利ですから、つい飛びつきたくもなる。一度その味を占めると癖になり、忙しい一日を描くとき、あれこれ練るのを止めて「猫の手を借りたいほどだった」と片づけてしまう。不釣り合いの恋人同士を描くときの「二人は月とスッポンだ」でケリ。練ることを止めるだけでなく、どこがどう似ていないのか観察する習慣まで失くする。
 そうです。古来の比喩には麻薬性があるのです。それも傑作のものほど毒性が強い。そして、ひとたびその魔力のトリコとなると常習者になり、いつの間にか「楽をして良い文を書こう」という執筆態度になってしまう。
 怖いですね。文章作りに労を惜しんではいけません。世に「良薬は口に苦し」の例えもある……あ? これこそ月並みな傑作の見本じゃないか! 

*文章添削の実際1*

前書き: これは『旅の思い出』と題された作文です。あなたなら、どこに朱をいれますか。

かってスペイン南部、アンダルシア地方を旅行したことがある。九世紀から十二世紀、サラセン帝国に支配され、文化はその影響を受けている。
そこのとある古城に泊まったことがある。小高い丘のオリーブ畑の間に、石造りの古びた城が建っている。それがホテルなのだ。中は頑丈な兵に囲まれ、その辺りに甲冑を着けた兵士が立っているような気配だが、入るときれいな近代的なスペインの娘たちが迎えてくれた。設備は近代的で一般と変わらないが、調度品は黒ずんだ太い木製のものが置かれ、時代を思わせた。かってこの辺りを支配した王が美男美女を従えて生活していたのだろう。部屋の窓を開けると、一メートルほどの厚さの壁を通して、緩やかに波打ったオリーブ畑の丘陵が広がっており、彼方の空が入り日に赤く染まっているのが見える。
出された食事はスペイン料理だが、昔王様が召し上がった以上のものだったかも知れない。
私はすっかり中世の王様になった気持になってしまった。ただ違うのは若い美女がかしずいていないだけだ。
翌日小雨降るなか、古城を後にしてマドリッドに向かった。着いてデパートにショッピングに出掛けた。中を歩いていると、しばらくしてショルダーバックのファスナーが開いているのに気がついた。
ハテナと中を見ると、もう一つの財布がない。あっ、そのときずしん、と冷たいものが胸を走った。その中には日本円若干と、ヴィザカードが入っていたのだ。盗られた!カードを使われたら大変、ホテルに飛んで帰って旅行社の人にカードの無効手続きをしてもらった。一応被害を最小限度にくい止めた。
翌朝別の服を着て出掛けようとしたら、胸のポケットに何か触れるものがある。見ると昨日大騒ぎした盗られたはずのヴィザカードなのだ。
「なあーんだ、ばかばかしい、慌て者が」、一人苦笑いしてバスに乗った。今日はトレド方面へ……。そして再び中世の夢の世界にもどって行った。

[講評]
○前半と後半で、テーマが分裂している。二つのうち、どちらかに焦点を絞って書く。私がテーマを選ぶなら、後半にする。
○財布を盗まれ、こんなにあっさりできるものか。もっともっと焦りがあったはずである。それが細かく描かれていないから、最後の言葉が生きてこないのである。
○初めての旅行かどうかも記入する。

(講評は斎藤信也氏)
 


