「熊井姓の分布図」と「源頼朝の知行国」

      
                                                                   (添野正明氏作成図)

「熊井姓の分布図」と「源頼朝の知行国」との一致を解くキーワード

 キーワード1.比企氏
 キーワード2.河越氏
 キーワード3.比企の乱(建仁3年9月2日 比企能員、北条氏に謀殺される)


(注1)豊後名国司毛呂季光太宰権帥藤原季仲の孫。源頼朝の側近で武蔵国毛呂郷(鳩山町熊井との隣接地。熊井の地に毛呂神社)に所領をもつ。毛呂顕重は出雲伊波比神社を再建。

(注2)
 名国司とは名前だけの国司で、「源頼朝が派遣した目代(代官)が国務を沙汰していた。たとえば、信濃国の場合、加賀美遠光が名国司だったが、実際の国務は目代である比企能員(武蔵国比企郡の豪族)が沙汰しており、信濃国守護も兼務していた」。(『鳩ヶ谷市史 通史215頁』)

(注3)
 
河越氏は鎌倉時代に地頭として豊後国香々地(現大分県豊後高田市香々地)に移住(『武蔵武士(下)』成迫成則 まつやま書房)。香々地は熊井姓集中地区のひとつ。


熊井姓が、信濃・武蔵・豊後(&豊前)に分布している理由…信濃→武蔵→豊後(&→豊前)

 塩尻熊井の地を嚆矢とする熊井一族が、頼朝の目代として信濃守護をかねる比企能員の指揮下に入り、鎌倉街道上道に沿う比企郡熊井村と都筑郡川和村に所領を与えられ河越氏河越重頼もまた義経のもとで義仲追討、源平合戦に活躍をはじめとする比企郡の豪族たちと関わりができた。
(注4)
埼玉県比企郡鳩山町熊井の「真言宗智山派熊井山妙光寺」には、「熊井忠基」は「河越重頼の配下の武将」との伝説が残り、檀家には「熊井忠基」に従った郎党の家系が今日もいて、また「熊井忠基」縁の「地蔵菩薩」が現存しています。

 
しかし信濃御家人は幕府の政争や承久の乱などと深く関係したものが多く、反北条氏の御家人は没落し、北条氏一門に結びついて興隆したものと二極分解していった。」(『長野県の歴史』89頁)

 
権力が源家から北条氏に移ると、源家と深い繋がりをもつ比企氏や河越氏(後に河越領は比企尼の娘:河越重頼の妻に返され、河越氏が再興されます。頼朝の意図は「河越氏の勢力をそぐことにあった」『埼玉県の歴史』山川出版社)らが歴史の舞台から消えていく。時を同じくして、頼朝・義経の幕下であった熊井太郎忠基(比企郡熊井村・都築郡川和村に居城)をはじめとする熊井一族も武蔵の歴史の表舞台から姿を消していった。

 時代は少しずれますが、
武蔵の熊井一族はそのまま土着したものを除き新天地を求めて弘安8年(1285)に豊後国香々地荘の地頭となって赴任した河越経重(重頼曾孫)とともに移住したのでしょう。香々地は熊井姓集中地区のひとつです

 比企氏や川越氏などの比企郡の豪族たちの歴史と地頭赴任地を丁寧に読み込むことによって、『姓氏家系大辞典』(第二巻)「熊井の項」に載る熊井姓が、信濃・武蔵・豊後(&豊前)に分布する理由が分かってくるように思います。 


(参考)
 比企氏は「平安末期から鎌倉時代初期まで郡司として比企地方一帯(東松山を支配」し、「源義朝(頼朝・範頼・義経の父)の時代にはその家人」として仕え、平治の乱で義朝が敗れたとき、「範頼を庇護」し、かつ「源頼朝が伊豆で流人生活を送っていた二十年もの長い間、物心両面これを援助し、挙兵から幕府開創にいたるまでの、最大の功労者の一人に数えられる。…中略…比企能員の叔母は頼朝の乳母比企尼である。…中略…頼朝の嫡子頼家が比企館で誕生すると、能員を乳父に河越重頼の妻(比企尼の二女)を乳母とした。」(『武蔵武士(下)』成迫政則 まつやま書房)

