熊井姓集中地区
市町村 熊井姓軒数 集中地区 軒数 集中度
福岡県 大川市 20 向島 18 90%
鞍手郡 14 鞍手 11 79%
大分県 西国東郡 12 香々地 10 83%
下毛郡 5 三光 5 100%
日田市 12 高瀬 9 75%
山口県 豊浦郡 10 豊北 9 90%
高知県 土佐清水市 9 4 44%
和歌山県 那賀郡 12 打田 5 42%
粉河 6 50%
兵庫県 川辺郡 5 猪名川 5 100%
長野県 長野市 50 浅川押田 14 28%
塩尻市 27 北小野 15 56%
片丘 9 33%
豊科町 19 豊科 18 95%
明科町 14 東川手 11 79%
松川村 10 川西 8 80%
埼玉県 鳩ヶ谷市 42 三ツ和 16 38%
10 24%
坂下 7 17%
桶川市 24 上日出谷 9 38%
7 29%
菖蒲町 8 下栢間 7 88%
羽生市 16 町屋 5 31%
川里町 4 新井 4 100%
千葉県 夷隅郡 6 御宿 4 67%
安房郡 10 千倉町 10 100%
群馬県 高崎市 21 豊岡 6 29%
福島県 西白河郡 6 泉崎 6 100%
秋田県 秋田市 27 仁井田 22 81%

 義経の正妻・郷姫は武蔵国川越上戸に館(現常楽寺)を構える豪族河越重頼の娘でした。重頼の妻は比企尼の娘で、寿永元年(1182)頼朝の長男頼家の誕生に際し乳母となりました。元暦元年(1182)重頼は源範頼・義経に従い木曽義仲を討ち、同じ年9月頼朝の命で息女を上洛させ、義経の室とした。文治元年(1185)重頼は義経の義父であるため誅せられ、所領はことごとく没収されたが、河越領は重頼の妻に返されたこ。の河越氏は鎌倉街道が通る入間郡葛貫(坂戸市)を開拓して馬牧を経営、河越別当葛貫別当と称していました。この河越氏は鎌倉時代に地頭として豊後国香々地(大分県香々地町)に移住(『武蔵武士(下)』成迫政則 まつやま書房 河越氏参照)。ちょうど同じ頃、熊井党が鳩山町熊井の地から姿を消しています。大分県香々地町は熊井姓集中地区のひとつでもあります。なんと不思議な因縁ではありませんか。
 鎌倉幕府滅亡のとき、河越氏は幕府方であったために地頭職を没収され、建武元年(1334)この香々地荘は大友氏一族である田原氏に勲功賞として宛われました。香々地を出た河越氏は南朝方として各地を転戦し、暦応5年(1342)北朝軍に降りた(『埼玉県史』から)。

(管理者注)
埼玉県比企郡鳩山町熊井の「真言宗智山派熊井山妙光寺」には、「熊井忠基」は「河越重頼の配下の武将」との伝説が残り、檀家には「熊井忠基」に従った郎党の家系が今日もいて、また「熊井忠基の「地蔵菩薩」が現存しています。

太平洋に面している千葉県夷隅郡御宿・安房郡千倉町南朝夷・北朝夷も熊井姓集中地区のひとつです。この地域は「西から人・もの・文化を黒潮の流れが運んでくる」、海上交通にとって重要な土地でした。千葉県の醤油醸造「ヤマサ醤油」・「野田醤油」ももともとは紀州(現在 有田郡湯浅町)の出でした。この有田郡北隣の那賀郡には熊井姓集中地区があります。
 これは御存じ『木枯らし紋次郎』の「海鳴りに運命を聞いた」の没頭の記述です。「九十九里浜の鰯漁は、畿内や東海地方からの出漁民によって開拓された。地元の住民はもっぱら農業に精を出し、九十九里浜を塩浜に利用していたのに過ぎなかった。中略。鰯の殆どは干鰯、〆粕などの加工品となって、出荷された。干鰯、〆粕は良質な農耕肥料として、需要が増大する一方だったのだ。それは江戸と浦賀の問屋に集荷されたのち、東海道、畿内、紀州、阿波、中国地方の需要地域へ送られて行った」。
 私がもうひとつ注目したいのは、夷隅郡・朝夷の「夷」という地名です。大分県西国東郡香々地町「夷」は、すでに述べましたように、これまた熊井姓集中地区のひとつです。「夷」には「大漁」をあらわすほかにもいくつかの意味があります。そのなかに「えびすさま」の意味もあります。「えびすさま」は大国主命の息子です。諏訪大社の祭神である建御名方命の兄事代主命をいい、熊井神社(塩尻市片丘熊井)そして熊井氏が佑祝を任じていたという信濃二宮小野神社(塩尻市北小野)の主祭神でもあります。いささか飛躍がすぎるかも知れませんが、これまた偶然にしてはできすぎているようにも思えるのですが。