題: 文章添削の実際2
前書き:
カテゴリ:斎藤信也先生講義録
朱を入れて下さい

     「時計」
タンスの引き出しに腕時計が三つ納まっている。一番小さいのは、小指の先一節ほどの角形の女もちの時計で、鎖は切れているが、捨てられない。この時計は、上京して世帯を持ち、長女に続いて年子に生まれた次女が未熟児で死んだとき、貧乏が子どもの命さえ奪うことに白旗を上げて、勤めに出る決心をした、そのとき、お昼代まで節約して買ってくれた、夫からの初めてのプレゼントだから。
その隣の、枠がちょっとさびている丸形は母の形見。普段は時計などはめたことがないのに女学校の同窓会に出掛けるときは、これを着けた腕で帯留めを整えながら嬉々と出掛けた母の笑い顔と重なる。
もう一つの、大きくてずっしりと重いのは夫の腕時計。四十九日の集まりのとき、上司の美田さんが、こんな話をして下さった。「自動巻が売りに出されてすぐ、それを買って自慢げに役所で披露したら、その翌日、彼は僕のよりずっと高価なやつをさりげなく腕に巻いて出勤してきました。今、奥さんがしている、それですよ」と。
夫に腕を握られている思い出、ずっとその時計をつけていたが、息子が中学生になったとき、息子に譲った。
三つの時計には、それぞれの思い出があり、時計は貴重なもの、高価なもの、という思い込みから抜け出せない私だけど、子どもたちは、服装に合わせて、大小さまざまな時計を楽しんでいる。カジュアルな服には、水色の布バンドに花柄枠のを遊び気分で。銀の鎖のこの真面目な型は通勤用、模造ダイヤをあしらった小ぶりの可愛い時計は、ワンピースでお出かけに、と娘のは、ことのほか楽しい。どれも安物だろうけれど、こんな使い方があるんだなあ、と感心させられる。
息子もまた、なかなかの伊達者で、スキーにはこれ、こっちは海水浴用、と用途別に持っていて、いつの間にか父親の重い時計は敬遠している。


[講評]
○焦点が不鮮明なのは、テーマが前半と後半の二つに、さらには前半が三つに分裂しているからである。やはり一つに絞る。読み手とすれば、「夫からの初めてのプレゼントである時計」についての作者の感慨を、さらに深めて書いてもらいたかった。
○飛躍が文意を分かりにくくしている。例えば「子どもの命さえ奪う貧乏に白旗を上げて、専業主婦でいこうと思っていた私は、勤めに出る決心をした」。「大きくてずっしりと重いのは夫の腕時計。四十九日の集まりのとき」。作者の主人が亡くなったことを読み手は知らない。一人勝手な文章である。

(講評、斎藤信也氏)  


題: 起承転結
前書き:
カテゴリ:斎藤信也先生講義録
実例添削(講師、斎藤信也)

     能力
(起)
毎年暮れになると、ベートーベンの第九交響曲とともに、ヘンデルのメサイヤという大曲もまた、よく演目に上る音楽の一つだ。このメサイヤが初演されたとき、時のイギリス国王が、「全能の神統べたもう…」と歌われるハレルヤコーラスの部分が演奏されるや、その荘厳さに心動かされ、座ったままで聞くに忍びず、思わず起立したというエピソードが伝わっている。
(承)
音楽の三要素である、メロディーとリズム、それにハーモニーの、幾千万十も知れない組み合わせ如何で、人々を小躍りさせるような熱狂に誘い込んだり、悲痛な思いを漂わせたり、思わず目頭を押さえてしまうような、不思議な感動を抱かせたりする。ハレルヤコーラスは、言葉も加わり、その美しいひびきは天からの声にも聞こえたのかも知れない。
(転)
この正月、横浜の高島屋で毎年恒例の催しになっている、湯島天神白梅太鼓の初打ちを聞きに行った。新しい力をみなぎらせてくれるような、年の始めに相応しい、迫力に満ちたものだった。この白梅太鼓のメンバーは、全員二十代の若い女性であるが、躍動感あふれるこの太鼓の音を聴いただけでは、屈強の男が、力の限り叩いているように感じられる。かん高いかけ声とともに、一個の大太鼓、四個の中太鼓、そして、小太鼓一個を、足を踏ん張り、きびきびした大きな表情で、ときに力強く,ときに静かに、リズムの拍子を変え順繰りにポジションを代えたりして,スマイルを絶やさず連打する。その響きは、聴くものの五臓六腑にズシンズシンと迫ってくる。リズムだけの動きによる大きな感動である。
(結)
人は、決して全能ではないが、こんな感動を与える太鼓の連打は、みかけでは決して識別することのできない、この女性たちに与えられた、かけがえのない能力であり、厳しい訓練によって鍛え上げられた、貴い技である。

*アドバイス
この文章の重要な誤りは、結である。転のことしか述べられていない。結とは,起と転両方共通の結びなのだ。このままだと、起と承はなんのために書かれたか、意味が分からなくなる。   


題: 感動の部分を書き込む
前書き:
カテゴリ:斎藤信也先生講義録
実例添削(講師、斎藤信也)