(参考 比企氏の興亡 『長野県の歴史』山川出版社)
「(木曽)義仲戦死の直後、頼朝は義仲の分国として影響力の残っていた北陸諸国と信濃の東信・北信地方で有力武士を信濃国御家人として登用する積極策をとった。…中略…元暦元年(1184)頼朝は人質であった義仲の長子義高を殺すとともに、その与党の謀反を押さえるために武蔵の比企氏を登用し、信濃目代に比企能員を任命し、…中略…信濃御家人らを統括させ、のちに信濃守護とした。この比企一族は頼朝の乳母比企尼一族で、頼朝の信頼厚い直臣であった」。(第3章1「義仲・頼朝と信濃武士」)
 「比企尼の長女丹後局は、頼朝に仕え、そのとき生まれたのが島津氏の祖忠久といわれている」また「平家追討範頼軍に比企能員・奥州平泉藤原氏討伐軍北道大将軍に比企能員」(『武蔵武士(下)』「比企氏」の項)

 建久十年(1199)正月、頼朝が死去して二代将軍に頼家が就任した。将軍独裁を進めようとする頼家と、有力御家人による合議政治をめざす北条時政以下老臣との対立が激化した。頼家は比企能員の娘を妻としていたこともあって、信濃と関係が深かった。彼は小笠原長経・比企三郎・中野能成ら信濃御家人を含む五人を側近に任命して老臣らと対決した。建仁三年(1203)頼家は比企能員と結んで時政をのぞこうとしたとして、逆に北条氏に謀殺された。比企一族は根絶され、その関係者として信濃でも小笠原長経・中野能成らは…中略…所領を没収され、信濃守護職も北条時政にかわった。…中略…信濃における比企氏の権力のほとんどが北条氏に継承された。」(第3章2「信濃の鎌倉指向」)

 比企尼は頼朝の乳母。比企尼の甥比企能員は信濃国守護・頼朝嫡子頼家の乳父、頼家の乳母は河越重頼の妻で比企尼の二女、そしてこの乳母の末娘が義経の正妻。……「義経の縁者ということで頼朝に河越氏は誅され、頼朝の死後、頼家の側近比企氏も北条時政に誅される。」(『武蔵武士(下))』成迫政則 まつやま書房)

(注3)京都六条八幡(左女牛若宮 現京都市東山区五条橋東五丁目)は頼朝の信仰が篤い源氏の守護神でした。頼朝はこの六条八幡宮に「土佐国吾河郡」を寄進しています。そして建治元年五月(1276)の「六条八幡宮造営注文」(……『「六条八幡宮造営注文」にみる武蔵国御家人』鈴木宏美著・学術文献刊行会編集「日本史学年次別論文集中世1−1998年:86〜96頁」・朋文出版・発行1999.9)に、栢間左衛門、毛呂豊後入道、鳩谷八郎、河越次郎・三郎、都築民部太夫・右衛門尉・左衛門入道などの、熊井姓集中地区と縁ある地名の姓を持つ御家人の名前が記録として残っています。(参考資料「鳩ヶ谷市史 通史」)

 栢間(現埼玉県菖蒲町下栢間)
 毛呂(現埼玉県毛呂山町:毛呂季光豊後名国司:頼朝は目代として河越氏を派遣?)
 鳩谷(現埼玉県鳩ヶ谷市:鳩谷氏は菖蒲町栢間に地頭として移住)
 河越(鎌倉時代に地頭として豊後国香々地・現大分県豊後高田市香々地に移住
 都築(都築郡川和町・現横浜市緑区川和町 熊井太郎忠基の館跡との言い伝えあり)

参考資料(埼玉県立浦和図書館蔵)
 『菖蒲町歴史ガイド
 『菖蒲町の歴史と文化財』
 『桶川市史 通史』
 『上尾市史 通史』
 『鳩ヶ谷市史 通史

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