 代官支配の天領の村ではみられない、旗本領独自の政策のひとつに名主の任命があります。
 熊井姓の方々には江戸時代、名主をしておられたお宅が多いようです。
 試しに熊井姓集中地区(埼玉県)における江戸時代の領主を調べてみました。
 ご参考までにここに載せておきます。
 任命された名主の中には、江戸中期以降、割元とか用人として家政改革を担当するものも出てきました。
 さて埼玉県集中地区における熊井さんのご先祖はどんな働きをしたのでしょうか。
 興味がふつふつと沸いてまいりました。

江戸時代    領           主
 熊井姓  軒数 全世帯数  熊井姓 占有率 市町村名 町名 旧郡名 旧村名 正保田園簿 旧高旧領取調帳
正保年間(1644〜47) 明治元年(1868)
6 2,084 0.288% 川里町 新井 北埼玉郡 新井村 川越藩松平氏 旗本林氏・松平氏・藤方氏
戸田氏
42 19,923 0.211% 鳩ヶ谷市 三ツ和・
南・
坂下
北足立郡 中居村・  小渕村・  上新田村 天領 天領
12 6,708 0.179% 菖蒲町 下珀間 南埼玉郡 珀間村 旗本内藤氏・正法院・ 善宗寺・幸福寺 天領・旗本内藤氏・正法院・
善宗寺・幸福寺
24 24,863 0.097% 桶川市 上日出谷・泉 北足立郡 上日出谷村 旗本牧野氏 旗本牧野氏
16 17,672 0.091% 羽生市 町屋 北埼玉郡 町屋村 天領 下妻藩井上氏

 鳩ヶ谷市・桶川・菖蒲町・川里町・羽生は、鎌倉から川崎・川口・岩槻・小山・を経て奥州へと結ぶもう一本の「鎌倉街道中道」添いの町々で、しかも鎌倉街道中道からは菖蒲町の辺りから鴻巣市・吉見町・東松山市を通って「鎌倉街道上道」の鳩山町熊井の地に至る街道が出ています。 菖蒲町の先の栗橋には奥州平泉に逃れた義経を追ってこのあたりまできた「静御前」の墓が残っています。熊井太郎や熊井喜三太は義経配下の武将の一人と言い伝えられています。静御前はその地その地の知人を頼りながら栗橋の地までようやく辿りついて、ついに尽きた。静御前が頼ったそれらの知人の中に熊井太郎や熊井喜三太の縁者がいた。そうと考えれば熊井姓がこれら町々に多いのは何の不思議もないように思えますが、さてどうでしょう。ちょっと飛躍がすぎるかな。
 
 もっとも熊井姓が40軒も集中する鳩ヶ谷市には鎌倉時代に鳩井氏という地頭がいて、この鳩井氏は応永6年(1399)に、8軒の熊井姓が集中する菖蒲町栢間に領地替えとなっています(『「六条八幡宮造営注文」にみる武蔵国御家人』鈴木宏美著・朋文出版・発行1999.9・学術文献刊行会編集「日本史学年次別論文集中世1−1998年:86〜96頁」、および『鳩ヶ谷歴史往来』平野清著 文芸社刊 36頁〜37頁参照)。この鳩井という姓ですが、電話帳を調べてみると、全国でたった1軒しか掲載されていませんので、あるいは、この「鎌倉街道中道」添いの熊井姓のお宅は、鳩井氏がいつの頃からか熊井に改姓したのでは、と勝手に空想をふくらませている私です。
 
 もうひとつ可能性として考えているのが、鳩ヶ谷市赤山に陣屋をおいた関東郡代伊奈氏との関連です。徳川の関八州蔵入地であった120万石を支配した4000石の大身旗本伊奈氏は土木工事を得意とする技術者でした。江戸湾に流れ込む大河、元荒川を入間川(現在の荒川)に結び、元利根川を鬼怒川(現在の新利根川)とつなげ、江戸川を改修するなどの大河川工事をおこなって治水事業を行うとともに、何十万石にもおよぶ新田も開発し(『関東郡代 伊奈氏の系譜』本間清利著 埼玉新聞社)。鳩ヶ谷市・桶川・菖蒲町・川里町・羽生等の町々は、ほぼその元荒川、元利根川に添っていて、しかも新田開拓がなされた地でもあります。伊那谷を出身とする伊奈氏という信濃武士団のなかに、やはり戦国の時代まで信濃武士として活躍した、土木技術者でもあった熊井氏がいて、河川工事の跡地と開発をした新田に、熊井姓の名主をおいて管理させた。「土木技術」をキーワードにすると、これらの地に熊井姓の名主が多いのも肯けます。しかしこれもまた何の資料にも基づかない妄想の産物でしかありません。


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