      千人針
昭和十七年秋、私が入隊した姫路中部第四十六部隊は近く戦場行きを前にして、厳しい訓練が続いていた。その日、演習が終わって白鷺城の石段を下りてきたとき、道端に、日の丸の小旗を振って迎える人波が見えた。ひょっとして母が来ているかもと、ひそかに期待して、(1)心を揺らしていた。
当時、一家は新潟県佐渡島に住んでいた。入隊日までに、最後の別れに帰宅したかったが、連日の嵐で連絡船が欠航していて帰られっっず、学窓からそのまま入隊した。
城門を後にしたところで、母を発見した。思わず手を振ると、母は気づいて何やら大声で喚きながら、側に寄ろうとして、風呂敷包みを差し上げ、必死に隊列についてきた。
見張りの憲兵が三十メートル間隔で監視している。出動を前にして防諜のための警戒が厳重だった。それでも母は私を見失わないようにと小走りでついてきた。私は四列縦隊の左端の戦友にそっと声をかけた。
「おふくろが来ているんだ。位置を替わってくれ、頼むッ」と片手で拝んだ。軍律違反の上、銃を担いだ完全武装で身動きもままならぬ身だから左右に動くことは容易ではない。(2)無言の彼を凝視しながら焦ってきた。曲がり角でほどが歩度が緩んだ一瞬、彼はさっと身をひいて入れ替わった。母の白髪が迫ってくる。包みを片手で素早く受け取った。母が後ずさりしたのと隊列が早足になったのとは間一髪だった。
その夜、消灯ラッパを聞きながらそっと包みを開けてみた。真新しい千人針の腹巻きの中から守り札と煙草が三箱と布袋の飴玉が出てきた。その越佐海峡を渡ってきた千人針の腹巻きの奥から白髪三本に交じって紙切れが出てきた。金釘流れの字で「生きて帰れよ」とあった。(見つかれば大変だ)と、思わず飲み下してしまった。
(3)かっての戦中派世代はみんな『千人針』についての思い出を持っている。日本手拭いほどの大きさの木綿か、晒さないままの分厚い生地や、羽二重、スフと呼ぶ人造繊維などの布きれの両端に紐をつけた腹巻きだ。この布地にへらで縦横に筋をつけ、その筋の交差点に筆尻に朱肉をつけて布にポンポンと丸い輪を押捺しその中に、一人が一針ずつ、赤糸で結び玉を合計千個縫いつける。これを身内や親しい人が戦地にたつときに贈ったのだ。この一枚の布きれに千人の女性の手を借りるため個人訪問したり、街頭に立ち、道行く女性に運針をこうた。こうして女性から一針一針と、千人の手で仕上がったのだ。
千人針は表向きは「戦争に勝つために…」というものだったが、真情は(生きて帰ってきて欲しい)との悲願が込められていた。

*アドバイス
(1)「心を揺らせていた」は抽象的にすぎる。例えば「目で母を探した」といったように、主人公の行動を書く。
「怒った」と書くよりは、「げんこつを机を叩きつけた」と書いたほうが、読み手の空想力が働く。
(2)感動の場面を書き流している。ここは詳しく書けば書くほどよい。
(3)「千人針」の説明は詳しく書かれているが、読み手の頭に「千人針がどういう物なのか」すぐ入ってこない。
詳しく書いて分からないなら、あっさりと千人針の概要は一行ですませ、(2)の感動の場面に力を尽くす。  


題: 必要な説明が欠落
前書き:
カテゴリ:斎藤信也先生講義録
実例添削(講師、斎藤信也)

      忘れられない日曜

(1)
日曜日は、一週間に一回確実に回ってくる。その日曜日が待ち遠しくて楽しかった。それは、休みであるということと、何よりも、自分の時間がもてたからである。土曜日になれば「明日は日曜日だぞ」と思っただけで心が躍った。しかし、日曜日の夕方になれば、「明日も休みならいいなあ」と都合のよいことばかり考えて、もうどのくらい日曜日を過ごしてきたのだろう。その日曜日に、こんな思い出がある。
(2)
ある日曜日の朝だった。目が覚めてみると外は一面、初雪に覆われていた。「しまった」昨日M君の家庭訪問をする約束をしていたのにすっかり忘れていた。
(3)
M君兄弟は、祖母といつしょに札幌で生活していた。父が札幌から車で非時間ほどの三笠市で炭坑病院の医師をしていた。昨日の戸曜日は、わざわざご両親が札幌まできてくださっていたのに。私は取る物も取りあえず、車を走らせてM君の家を訪れたが、出迎えてくれた祖母は、「もう帰りました。昨日は随分お待ちしていたんですが」。目の前が真っ暗になった。両親にあったら、「子どもは、両親の下でクラスのが一番です」と言おうと思っていたのに、それどころではなかった。逆に、「約束を守れない先生に、息子は預けられない」と愛想が尽きたに違いない。どんな言い訳もできない。その後どのようにして家に帰ったか、記憶が定かではないが、ただ、日曜日が早く過ぎて、月曜日を迎えたかった。そして、M君がどんな反応を示すか知りたかった。
(4)
そのことがあって間もなく、M君は両親の許へ転校して行った。卒業後、何回か手紙を出してみたが、とうとう返事は来なかった。生涯忘れることが出来ない思い出と、教育者としての悔いを残して過ぎ去っていった。
風の便りにM君は、歯医者になったとのこと、今はひたすら彼の将来に期待するのみ。

*アドバイス
一、家庭訪問の約束を何故忘れたのか、M君の月曜日の反応はどうだったのか、の説明を(1)の部分を削って書き込む。
 二、落語と同じように、前置きはあっさり短くして、この文例の場合はすぐに本題(2)に入っていい。  


題: 模範文例集
前書き:
カテゴリ:斎藤信也先生講義録
※よい文章……文章はともかく中味(書かれた内容)だけが伝わってくる。


○「気どり」の文章例

     金木犀(瀬戸内寂聴)

嵯峨野の秋は金木犀の香に乗って訪れます。
どの路を歩いていても、風に木犀の匂いがとけ込んでいるのです。たいていの家に一本や二本の、多いところでは垣根みんな木犀が植えてあります。ほのかに風にとけ込んでいるのはなつかしいのですが、あまり濃く匂うと、ふと、うとましい気になるのは、化粧の厚すぎる若い人に出会った気がするからでしょうか。
若い女の人は素肌さえ匂い存在そのものが美しいのに、紅や青や赤で彩りすぎ、せっかくの匂う肌をああ惜しいと思うように、秋は、もうそれだけで美しく匂やかなのに、これでもかこれでもかといわんばかりに金木犀に追いかけられると、昔の人のつかった「こちたし」という気分になってしまうのです。
寂庵には金木犀が三本あります。どういう都合でそうなったのか、三本とも花時は、他の木にかくれて姿が見えなくなり、ただ、ほのかに匂いだけがただようてくるので、客はみな、ちょっと足をとめて、匂いのありかに首をめぐらせます。
それでも花が散ると、ある朝苔の上が花屑に金色にそめられていて、ああ、今年もこんなにおびただしい花をつけていたのかと、いとおしさがわいてくるのです。
もう忘れるほど遠い昔、よく木犀の匂う道を人と歩いたことでした。ひそかにしのばなければならない恋だったせいか、選ぶ道も、自然、細い横町から小路へとばかりたどっていったのでしょうか。
そんな名もしらぬ小路のつつましい家々の垣根から、金木犀が匂いたち、ことば少ないふたりのあいびきが、いっそうせつなく思えたものでした。
木犀の匂いには、またいくつかの別れの場面も思いだされます。
秋のひえびえとした空気が人との別れを思いつかせるのか、木犀の濃い匂いが、恋いの疲れに気づかせるのか。夏の日に燃えた恋の終わりは、いつでも、木犀の匂いのしみた秋風の中にあったように思われます。
人に見つめられている視線を熱く感じつづけながら、一気にかけおりていった坂の途中の黒い板塀の中から匂っていたあの花。
振り返らない人の背の、あまりに見慣れすぎてきたその表情に、面とむかっては流れなかった涙が、ふいにあふれてきて、思わず追いそうになった自分を縫いつけるようにすがった橋のたもとに、金色の花屑がびっしりと散り敷いていて、白い自分の足袋の爪先が、いつにもまして細くくっきりと見えたあのたそがれ。
切り出し難い別れのことばを、胸一杯につまらせて、思わず窓を開けたら、一気に夜風がはこんできた木犀の匂い。
あのアパートの部屋の窓には今年の秋も木犀の香がふきあげているのでしょうか。
すべてはもう、忘れるほど遠い昔の話ばかり。


[補講、比較研究・段落の受け方]
前段落で述べられた内容が、後段落にいかに引き継げられているかに注意を払いながら、次の「桜」と題された作品と読み比べでみてください。寂聴さんの作品づくりのうまさが、引き立ってくるはずです。


     桜(朝日カルチャー生徒)

桜の季節は新入生・新入社員の季節でもある。新年度が始まるときで転勤でもしようものなら、あっと言う間にすぎてしまう。
今年の桜は気温が低かったせいか長持ちし、久しぶりに堪能させてもらった。
私の住んでいる団地には桜並木があり、何本あるかしらないが、ゆっくり歩くと十分ぐらいかかる。毎年、気にかかりながらも見頃をのがしてしまい悔やんでいたが、今年は朝の散歩や、夕方の買い物がてらに桜の下を歩いた。
団地に入居した二十五年前の桜の若木は、すっかり貫禄をつけゆさゆさと枝を揺らしている。花は年輪とともにさざやかな色を増している。
日本人は桜の花は好きだが、私も桜が咲き始めると、何となくうきうきする。あの桜を見ようとわざわざ通勤経路を変えて遠回りする。
彼岸桜、山桜、八重桜、里桜とそれぞれの味わいがある。
テレビで上野公園の場所取りや、宴会などの様子を放映するが、桜の側でわいわいやるのがもっと好きなのだろう。
花を愛でながら、亡くなった親友を思う。
彼女とは入生田や青梅の枝垂桜を見に行った。私が定年退職したら、桜の開花を追って旅をしようと楽しみにしていた。約束を反故にして、肺ガンで旅立ってしまった。美しい人だったので、桜の精に吸い込まれてしまったのではないかと思ってしまう。
宮崎の実家には、亡くなった父が植えた大きな八重桜がある。母がすみれと桜を押し花にして、毎年送ってくる。母は八十四歳で一人暮らしをしている。
私はそれを日記に挟んで大切にしている。古いものは色あせているが、それなりの美しさを保っている。
今年の寒さはことのほか厳しかった。母からの花便りは私をほっとさせるとともに、いつまでも続いて欲しいという祈りとなる。


○「無味乾燥(観察したことを感慨をまじえずにそのまま書く)」な文章例

     朝顔(志賀直哉)

私は十数年前から毎年朝顔を植えている。それは花を見るためよりも葉が毒虫に刺されたときの薬になるので、絶やさないようにしている。蚊やぶよはもとよりむかででも蜂でも非常によく効く。葉を三四枚、両の手のひらでしばらくもんでいると、ねっとりした汁が出てくる。それを薬といっつしょにさされた個所に擦り付けると、痛みでもかゆみでもすぐ止まり、その後、そこからいつまでも汁が出たりするようなことがない。
私は今住んでいる熱海大洞台の住まいの裏山の中腹に小さい掘っ立て小屋の書斎を建てた。狭い場所で、窓の前はすぐ急な傾斜地なので、用心のため、低い四つ目垣を結い、その下に茶の実をまいた。ゆくゆくは茶の生け垣にするつもりだが、それは何年か先のことなので、今年は東京の百貨店で買った幾種類かの朝顔の種をまいた。夏が近づくとそれらが四つ目垣に絡みはじめた。反対のほうに地面をはうつるがあると、私はそれを垣のほうに戻してやった。茶も所々に芽を出したが、茂った朝顔のために気の毒なくらい日光を受けられなかった。
この夏は私の家は子どもたちや孫で、満員になった。そのため、一月余り私は山の書斎で寝起きしたが、年のせいか、朝、五時になると目が覚め、まだ眠いのに、もう眠ることができず、母屋の家族が起きるまでは景色を眺め、それを待っていなければならぬ。私の家は母屋も景色はいいが、書斎は高いだけに視野が広く、西南の方角から言うと、天城山、大室山、小室山、川奈の鼻、それと重なって新島、川奈の鼻をちょっと離れて利島、さらに遠く三宅島までも見えることがある。しかしこれはよほど晴れた日でないと見えず、一年に二、三回微かに見える程度である。正面には小さい初島、その後ろに大島、左には真鶴の鼻、その向こうに三浦半島の山々が眺められ、珍しい景色のいいところだ。私はこれまでも尾道、松江、我孫子、山科、奈良というふうに景色のいいところに住んできたが、ここの景色は中でもいちばんいいように思う。
毎朝、起きると、出窓にあぐらをかいて、たばこをのみながら、景色を眺める。そしてまた、すぐ目の前の四つ目垣に咲いた朝顔を見る。
私は朝顔をこれまで、それほど、美しい花とは思っていなかった。一つは朝寝坊で、咲いたばかりの花を見る機会が少なかったためで、多く見たのは日に照らされ、形の崩れた朝顔で、その弱々しい感じからも私はこの花をあまり好きになれなかった。ところが、この夏、夜明けに覚めて、開いたばかりの朝顔を見るようになると、私はそのみずみずしい感じを非常に美しいと思うようになった。カンナと見比べ、ゼラニウムと見比べて、このみずみずしい美しさは特別なものだと思った。朝顔の花の生命は一時間か二時間といっていいだろう。私は朝顔の花のみずみずしさに気づいたとき、なぜか、不意に自分の少年時代を思い浮かべた。後で考えたことだが、これは少年時代、既にこのみずみずしさは知っていて、それほどに思わず、老年になって、初めて、それをたいへん美しく感じたのだろうと思った。
母屋から話し声が聞こえてきたので、私は降りていった。その前、小学校へ通う孫娘の押し花の材料にと考え、瑠璃色と赤と小豆色の朝顔を一輪ずつ摘んで、それを上向けに持って段になった坂道を降りていくと、一匹の虻が私の顔のまわりをうるさく飛び回った。私は空いているほうの手で、それを追ったが、どうしても逃げない。私は坂の途中でちょっと立ち止まった。と、同時に今まで飛んでいた虻は身を逆さにして花の芯に深く入って密を吸い始めた。丸みのある虎斑の尻の先が息でもするように動いている。
しばらくすると虻は飛び込んだときは反対にやや不器用な身振りで芯から抜け出すと、すぐ次の花に、そしてさらに次の花に身を逆さにして入り、一通り密を吸うと、何の未練もなく、どこかへ飛んでいってしまった。虻にとっては朝顔だけで、私という人間はまったく眼中になかったわけである。そういう虻に対し、私は何か親近を覚え、楽しい気分になった。
私以上にそういうことに興味を持つ末の娘にその話をして、何という虻か昆虫図鑑でいっしょに調べたが、花虻というのがそれらしく、もしそれでなければ花蜂だろうということになった。調べながら、虻科の羽は一枚ずつで、その下に小羽はないが、蜂科のほうは親羽の下に子羽がついていることを知った。朝顔を追ってきたのはいずれであったか。見たとき、虻と思ったので虻と書いたが、今もそれがいずれかは分からずにいる。


◎「瀬戸内寂聴+志賀直哉」文章例

     ぼけの皮(幸田 文)

ばけの皮という。広辞苑には、化の皮……素性、真相などを包みかくしている体裁、とある。化の皮を現すとか、化の皮をひっぺがされた、とかいうようにつかう。つまりこの皮は、かぶるときは当人のみのひそかな作業であり、外すのは他人の手によって外されるのである。むかしからかなり使われ、手ずれてますます強くなってきている皮だが、かぶり方はめいめいの工夫らしく、明らかにはされていない。ただし、かぶり通せなかったときは、いずれも醜態ときまっている。
化でなくて、ぼけの皮というのもあって、なかなか調法なものですよ、と八十すぎのお婆さんに、教えてもらったことがある。なんでも、まわりの人たちに、老人にはこたえる仕事をいいつけられたり、嫌なことを強いられたりしたときに、ちょいと呆けの皮をかぶっておくと、あたり障りなく済みますよ、という。また、呆けたとあなどられ、いい加減にされそうなときなどには、ちょいとこの皮を脱いで、はっきりさせておくと、あとあとの文句がいりません、といった。脱着自在の皮である。ずるいとも思うが、あたり障りなくすませられるから、というあたりはなるほどとも思う。
なぜこんなことを話してくれたか、というと、これはこちらがまだその皮の必要からは、はるかに遠い若い娘だったからだ、と推測する。齢が近かったら、話す方にも聞く方にも、嫌な後味が残ろう。その辺をちゃんと心得た上で、ちょいと着て、ちょいと脱いでという、そのちょいとの軽妙さ。まねて着られる皮じゃない、これはやはり人柄である。

(六月十五日、銀座東京羊羹における、斎藤信也氏の講義抜粋)  


題: 文章の巧拙は、最後の一行で決まる
前書き:
カテゴリ:斎藤信也先生講義録
結びの巧拙で、文のよしあしが80%きまる。
 ところが、その結びが、いちばんむずかしい。
 ラスト傍線の個所、どれもイマイチです。
 皆さん考えて下さい。

土羊会(平成10年9月12日)斎藤信也先生講義録

「ネモっちゃんのお弁当」
 
 遊び仲間のうちで、ネモっちゃんが吝嗇家であることは有名だったが、三年前、一緒にスキーに行った時、私
は改めて感心したというか、あきれたというか…。それは、こういうことである。
 そのスキーは、往復のバスの中で二泊、現地の宿で二泊する、エコノミーツアーだった。
到着した日のお昼、ネモっちゃんは、ウエストにしっかり巻きつけられた大きなポーチから、おにぎりと納豆を
取り出した。他のメンバーが、焼肉定食やカツカレーを注文する横で、彼は魔法瓶からみそ汁を注いでいる。こ
の魔法瓶の湯とティーバックで水分補給をし、節約するのである。
 次の日の朝食は、ネモッちゃんが好きな、バイキング形式である。食堂に行く時も、例のウエストポーチを巻
きつけている。中には空のタッパーが入っている。二日めの彼のお昼は、ホテルの朝食を材料にした手作り弁当
だった。しかし、その日の昼食に、私達が選んだレストランは、“持ち込み”のできない店だった。彼は皆と別
れて、一人無料の休憩所に行ったらしい。別の友人の話によると、適当の休憩所が見つからない場合、ゴンドラ
で弁当を広げることもあるらしい。
 そして、帰る日の晩、私達は夕食をホテルの食堂で済ませたが、ネモッちゃんがいない。
私が、バスの中で飲むビールを買って乗り込むと、既に彼が座っていた。どうやら彼は車中で夕食を摂るらしい。
形のゆがんだ食パン(スキーに行く前に買ったものらしく、少し硬そう)に、朝、ホテルで出されたジュムをぬ
る。それと、缶のコンビーフ。「ネモッちゃんも飲む?」、私はビールを差し出した。「ありがたい!!」と、
彼は魔法瓶のキャップを、こっちに寄こした。
 しょうがないなあ、ほんとにケチなんだから。

[解答例]

(斉藤信也先生の解答)「この二日間で、ネモっちゃんは、サイフからいつたいいくら出したのだろう」



「苦い干し芋」

 妻の買い物に付き合ってスーパーに入った私は、妻が押す手押し車の籠の中に、干し芋の袋を棚から取って投
げ入れた。妻は「また、それなの。すきだねえ。」と呆れた顔をした。
 薩摩芋を干しただけの、ありふれた食品である。家族の中で食べるのは私だけ。しかしこの品には「懐かしい
昔の味」というだけでなく、痛恨の思いが秘められていた。
 戦時中、広島に父を残して、私たち一家は徳島の母方の祖父の家に疎開した。母にとって祖父は実の親だった
が、祖母は後妻だった。だから母にとっては、居心地のいい所ではなかった。しかし、原爆で父が死に、その後
生まれた妹がまだ乳飲み子だったので、もう少しの辛抱、と我慢して暮らしていた。その母に、十一歳の私を頭
に五人の子を連れて、父の元の任地北海道へと旅立ちを決意させたのは、私の「干し芋事件」がきっかけだった。
 祖父の家には屋根裏があり、土間から階段がついていた。祖父母が留守のある日、私は階段を上がって屋根裏
を覗いた。蓋をした大きな木箱が目につき、何気なく開げてびっくり。それが病み付きになって、留守を狙って
はひとつかみずつ持ち出すようになった。度重なると、量が減るのが目立ち始めた。そしてある日。祖母が「お
ばあちゃんなら、そんな所に隠さずに孫に食べさせるのが本当ではないかえ」と反論し、激しい争いの末に家を
出る。
 北国の苛酷な環境のもと五人の子を抱えての日々は、血の滲むような苦労の連続だった。そして、その心身の
疲れが一因で、母は五十四歳の若さで生涯を閉じてしまう。
 母の命を縮める原因を作った、この干し芋、それは私にとって、甘い味のなかに苦い思いでのまじった味がす
るのである。

[解答例]

(斉藤信也先生の解答) 母の命を縮めることとなったこの苦い干し芋を、これからもしつように食べ続けるつもりである。不孝息子のせめてもの罪ほろぼしである。

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